相殺


  
 居間の真ん中に置かれたコタツの上には、幾冊もの教科書や問題集が広げられている。静まった部屋で聞こえるのは、理恵のシャープペンシルの先がノートにこすれる音だけだ。
 真佐子はコタツに膝小僧をいれただけで、理恵と向かいあう形で座っていた。そして、2本の編み棒のために、手だけを遠慮がちに動かしていた。しかし、編みかけているセーターと、コタツの上に広げている製図を見比べるために、少しでも体を動かすと、その振動が伝わるのか、「もう、ママは……」と理恵に舌打ちされる。 常々、「勉強は、自分の部屋でしなさい」と言い聞かせていたが、この冬だけは、どうしても小学6年生の彼女に、真佐子は甘くなっていた。 風呂上りの敏治にいたっては、テレビもつけられないものだから、居間に隣りあうキッチンで、椅子に腰掛けたまま1人で蜜柑を食べるしかすることがない。 数日前、まったく同じような状況で、彼は愛娘に、「パパ、蜜柑を食べるときは、くちゃくちゃと音をたてないでね。気が散るから」と、言われた。
 しかし来春、理恵に中高一貫の私立女子校を受験させようと提案したのは敏治であるから、この息のつまりそうな光景は彼にとっては満足すべきものであるはずだ。


  
 最近、肩が凝ってしかたがないのは、なかなか仕上がらないセーターのせいなのだろうか。それとも、人生初めての試練に向きあわされて、未熟で細い神経をピリピリさせている、12歳の受験生を持ったせいなのだろうか。そう思いながら、手元の編み目からサイドボードの置時計へと、真佐子は視線を移した。
 金色の文字盤を繊細な花模様の陶器で囲んだその置時計は、12年前の理恵の誕生を祝って、当時としては少々無理をして買ったものだ。
出産祝いのお返しを選びに行ったデパートの時計売り場で、敏治が一目惚れをしたものだ。 夫にとって愛娘とは、繊細で高価で飾るのにちょうどよいこの置時計と同じイメージなのだろうと、時間を確かめるたびに真佐子は思う。
 透かし彫りの長針と短針が、もうすぐ10時であることを報せている。そろそろ受験生の夜食の時間だ。
「この漢字、なんて読むの?」
 その時、理恵が両親のどちらにでもなく訊いてきた。
 突然、読めない漢字に突き当たり、書き込むリズムが崩れたのだろう。理恵は学習塾が中学受験生用に作成した漢字読み取りテキストを、シャープペンシルの芯が折れそうな勢いで叩いた。真佐子は首をのばして覗き込む。『相殺』という漢字が見て取れた。
「そうさつ……、かしらね?」
 対峙する黒い人影の手に光るナイフの切っ先を見たような気がした。しかしお互いに確実に息の根を止める一突きはむつかしいだろう。自信のなさが語尾に表れたのが、自分でもわかる。出来ることなら、理恵のように彼女も舌打ちしたい。
「そいうことは、ママに訊いてもだめだよ。ママは新聞も読まない人だから。どれどれ、パパにまかせなさい」
 指先についた蜜柑の屑を払うと、敏治は立ち上がって居間にやってきた。自分の出番がまわってきて嬉しそうだ。娘の書きあぐんでいるテキストを見下ろすと、即座に答えた。
「そうさい。相殺すと書いて、そうさい。それにしても、これは小学生にはむずかしい漢字だな」
「そうさい……。読み方がわかっても、意味がちっともわかんない」
 父親に慰められて、理恵のとがった声も甘えを含んでくる。
「相殺はね、貸し借りを差し引いて、お互いに損得なしにすることだよ」
 お得意のウンチクを披露することが出来そうな成り行きに、読書家の彼は、腰を据えるつもりになったのだろう。娘の横にあぐらをかいた。
 かわりに真佐子が立ち上がる。しかし一言は言い残したい。そういう癖を、『いたちの最後っ屁』と、ウンチク敏治に言われたことがある。
「さすがね、パパは。ママは、相殺なんて読んで字のごとし、お互いに殺しあうことだと思ったわ」
「ママは、テレビのサスペンスドラマの見すぎだよ」
 ウンチク敏治に、刃物を振り回す人影を連想した心の中まで見透かされたことが、なおのこと口惜しい。
「はいはい、そうですとも。一日中家にいると、テレビを見るしか楽しみがないんです。さてと、漢字を知らないママは、甘いミルクティーでも淹れましょうか」
