口紅


  
 爽やかな風が、開け放した窓の白いレースのカーテンを揺らしている。
 10階建てマンションの一番高いところに住んでみて、小村容子は音というものは風が運んでくるものだと知った。窓際に立つと、この町の住民たちの生活騒音や下の道を車が走り抜ける音が、風とともにマンションの壁面を這い上がり、窓から姿なき侵入者として侵入してくるのが、耳を通して感じられる。
 まだ5月の初めで、カーテンを揺らす風は、ジーンズのパンツに上は薄手のTシャツ1枚という格好には少し寒い。しかしだからといって、窓を閉めてしまうのもさみしい……。
 幼稚園に通っている慎一と小学生の真紀、2人のこどもたちは騒がしいだけの存在なのに、いないと容子の胸に穴があく。彼らが帰ってくるまでの半日を孤独に過ごす彼女にとって、風が運んでくる騒音は、見もしないテレビから流れてくる音声と同じ価値があった。
 今は午前11時。
 時計を見なくてもわかる。午前中の家事を終えた主婦が、ふと孤独に襲われる時刻だ。テレビをつけようか窓を閉めようかとしばらく悩んで、彼女は窓を開けておくことにした。
 ドアチャイムが、ふいの来客を告げたのはこのときだった。
 後日、森本麻美が小村家を初めて訪問するにあたり、この時間をわざわざ選んだのではないかと、容子は考えたこともある。いや、やはり『選んだ』という言葉は正しくない。
 森本麻美はこの春にマンションの1つ下の部屋に越してきたばかりだ。日に2度、5人ほどの母親たちの1人として、幼稚園バスの送迎で顔を合わせるようになって、まだ1ヶ月しかたっていない。お互いに無難な会釈を交わす間柄から親密になることはなかった。だから小村容子がマンションの1室で午前11時をどのように過ごしているか、森本麻美が知っているわけはないのだ。
 それはきっと、人づき合いの苦手な人間が、どんなに憧れようとまたは欲しがろうと永遠に手にいれることは叶わぬ、神様からの贈り物なのだろう。話しかけられたら即座に心を許したくなる声と同じものに違いない。
 人恋しい気持ちを抱いて、容子は玄関ドアを開けた。


  
「ごめんなさいね。お電話もさしあげずに、突然、お邪魔してしまって」
 立っている麻美は容子より4つ5つ年下だろう。薄水色の小箱にピンクのリボンをかけたものを、彼女は胸の前で大切そうに抱いていた。それはその美味しさで評判のケーキ店の箱だ。
 この日の麻美は真っ白なワンピースを着ていた。
 それは光沢のあるとろんと重みのある布地で、流れるように踝(くるぶし)まで垂れ下がっていた。そしてまだ5月だというのに、そのワンピースには襟も袖もない。その替わりに彼女は共布のショールを、肩から腰にかけて巻きつけていた。ショールの細く長い無数のフリンジが、腕やウエストや腰のまわりを滝のようにおおっている。
 その滝のあいだから、まだ陽に焼けていない肩や二の腕がのぞいていた。
 ワンピースが体の線や露出した肌をあらわに見せ、それに吸い寄せられる人の目を、ショールのフリンジが拒んでいる。しかしそれは逆効果だ。女の容子でさえ、目の前の女の体から目がはなせないでいる。フリンジの下の柔らかそうな乳房のふくらみや、なめし皮のような手触りに違いない引き締まった腹や、華奢にみえて熟した果実のように重いであろう臀部を、容子は女でありながら想像した。
 そしてこのような服の下で、乳房をささえそして下腹部を覆うランジェリーの形や機能まで、その想像は及んだ。それらは容子のチェストの引き出しに入れられた、硬くて無骨で締めつけることだけを目的とした、ベージュ色の味気ない下着とは大違いだろう。
 同じ女でありながら、森本麻美を視姦していた。
 そのことに気づくと、容子は落ちつかなくなった。森本麻美の体に張りついた視線を努力してそらすと、上へとのぼらせた。来訪の目的を語っているはずの2つの目を見れば、不安も動揺も去り、彼女の挨拶に返す言葉もみつかるだろう。
 柔らかくウェーブしていて肩にかかっている栗色の髪を過ぎ、たるみや皺や染みとは無縁の白い首筋をのぼって、再び容子の視線はとまった。
