仔犬


    1
 僕には、8歳年上の兄がいた。ほかに兄弟がいなかったこともあって、8歳も年上の兄は、幼い僕にはとても大人に思えた。もう30年も昔のことだ。
 事実、兄は子どもにしては口数が少なく、それでいて穏やかな性格だった。僕には、取っ組みあった兄弟喧嘩の思い出がまったくない。何事にも逆らわず、それでいて時々、思い詰めた表情でまるで責任を果たすといったふうに耐えていた、兄の顔を思い出す。 秘められた意思の強さというものを持って生まれてきた、選ばれた人間の1人であったのかも知れない。父母が兄のことで煩わされるような目にあったことなど、1度もないのではないか。
 兄の名前は、正彦といった。だから、誰からも「まあちゃん」と呼ばれていた。幼い弟の僕までもが、「まあちゃん」と呼んだ。まだ若かった当時の母より、何度も、「まあちゃんと呼んではいかん。あんたは弟なのだから、お兄ちゃんと言わないといかん」と、叱られはした。
 しかし、生来の利かん坊であった僕は、頑として改めなかった。どこか近寄りがたいところのあった兄を「まあちゃん」と呼ぶことで、親愛の情を示すことができたらと、幼いなりの頭で考えたのだろうか。「まあちゃん」と呼ぶことで、8歳も離れた年齢の差を見えないものにしようとでも思ったのだろか。
 現在、当時の僕達と同じ年齢の子ども達の父親となって、兄を「まあちゃん」と呼んだ不自然さが、やっと僕にも理解できる。先に生まれた者は、後から生まれてきた者に、なんと多くの物を奪われることか。お気に入りの玩具に絵本、父親の肩車、母親の膝のぬくもり。それを「お兄ちゃん」と呼ばれることで、我慢する。「お兄ちゃん」という呼称は、先に生まれた者にとって、自尊心そのものだ。
 小生意気な弟から「まあちゃん」と呼ばれて、兄自身も言い気持ちはしていなかったことだろう。しかしそのことで、僕は兄から咎められた憶えがない。そう、兄にはそんなところもあった。ただ、これは時間が解決してくれた。さすがの僕も、小学校に行く年齢になっては、人前で「お兄ちゃん」と言わなければ、自分自身が笑い者になることを知ったからだ。
 僕は今でもそうなのだが、小さい頃から背が低かった。背が低いうえに色黒で、全身を固太りの肉がむっちりと覆っていた。なんのことはない、母にそっくりの体型をしていたのだ。そしてその体型が表していたように、性格も利かん気が強く、一度ひっくり返って暴れ出すと、父母達でさえ手をやいた。末っ子の甘えん坊だからしかたがないという周囲の諦めが、持って生まれた性格をますます増長させたところもある。
 そのために、僕は昭雄という名前がありながら、「ちびざる」というあまり有り難くないあだ名で、父母に呼ばれていた。そしてそのあだ名で呼ばれた時の、僕の怒る反応が面白いと、往々にしてからかいの対象ともなった。
 そのからかいの中には、慈しみの感情が多分に混じってはいたのだろうが、その頃の幼い僕に人の心の綾まで見抜ける訳がない。敬愛を込めて「まあちゃん」と呼ばれる兄と、自分の「ちびざる」では、同じ兄弟でありながらあまりの違いだと、悔しさだけがつのった。
「ちびざる」と呼ばれて、そのために突き上げてくる怒りと、反論の言葉を見つけられないもどかしさで、地団太を踏む僕の姿は、まさに「ちびざる」そのものであったろう。だが、こんな僕にも、ひそかに慰めとするものがあった。
 僕もそのうちに兄ほどの歳になれば、兄のように背が高くなると、幼い頭で信じ切っていた。兄のように色も白くなり、痩せて背が高くなれば、もう「ちびざる」と呼ばれることはない。8歳という絶対に縮めようのない歳の差が、僕にそんな夢をみさせたのか。
 その夢はやがてもっと大きく膨らみ、「まあちゃん」のように勉強が出来るようになる、「まあちゃん」のように教師や友人達から一目置かれるようになる、「まあちゃん」のように父母の誇りとなるとまで、信じ込むようになった。
 膨らみ過ぎた夢は、萎むのも早かった。
