思い出は、雪のように舞う


  
 昔々といっても、それは50年ほど昔のこと。焼け跡の中から人々が立ち上がり、日本の景気が右肩上がりに上向き始めた頃のことだった。
 当時、26歳だった和江は、水産加工物を取り扱う会社の経理課で、事務員をしていた。戦死した父にかわって、彼女は一家の稼ぎ頭だったのだ。パソコンや電卓のなかったその時代には、算盤をはじいてペン書きで帳簿に記入していったものだ。母が夜なべして縫ってくれた服の上に、お仕着せの紺色の上っ張りを羽織っていた。今の時代の若い人のように、好きな色に髪を染めるなどということは考えられなかったし、化粧といっても粉おしろいをはたいて口紅を塗るくらいのものだった。
 テレビが出始めたころで、会社に行くと、その話題で持ちきりだったのを憶えている。物は豊かではなかったが、そのぶん、すべては驚きを持って迎え入れられたので、思い出だけはきっと今の人たちよりも豊かだろう。しかし、和枝の頭の中では色褪せることなく輝き続けるそれらの思い出だが、聞かされる身になればただの昔話でしかない。
「ああ、また、おばあちゃんの昔話が始まった。もう、何度も聞かされた話……」
 家族は機嫌のよい時は和枝の話をなだめるようにさえぎり、忙しい時は返事もなく部屋から出ていく。その後ろ姿に虚しさが先に立ち、長男夫婦と同居という恵まれた立場にありながら、家族を恨んだこともある。しかし恨みの思いがつのったのも、考えればまだ若かったのだと、この年齢になれば思い至る。
 3人の子どもたちは次々と結婚して、当然と言えば当然だが、母親の和枝よりも自分たちの家族を大切にするようになった。その隙間を埋めるように次々と生まれる可愛い孫には慰められたが、それも過ぎてしまえばあっというまの出来事でしかない。10年前に長年連れ添った夫の孝雄が亡くなり、数年前には同居していた最後の孫が就職して家を出て行った。現在では長男夫婦と自分の3人暮らしだ。


  
 日当たりのよい8畳の座敷が和枝の城だ。
 もともと出歩くことは性にあっていなかったが、最近の和枝はますます出不精になった。毎日、気ままに寝たり起きたりの生活をしている。まだまだ体のほうは自由が利いているので、自分の昔話を家族が聞いてくれないなどというのは、贅沢な悩みだと人に言われ自分もそう思う。あとはお迎えが来るそのときまで健康でいて、そしてその時がきたら、息子の清志の嫁の恵子さんに迷惑をかけないようにと願っている。そのためにも、残された時間をなるべく、身辺整理にあてようと考えていた。
 部屋の押し入れや箪笥の中に、この歳になるまでに溜めこんだあれやこれやの品々が、ぎっちりと詰め込まれているのだ。しかし以前に息子の清志にその話をしたら、彼はいい顔をしなかった。
「今から遺品の片づけ? そんなことを年寄りが心配せんでもいい」
「だけど、私があれこれ残していったら、結局のところ、困るのはあなたたちでしょう?」
「そういうものは、金を出して、廃品処理業者に引き取ってもらう。お袋のことだ、どうせたいしたものはないんだろう」
 そう言われてしまった。
 確かに残して喜ばれるものなど持ってはいない。清志の冷たい言葉は、その実、親の死など話題したくない優しさの裏返しなのだろうとは思う。しかし老い先短い年寄りに、もう少し思いやりのある言葉が言えないものだろうか。倹約に倹約を重ねて大学まで行かせてやったというのに……。清志ももう50歳の分別盛りの年齢だというのに……。それで最近の和枝にとっては、部屋を片づけることが意地になっているところもある。
 昨年は1年をかけて、これからも使わないと思われる道具類をあれこれと片づけた。しかし初めの計画のように捨てたのではない。久しぶりに取り出して眺めていると、どれもこれもまだつかえそうな気がしてくる。もしかしたら、本当にもしかしたらではあるけれども、嫁の恵子さんや娘たちがみつけて欲しがるかもしれない。そう考え始めると、少しでも小さく梱包し直して、またもとの場所にしまうしかなかった。
 そして今年は衣類にとりかかっている。