 白いワンピースに包まれた体の次に彼女の視線をとらえたもの、それは豊かで奔放そうな肉体を持った同じ女のものとは思えない、意思の強さをあらわした薄く形のよい唇に塗られた、口紅の赤い色だ。それは真紅という言葉がふさわしい色だった。
 しかしそれは毒々しい赤でもなく、浮ついた媚を思わせる赤でもなかった。そう容子が思ったのは、森本麻美という女から漂う雰囲気に、その口紅の真紅があまりにも似合っていたせいであろう。
「きれいな色……」
 ため息のように言葉がもれた。しかしそれが賞賛の言葉であったにしても、相手が聞き取れるほどにはっきりと言うことには、さすがに容子も気がひけた。たとえ女同士であっても、親しくない相手の化粧についてあれこれ言うのは、失礼だと思う常識はまだ残っている。
 しかし彼女はその赤色に魅入られた。見つめていると、言葉を探していたことを忘れ、森本麻美の存在さえ忘れた。
 赤い唇の形が突然変わった。何かを話していると理解するのに、少し時間がかかった。
「お忙しかったかしら……。また、出直してきますね」
 その言葉に驚いて視線をあげると、マスカラにしっかりと縁取られている長いまつげに囲まれた、2つの黒い瞳に不安の色が浮かんでいた。そしてその上の柔らかな茶色で形よく描かれた細い眉もひそめられている。
「あっ、いいえ。突然のことで、少し驚いだだけで……」
 容子はとっさに言い訳をした。森本麻美がこのまま後ろ姿を見せて帰ってしまうことを恐れた。なんとしてでも引き止めたい。
「理沙の幼稚園のことで、ちょっとご相談したいことがあって。この町には先月越してきたばかりで、親しく相談にのっていたただける方もいなくて……」 と、麻美は一人娘の名前を言った。
「私でも、お役に立てることだと、とても嬉しいわ」
「こういうことで親身に相談に乗っていただけるのは、小村さんしかいないと思ったの。まだ慣れていない初めての町で経験する幼稚園のことだから、私も理沙もいろいろと心配で……」
 幼稚園の送迎バスに乗る子どもたち5人の母親の中で、容子は彼女に選ばれたのだ。その事実がもたらす喜びに胸が甘く躍った。
「玄関での立ち話もなんですから、どうぞ、お上がりになって」「いいのでしょうか。ご迷惑だったらそう言ってくださいね。私は、いつでも出直してきますから」
 しかしその言葉とは裏腹に、森本麻美は招き入れられる喜びを、素直にその顔に表していた。


  
 マンションの広くはない靴脱ぎで、彼女は身をかがめてワンピースと揃えた白いサンダルを脱いだ。サンダルは細い皮ひもで足の甲を固定している。紐の先のリボンをとかないと脱げないようになっているらしい。
 玄関ホールに敷いた絨毯にひざまずき来客用のスリッパを並べていた容子は、そんな森本麻美の様子を見るともなく見ていた。 麻美が体を動かすたびに、彼女のよい香水の匂いが漂ってくる。
「このスリッパを、どうぞ使ってね」
 そう言った容子の目の前を、麻美の足が横切った。
 白いというよりも磨かれた象牙色のような肌をした、きれいな素足だった。むだ毛もなければ変色した座りだこもない。小さな爪それぞれに、ラメがきらめく銀色のペディキュアがほどこされている。なめらかな踵(かかと)が子どものそれのようにピンクに輝いていた。
 そして毎日の手入れの賜物と思えるその左足首に、細い金色のアンクレットが巻きついていた。
 触れてみたいと思ったのは、その象牙色の素足だったのか、はかないと思えたほどに細いアンクレットの金色の鎖だったのか、容子にもわからない。気づいたときは、彼女の指はそのどちらにも触れていた。 森本麻美の素足は金色の鎖と同じようにひんやりとしていた。
 自分が何をしてしまったのか気づいたときには、もう取り返しがつかなかった。
「と、とても、きれいだったものだから」
 しどろもどろになって言い訳する声が、自分の声だとはとても思えなかった。森本麻美の赤い唇を見たときに感じた心の高揚が、急速になえていく。消え入りたいとは、こんなときのことをいうのだろう。
「お部屋は向こうでいいのでしょう? だって、うちと同じ間取りですもの」
 その言葉に目をあげると、何ごともなかったような笑顔が容子を見下ろしている。
「あっ、勝手にくつろいでくださね。お茶の用意をしてきます」