 僕は何歳になろうとも、僕でしかありえなかった。背は低いままだった。何をやらせても、取り掛かるのが早いだけで、最後までやり遂げる意思の強さもなく、失敗ばかりを繰り返した。兄と並ぶどころか、追いつくことさえできないみじめな存在だと気づいたのは、何歳の時のことだろう。
 そんな僕にも、たった1つだけ、兄よりも勝ると自負していたことがあった。それは走ることと泳ぐことだった。
 兄も意思の強さで努力はしたようだが、運動能力というものも生まれつきの資質が大きく作用するらしく、苦手なままで終わったようだ。しかし、僕が少々走るのが速く、また泳ぐのが上手であったところで、そんなものは兄の前では霞も同然の代物でしかない。
 正直に言ってしまえば、兄を敬愛する気持ちの中に、疎ましく思う感情も芽生えた。ただその感情が大きく育って、表面に出て来ることは避けられた。その頃には、一緒になって遊ぶことも少なくなり、お互いに共有する友人も話題もなくなった。僕が10歳の時に、兄は家を出て、他の町の大学に通うことになる。そして20歳になったばかりの年に、溺れる子を助けようとして、兄は水死した。
 兄を疎まずにすんだということだけを思えば、僕は8歳という歳の差に感謝している。


   2
 努力家で喜怒哀楽の感情をあまり表にだすことのなかった兄は、何事につけても子どもらしからぬ優等生だった。そしてそんな兄には、もう1つ、子どもらしからぬ癖があった。
 白い紙とみれば、たとえばそれがチラシの裏やノートや教科書のちょっとした余白であったとしても、そこに建築家が描くような家の平面図を落書きするのだ。普通の男の子が、自動車や汽車などの乗り物、漫画でおぼえたロボットや怪獣の絵を描き散らすように、兄は家の平面図を描いて1人楽しむのだ。
 そんな子どもらしからぬ落書きを楽しむ癖は、いつごろから始まっていたのだろう。それはたぶん、誰しも同じ経験を持つ、幼稚園のお絵描きの時間からではないかと、僕は想像する。
 赤い三角形の屋根に白い壁、田の字型をした窓と、小さなドア。子どもなら誰でも描く家の絵。それから青い空や赤い太陽に庭で遊ぶ自分の姿と、普通の子どもであれば外に広がって行く興味が、兄はその家の中へと向かっていったのではないだろうか。玄関のドアを開ければ廊下があって、その突きあたりは台所と居間、右手の階段を上れば、2階の自室へと続いている。
 他の子どもが自動車や汽車の絵を描き、あたかも運転手になった気分を味わうように、兄も家の平面図を描きながら、その家に住んでいる気分を味わっていたのだろうか。
 兄のその癖は、他の子ども達が乗り物やロボットや怪獣の絵を卒業する年頃となっても、一向におさまらなかった。それどころか中学生になった頃には、家の設計図に使用される本格的な記号も駆使して、建築雑誌で見かけるような立派なものになっていた。
 兄が数学の宿題をしながら、いつの間にか教科書の余白に、家の平面図を落書きするのに夢中になっていた姿を、僕は見たことがある。
 幼い僕には、家の平面図を描く兄の楽しみというものが、理解出来ないでいた。そのせいもあってか、数学の教科書に余白に落書きしている兄の顔が少々怖く見えた。鉛筆を持つ指先だけが動きながら、兄の目はそれを見ているようで、見ていなかった。兄にだけしか見えていない、ずっと遠くを見つめていた。数学の教科書の開けられたそのページだけでも、もう3つ4つの部分的な平面図が書き込まれていた。
 当時、6畳の座敷を兄弟で共有する子ども部屋として使っていた僕は、その夜、なんらかの理由で虫の居所が悪かったらしい。
「まあちゃんが、勉強をするふりをして、学校の本に家の絵を描いている」
 僕は居間に入ると、遅い夕食をとっている父とその給仕に忙しい母に、そう言った。父は小学校の教員をしていた。
 僕の心中では、告げ口などといういうものではなかった。僕はそう言うことで、父母の気をひきたかっただけだ。「眠いから、布団を敷いて欲しい」、そんな言葉を続けるきっかけとして、言ってみたに過ぎなかったと思う。それがあのような騒動を引き起こすことになろうとは、思いもよらなかった。