 ミルクティーは壜入りのインスタントだが、マグカップは家族3人それぞれのお気に入りがある。ガスレンジにケトルを乗せ点火して、冷蔵庫の中にケーキがあったことを思い出した。
「ケーキもあるけれど、食べる?」と、キッチンから大きな声を出したら、「ママにしては気がきくね」「理恵は、イチゴのショートケーキが食べたい」と、甘いもの好き父娘の声が返ってきた。
 冷蔵庫の扉をあけて、中を覗く。
 しゃれたピンクの小箱にリボンまでかけられて、ケーキは宝石のように詰められていた。今日来るはずであった客のために、今朝、わざわざ美味しさで評判の洋菓子店まで買い求めにいったものだ。しかしその客には待ちぼうけを食わされた。そしてこの時間になっても、彼女からは詫びの電話の一つもない。ということは、彼女の来訪が明日に延びたというわけでもないので、今夜、ケーキは親子3人の胃の中に納まるしかないのだろう。


  
 昨日、「真佐子さん、お久しぶり。元気している?」と、受話器を通して馴れ馴れしく呼びかけられたとき、新手の電話セールスかと緊張した。「明日、真佐子さんのお家に、お邪魔してもいいかな……? あれからの積もる話もいろいろあって……」
 しかし、そのあとに続く声に懐かしさをおぼえた。
 最近、固有名詞の度忘れが多くなったとは、自覚していた。とくに人の名前が思い出せない。顔の輪郭もその人の癖もときには服装さえも、スクリーンに映し出される映像のように、はっきりと思い出すことが出来る。しかし、肝心の名前がどうしても出てこない。 40歳も過ぎたので、老化現象の始まりかとも思うが、敏治には「おまえは、昔からそうだった」と言われた。姑の葬儀からの帰りの車中のことだった。
「あんなことを言った人、こんなことをした人」と、夫の親族を言い当てられるわりには、その人物の名前をおぼえていない妻に、業を煮やした敏治が言ったのだ。普段はおだやかな物の言い方をする彼が、あのときは語気を荒げた。噛み飽きたガムのように言葉を吐き捨てたと感じられたのは、決して母親を亡くした悲しみと葬儀疲れだけではなかったように思う。
「おまえほど、他人に興味のない人間も珍しいんだよ」
 そして言葉の荒さに、自分でも驚いたのだろう。言い聞かせるように言葉を足した。
「やはり育ちかな。3人兄妹で育ってきた僕には、1人で育ったものの心のうちはわからない」
 しかし、だんだんと語尾が曖昧に声もくぐもってくるのは、車の後部座席で眠っている一人娘という立場の理恵に、無意識のうちに遠慮したのかもしれない。それとも、妻には兄妹もいないが、両親もまたすでに他界して何年もたっていることに思いいたって、一方的にとがめるべき話題でもないと、いつもの同情心がおきたのか。


  
 真佐子の両親は、夫婦としての愛情が冷めたあとは、一人娘の彼女のためにだけ、夫婦としての体面を保ち続けた。そんな形の夫婦は、世の中には掃いて捨てるほどいると、真佐子は知っている。しかしながら知っていることと、そういう家庭で育つ現実の間には、月とスッポンほどの違いがあるのだ。
 だが、「自分が結婚して家を出たあと、あの夫婦は2人きりの老後をどう過ごすつもりなのだろう」という真佐子の心配は無用になり、母のほうが癌で先に逝ってしまった。そして5年前には父も逝った。「この数日、姿を見かけない」というご近所からの連絡で駆けつけると、玄関の土間で、父は家の鍵を手にしたまま冷たくなっていた。
 不仲な両親だったが、両方を相次いで失ってしまうと、健常だった2本の足が突然1本になってしまったような、心もとない体の揺れを覚えた。しかし悲嘆にくれることはなかった。
「私は、イソップ寓話に出てくるコウモリだったわ。父と母の間をパタパタと飛び回って、『今日は獣でございます』『明日は鳥でございます』って、毎日、2人のご機嫌伺い……」
 しかし、毎日そうやってパタパタと両親のあいだを飛び回っていると、はたして獣だったのだろうか鳥だったのだろうかと、自分で自分がわからなくなる。自分自身への根源の不安と諦めは、これは敏治にもまして他人にも理解してはもらえないだろう。