「気を使わないでください。でも、私はコーヒーが好き。これ、お口に合うと嬉しいのだけど」
 そう言って、麻美は立ち上がった容子にケーキの箱を押しつけた。並んで立ってみて、森本麻美が自分より小柄であることに、容子は気づいた。


  
「ママ、お化粧している!」
 あわただしい朝の食卓で、真紀が言った。
 娘のその言葉に、夫の裕一が読みかけていた新聞から目をあげて、自分の顔に視線を走らせたのを容子は感じた。
 結婚後の妻は、よほど人目を気にする外出でもないかぎり化粧をしないことを、彼は知っている。しかし娘が言葉にするまで、今朝の彼は妻の化粧に気づかなかった。この最近、夫婦の間に、ときおり隙間風が吹きぬけるのを感じている。それはこういうことの積み重ねかもしれない。
「ママの口紅の色、いつものとちがうみたい」
 両親の思惑に関係なく、新しい発見に8歳の真紀の言葉は無邪気だ。
「あら、気がついた? ちょっと、赤すぎるかしらね?」
「ママ、きれいに見える」
「嬉しいわ。化粧水を買いにいった化粧品店で、この春の新色を勧められて、つい買ってしまったのよ」
 このときのためにあらかじめ用意していた軽い嘘を、容子はついた。しかしその嘘は効果を発揮した。夫も子どもたちも納得したのだろう。裕一は読みかけていた新聞に視線を戻し、真紀も慎一もジャムをべたべたぬったトーストにかじりついた。
 本当はあの日、森本麻美がつけていた口紅の赤い色が気になって、わざわざ立ち寄った化粧品店だった。
 目立たないベージュ色の口紅を1本しか持っていない容子にとっては、赤い口紅は差し迫った必要品というものでもなくて、ひやかしに覗いてみるだけのつもりだった。そういえば、新しい口紅を買ったのは真紀の入学式以来だ。
 見るつもりだけだったのに、色別に並べられている口紅を見ていたら、胸が苦しくなるほどにときめいた。それは久しぶりに足を踏み入れた、化粧品店のディスプレイの華やかさに目を奪われたためなのか、森本麻美の赤い唇を思い出したためなのか、容子にもわからない。
「どのような色を、お探しですか?」
 そう言いながらも、客の目が赤い色にひきつけられているのに、販売員は目ざとく気づいている。
「こちらの赤い色などは、きっと、お客様の肌の色にお似合いですよ。つけてみられませんか?」
 ブティックでの洋服の試着も、美容院で髪型のあれこれを言うのも、苦手な性格だった。そして、化粧品店でその説明を聞きながら顔にいろいろ塗り重ねられるのは、もっと苦手だ。しかし、容子は販売員のその言葉に素直に従った。
 容子の半開きの唇に赤い口紅が塗られる。
 真剣な販売員の顔が目の前に迫っていた。薄目を開けて、手入れされた肌の上に美しく化粧を施したその顔を観察する。それが森本麻美の顔と重なった。香水のよい匂いが鼻をついた。
 何色か試してみた。
 そのたびに販売員の差し出す鏡の中では、髪を耳のすぐ下でショートに切り揃え、肌の手入れもおざなりで眉毛も整えていない30歳半ばの女が、唇だけなまめかしく赤く塗って睨み返している。販売員もその事実に気づいているのだろう。気の毒そうに言った。
「お客様のもともとの唇の色というものもありますので。今まで赤い色をお持ちでないのでしたら、オレンジに近い色から馴染むというのもよいですよ」
 欲しい口紅と自分がつける口紅とは違うのだと、説明して理解してもらうのはむつかしい。そして当然だとは思っていたが、森本麻美の使っている口紅と、同じ赤い色を見つけることは出来ないだろう。そもそもメーカーからして容子は知らないのだ。
 販売員をわずらわせた申し訳なさに、最後に勧められた口紅を買うことにした。買うと心を決めてしまえば、気が大きくなった。彼女の口から自然に言葉が出てきた。
「香水もほしいのだけれど。あなたがつけているのより、もう少し甘いのが……」


  
 素顔と変わらないくらいの化粧しかしない容子にとって、新しい口紅はつけるのをためらわせるほどに赤い。しかしそれがドレッサーの引き出しにあると思うだけで、この1ヶ月、相変わらず家に引きこもりがちな容子の気持ちを明るくさせた。