 こちらのほうはもう着ないものを捨てればよいだけだから、道具類と違って捨てるのは簡単だと思っていた。しかしいざ取りかかってみるとそうではなかった。編み物が唯一の趣味だった和枝だから、自分のものは当然として、元気だった夫やまだ幼かった子どもたちのために編んだセーターなどが、着られなくなってもそのまま衣装缶の中にぎっちりと仕舞い込んであるのだ。
 自己流でおぼえた編み物だが、毛糸はいいものを使っている。捨てようと思ったが、やはり捨てられない。しかしとりあえず解いて毛糸玉にしておこうと思う。嫁の恵子さんも娘たちも編み物はしないが、それでも残された毛糸玉を見つけたら、編んでみようかという気になるかもしれないではないか。
  それでこの1年で夫の孝雄のために編んだチョッキやら、色が派手すぎてもう着ることのない自分のセーターなどを、ぼつぼつと解いてきた。
 そして今日は気分もよくて少々体にもエンジンがかかり始めたお昼過ぎから、昔々編んだマフラーを解きにかかっている。このマフラーは和枝が編み物を始めるきっかけとなった記念すべき初めての作品だった。
 目もよくて根気もあった頃は、編んだものを解くなんてことは、和枝にとってはなんの雑作もないことだった。何日もかけて編んだところを惜しげもなく解いて編み直すことはしょっちゅうだった。しかしこの歳になると目がかすむので、編み目が見づらくなった。それで絡まった毛糸を無理に引っ張ってしまうので、ますます絡む。それを気長にほぐす根気は歳とともに失せている。そうなると絡まったところでは鋏で切るしかない。
「おばあちゃん、こんなに丁寧に編んでいるものを、無理していま解かなくても……。もったいないでしょう」
 みかねて嫁の恵子さんが言う。そう言われて和枝も内心は嬉しいのだが、なぜか口から出てくる言葉はその気持ちに正直ではない。
「どうせ、私が死んだら捨てられるものなのだから、それをどうしようと、文句を言われたくはないね」
 本当はこうして毛糸玉にしておけば、いつか役に立つと思ってしていることだと、どうして素直に言えないのだろう。自分の口ながらもどかしい。
 恵子さんはあわてて姑の皮肉をさえぎる。
「捨てるだなんて、そんなこと考えていませんよ」
「私の編んだチョッキを孫の信彦に着せようとしたら、『もっと洒落たものが、デパートに売っている』と、昔、あなたは言ったでしょう」
 いやそう言ったのは、目の前の恵子さんではなく、生意気盛りになった信彦本人だったような気がしてきた。しかし口が止まらないのだ。
「でも、危ないですからね。毛糸を解くときは、私が家にいるときにしてくださいね。おばあちゃん」
 たった1度、出しっぱなしにしていた鋏を立ちあがった拍子に踏みつけて、病院で縫ってもらうほどの大けがをしたことがある。恵子さんはそのことを心配しているのだ。片づけるのをついつい忘れてしまう毛糸針も危ないという。
「子どもに言うようなことを言わないでよ。あのときは運が悪かっただけなんだから。この私が、同じ過ちを繰り返す訳がないでしょう」
 それでも恵子さんは和枝の手から解きかけている毛糸を取り上げ、鋏も毛糸針も持ち去った。どうしてすっきりと片づけてあの世からのあ迎えを待ちたいという自分の気持ちを、息子の清志も嫁の恵子さんもわかろうとしないのだろう。
 しかし恵子さんがパートの仕事に出かけた誰もいない家の中で、巧妙に隠された鋏や毛糸針を見つけるのは、和枝にとっては簡単なことだ。
 季節は初冬で、ぴったりと閉めた障子からこぼれてくる陽射しは弱々しいが、毛糸に触れるにはふさわしい日だ。あのマフラーを解こうと心を決めて、道具を揃えて自分の部屋に戻ったら、彼女の心はうきうきしてきた。こんなささやかな楽しみで、誰に迷惑をかけることもなく生きている自分は、年寄りの鑑だと思う。
 この自分の思いがどうして家族に伝わらないのかと思うと、ほんとうにもどかしい。


  
 マフラーは薄いグレーの毛糸で二目ゴム編み模様に編まれている。
 長い間、衣装缶の中にしまいこんでいたので、しみ込んだナフタリンの臭いが鼻につく。久々にこうして明るい眺め直すと、所々で毛糸は切れそうなほどに痩せ細っていた。50年前の毛糸は残念ながら、今のもののようには質はよくないのだ。洗っても落ちないし染みも幾つかついていた。