 兄にそういった癖があることは、すでに父母ともに知っていたことだ。そしてその落書きは、咎めて改めさせるほどのことでもないと、この日まで、黙認されていたのも事実だ。しかしこの夜、僕の何気ない言葉は、父の胸深くある何かに触れてしまった。
 僕の言葉を聞くと、父は手に持っていた茶碗と箸をちゃぶ台に戻して、立ちあがった。そして足音も荒く子ども部屋に入ると、まだ遠くを見る目で自分の世界で遊んでいた兄にむかって、激しい叱責の言葉を浴びせかけた。それから、通学鞄や本立てから、教科書やノートが全部ひっぱりだされて、その1ページ1ページが父の手で調べられた。
 平面図の落書きが見つかると、そのつど、父は兄に消しゴムで消すように命じる。兄は口答えも一言の言い訳もしなかったが、隠されたその心は消しゴムを持つ手に表れていた。
 感情のたかぶりで、その手は操り人形の手のようにぎくしゃくと動き、時には、込め過ぎた力のために、教科書やノートの隅が破れさえもした。しかし、それでも父は許さなかった。もう真夜中近い裏庭に、数冊のノートが持ち出され、焼かれた。
「こんなことは、大人になってからでも出来る。それよりも、いまは勉学に励め」
 父はノートを引き裂きながら、そんな言葉を何度も繰り返していた。
 その頃の兄は、すでに背の高さで、父を追い越していた。その兄が父の横に立って、まるで首を前に差し出すようにして、うなだれていた。その横顔を、燃え上がる炎が赤く照らし出す。兄は最後まで涙を見せなかった。泣いたのは、母だった。まだ和服を着ることの多かった母が、この時も、臙脂色に黒色の細い縦じま模様のある着物を着て、ちゃぶ台の前で泣いていた。
 30年たった今でも、僕は、母が目頭を押さえていた割烹着の袖のまぶしいほどの白さや、それを照らしていた裸電球の光のにじみぐあい、そして裏庭に続く縁側の戸が開け放たれて、そこから忍び込んでくる夜気の冷たさも、はっきりと記憶している。しかし泣いていた母を、僕はどこで見守っていたかのかということは、なぜか思いだせない。
 この出来事より4年後、兄は家を出て、建築科のある大学へ行った。兄らしい方法での意思表示だった。
 しかし20歳になったばかりの兄は、大学からアルバイト先に向かう途中に通りかかった橋の上で、魚捕りに来ていて川の深みにはまり、溺れかけていた男の子を見てしまう。そしてその男の子を助けようとして、自分自身が帰らぬ人となってしまったのだ。兄の体は海まで流されてから、3時間後に発見された。
 通夜の席で、悲しみに深く沈んでいる父母にかける言葉のない人々の間から、時々、「……まあちゃんらしい行為……」というささやきが漏れ聞こえてくる。しかし僕には、自分で設計した家を建てることなく人生を終わらせた兄の無念が、部屋の中に満ちているように思われた。布団に寝かされた兄の顔には傷がなかった。重さもなく目にも見えない魂というものを1つだけ失った、兄の体だ。
 12歳の僕が初めて体験した人の死だった。僕は葬儀の間、眠っているような兄から目を離さず、もしかしたら、兄はひょっこりと生き返るのではないかと、そんなことばかり考えていた。火葬場で骨と灰になってしまった兄の姿に、再開するまで。
 年老いた父母が住んでいる家の物置き小屋には、いまでも、あの時の兄が、橋の欄干にもたせかけるように乗り捨てていた自転車がしまわれている。父の体に気力がまだ残っていた頃は、その自転車も時々は日のあたる庭に持ち出されて、油のしみたぼろ布で丹念に磨かれていた。
 この家には、まだまだ多くの兄の思い出につながる品々が、あちこちにしまわれているらしい。「あんたの厄介になるまでには、始末しておくよ」と母は言うが、歳月がたつほどにそれが難しくなるのが、老けていく一方の父母の顔を見ている僕にはわかる。父も母も見送ったら、僕自身の手で、兄の遺品はすべて始末しようと思っている。父母にそう言って、安心させてやりたい気もするが、結局、何も言わずに終わるのだろう。
