ヒフティ―・ヒフティ―


    1
 暦はあと数日で、3月に替わるというのに、冷たい風が頬を刺す寒い日だった。空には灰色の大きな雲がいくつも浮かび、風の中には小雪さえ散らついている。しかし、時折りに雲の切れ間から差してくる薄日には、確かに、春のきらめきが感じられた。
 スーパーマーケットからの帰りの仁美の前を、6歳の健斗がマフラーに首をうずめるようにして、子ども用自転車で危なかしげに走っている。
 仁美は大きな買い物袋を自転車の前かごに載せ、もう1つのこれも大きな袋をハンドルにかけていた。そのこともあって、健斗の左右に大きく揺れる子ども用自転車の後ろをついて走っていると、彼女自身がハンドルをとられそうで気が気ではない。
 健斗の子ども用自転車は真新しく、この春に小学1年生となる彼と同様に、どこもかしこもがピカピカと輝いていた。孫の小学校入学を前に、祖父母が早々と買い与えたものだった。
「机やランドセルもいいが、やはり、学用品は親が用意してやったほうがいいだろう。わしらは健斗が飛び上がって喜ぶようなものを買ってやることにしよう。そうだ、いまあんなに欲しがっている子ども用自転車がいいだろう」
 と、健斗を膝の間に座らせた祖父は言った。
 以前の健斗の自転車は、同じ団地に住む子どものお下がりだった。乗りまわすことになんの差し支えもなかったが、彼は子どもなりに肩身の狭い思いを味わっていた。
 祖父母の目論見はみごとに的中した。
 真新しい子ども用自転車は黒色で、5段のギアチェンジレバーがついている。健斗は華高々だった。小学校の入学を前にして、同じ団地に住む同い年の友達の中で、、誰よりも早く1歳年上になった気分だった。
 しかしその真新しい自転車にも、ただ1つだけ難点があった。健斗には少々大きすぎたことだ。サドルを1番低い位置に下げても、彼の両足の爪先は地面にとどきかねる。
 だが、健斗は以前のお下がりの自転車に乗るとは絶対に言わなかった。仁美も近くのスーパーマーケットまで、それも車の通りの少ない裏道を通るのだからいいだろうと、油断していた。
 団地の入り口を前にした小さな四つ角で、健斗はふらふらと道の真ん中に飛び出して行った。
「健斗、ブレーキ!」
 仁美は叫んだが、ブレーキをかけたのは彼女の自転車だけだった。
 前の小さな自転車だと、健斗はブレーキをかける必要がなかった。両足をペタルからおろせば、足の裏全体が地面についたから、ブレーキをかける替わりに彼は両足で踏ん張りすればよかった。
 しかし、その習慣が、新しい自転車では災いした。
 健斗は爪先でちょんちょんと蹈鞴(たたら)を踏むように、道の真ん中に飛び出していった。まるで雀が跳ねているような格好の健斗の後ろ姿を目で追いながら、仁美の足はすくんで前にでなかった。
 キーッ!!!