 両親の住んでいた家を売り払うと、この先、真佐子一人ではとうてい稼げそうにないまとまったお金となった。手付かずで預金してある。「毎月の住宅ローンが、少しは楽になるのだが・・・…」「投資という方法もある」という敏治の言葉には、聞こえぬふりを押し通した。
 一人娘に獣であり鳥であることを期待した両親が心ならずも遺したものに手をつけると、獣であり鳥でもない自分の姿を、明るい陽射しの下にさらすようで怖い。


  
 受話器を通して聞こえてくる甲高い声は、そんなに古い友人・知人というのではない。この懐かしさは、つい最近まで親しくしていたものだ。少し時間を稼げば思い出すだろう。口をついて出てくる言葉は、自分でも驚くほど冷静だ。
「懐かしいわ。私も、どうしているかなって、いつも気にしていたのよ」
「別に特別な用事はないのだけど、あれから3ヶ月も経つと、懐かしくなってきて」
 声の主は、真佐子が勤めていた『百円均一ショップ・大栄』の元同僚だ。そして3ヶ月前に、その『百円均一ショップ・大栄』を同時に解雇された、主婦仲間でもある。2年近くを一緒に働いて、彼女とはいつも行動をともにしてきた。2人は気の合う友人と、職場では噂されていたはずだ。
 しかしたった3ヶ月で、その声に懐かしさはおぼえても、その声の主の名前がとっさには思い出せなかった。
 無難な会話を続ける。
「あれから、もう3ヶ月も経つのね。次の仕事、見つかった? 私は、なんとなく家でぶらぶらしていて」
「もう、新しい職場で働いているわよ。銀行員の奥様の真佐子さんと違って、働かないと食べていけないから」
「新しい仕事、見つかったのね。よかった。で、どんなお仕事?」
 なぜ彼女は名乗らないのだろう。3ヶ月会わなければ、相手の名前を度忘れすることもある。 そういえば、2年の付き合いで、そういった彼女の馴れ馴れしさに何度かいらいらさせられた。彼女は5歳年下で、姉妹のいない真佐子の心をくすぐる、交際上手なところがあった。
 いや年上の功として、真佐子はその馴れ馴れしさを注意しなければならない立場だったのかも知れない。『百円均一ショップ・大栄』解雇の真の理由は人員削減だったが、店長がもっともらしく告げた理由の中にそんなことも指摘されたような気がする。
 仲がよいと思われていた彼女をかばっていたのではなく、真佐子は彼女に『よい顔』をして見せただけだ。
 店長を捉えどころのない男と見くびっていた2年間だったが、いま思えば彼の人を見る目は確かだったと思わざるを得ない。
 遅刻や早退の多かった彼女の代わりに、タイムレコーダーに出勤票を差し込むのを頼まれた。断りきれずに、何度も手伝った。彼女の出勤表は出勤票は、タイムレコーダー横の状差し1番上にあった。
・・・・・・そうだ、彼女の姓はア行だったはずだ・・・・・・
 頬もあごもとがって角ばった顔の輪郭、ネズミを連想させる落ち窪んだ小さな目、そして真冬にでも玉の汗を浮かべていた、彼女の鼻の頭を思い出した。受話器の向こう側の声は続く。
「あのとき、商品補充なんて、誰にでも出来る仕事をしていたら、いまの時代には突然リストラにあうことも覚悟しなくちゃいけないって、真佐子さん、言っていたでしょう。あのときのあなたの忠告、忘れていないわ」
 あのときにそんな偉そうなことを言ったのか。はっきりした記憶はないが、フリーターと呼ばれる20歳そこそこの若い子たちが、定価百円の商品をただ黙々と補充するという仕事に進出し始めたとき、そんな危惧をいだいたのはおぼえている。
 やっと名前を思い出した。石丸宏枝だ。名前を思い出したことで、相槌を打つ真佐子の声は弾みだした。働きたくて2年も通った職場ではなかったが、それでも辞めて、3ヶ月も家に籠もっていると人恋しくなっていたらしい。
「そんなこと言ったかしら。でも宏枝さん、よい仕事が見つかったみたいで、ほんとうによかったわ」
「理恵ちゃんの中学受験はどうなっているの? いま、追い込みで大変でしょう。ねえ、明日、真佐子さんのお家にお邪魔してもいいかしら。別に特別な用事っていうわけでもないのだけど、私、あなたのお家が見たくなったの。
 ご主人は銀行員で、お家も新築したばかりって言われていたでしょう。何度かお邪魔しようと思っていたのだけど、ほら、働いているときは、お互いに休日が合わなかったりして……。さっそくだけど、明日のお昼過ぎでいい?」