 喜寿を過ぎて、父は子どものようになってしまった。子どもに先立たれた悲しみは、もう口にしなくなった。自分も逝く日が近いと、覚悟が出来ているのだろうか。たまに帰省する僕をつかまえては、兄の最期の行為について話したがる。そうすることで、自分もまた有終の美を飾っているのかと思うと、やりきれないほど僕の胸は痛む。
 しかし、大人になった僕は言う。
「ああ、まあちゃんは、本当に偉かったと思うよ。まあちゃんは、泳ぎは苦手だったからね。ほら、僕達がまだ小さかったころ、夏になると一家中で、松前海岸に泳ぎに行ったじゃないか。まあちゃんは、こうやって手と足を一生懸命に動かしているのだけど、無駄な力ばかり使って、ちっとも前に進まない。僕は、誰に教わったわけでもないのに、泳ぎだけはうまかった。だから、浅瀬でばちゃばちゃやっているまあちゃんに近づいては、いろんな悪戯をしかけたものさ。塩辛い海水を飲まされるせいで、ふだんは優しいまあちゃんも、この時ばかりは、本気の怖い顔で僕を睨みつけたよ。それでも、僕は悪戯をやめはしなかったけど」
 もう何度も繰り返した話だ。しかし、父は初めて聞いたかのように、満面に笑みを浮かべて相槌を打つ。目の前で溺れかけている男の子を見たとしても、泳ぎの苦手な兄がなぜ後先も考えずに飛び込んだのか、父さえも深く考えたことはないようだ。
 老い先の短い父母には、その真実を告げずに終わるであろうことが、僕にはもう1つある。


   3
 あれは、父が兄のノートを庭で燃やした日より、少しあとの出来事だった。
 季節も移ろって、秋になっていた。僕はまだあの日の焚き火の跡の残っている裏庭で、コオロギを追いかけるのに夢中になっていた。すると兄が、中学校の制帽を被った頭を板塀よりひょいと突きだして、小さな声で、僕を呼んだのだ。
 兄の様子で、これは内緒ごとに違いないとわかったので、「まあちゃん、お帰り」と喉元まで出かかっていた言葉を、僕は咄嗟に飲み込んだ。兄は僕を板塀の陰に誘いこむと、周囲をはばかるような小声で言った。
「可愛いだろう。こいつと遊ぼう」
 兄のボタンを外した制服の下から、茶色い小さな顔が覗いていた。三角形の小さな耳に丸い黒い目、鼻先がつやつやと濡れた可愛い仔犬だった。

 当時、僕達一家は、大きな川の河川敷の中に建てられた、市営住宅に住んでいた。河川敷内に家を建てることは、治水と防災の両面から考えても好ましくないとは、大人になって得た知識だ。戦後の住宅難の一時しのぎとして、建てられたのだろう。
 2軒続きの長屋が3棟あった。手押しポンプを据えつけた井戸と風呂は、2軒で1つを共有していた。家は畳敷きの部屋が2つと、おもに食事をする時に使った3畳くらいの板の間があったと思う。台所は土間で、隅にはかまどがあった。
 その後、僕が高校生のころ、そのころには長年住んだその市営住宅を出て、父は市の郊外に小さな一戸建ての家をかまえて家族を住まわせていたが、新聞を読んでいた母が、「あの川のすぐ近くで住んでいた家を憶えているかね。近々取り壊されて、あそこらあたりは公園になると、新聞に書いているよ。それにしても懐かしいねえ」と、教えてくれた。
 母の言葉に、僕も懐かしさを呼び起こされ、またちょうど夏休みの暑い日をもてあましていたこともあって、昔住んでいた家が取り壊される前に見ておこうという気になった。
 真夏の暑い日盛りの中を、高校生の健脚をもってしても、自転車でT時間かかった。しかし新聞の記事に誤りがあったのか、それとも母が読み違えたのか、すでに家はなくなっていた。かろうじて、セメントの粗末な基礎がむき出しになって残っていた。
「へえ、こんなに小さな家だったのか」
 一家4人が長年住んでいたこの家を、僕はこの時まで、小さいとか狭いとか1度も考えたことがなかった。誰も見ている者はなかったのに、恥ずかしさで、身を隠したい思いがした。
 幼いころに大きく見えたり素晴らしく感じたりしたものが、大人になると拍子抜けするほどにつまらないものに感じる、そのからくりを、この時に僕は初めて味わった。いま思えば、僕はちょうど、いろいろな価値基準がめまぐるしく逆転する自分を持て余していた、年頃であったようだ。そしてそれは誰にでもあるものらしい、あの兄にも。