 飛び出してきた子どもを避けようとして、タクシーの4つのタイヤが鼓膜を突き破るような悲鳴をあげた。そして対向車線に乗り出し、4つ角に建っている美容室のドアの前で停まった。美容室の中から人が飛び出してきた。
 もし対向車が走っていれば、それともタクシーがもっとスピードを出していれば、大きな事故になっていたに違いない。
 健斗は泣きべそをかいた顔で、まだ道の真ん中に立っている。仁美は震える声で、名前を呼んだ。健斗は自転車から降りると、のろのろとそれを押しながら、母親の立っている場所まで戻ってきた。
「すみません……」
 と、仁美はタクシーの運転手に向かって言った。しかし、口の中から声が出ていないことが、自分でもわかる。
 運転手は運転席のドアの窓ガラス越しに、道に飛び出してきた子どもではなくその母親を、瞬きもしない2つの目で睨みつけていた。白いワイシャツに紺色のネクタイ、前髪がかなり後退している。温和なお爺さんといった顔立ちの真ん中の、怒りに溢れた2つの目だけが、別物という感じだった。
 運転手はタクシーのドアを開けた。その顔に、車を降りようかどうしようかと迷っている表情が、浮かんでいる。
 彼の顔の広い額までが朱色にそまっているのが、仁美にも見てとれた。しかし仁美は自分の顔に照れ笑いが浮かんでくるのを、どうしても抑えきれないでいた。事故にならなかった安心感と、この場から少しでも早く逃げ出したい恥ずかしさが、顔と体中の筋肉を緩めてしまう。人目がなかったら、座り込んでしまっただろう。
 「バカ野郎!」
 運転手は半開きのドアから顔だけを突き出して、吐き捨てるように言った。そして乱暴にドアを閉めた。タクシーは停まった時と同じくらいにタイヤを軋ませて、発進した。

    2
 仁美は居間のカーテンを思い切りよく引き開けた。うす暗い部屋が少し明るくなった。
 しかしマフラーもとらずに炬燵で丸くうずくまっている健斗の顔は土気色だ。目の前のお菓子の袋に手を出そうともしない。スーパーマーケットで長い時間をかけて思案し、それでも決めかねて、母親に急かされてやっと買ったチョコレート菓子だというのに。
 台所で、仁美は2人分のホットココアを作った。
 先ほどの出来事を思い出すと、気持ちが昂ぶってくる。冷蔵庫から牛乳パックを取り出そうとして、取り落としそうになった。そしてそれを鍋に移そうとして、ガス台に牛乳の白い染みを幾つも作ってしまった。ガス台はスイッチを3度もひねらないと、点火しなかった。マグカップやスプーンがやたらにかちゃかちゃと音を立てた。
「はい、おまたせ」 仁美は努めて明るい声を出したが、健斗はそれでも動こうとしない。「あれ、炬燵に、電気が入っていないわよ」
 彼女は炬燵のプラグをコンセントに差し込み、スイッチを入れた。そして、健斗の後ろに回ると、まだ首に巻きつけているマフラーを外してやった。母親の手が触れると、小さな肩が動いた。彼は溜め息を1つ吐きだすと、ぽつりと言った。
「僕、地獄に行くのかな?」
「どうして、健斗はいい子なんでしょう」
 やっと暖まってきた炬燵に、仁美も足を入れる。
「さっきは、車にひかれて、死ぬかと思った。こわかった。道に飛び出した僕が、悪かったんだ。僕が死んだら、きっと、地獄へ行くよ」
 健斗は父親似の一重の薄い瞼を精一杯に見開いて、母親の目を覗きこんだ。黒目は黒く、白目は青白いまでに澄んだきれいな子どもの目だ。
「子どもはね、お父さんやお母さんより、先に死んだりしないのよ。だから、そんなことは、まだ心配しなくても、いいの」
 仁美は健斗のココアをかき混ぜてやりながら言った。
「ほんとうに?」
 健斗は母親の目を覗きこんだままだ
「お母さんは、嘘は言わないよ。ほら、ココアが、冷めてしまうでしょう」
 健斗の視線を真正面から受け止めて、仁美は答えた。このくらいの嘘なら、この6年間にいくらでもついてきた。すりむいた膝小僧を撫でてやりながら、「痛いの、痛いの、飛んで行け」と言ってやるのと、たいした違いはない。健斗の黒目の不安そうな陰りが、少し消えたように思えた。
 健斗が地獄にこだわるのには、理由がある。
 まだ50代半ばの若い祖母が、最近、お寺参りに凝っている。休日のたびに、祖父の運転する車で、何か所参りなどどというコースを、走り回っているらしい。「納経帳が、もう、何冊になった」とかいう話を電話で聞いていたら、しばらくして、健斗あてに、宅配便がおくられてきた。