 夫の職業や理恵の受験、そんな内輪の話までしていたのか。たった3ヶ月で名前も忘れていたが、2年間の友人としての付き合いも忘れかけている自分に、今度は少しうろたえる。
「宏枝さん、私の家の住所、知っていた?」
「大丈夫よ」
「じゃあ、明日を楽しみにしているわ」
 久しぶりの再会を期待して、真佐子の声が弾んだのは芝居ではなかった。
 宏枝の新しい仕事というのが化粧品か健康食品の販売で、その勧誘をかねての突然の訪問かとも頭の隅で思わないではなかったが、その懸念は声には出ていなかったはずだ。洋菓子店でケーキを選ぶときも心は弾んでいたし、客間に花さえ飾った。
 しかし、石丸宏枝は来なかった。



 箱から取り出したケーキを皿の上に並べる。片付けるときの手間を考えて躊躇したが、朝から用意していた来客用のケーキ皿を使うことにした。
 理恵は『相殺』について、その読み方はわかったようだが、その意味については父親の1度の説明では理解できなかったようだ。再び訊いている。それに辛抱強く答える声もキッチンまで聞こえてきた。
「貸し借りをお互いに差し引いて、損得なし……って?」
「そうだね、ずっと前に、パパは理恵に千円貸していただろう。絶対に返すって、あのとき確かに理恵は言っていたけど、パパはまだ返してもらっていないなあ」
「えっ、うっそー。そんなことおぼえていない」
「その千円を返してもらう代わりに、今夜、あと1時間、理恵が勉強するっていうのはどうだろう」
「あと1時間か…。千円のためだったら、がんばろうかな」
「そうか、がんばれよ。これで、パパへの理恵の千円の借りは、理恵の1時間の勉強で支払われた。つまり『相殺』されたことになる。貸し借りなしだ。時給千円の仕事だぞ。ママだって、働いていたとき、そんなにもらっていなかった」
 話の矛先が自分にむいてきたので、真佐子はケーキ皿に取り分けていたケーキを取り落としそうになった。
 2年前に妻が突然「働きたい」と言い出したことを、敏治はいまだに快く思っていない。勝手に職場を見つけてきて、強引な事後承諾の形で働き出したことを、心の底では許していない。だからいっこうにはかどらない編み物に肩を凝らしたり、受験生のためにいそいそと夜食の準備をしたりする妻のいまの状況を、内心で喜んでいる。そして、その喜びを、敏治らしく皮肉に薄皮を被せて表現する。
 笛吹きケトルがガスレンジの上で賑やかに湯気を噴き上げた。甲高く笛吹く音で、夫と理恵の会話は途切れる。真佐子はガスレンジのスイッチをひねった。少々無理をしてすえたシステムキッチンのガスレンジのスイッチは左にひねると、おさまるべき場所におさまった安心感100%の手ごたえと音を、指先につたえる。軽やかでいてそれで耳に残る音だ。
 カチッ……。
 どういう弾みだろう、真佐子の耳元で、敏治の言葉そのままに石丸宏枝がささやいた。あのおもねるように気弱く、語尾を上げるわりには相手に反論を許さない声で。
「これで、貸し借りはなしよ」
 空耳にしては、そのささやきははっきりと聞こえた。あまりにはっきりと聞こえたので、驚いた彼女の体は凍りついた。 しかしそうささやいたのは、石丸宏枝ではなく自分の頭の中の声なのだと、驚きも去ると真佐子は思い当たる。
「これで、貸し借りはなしよ」と、宏枝にいつかは言われるだろうと、覚悟はしていたように思う。来訪の約束をしていながら、連絡もなくすっぽかされた。しかし、彼女にそうされてもしかたがないだけのことは、2年の間にしてきた。その思いが声となった。


  
 2年前、よく利用する近所の大型スーパーの改修工事が行われた。2階フロアのブティックと雑貨店が立ち退くと、そこが白いシートで覆われ、そして『百円均一ショップ・大栄』の求人広告が貼られた。
「そこで、働きたい」と真佐子が言い出したとき、当然ながら、敏治はよい顔をしなかった。もともと「子どものために、母親は家にいるべき」という旧い考え方の持ち主ではあったが、「どうして、こんなときに……」という思いが、さらに彼の不満を膨らませた。彼の母が脳梗塞を病んで、何をするにも、同居している長男夫婦とまだ未婚の妹の手を煩わすようになって、半年になる。