 かつて僕達一家が住んでいた河川敷を公園にする整備計画には、川の堤防の改修工事も含まれていて、すべてが終わるのに3年かかったように思う。そうして完成した公園は赤土がむき出しで、遊具やベンチに塗られたペンキの色も派手派手しく、昔にここで自然に囲まれて暮らしていた者には、とってつけた面白みのないもののように思われた。
 しかし再び歳月がたって、僕の子ども達が喜んで遊ぶようになると、あちこちに雑草も生え遊具も古びてきて、また昔を思い出させるものがあった。 
 帰省すると、僕は子ども達を車に乗せて、この公園に遊びに来る。あの小さな家のあった場所の真上では、ブランコが揺れていて、それが末娘の一番のお気に入りだ。
「お父さんがおまえ達の歳の頃に、ここに住んでいたことがあってね。家の前は竹藪で、網をしかけると、ウグイスやメジロが捕れた。その向こうは、川に続く広い河原だった。家は狭くて、テレビもなかったが、それでも、遊ぶ場所には、不自由しなかったよ」
 時々、子ども達に話してやる。街中のアパートに住む彼らは、父親の体験した昔の生活を羨ましがったあと、必ず口をそろえて言うのだった。
「そんなところに住んでいたのだったら、犬も飼えたね」
 10歳と7歳の子ども達のいま一番の関心事は、犬を飼うことだった。「犬が飼えるようになったら、自分達でちゃんと世話をするよ」と、2人は目を輝かせていつも言う。「だがそれには、まず、庭のある家に住まなくては」と、僕も妻も答えて、その話題から逃げていた。
 犬を飼うということが、口で言うほど簡単に子どもの手におえるものではないことを、大人の僕や妻には充分過ぎるほどにわかっている。今も昔も、犬を飼いたい子ども心と飼わせたくない親心に、かわりはなかった。

 30年昔に、兄の懐に大切に抱かれていた仔犬に、僕たちはコロと名づけた。
 ころころと太った可愛い仔犬だった。三角形の小さな耳といい、茶色の短い毛並みからして、柴犬の血の混じった雑種だったのだろうと思う。中学校から帰る兄の後ろを、追い払っても追い払ってもついてきたということだ。
 犬を飼いたいとは、そのころの2人でよく口にし、何度か両親に両親に許しをこうたこともあったが、「我が家では、犬は飼えない」と、返ってくる答えは同じだった。そういうことがわかっていても、あとを追ってくる仔犬の哀れさに、ついに兄も見捨てておくことができなかったのだろう。
 板塀の陰から声をひそめて僕を呼んだのは、仔犬を母に見せる前に、まず僕を味方につけておこうと考えたに違いない。あの兄が姑息とも言える手段をとったのは、あとにも先にも、あの時1度だけだった。捨てられた仔犬に対する思いに、相当に強いものがあったようだ。
 家からかなり離れたところで、僕は兄より仔犬を抱かせてもらった。激しく振る鉛筆のような短い尻尾と、ちょこんと揃えた白いソックスを穿いたような4本の足。抱いた僕の手に、短い茶色の毛並みを通して、驚くほどに熱い体温が伝わってきた。その時、確かに仔犬の少し湿った体から、石鹸のいい香りが立ち上ってきた。誰かが捨てる前に、仔犬を洗ったのだ。
 僕の手を舐め続けるピンク色の舌、まだ卑屈になることを知らない黒い目、そして石鹸の香り。子ども心に、大人の世界ではなんと醜いことが、平然と行われていることだろうと思った。その思いは兄も同じだっただろう。
 その日、仔犬を相手に、僕たちは数時間を楽しんだ。竹やぶに河原と、子ども2人と仔犬1匹が隠れて遊ぶのに、場所は十分にあった。はっと気がつくと、秋の夕闇が僕達を包みはじめていた。現実の世界に戻る時間がきていた。
 帰り道を急ぎながら、この仔犬が飼えるようになったら、ああもしようこうもしようと、僕たちは話しあった。しかしどのように言えば、父母から仔犬を飼う許しが得られるのかということになると、2人の口はどうしても重くなってくる。