 マフラーの幅は和枝の掌を広げたほど。そしてその長さは男の人の首を2重に巻いて余るほど…。
 と言っても、女ばかり家族で育った和枝には男の人の首の太さなど見当もつかず、何度も自分の首に巻いて試してみたものだった。編んでいる時間よりそうして思案している時間のほうが、きっと長かったに違いない。
 古いマフラーを眺めていたら、異性に胸がときめくあの心躍る思いが久しぶりに戻ってきた。思わず独り言を言ってしまう。
「またいつもの昔話が始まったって、みんなが嫌な顔をするけれど、この私にだって、人に聞かせるにはもったいない、自分1人の胸の中に閉じ込めておきたい、思い出の1つや2つはあるのだから」
 それからマフラーを手に取り、彼女は解き始める毛糸の端を探したのだが、それは和枝の老眼鏡の分厚いレンズを通しても見つけることはできなかった。
「しかたがないわねえ」と、彼女はまた呟き、鋏を持つと、それでそのマフラーの真ん中からざっくりと2つに切り離した。そして切り口のあちこちを引っ張ってみたがうまくいかない。もう1度、場所をかえてマフラーを鋏で切る。
 そうやって何度も切っているうちに、やっと引っ張るべき毛糸の端を見つけることが出来た。
 1本の毛糸の端を引っ張ってマフラーを解きすすんでいくにつれて、このマフラーを編んでいた当時のことを、いろいろと懐かしく思い出す。
 編み物とは、ただ毛糸で編んでいくだけのものではないと和枝は思う。そのときの編んでいる自分の想いも編み込まれる。そして解くとき、その編み込まれた想いが再び解き放たれる。編み込まれるものは愛情、そして解くときに編み目から解き放たれるものは、想い出なのだ。
それはその後、少しは編み物が上達して、編んでは解き解いては編むを繰り返しているうちに、彼女が自然と会得したことだった。


  
 50年昔、会社の廊下ですれ違うだけで胸がときめく人が、和枝にはいた。
 当時の彼女は経理課で働く事務員、そしてその人は同じ会社の営業2課に所属していた。2人の部署は同じ建物の1階と2階に離れてはいたが、それでも時々は廊下や階段ですれ違うこともあったのだ。その春までその人の顔を見かけることはなかったので、きっとどこかの支店から移動してきた人なのだろう。
 その人は背が高くて、目尻が心持ち下がった優しい顔立ちをしていた。世の中には背の高い男も、目尻の下がった男も多いことだろう。しかし彼が和枝の心を捉えたのは、「仏壇の父の写真に似ている。きっと父も若い頃は、ああいう顔立ちをしていたに違いない」と、思わせたからだ。
 廊下や階段でふいに出くわすたびに、和枝はその中に若い頃の父の面影を探していた。そして父を思う気持ちから、恋心に変化するのに時間はかからなかった。
 胸の奥深くに秘めた和枝の片思いだった。
 戦死した父に代わって、母とともに妹たちの学資のために働いてきた。そのためにふと気づくと当時の結婚適齢期は少しばかり過ぎていた。
 そして親代わりになって育ててきた妹たちは姉の和枝と違って、学校を卒業するとすぐに結婚して所帯を持った。甥や姪が生まれると当然ながら、和枝は「おばちゃん」と呼ばれるようになった。そのせいもあって自分自身の結婚は諦めていたところがある。恋愛や結婚と縁遠い青春時代を過ごしてきたので、和枝は異性への想いに奥手なところがあったのだ。
 しかし同僚で親友の木戸久子の目は誤魔化せなかった。
 ある日、大沢孝雄という彼の名前を調べて、彼女の耳元でそっと小声で教えてくれたのは、その久ちゃんだった。
「ああ、そうだった。久ちゃんは結婚してとっくの昔に、木戸久子ではなくなっているのだった……」
 また心の中の思いが声に出る。しかし家の中には和枝が1人きりだから、独り言を大きな声で呟いても恥ずかしくはない。
「でも、久ちゃんは結婚して、姓をなんて変えたのだろう。確か状差しの中に、久ちゃんからもらった葉書があったはず。それを見れば思い出すのだろうけれど、まあ、今でなくてもいいことだし。ほんと、久ちゃんの旧姓をこんなにはっきり思い出すなんて、懐かしいわねえ」
