カマキリ


   
 いつもは閉め切っている座敷に、今夜は、蒲団を2つぴったりとくっつけて敷く。夫の哲夫が出張の夜には、こうして蒲団を2つ並べて敷いて、母子3人で川の字に寝ることにしていた。それにしても、本当に夫は出張なのだろうか?1度裏切られると、良子の心の中には、猜疑という虫が住みつくようになった。哲夫のいない夜は、夫婦の寝室に足を踏み入れることも厭わしい。
 灯りを消すと、まだ新しい畳の匂いと、蒲団いっぱいに吸い込まれた秋の陽射しの匂いと、子どもたちの湯上りの石鹸の匂いが、命ある生き物のように忍び寄ってくる。
蒲団と蒲団の真ん中の谷間になったところで、2人の子どもたちに挟まれて、良子は身動きも出来ぬ恰好で横になっていた。彼女の右側には、5歳の加代がまだ湿っている髪と丸めた体を母親の胸に押しつけ、左側の彼女の背中には、8歳の進一が……。それでも進一のほうはお尻と足が半分逃げていて、それが8歳という年頃の男の子の照れ臭さの表れなのだろう。
「窮屈で、眠れないわ。2人とも、もう少し離れてくれない?」
口ではそう言いながら、良子は身も心も心地よい睡魔に引き込まれていくのを感じていた。
 そんな母子3人の幸福な暗闇の中で、、身じろぎもせずにいた進一が、母親の耳に溜め息を吹き込むように呟いた。それは、良子の眠気を覚ますのに十分な言葉だった。
「今度の日曜日にも、お父さん、虫捕りに行くかな……」
 その言葉で、母と寝られる嬉しい夜だというのに、進一が無口だった理由が知れた。彼の頭の中は、先週の日曜日の楽しい思い出でいっぱいだった。眠りにつく前に、それを思い出す楽しみに、彼は浸っていたのだ。
「お父さんは、いつもお仕事で、忙しい忙しいと言っているでしょう」
 何気なく言ったつもりなのに、言葉の中に含む毒の多さに、まず彼女自身が気がついた。これは哲夫に対する嫉妬なのだろうか。進一には寝入りばなを起こされた、母親の不機嫌と聞こえればよいが。それで彼女は言葉を続けた。
「今度の日曜日には、お母さんと、デパートに行こうね。おもちゃ売り場でおもちゃを買って、それから屋上のパーラーで美味しいものを食べて……」
「デパートなんか、嫌い。加代だって、虫捕りのほうがいいもん」
 眠っているとばかり思っていた加代が、甲高い声で主張した。そして狸寝入りで母親を欺いていた喜びに、「クックッ」と笑った。妹の言葉に勇気を得た進一が言う。
「お父さんは、すごいなあ。飛んでいるトンボもチョウも、網でこうやって捕まえるんだよ」
 言葉だけでは表現できないもどかしさに、彼は暗闇の中で両腕を振りまわして、父親が虫取り網で虫を捕える仕草を真似してみせた。
「木にとまっているセミは、こうやって手で捕まえるのよねえ」
 加代も母親の首に巻きつけていた手をほどくと、息をつめて、両手でぱっとセミを捕える父親の仕草を真似してみせた。良子は少し余裕のできた蒲団の上で、苛立ちに任せて寝返りを打った。やはり自分を捉えている感情は嫉妬そのもだと思う。それにしても先週の日曜日に突然見せた、哲夫の父親としての振る舞い、いったいあれはなんだったのだろう。
「言っておくけれど、お母さんは虫なんか大嫌いなんだから。2人して、虫、虫って、言わないでくれる」
 突き放すような母親の言葉に、進一と加代のがっかりした気配が伝わってくる。虫嫌いの母親に対する不満を精いっぱい込めて、進一が言った。
「お父さんは、カマキリだって手で捕まえたのになあ。お母さんは、セミやトンボでも怖い恐いと言う」


   
 先週の日曜日、顧客に書類を届けに行くついでにと、哲夫は子どもたちをドライブに誘った。家にも仕事を持ち帰り自室に閉じこもる彼は、あらたまって子どもたちと差し向いになると、どうやって彼らの機嫌をとってよいのかわからない。父親に誘われた子どもたちは、「お母さんも行くんだったら、行ってもいい」と、口を揃えて答えた。その夫と子どもたちの会話を聞いていた良子は、そのときの哲夫の顔を想像して満足をおぼえた。