 風呂の焚口の前で、母は僕達を待っていた。母の白いかっぽう着と姉さんかぶりした白い手ぬぐいが、うす暗い闇の中に浮かんでいた。毎日使う雑巾でさえ、母の手にかかると晒されたように白くなっていく。母の気性にはそういうところがあった。
 この日、僕達の顔を見る前から、母は機嫌が悪かった。五右衛門風呂に手押しポンプで汲み上げた水を満たすのも、そのあと薪で沸かすのも、そのころの僕達の仕事だった。とくに風呂の使用は隣の家との共同であったから、時間的な約束事もある。僕達の帰りが遅いのに、母が腹を立てていたのは、当然のことではあった。
「いっこうに帰ってこないと思っていたら、犬なんぞを拾ってきてからに。2人して何を考えとるの」
 仔犬を抱いて帰ってきた僕達を見るなり、母はそう言った。
 兄にも僕にも言い返したいことは山のようにあったが、「何を考えとるの」と先に言われると、勢いをそがれてしまった。それでもなんとか、「僕たちは、この仔犬を飼いたい。世話は、自分達でする」というようなことを言ったが、返ってくる答えはわかっているようで、語尾に込める力が抜けていく。
「犬は生き物で、飽きたら飽きたで捨てられるおもちゃとは、訳が違う。今日の風呂炊きも忘れて、遊び呆けてお母ちゃんの手をわずらわすあんたらに、本当に、犬の世話が出来るつもりかね。胸に手をあてて、よく考えるといい」
 母の答えは正しい。それでもと言い返せない。利かん気が強かった僕は、「飼ってみないと、わからない」と食い下がって口答えをしたが、兄は母に対してはいつもそうであるようにあっさりと諦めてしまった。仔犬は再び捨てられることに決まった。歩きだした僕達の背中に、母の声が追いかけてきた。
「どこへでも捨てたらいいのと違うくらいは、わかっているでしょう。また戻って来て、居つかれたら、困るからね」
 言うだけ言って、母は再び忙しそうに風呂場の焚口の前にしゃがみこんだ。母は、今も昔も頭のいい人だ。言うことすることのすべてが正しい。しかしその正しさが時として、相手を追い詰める結果を招くことがあるのに、気づいていない。
 僕たちは、仔犬は拾った場所に戻せばいいと安易に考えていたので、そう言われると、2人ともに思案にくれて、足の運びが遅くなってしまった。僕たちは、堤防の上をのろのろと歩いていた。何か心を決めたように、兄が言った。
「河原におりてみよう」
 現在は上流にダムも作られてゆったりと流れる川だが、当時は背の高い葦が生い茂り、足元は大小の丸い小石で歩くごとに足をすくわれた。その上にこの日は、川はいつもより水量が多く、茶色に濁色した水が逆巻いて流れていた。台風が通り過ぎたあとだったのだろう。それで、僕の記憶の中の仔犬は、その短い毛を湿らせていたのだ。
 竹藪が黒い塊となって揺れていた。何もかもぼんやりと見える薄闇の中で、丸い白い小石、茶色に逆巻く川の流れ、黒い竹藪とはっきりと憶えているのは、このあとにこれらを夢に見たからだ。何度か見た夢の中で、本来なら少しずつ曖昧になり、記憶の中から消えていくことがらが、より鮮明になった。
 僕たちは河原におりた。その間、2人のあいだでは、会話はなかったように思う。
 仔犬を抱いた兄は、川の流れのすぐ傍に立った。そしてためらいがあったのか、それとも足場が悪かったのか、腕の中の仔犬を突き離すような格好で、流れの中に入れた。深みでは逆巻いている流れも、河原に近い浅瀬ではゆるやかだ。
 仔犬は数メートルを川下に流されただけで、自力で河原に這い上がってきた。
 兄は舌打ちの音を短く響かせると、石の間にうずくまって震えている仔犬を再び抱き上げた。今度は、学生ズボンの裾を折り上げて、その裾が濡れるくらい川の中に入っていった。そして流れの真ん中をめがけて、仔犬を高く放り投げた。
 なぜかその仔犬のことは、その夜の食卓の会話にさえものぼらなかった。母さえも、「あの仔犬は、どこへ戻した?」とも訊ねなかった。僕達が風呂当番をさぼったために、母はそんな仔細なことにかまける間もないほど、忙しかったに違いない。僕から言いだすこともなかった。父が兄のノートを焼くのを見てより、幼いなりに、口をつつしむことをおぼえていた。