 あの日の森本麻美の相談ごとは、彼女の1人娘の理沙がまだ新しい幼稚園に馴染めないというもので、2人の子どもの母親である容子からみれば、それは他愛ない内容にしか思えなかった。
「もう少し、様子見していたら、そのうちに理沙ちゃんも馴れてくるのではないかしら。それとなく、私からも園長先生に伝えてあげることも出来るし……」
 そんなあるふれた言葉で森本麻美は納得して、あとは女2人のとりとめのないお喋りとなり、手土産のケーキもお腹におさまった。
 翌日からは、幼稚園バスの送迎で顔を合わせると、会釈とともに親密な視線がからみ、言葉も交わすようになった。やはり1人娘の相談ごとに理由つけて、自分は彼女に選ばれたのだと容子は思う。
「今日は、外出予定でもあるのか?」
 新聞をたたみながら裕一が言った。妻の新しい口紅には気づかなかった彼だが、妻の弾んだ心には敏感だ。
「あら、言っていなかったかしら。下に越してきたばかりの理沙ちゃんのお母さんに、モーニングを誘われているの。幼稚園のことで相談を持ちかけられて」
「へえ、それで化粧をしているのか?」
 夫の皮肉を含んだ言葉も、今朝は気にならなかった。夫婦を10年も続けていると、昼間もそうだが、夜も2人の間に言葉はあっても会話はない。
 昨日の夫の夜の行為は、満足できるものではなかった。上にのしかかっている夫の背中に、彼女が彼女が爪を立てたのは、もう終らせようという、何年も前からの夫婦間の暗黙の合図だ。その合図に、全体重をかけてのしかかっていた男の重さが少し軽くなった。夫もほっとしたのだろう。
 裕一の動きが激しくなり、息遣いが乱れてくる。果てる彼のうめき声にあわせて、思わず容子も叫んだ。最後の行為が乱暴で苦痛だったからだ。そのとき、唐突に、かぶさっている夫の顔のむこうに森本麻美の顔が浮かんだのだ。なぜか、優しく触れて欲しいと思うところを、自分の指で確かめてみたくなった。
 麻美の白くてきれいな指だったら、どういうふうに優しく動くのだろうかと想像すると、容子は夫の寝息を気にしながらも試してみずにはいられなかった。夫との味気ない行為のあとでも、容子は濡れていた。それは柔らかな襞で、彼女の指をぬるりと絡めとると、優しく締めつけてきた。
 突然、襲ってきた快感に声がもれた……。
 昨夜の記憶を頭の中から振り払うと、容子は夫の質問に答えた。
「そうよ、楽しんでくるわね」
 夫の後ろに据えつけてある食器戸棚の奥には、森本麻美があの日に使ったコーヒーカップが、洗うことなくそのまま仕舞ってある。白地にブルーの小花柄が美しい来客用のコーヒーカップだ。
 あの日、森本麻美を玄関まで見送った。そして居間に戻ってから、彼女の赤い口紅が、カップの白い縁に薄く残っていることに気づいた。
 食器に残された口紅を見ると、今までは同じ女として無作法だと思い、不愉快にしか感じなかった。しかし、それが麻美のものだと思うと、感情は別物だ。どうしても洗い流すことが出来なかった。
……同じ色の口紅が欲しい。そのためには、しばらくこのままにしておこう……
 万が一、家族に気づかれることのないように、コーヒーカップを奥に仕舞いこみながら、容子は自分に言い聞かせた。しかしそんな理由はこじつけに過ぎないと、薄々は、容子にもわかっていた。だからといってその深い理由を、そのときの彼女はまだ考えたくなかったのだ。
 食器戸棚の横の壁面には、鏡がとりつけてある。朝からその鏡に映る自分の顔を、容子は何度見たことだろう。
 鏡に映った女は自分ではないような気がする。上気した幸せそうな女の顔だ。口紅の赤い色が頬まで染めているように見える。
 いまも夫に答えながら、鏡に映っているその女の顔を、新しい口紅を塗ったその唇を見ずにはいられなかった。
 鏡に映っている口紅の赤い色は、森本麻美の赤い色とは似ても似つかぬものだ。しかし自分に似合っていないというものでもない。容子は、自分にそう言い聞かせた。


  
 森本麻美が指定した喫茶店喫茶店『フローラ』は、しゃれた花屋と店舗を兼ねていた。
 入り口にはいつも花の咲き乱れた植木鉢がセンスよく並べられてあって、『フローラ』の前は容子も何度か通ったことがある。木製のドアの向こうはどうなっているのかと、何気ないふりを装って小さな窓から店内を覗いたこともあったが、1人で入る勇気はなかった。また誘ってくれる友人がいなかったのも事実だ。