 勤めている会計事務所の顧客を奪って独立してみせると、常々、哲夫は言っていた。
 かしそれは彼が30代までにすべきことであって、それから先のことも、そびえ立つピラミッドの石組みのごとく決められているのだ。10年前、同じ会計事務所で哲夫と机を並べていた良子は、彼のそういうところを好きになった。彼と結婚すれば、自分も彼の野心に加担できるものだとばかり思っていた。
 しかし哲夫にとって結婚とは、土台となる石組みの一つでしかなかった。そう気づいたときに、良子にもやりなおすチャンスはあったに違いない。しかし、離婚を考えるには、彼女は2人の子どもに溺れ過ぎていた。
 家族連れでやってきた、秋の高原。そこにはまだ夏の終りもしがみついていた。セミとチョウとバッタとトンボと……。
 「おい、さっきのドライブインで、虫取り網や虫かごを売っていたな。買ってくる」
 妻と子どもたちを車から下した哲夫はそう言って、1人で引き返した。しばらく待って、虫捕り網と虫かごを持って現れた彼は、良子が今までみたこともなかった少年の顔をしていた。秋の高原は、虫取り網と虫かごを持った哲夫の独り舞台だった。父親の後ろを歓声をあげて走り回る進一と加代を、倒れた朽木に腰かけて、良子は見ているしかなかった。
 そうやって1時間も走りまわれば、虫かごの中は、バサバサと羽音のするものばかりでいっぱいになった。その中に、あのカマキリもいた。
「カマキリまで同じ虫かごに入れるなんて、他の虫たちが食べられてしまうじゃないの。ひどいことを……」
 良子の非難の声に、虫捕り網を車のトランクにしまっていた哲夫が顔をあげて言った。
「虫が虫を食うのは、当り前のことだろう。何を気取ったことを言っているんだ」
 そういう彼の顔からは、少年の表情はすでに消えていた。
「それより、そのカマキリの腹を見てみろよ。気持ち悪いほどに大きいだろう。だぶん、雌だ」
 カマキリは、進一の机の上の虫かごの中でまだ生きていた。日曜日から5日もたてば、セミもチョウもバッタもトンボもかさかさと乾いた死骸になったというのに、あのカマキリだけはまだ生きていた。
「ねえ、あなたのそのお腹は、卵で膨らんでいるの? 狭いけれど、この虫かごの中に、卵を産みつけてもいいのよ。春になって、あなたの子どもがたくさん生まれたら、私が、あの高原に返してあげる。約束するわ」
 進一の部屋で、良子はカマキリに話しかけていた。カマキリは、虫かごの上部に足をかけ、頭を下にして2本の鎌をかまえ、緑色の太い腹をくの字にたらしていた。哲夫が気持ち悪いと言った腹だ。
良子が妊娠していたとき、哲夫は妻の腹が日ごとに膨らんでくるのを見て、やはり気持ち悪いと言った。
「俺に責任がないと言っている訳じゃないが、普通の人間の姿でもないよな、それって……」
妊娠後期になると、彼はもう良子の体に触れようとはしなかった。哲夫に女がいると気づいたのは、加代の出産を2ヶ月後にひかえたときのことで、女からの無言電話が日に幾度となくかかってきた。
 無言電話は、いつも数分で、かかってきたときと同じように一方的に切れる。しかし受話器の向こうから漏れ聞こえる息遣いで、女だとわかった。それも、間違いなく、哲夫に関係している女。進一を妊娠していたときも、夫は女をつくっていたのだろうかとは、良子が1番先に考えたことだ。たぶん、いたに違いない。それも無言電話をかけたりしない別の女が。
 哲夫と別れて新しい人生を歩むチャンスだと、良子の耳に囁く自分自身の声があった。1日に何度も無言電話と対峙し、1日に何度もこのことを考えた。そして、まるで古井戸から水をくみ上げて、その水が想像以上に澄んでいたことに驚くように、良子は自分の胸の内を理解した。
 哲夫への愛情は冷めているが、哲夫のような男を自分は好きなのだ。彼の生活力あふれた傲慢さと野心。哲夫と別れたとしても、再び同じタイプの男を自分は追い求めることだろう。
 それよりも……と、良子は考える。哲夫の稼いだ金で、彼に懐こうとしない子どもたちを育てるというのは、面白い考えかもしれない。