 兄と僕との間でも、その後一度も、あの仔犬のことが話題になったことはない。兄のとった行動を深く考えるには、当時の幼い僕の頭では無理だった。
 たぶんあのまま流れの中で短い命を終えたであろう仔犬は、まるで初めからその存在すらなかったもののように消えてしまった。だが僕の夢の中には時々現れて、かろうじて記憶の端にすがりついていた。


   4
 母と兄は血が繋がっていないと知ったのは、僕が20歳も過ぎてのことだ。
 大学の卒業をひかえて就職の決まった僕は、戸籍謄本を本籍のある田舎より下宿先のアパートに取り寄せていた。自分の戸籍謄本を見るのは、この時が初めてだった。細かく漢字ばかりを羅列したそれは読み辛いうえに、意味の分かりにくい言葉が並んでいた。
 兄の名前が交差した斜線で消されているのは死亡したからだとわかったが、今まで聞いたこともない雅実という名前の上にも斜線があるのがどうしてわからない。雅実という名前が、男のそれなのか女のそれなのかさえも見当がつかない。親戚にそのような名前の人がいたのだろうかと考えたりした。入籍と除籍の意味さえ、その頃の僕にはわかっているようで、自分の身にあてはめてみるとわかっていないのも同然だったのだ。父か母に電話の一本でもすれば、すぐに解決する問題だとは思ったが、なぜかためらわせるものがあった。
 わからないままにその戸籍謄本は、机の引き出しの中で、何日も眠っていた。あの日の夕方、、雅実という名前を兄の実母の名前として考えてみたらどうだろうかという閃きには、天啓に似たものがあったと思う。まるで持て余したジグソーパズルの一片が、ぴったりとそのあるべき場所におさまったかのようだった。
 難解な書類としか思えなかった戸籍謄本が、本当はしごく簡潔にすべてを語っている。離婚とか再婚とかは我が家とは関係のないことだという長年の思い込みが、僕を盲目同然にしていた。
 8歳違う兄の年齢から考えて、父はずいぶんと若い母と結婚したものだと信じていた。それを口にした僕に、父は笑い、母は顔をそむけた。あの時に僕はどうして、父の誤魔化しをそして母の驚きを見抜けなかったのだろう。そういえば、母と兄はその体つきも性格も似ているところが少なかった。2人の会話には、親子らしからぬ遠慮し合うところもあった。しかしそれでも疑わなければ、どこの家でもこんなものだろうとしか思わずに、見過ごしてしまうものなのだ。
「どうして、まあちゃんの赤ちゃんの時の写真が、ないの?」
 幼い頃に、アルバムをめくりながら、僕は母に訊いたことがある。
「まあちゃんが赤ちゃんの時は、うちは貧乏で、カメラが買えなかった」 
 母のその答えが面白くて、僕は兄にわざわざ報告にいった。生みの親に抱かれて写っている写真を新しい母親のためにすべて失くした兄は、僕の言葉をどんな気持ちで聞いたのだろうか。
 謎が解けた戸籍謄本を机の上に広げたまま、僕の心は過去に旅していた。灯りをつけるために立ちあがることも忘れていた。カーテンを閉めていない窓から、薄闇が忍び込んでくる。
 その薄闇は僕に、15年前の兄が仔犬を投げ捨てたあの河原の夕暮れを思いださせた。この時初めて、僕の頭の中で、遠くを見る目で教科書の余白に家の平面図を落書きしていた兄と、仔犬を川の中に投げ込んだ兄と、溺れている男の子を助けようとして死んだ兄が、1つに結びついた。
 当時の兄は、あの仔犬に自分自身の姿を重ね合わせたに違いない。捨てられた仔犬は川に投げ込まれて死んでしまったほうが幸せと考えたほどの心の葛藤が、あの時期の兄にはあったのだろう。しかし激情に突き動かされてとってしまった行動は、僕の時折り見る夢どころではなく、兄を苦しめ続けたのだ。
「まあちゃん……」
 久しぶりに、僕は兄を懐かしい名前で呼んだ。死んだ者の安息の場は、生きている者の思い出の中にあるというのは、本当なのだろうか。自分が泣いていると気づくのに、少し時間があった。
 

                                 (了)