 和枝が思い出したのは、木戸という久子の旧姓だけではない。豊かな黒髪をいつもリボンで結わえていた当時の若々しい彼女の顔も、白いブラウスの上に重ねた紺色の事務服姿も、手を伸ばせば触れられるかと思えるほどに思い出した。
 久ちゃんとは今でも時折り葉書で近状を知らせ合い、その声を電話で聞く仲だ。彼女は和枝より2つ年下だが、まだまだ元気だ。現在の年相応な真っ白な頭も皺ばかりの顔も知っている。しかし和枝の頭の中の時計は長い年月の川を一瞬のうちに遡って、茹で卵をむいたようなつるんとして白く丸い顔に小さな目鼻が可愛らしくついた、久ちゃんの顔を思い出した。
 あの日、その久ちゃんの顔が近づいて大沢孝雄という名前を囁いたとき、和枝の心臓は突然高鳴り、顔が赤らむのをどうしようもなかった。そのときの久ちゃんはそんな和枝からとやかく聞き出そうとはしなかったが、彼女の赤くなった顔を見ればすべてお見通しだったことだろう。それからしばらくして、大沢孝雄の母親と2人暮らしだという和枝とよく似た家族状況や、彼の誕生日が12月であることまで、どこからか聞きつけて久ちゃんは教えてくれた。
 久ちゃんにそう教えられて、なぜかそれまで編み物などしたこともなかった和枝だったが、大沢孝雄の誕生日プレゼントのためにマフラーを編もうと思い立った。
 さっそく手芸店に出向いて薄いグレーの毛糸を買い、書店で初心者にでも編めそうな図解つきの編み物の本を買った。彼の誕生日までには半年あって、編み物をしたことがなかった和枝でも本を頼りに、それまでにはなんとか完成させることが出来そうに思えた。
 もちろん編みあがったからといっても、片思いでしかない彼に手渡す気などなかった。ただ、毎晩、少しずつ、彼のことを思いながら編み棒を動かしていると幸せな気持ちになれた。当時の彼女はそれだけでよかったのだ。
 若い時から細かい手作業は苦手な和枝だった。それでも年齢を重ねれば、何かにつけ少しは上達するものだ。今見れば、その編み目の不揃いさに、首をすくめたくなるほどの恥ずかしさをおぼえる。50年も昔、編み物などしたことのなかった彼女が、若さゆえのあふれんばかりの勢いにまかせて編んだマフラーだった。


  
 懐かしい思い出に浸りながらマフラーを解いていたが、またそこでぷつりと毛糸が切れた。虫が食っていたのだろう。再び、和枝はマフラーを持って鋏で切った。和枝のその行動は、傍目から見れば、解くというよりもマフラーを切り刻んでいるといったほうが正しいかも知れない。
「しかたがないわ。目がかすんでよく見えないのだもの」
 そう自分に言い聞かせて、鋏を持った手を止めると、和枝は編み目を見つめていた目をあげた。そして老眼鏡をはずして疲れた目を休める。まだ半分も解いていないのに、体はぐったりと疲れている。歳には勝てないと思う。
 しかし、頭の中だけは熱をおびたように冴えている。ありありと脳裏に浮かんだ若い頃のの思い出は、今では手を伸ばせば届きそうなほどに鮮明だ。しばらくは手を休めて思い出に浸るのもよいだろう。マフラーを解く作業は、誰に頼まれたというわけでもなく、まして急ぎということでもないのだから。
 大沢孝雄という名前を知って数か月たったあの朝、会社の出勤時に廊下の角を曲がったところで、ばったりとその彼に出くわした。あまりに突然だったので、いつものようにこっそりと彼を盗み見る余裕などなかった。喉元まで跳ね上がって、早鐘のように打つ心臓をなだめながら、和枝は顔を伏せ、彼の横をすり抜けようとした。
そのとき頭の上から、「おはよう」という明るい声が降ってきた。秘めた想いは、いつのまにか彼女の顔に表れていたのだ。そのうちに2人は挨拶だけではなく、言葉も交わすようになった。その年の12月、半年かけて編んだ手編みのマフラーを、誕生日プレゼントとして和枝は彼に手渡すことができたのだ。
 自分の首に巻きつけて何度もその長さを試したというのに、背の高い孝雄に彼女の編んだマフラーは少し短かった。編み目も不揃いだ。しかし彼はそのようなことは気にならなかったようで、喜んですぐに首に巻いてくれた。