 ここまで考えて、哲夫のほうから別れ話を持ち出さないのは、彼も妻に対して彼なりの言い分があるのだろうと気づいた。数週間も抱えていた胸の奥のわだかまりが嘘のように消え、笑いだしたいような気持だ。あの電話の女にも教えてやりたい。
「最近、変な電話がかかってくるのよ。受話器をとっても、相手は何も話さなくて、しばらくするとぷつりと切れるの。時々、息遣いは聞こえてくるのだけど、どうも若い女の人みたい。本当に、気持ち悪いわ」
「いま流行りのいたずら電話だろう。おまえも馬鹿だ。そんなのにいちいち相手なんかしているから、向こうもつけ上がってくるんだ」
 口先では平静をよそおっていたが、哲夫が内心ではかなりうろたえたのがわかった。数日後、無言電はぴたりとかかってこなくなった。そして哲夫はその年の冬のボーナスを、家に入れなかった。株の投資に失敗したとかなんとか、彼は言っていたが、お金と引き換えに、あの女も哲夫の築くピラミッドの石組みの一つになったのだと、良子は思った。
 ふと、カマキリの雌は交尾後に雄を食べてしまうという話を思い出して、良子はもう1度、カマキリに話しかけた。
「あなたも、雄を食べたの? どんな味がした?」


   
 哲夫のいない夜は、母と子でもっと楽しい話をしなくてはいけない。 子どもたちの頭の中から、虫のことも父親のことも追い出したくて、良子は不自然なほどに優しい声を出した。
「あのカマキリ、逃がしてやらない? いつまでも、虫かごの中に閉じ込めておくのは、可哀そうでしょう」
「そんなことしちゃ、だめ!」
加代の声には、母親への非難が溢れている。
「えっ、どうしてなの?」
「あのカマキリは雌なんだから、逃がしたりなんかしたら、お庭にいる雄のカマキリが食べらてしまうのよ。そのほうが、もっと可哀そう」
「雌のカマキリは、雄を食べるんだ。それで、あんなにお腹がでかいんだ」
 進一までもが言う。
「さすが、昆虫博士。そんなむつかしいことを、よく知っていたわね」
 母親に昆虫博士と言われた喜びに、進一は言葉を続けた。
「お父さんが教えてくれたんだ。カマキリの雌は、卵を産むときに、雄を食べて栄養にするんだって……。ああ、また虫捕りに行きたいなあ。ねえ、お母さんからも、お父さんに頼んでよ。お父さんはだめだなんて言わないよね。お父さんも虫が好きなんだから」
「加代も、お父さんにお願いしてみる」
進一と加代は、どう言えば父親を説得できるか、口々に喋り始めた。その間、良子は暗い天井を見つめていた。子どもたちの甲高いお喋りも、そのうちに静かになる。そのときを待って、良子はおもむろに口を開いた。
「そうねえ。でも、お母さんは、もうお父さんが虫捕りに連れて行ってくれることは、絶対ないと思うのよ」
「なぜ?」
「どうして?」
 進一と加代は、2人して同時に声をあげた。良子はしばらく沈黙を楽しんでから答えた。
「あのね、カマキリの雌が卵を産むときに雄を食べてしまうように、人間も、お母さんが赤ちゃんを産むときは、お父さんを食べて栄養にするのよ。あら、さすがの昆虫博士も知らなかったみたいねえ。ほんとうの話よ。 進一くんが生まれたときにはね、お母さんは進一くんのお父さんをフライパンでジュージュー焼いてね、塩と胡椒をぱっぱっとかけて食べちゃった。それから加代ちゃんが生まれるときにはね、加代ちゃんのお父さんは、お鍋で大根や人参といっしょにクツクツ煮てね、食べたのよ。進一くんのお父さんも、加代ちゃんのお父さんも、美味しかったなあ。それでね、今度また、お母さんのお腹の中に赤ちゃんができたわけ。実を言うと、今のお父さんも、今夜のご飯にして食べたばかり。さっきのカレーライス、お肉がたくさん入っていたでしょう。今度の赤ちゃん、男の子かな? 女の子かな?」
 進一は小さな握りこぶしで良子の背中を殴りつけ、加代は泣きだした。進一の握りこぶしの痛さに耐えながら、良子は切実にもう1人子どもが欲しいと思った。その子が成長して、進一や加代のように、母親よりも父親が好きだと言い出したら、また子どもを産もう何人も何人も産もう。そう思った。