 健斗の喜びそうな玩具やお菓子や瓶詰のジャム、祖母の性格そのままにきっちりと隙間なく詰められていて、その一番底から、薄い本が一冊出てきた。『天国と地獄』というその本の裏表紙には、500円という定価が記されている。祖母がどこかの寺で納経帳に印をもらうついでに、買い求めて、孫に送ってきたのだろう。
 30ページほどのその本は、『天国と地獄』という表題通りに、子ども向けに漫画で天国と地獄の様子が描かれていた。深く考えることもなく、他の玩具といっしょに健斗に与えていたら、健斗は興味をそそられた様子で、いつも熱心にながめていた。
 そしてそのうちに、父や母に、「地獄は、ほんとうにあるのか?」と、しつこく訊き始めた。大人の目から見れば、天国で幸せそうに暮らす善人たちや地獄の責め苦にあえぐ罪人たちの漫画的な顔は、それぞれ表情に乏しくどういうこともなかった。しかし、子どもの幼い頭に地獄の恐怖を植えつけるのには、それで十分だったようだ。
 健斗の地獄への質問が日々に増してくるので、仁美は祖母への言い訳を考えつかないままに、その本をゴミ箱に捨ててしまった。しかしその時には、健斗は『天国と地獄』の内容をすっかり覚えてしまっていた。
「地獄に行ったら、鬼に、大きな包丁で、手や足を切られるんだよ」
 健斗は、チョコレート菓子にもココアにも手を伸ばそうとしない。こんな話題では、子どもでも食欲は減退するだろう。
「それから、大きなお鍋で、骨になるまで茹でられるのよね」 
 健斗に気づかれないほどの小さな溜め息とともに、仁美も言葉を継いだ。
「大きな臼で、人間をお餅みたいにつくんだよ」
「痛そう……」
「針の山だって、痛いよ」
「血の池で泳ぐのも、いい気持ちはしないわね」
「それから、ご飯を食べようとしたら、ご飯に火がついて、食べられないんだ」 
 冷め始めたココアの表面に薄い膜が張っている。仁美はそれをスプーンの先にからめて引きあげた。
「もしね、健ちゃんが地獄に行くことになったら、お母さんは閻魔大王に、『うちの健ちゃんは、地獄におちるような悪いことは、何もしていません』って、言ってあげる」
「嘘だあ。ぼく、いっぱい悪いことしているもん。嘘をついたら、お母さんも、閻魔大王に、舌を抜かれるよ」
「そうか、健ちゃんも悪いことを少しはしているのか。お母さんも、舌を抜かれるのは、いやだなあ。『健ちゃんを返せ』と言っても、閻魔大王がだめだと言ったら……。そうだ、その時は、健ちゃんもお父さんもお母さんも、皆で、地獄に行こう。恐ろしい地獄も、皆で行けば怖くない」
 健斗の食い入るような視線が、仁美から離れた。彼の体がもそもそと動き始めた。
「智也くんと、遊ぶ約束をしていたのを、忘れていた。智也くん、新しいゲームソフトを買ってもらったんだって。おやつは帰ってきてから食べる。ぼくのおやつなんだから、お母さんは食べるなよ。絶対だぞ」
 玄関まで見送りに出た仁美に、「暑い。こんなもの脱ぐ」と言って、ジャンパーのボタンに手をかけ、それを千切れんばかりに引っ張ってはずした。そして脱いだジャンパーを丸めて、仁美に投げつけた。
「こら、お行儀の悪い」
 しかし、脱兎という言葉に相応しく、健斗は飛び出して行った。

   3
 冷めたココアは、口の中で粉っぽくざらついた。そして甘すぎた。
「馬鹿野郎か……」
 仁美は、先ほどのタクシーの運転手の口調を真似て、声に出して呟いてみた。
 仁美は先ほどのタクシーの運転手の口調を真似て、声にだして呟いてみた。健斗が出て行った部屋で、彼女の独り言はむなしく響いた。炬燵に頬杖をついて目を閉じれば、タクシーのドアから突き出した運転手の顔をはっきりと思い出すことができた。禿げあがった前頭部まで真っ赤になって、まるで茹でた蛸のようだった。
 あの時と同じように怒りで真っ赤になった顔を、8年前にも見たことがあると、仁美は思い出していた。8年もたてば、あの時の男がどんな目鼻立ちをしていたか、そんな細かいことは忘れてしまったが、人の顔をまるで茹でた蛸だと思ったと思った印象は、消えずに心の奥底に残っていた。あの男が運転していたのはタクシーではなく、灰色のセメントがこびりついた建設用資材を荷台に積んだトラックだったが。