 誕生日を祝う2人だけの食事を終えた後、人通りの途絶えた暗い夜道で、突然抱きしめられたのもその夜だった。雪が積もるのも珍しい暖かい南国だったが、その夜は師走にふさわしく冷え込んで粉雪が舞っていた。目の前の孝雄の肩に小さな粉雪があとからあとから舞い降りて、そしてはかなく溶けていく。その様子が街路灯の淡い灯りに浮かびあがっていた。
 その光景を美しいと思い、それを一生忘れることはないだろうと和枝は思った。そして翌年の春に2人は結婚式をあげ、その後は3人の子どもに恵まれた。
「さあ、がんばって、全部、解いてしまいましょう」
 そう声に出して自分を励まし、外した老眼鏡をもう1度かけ直す。そして辺りを見回して、「あっ」と和枝は声をあげた。
 信じられないことだが、あの夜のように、部屋の中に粉雪が舞っている。この数日冷え込んではきているが、初雪が降るには早過ぎる。そのうえに雪は戸外で降るもので、部屋の中で舞うものではない。最近何事につけ物忘れがひどく、また自分の判断力に自身のなくなった和枝だが、それだけは確かだ。
 彼女はゆっくりと部屋の中を見回した。商事はぴたりと閉じられている。「またこっそりと鋏を持ち出したでしょう」と気づかれて恵子さんに叱られたくないために、それだけは抜かりなく気をつけていた。「最近のお袋は、物忘れがひどくないか? ボケが始まったようだ」と、近頃は息子の清志に言われそして呆れられるが、こうしてちゃんと気をつけようと思えば和枝にだってできるのだ。
「年寄りをバカにするんではないよ」
 しかし、今度の彼女の独り言は元気がなかった。
「家の中で雪を見るなんて、やっぱり清志の言うように、最近の私はボケてきたのだろうかねえ」
 少し不安になってきた。
 部屋の中でそれで舞う雪を捕らえようと和枝は手を伸ばした。しかしそれは彼女の掌に収まろうとはしなかった。雪の一片はまるで戯れるように彼女の掌をすり抜けて、また宙に向かって舞い上がっていく。
 部屋の中で舞う雪は、あとからあとから降ってくるのにその痕跡を残そうとしない。あの夜の孝雄の肩に舞い落ちては溶けていった雪のように……。


  
 玄関で、騒がしく人の声がしている。
「あら、お客さん」と和枝は腰を浮かして、その声の中に嫁の恵子さんの声が混じっていることに気づいた。パート帰りの恵子さんとお客さんが玄関でぱったりと鉢合わせでもしたのだろうか。
 興奮で一オクターブ跳ね上がった恵子さんの甲高い声が、廊下を越えて和枝の隠居部屋となっている離れの座敷にまで聞こえてきた。それで和枝は浮かした腰を沈めて座布団に座り直す。
 恵子さんの声の調子から言って、来客は飛び込みのセールスマンのようでもなく、回覧板を持ってきたお隣さんとちょっと立ち話という雰囲気でもない。しかし相槌を打つ客の声は物静かで聞き取れない。
 誰かが訪ねてくると、恵子さんから聞かされていただろうか。
 この数日の恵子さんとの会話を思い出そうとして、和枝はすぐに諦めた。この最近、自分でもうんざりするほどに物覚えが悪くなって、聞かされたことや教えられたことが、笊の穴をすり抜ける水のように頭の中からこぼれ落ちてしまう。
 そして努力して思い出しても、勘違いということが多くなった。そのたびに「お袋、何言っているんだ。思い込みの激しいのもいい加減にしてくれよ」と咎められ、その隣で恵子さんは申し訳なさそうに笑っている。
 それで最近の彼女は思い出せないことを無理に思いだして、あれこれとそれに辻褄を合せて考えるのはやめにした。姑と孝雄と和枝、そして3人の子どもたちで賑やかだったこの家も、いまは大人3人の静かな暮らしだ。あれこれと和枝が憶えていて、家事に隣近所のお付き合いにと采配をふるわなければならない時代は終わっている。
「そんなことよりも、今日中に、マフラーを解いてしまわなければ……。ああ、その前に、鋏やら毛糸針を隠さなくては。勝手に鋏は使わないと、恵子さんに約束させられたばかりなのに……。ああ、それにしても、この雪……。どうして、私の部屋の中で雪が舞っているんでしょうね。清志や恵子さんが見たらなんて言うんでしょうね。また私の幻覚だって言われそうだわ……」