 敏治は大学進学とともに故郷を離れて暮らす気楽な次男という立場だ。母親が病魔に倒れても、仕事の合い間に、見舞いに帰ることしかできない。妻の真佐子にも、介護の手助けなどは期待していなかった。
 それでも、看病に明け暮れる嫂や実母の病状を心配する妹のささやかな愚痴の聞き手になることを、妻に要求するのは、夫の当然の権利だと思っていた。
 嫂と妹のそれぞれの立場から考えても、毎晩のようにかかってくる電話の内容は、相手のそれぞれの介護の有り様への不満になるのはしかたがないことだ。遠く離れている自分たち夫婦にできることは、それぞれの愚痴に相槌を打ってやることだ。
 それはそんなに難しいことではないと男の敏治には思えたが、目の前の妻は「働いている」を口実に、そんなことからも逃げたいと言っている。
「愚痴を聞くのがいやだと言っても……。家族って、そういうものだろう」
「コウモリになるのは、私はもうまっぴらよ」
「コウモリ? こんなときに、訳のわからないことを言い出すんだな」
「『今日は、獣でございます』『明日は、鳥でございます』と、義姉さんやあなたの妹にご機嫌伺いしていると、自分が自分でないものになってしまう。そのうちに、私の心は、怪物になるのじゃないかしら」
「職場で毎日、男の僕は、それに近いことをやっている。しかし、それをいちいち気にしたことはない」
「家族と他人ばかりの職場では、全然、違うのよ」
 何度繰り返しても、2人の会話は、そこから掛け違えたボタンのようにずれてくるのだ。


  
『百円均一ショップ・大栄』の仕事は、50坪のスペースにすきまなく並べられた陳列台に、ぎっちりと押し込められた商品の補充とレジ打ちだった。これを、7人の主婦パートと5人の学生アルバイトでこなす。
 安かろう悪かろうの百円均一商品では、買い物客も少ないだろうと考えていたら、これだけは真佐子の予想と違っていた。開店から閉店までの終日、客でにぎわった。それで、主婦パートも学生アルバイトも、段ボール箱をさばいて商品を取り出し、陳列台に並べる作業に追われた。
 ダンボール箱の大半は中国や東南アジアから来たもので、黒い再生紙の成れの果てはパサパサと弾力がなく、指先の脂を吸い取る。ひびわれた指先に絆創膏がかかせない。
 しかしそんな段ボール箱を開けるたびに、石丸宏枝は大仰に、「うわー、かわいい」と騒いでみせた。絵柄のついたコーヒーカップ、しゃれたガラス花瓶、プラスチックの造花、レースの縁取りがされたハンカチ、便利な文房具、雑貨と名のつくものは100円でなんでもありだ。
「ほら見て。こんなにかわいいマグカップ。100円なんだし、私も2つほど買ってかえろうかな。真佐子さんはどう思う?」
 宏枝は仕事の手を休めて話しかけてくる。
 彼女の手の中にあるそれは、食器の色使いとしては首を傾げたくなる、青と桃色の蛍光色だ。形もぼってりとしていかにも重たい。慎重に考えて揃えていった真佐子の家の食器と、並べてなじむとはとうてい思えなかった。太った桃色のミミズが輪をなしているようなマグカップの縁に、唇が触れるのかと思うとぞっとする。
 しかし真佐子は答える。
「あら、いいんじゃない。かわいいわよ」
「目の高い真佐子さんがそう言ってくれると、うれしいわ。じゃ、取り置きしておこうっと……」
 従業員の勤務時間中の商品取り置きは、不正に繋がるということで禁止されていたが、宏枝の行為を真佐子は見て見ぬ振りをしていた。 宏枝をかばったのではない。二言目には、「銀行員の奥様は、お目が高い」と、真佐子を持ち上げる彼女に媚びたのでもない。
 しかし真佐子のそんな気持ちが、同僚たちに理解されるわけはなかった。宏枝の不正行為とともに真佐子の見て見ぬ振りも、許しがたいものとして店長に告げられていた。


  
『百円均一ショップ・大栄』の店長を、とらえどころのない男だと真佐子が感じたのには、彼と顔をあわせることが少なかったということもある。また若いのに頭髪が薄く、年齢が推測じがたいという彼の外見上の理由も大きかった。