 この『フローラ』という名前を告げられたとき、そこに初めて訪れるチャンスが来たことに容子は嬉しくなった。しかし麻美の口調から、この町に越してきてまだ数ヶ月の彼女が何度も出入りしているのだとも知って、嫉妬に似た感情が胸を突き刺す。
 梅雨の晴れ間で、戸外はすでに蒸し暑い。
 軽やかなドアチャイムに迎えられてドアを開けると、エアコンの冷気が足元を心地よく撫でた。店内を見渡すと、背の高い観葉植物があちらこちらに置かれている。ジャングルのようだ。足を踏み入れて、それらの観葉植物の葉が、テーブルとテーブルの間仕切りを兼ねているのだとわかった。
 テーブルの向かいに座っている今日の森本麻美は、のど元までボタンできっちり留めた小さな襟がついているのに、袖ぐりは肩まで大きく開いている花柄のブラウスを着ていた。
 そのアンバランスな肌の見せ方に、またまた動揺しながらも、容子は目の前の白いのどや柔らかなカーブを描いている肩を、盗み見しないではいられなかった。ブラジャーの肩紐はどうなっていのだろうと思い、露出した肌の白さは乳房の白さと同じなのだろうと想像してしまう。
 そしてその下半身はぴったりと腰にはりついた黒のタイトスカート。前を歩く彼女の後ろ姿を、さきほどしっかりと観察した。麻美が足を繰り出すごとに、ショーツのラインが丸い形の尻の左右に浮かんでは消えるのが見えた。
 自分の代わり映えのしないTシャツとジーンズ姿に久しぶりの化粧を考えると、お洒落な麻美の前では身を捩りたくなるほどに容子は恥ずかしく思う。しかしそれでも彼女を独占できる喜びのほうが大きかった。
 目の前の麻美は、物慣れた美しい手つきでフォークを使い、モーニングセットの野菜サラダを口に運んでいる。
 麻美の赤い唇が動き始めると、容子の目は吸い寄せられるという言葉がふさわしい状態になる。頭は冷静に夫と子どもたちを送り出したお暇な主婦の会話を作り上げ、口はそれを忠実に言葉にしている。しかし目だけが自分の意思に逆らう。
 そのとき、森本麻美はあの目とあの赤い唇で笑った。
「小村さん、今日はお化粧をしている」
 気づかれたことで、顔に血がのぼったのを容子は感じた。
「お化粧なんてめったにしないし、スカートなんて、この最近、穿いたこともない」
「その口紅の色、素敵ね」
「先日、買ったばかりなの。この春の新色って言葉についつい……。やっぱり、私には赤すぎるでしょう?」
「そんなことないわよ。よく似合っているわ」
 夫や子どもたちについた同じ嘘を、彼女につく必要もないだろう。
「あなたの口紅の色、きれいだなと思って。それで化粧品店で、赤い口紅をいろいろ試してみたのだけど、同じ色はなかったわ」
「気づいてくれていたのね。嬉しいわ」 彼女はある服飾デザイナーの名前を口にした。
「化粧品メーカーの作る色とは違うでしょう? 私に一番似合う色だって、友人が選んでくれたのよ」そして言葉を切った。友人という言葉に対する容子の反応を楽しんでいるようにしか思えない短い沈黙だった。「それで彼女が言うには、これは『麻美の赤』なんですって」
 それから、キスをねだる小娘のような無邪気さで、彼女は唇を尖らせた。美しい女は料理の食べ方も美しいが、なぜか、食事中に口紅も剥げ落ちたりしないものだと容子は思った。
……きれいな色……
 突き出された赤い唇にどきどきしながら、それでも平常心をよそおって相槌を打つ自分の声は、まるで他人のそれのようだ。遠くから聞こえてくる。
 昔々、誰かがいまと同じように何かを喋りながら、自分にむかって赤い唇を突き出してみせたような気がする。あのときも、「きれいな色……」と、それに応える自分の声が、他人のそれのように遠くから聞こえてきたことを思い出す。あのときの赤い口紅はもっと乱雑に塗られていて、唇からはみ出ていたが……。


  
「ようこちゃん、これでいい?」
 幼い声がそう訊ね、幼い容子の声がその呼びかけに応える。
「こんどは、としえちゃんのばんよ」 共有した秘密のために、2人の声は小さくそしてかすれていた。