 再びマフラーを解く作業に取りかかろうか、いやその前に、鋏をどこかに隠さなくては。いやそんなことよりも、部屋の中で舞っている雪を消してしまおう。考えすぎて、和枝は混乱してきた。
 最近は若い時と違って、1度にあれこれをしようとするとパニックをおこす。とりあえずは目の前の雪を消そうと、彼女は両手を大きく振り回した。その途端に、テーブルの上にあった鋏に手が当たり、大きな音を立てて、それは部屋の隅に飛んで行った。その音にますます動揺してしまう。
 切り刻んだマフラーが散らかる。時間をかけて巻き取った毛糸玉が、膝から落ちてころころと転がっていく。


  
 突然、廊下と座敷を隔てる障子が開いた。
 その前に足音はしたのだろうが、慌てふためいている彼女の耳には聞こえなかった。振り回していた手を止めて、廊下に立つその人影を和枝は見上げた。
 庭から射し込む初冬の柔らかな日差しを背に受けて、その黒い人影は浮かび上がっていた。
 背の高いそして若い男のシルエットだ。逆光なので、視力の弱っている和枝にはその顔形ははっきりとは見えない。しかしその輪郭に見覚えがある。ふいに懐かしさがこみあげてくる。
「あら、お帰りなさい」
 夫の孝雄が帰ってきたのだ。10年前に孝雄はクモ膜下出血であっけなく逝ってしまった。お互いに歳を重ねれば、いつかそういう日が来るとは覚悟していた。しかし別れの言葉も感謝の言葉も妻に言わせることなく逝ってしまったというのは、あんまりではないか。そのことがこの10年ずっと気になっていた。そんな和枝の気持ちにやと夫は応える気になったなったのだろうか。
 家の中で雪が舞うのだから、死んだ夫が再びこの家に帰ってくるということだってあり得るに違いない。そう思うと、胸にすとんと落ちるようにこの状況が納得できた。
「ただいま。戻ってきたよ」
 その優しく響く若い声が懐かしい。天国に行くと、人は皆、若返るのだろうか。
 和枝は部屋の中が散らかっていることに気づいた。40年に近い結婚生活では、痒いところに手の届くような気のきく妻ではなかかったが、几帳面なことだけは取り柄だった。こんなに散らかった部屋を見て、孝雄はなんと言うだろう。
 しかし彼は和枝を見下ろしたまま優しく言葉を続ける。
「変わりはなかった?」
 その声と孝雄の影を後光のように取り巻く光の眩しさに、和枝は目を細めながら答えた。
「あらまあ、『変わりはなかったか?』なんて……。あれから私もこんなに歳をとってしまって、皺くちゃのお婆さんになってしまったというのに」
「元気そうで、安心したよ」
 そう言いながら部屋の中に入ってくる黒い人影の上に、白い粉雪が舞い落ちるのを和枝は見つめていた。
 その雪は孝雄の肩に触れそうで触れない。あの夜、ふいに抱きしめられた驚きと喜びを和枝は思い出した。抱きしめられてプロポーズされたのも突然だったが、クモ膜下出血で逝ってしまったのも突然だった。そうだった、もしもう1度孝雄に逢うことがことが叶うのだったら、和枝には言いたい言葉があったのだ。
「孝雄さんは、いつもいつも何をするにも突然で、私を驚かせてばかり……」
 横から、恵子さんの声が割って入ってきた。
「おばあちゃん、何を言っているんですか。今朝、お話していたように、久しぶりに孫の信彦が帰ってきましたよ。会社でまとまったお休みが取れたのですって」
 しかしその声は和枝には聞こえていない。最近の彼女は聞きたくないことには耳をふさぐ術を身につけている。恵子さんはため息をついて部屋の隅に行き、落ちている鋏を拾いあげた。それから切り刻まれたマフラーと転がっている毛糸玉も拾って、テーブルの上を片づけた。
「信彦は大きくなるにつれて、死んだおじいちゃんによく似てきましたからねえ。おばあちゃん、信彦をおじいちゃんと間違えているんじゃあないですか? それと編み物がしたい時は、私に言ってくださいって、いつもお願いしているでしょう。ほら、鋏をどこへでも置くとあぶないですよ……」
 恵子さんの言葉は続いている。
「……、まあそれにしても、大変な毛ぼこりが舞っていること。窓を開けましょうね」


                                                      (了)