『百円均一ショップ・大栄』の店長を数店舗兼任していた彼は、真佐子たちの店に何日かおきにやってくる。そして伝票をチェックし、商品発注の指示を与えて、またあわただしく他店に移動していく。
 夏の始まりの朝、店長は主婦パートの何人かを個別に呼び出し、そして解雇を言い渡した。言葉を選びながら、彼は真佐子に言った。
「あなたの勤務態度が不真面目だというのではないのですが、あなた自身が、当店に馴染んでいないのが、どうしてもこちらには見えるんですよね。ここではなくて、あなたならではの能力を発揮できる職場に移られることを、おすすめします」
 主婦パートの首を切って、残業にも文句を言わない若い子を雇いたい、そういう言えば簡単な話なのにと思いながら、真佐子は店長の言葉を他人事のように聞いていた。だから解雇を言い渡す言葉が、豆腐に釘を打つように手応えがない。それであのときの彼はめずらしく饒舌になっていたように思う。
 真佐子はそういう彼に、「2年間、お世話になりました」と、頭を下げるしかなかった。たぶん百獣の王ライオンに、「おまえは獣ではない」と言い渡されたコウモリも、こんな思いで恥じ入ったのだろう。
 解雇の申し渡しは、思惑からはずれた出来事ではあったので動揺はしたが、仕事を失う切実さは真佐子にはなかった。しかし、同じように解雇を言い渡された宏枝はたいそう憤慨して、「このまま、はいそうですかと、引き下がるわけにはいかない」と息巻いた。
 それを心ならずもなだめたのは真佐子だ。
「ここで、商品補充とレジ打ちをしていても、いずれは時給の安い若い人にとってかわられるのは、目に見えているわよ。それよりも宏枝さんならではの、仕事を見つけるよいチャンスではないかしら」
 先ほど店長から自分に言われた言葉そのままを、垂れ流した。宏枝がその言葉に納得したとは思えなかった。しかし真佐子がともに拳を突き上げなければ、ことが起こせないのは、彼女にもわかっている。
「最後の日まできちんと出勤して、挨拶をして辞めるべきだと思う。リストラというマイナスの経験をプラスに転じるのには、それが1番の方法よ」
 と、怒りにまかせて「明日から出勤しない」という宏枝を、ウンチク敏治から仕入れた手垢まみれの言葉で説得もした。そして、「おちついたら、きっとまた逢いましょうね。現状を報告しあって、励ましあいましょうよ」と、真佐子から約束して別れたのが、ちょうど3ヶ月前のことだ。
 しかしあのときすでに宏枝は、何ヶ月待っていようと真佐子のほうから連絡はしてこないと、わかっていたのではないか。昨日、電話口で真佐子が宏枝の名前を思い出そうとあわてていたのを、案外と勘のよい彼女は気づき、「ほら、思っていた通り」と、腹の中で笑っていたに違いない。
 獣でもない鳥でもないコウモリの正体を、2年も付き合えば、彼女は彼女なりに見破っていたということだ。
「じゃあ、明日ね」と言って受話器を置きながら、宏枝はそもそも真佐子の家になど初めから来る気はなかった。
 1個100円の口をつけるのもおぞましいマグカップを「かわいい」と同調し、リストラの際は「励ましあいましょう」と口先だけの言葉を並べた真佐子に対して、来訪の約束を破ることで、宏枝はまとめて借りを返したのだ。


  
 真佐子はキッチンの灯りを消した。
 白々した蛍光灯の下では、夜の10時の闇は、テーブルの下に流しの隅に食器戸棚の後ろに追い払われていた。灯りが消えると同時に、その闇が、足のない生き物のように床を這って現れた。冷蔵庫のモーター音が少し高くなって聞こえ始めたのは、気のせいだろうか。
 そのとき、キッチンの柱の陰に、いっそう暗い闇がするすると影になって立ち上がるのを、真佐子は確かに見た。またたくまに、影は人の形となって立ち、そして人の言葉を発したのだ。
「これで、貸し借りはなしよ」
 今度は空耳ではない。まして真佐子の声でもない。
 闇の中で黒い影となった宏枝は、真佐子が2年間聞きなれていた彼女の声で、はっきりそう言ったのだ。黒い影の黒い手には、小さなナイフが握られていた。
 輪郭をもたない影の真ん中あたりで、その切っ先がかすかに光りながら揺れていた。言葉で与えた傷の深さを、その左右に揺れるナイフの先が計っているように見える。