 近所に住んでいるとしえちゃんとは、何をするのもいつもいっしょの仲良しだった。あの日、2人は小学校から帰ってきて、そしていつものようにとしえちゃんは容子の家に遊びにきた。
 その日がいつもと違ったのは、容子の母がたまたま外出していて家にいなかったことだ。母の鏡台の上に並べてあった化粧品で遊ぼうと初めに言い出したのは、容子だったのかとしえちゃんだったのか、いまとなっては憶えていない。
 母が化粧していたのをいつも見ていた。お正月やお祭りには晴れ着を着せられて、おしろいを塗られて口紅をつけてもらったこともある。だから手順は知っていた。
 2人で顔をぴしゃぴしゃたたいて化粧水をすりこんで、よい匂いのする白い乳液も顔の上で薄く延ばした。おしろいをのせたパフで、母のように鼻の頭を白くする。そして仕上げに、お互いの唇に赤い口紅を塗りあった。
 口紅を紅筆にとり、としえちゃんのおもいっきり尖らせて突き出した唇に、容子は赤い色を塗った。としえちゃんがくすぐったがって体を動かすので、不器用な幼い手先ではむつかしい作業だった。それでもとしえちゃんの少し不健康に見えていた茶色い唇が、きれいな赤色に変わっていった。それは心がときめくような変化だった。
……きれいな色……
 と、思わず声がもれたときから、容子は目の前のとしえちゃんの赤い唇から、目をそらすことができなかった。
 口紅で真っ赤になったとしえちゃんの唇に、どうしてあんなに魅了されたのか。あのあと容子は彼女なりに考えたものだ。しかし考えるほどに、当時の幼い頭では混乱してわからなくなった。
 お互いに口紅を塗りあったあと、小さな頭をくっつけるようにして、2人は鏡をのぞいた。
「ようこちゃんも、きれいよ」
鏡の中のとしえちゃんが言っている。
 その言葉通りに、鏡の中のとしえちゃんの赤い唇はすぼんだり開いたりとがったりして動いた。容子はその動きに見とれた。当時の容子には、赤い口紅を塗った唇の美しさを表現する言葉をまだ知らなかった。
 しかしその言葉は知らなかったが、こういうときの気持ちをどう表現したよいのかは、幼い彼女でも知っていた。映画やテレビの中で、赤い口紅を塗った美しい女の人に心惹かれた者たちは、言葉でちゃんと自分の気持ちを伝えている。
「としえちゃんとキスしたい」
 容子の言葉に、鏡の中のとしえちゃんの目が驚きで大きく見開かれた。としえちゃんはつけたばかりの口紅を手の甲で乱暴に拭き取った。
「ようこちゃんって、へんなことをいう」
 そして「さよなら」も言わずに、ぷいと帰ってしまった。あの日から、あんなに仲のよかったとしえちゃんが容子を避けるようになった。学校でそして登下校の道で、としえちゃんを見かけるたびに、容子は不用意な言葉で大切な友人を失くしてしまった自分を責め続けた。しかし小学校の卒業と同時に、としえちゃんは父親の仕事の関係で、遠い町に引越していった。
 それからはとしえちゃんという名前も、あの日の出来事も思いださないようにしている。思いださなければ、、なかったことと同じだと信じていた。


  
「容子さん、その口紅、よく似合っているわよ」
 聞こえてきた声は、としえちゃんではなく森本麻美のそれだ。胸の痛くなるような思い出に目を伏せていた容子だったが、その言葉に顔をあげた。
 目の前の麻美の赤い唇が、言葉にあわせて、開いたりすぼんだり尖ったりして動いている。それは口紅がはみだした幼い子どもの顔ではない。25年昔と同じように、容子はその動きに見とれた。
 としえちゃんを失ってからもう25年がたっているのかと、容子は思った。しかしもう彼女は、言葉1つで大切なものを失う愚かな子どもではない。だからといって、欲しいものを我慢する年齢でもない。
「赤い口紅を塗った私と、キスしてみる?」
 さりげない声に、冗談とも本気ともつかない曖昧な味を、慎重に容子は混ぜる。コーヒーカップを口元に運んでいた麻美がその手を止めて、赤い唇で答えた。
「あら、いいわよ。本気になったら、いつでも言ってね」
 25年昔には知らなかった言葉が、突然、容子の頭の中に浮かんだ。彼女の心を捉えて離さない麻美の赤い口紅を表現するのに、『なまめかしい』という言葉がふさわしい。