 8年前、仁美はそのトラックに轢かれそうになった。かろうじて彼女をさけて停まったトラックの運手席の窓から、あの男も真っ赤に染まった顔を突き出して、「馬鹿野郎!」と、吐き捨てるように言ったのだ。
 あの日は、今日とは打って変わって、8月の暑い夏の朝だった。蝉の鳴き声が聞こえてくる緑の多い住宅街、仁美は美容室に向かって自転車を走らせていた。その日の午後には、見合いの席に臨む予定だった。
 見合いの相手の山岡修平の写真に添えてあった釣り書きを読んで、「いい条件でしょう」と彼女の母親は言った。そしてその言葉の響きにちょっと肩をすくめると、「そりゃあ、条件だけで決めるものじゃないくらいはわかっているけれど、あなたの年齢も考えないとねえ」と、言葉を続けた。
 そんな母親の言葉以上のことを、仁美は理解していた。銀行の窓口に6年も座っていたら、いつの間にか、女子行員の中では、彼女が最古参となっていた。昨年は、2人もの同僚が、結婚を理由に退職していった。この春にも、10人にもあまる彼女よりも6歳も若い女の子達が入社してくることだろう。現在、ほのかな好意を感じている男性行員がいないこともない。しかし6年の間には、そのように何人もの男性に好意を抱き、そして恋愛感情まで発展しなかったことも事実だ。
 あの8月の朝、アスファルトの道は銀色に焼けていた。
 通り慣れた道だった。しかし、彼女の自転車は四つ角を右に曲がろうとして、なぜか、思いがけないほどに道の真ん中に飛び出してしまったのだ。考えごとにふけっていて、注意力が散漫になっていたのだろうか。目の前に、トラックが迫っていた。
 悲鳴のようなブレーキの叫びが、仁美の耳の奥にまだ残っている。トラックは対向車線に乗り出して停まった。対向車も後続車もなくて、事故にならなかった運のよさも、今日の健斗の場合とまったく同じだった。そして、停まったトラックの運転席の窓から真っ赤な顔を突き出した男が、「馬鹿野郎!」と、仁美に向かって吐き捨てるようにいったのだった。
 あの時の仁美の、「すみません」という言葉は、こわばった舌にからんで声にならならなかった。茫然と立っている彼女を見捨てて、トラックは乱暴に走り去って行った。事故にあった遺体は、生きている時にはとても出来そうにない不自然な形にねじれていると、聞いたことがある。その日から、トラックの前輪と後輪の間の、自分の不自然な姿の遺体と無残にひしゃげた自転車の残骸が、まるで鮮明な1枚の写真のように、彼女の頭の中に焼きついてしまった。
 その日に見合いをした山岡修平とは、それから3か月後の11月に、年末の仕事重なることのないうちにという仲人の言葉に急かされて、式を挙げた。慌ただしく始まった新婚生活だったが、かまえていた仁美が拍子抜けするほどに上手いった。
 しかし、仁美はもしあの時にトラックに轢かれていれば、この結婚はありえなかったとい思いに、いつまでも捉われ続けていた。修平との生活がうまく行けば行くほどに、誰と結婚してもこの幸福感にそれほどの違いはないのではないかと、思う時もある。
 その思いは、仁美の日常の態度にも無意識のうちに出ていたらしい。初めての妊娠がはっきりした日に、修平が喜びを隠せない顔で、「あの時、結婚式を春まで延ばしていたら、俺たちは、結婚していなかったかも知れないなあ」と、言った。そしてその日を境にして、彼の仁美に対する言動に遠慮がなくなり、彼女を驚かせた。
 それとともに仁美は、人生を石橋を叩いて渡るように慎重に生きようが、清水の舞台から飛び降りる無鉄砲さで生きようが、よいことも悪いこともすべてヒフティ―・ヒフティ―、そんなに案じたものでもないと諦観したのだった。
 それにしても、そんなことすべてを、家事と育児に追われる生活の中で、いつの間にか忘れてしまっていた。今日のことがなかったら思い出すこともなかっただろう。
 部屋の中はすっかり暗くなり、仁美はぼんやりとした物思いから我に返った。壁時計を見上げると、
それは夕食の準備をするために立ち上がらなければならない時間を指し示している。
「馬鹿野郎か……」
 仁美はもう1度声に出して呟いてから、その響きを1人で味わった。そしてすっかり暖まって重たくなった腰を、かけ声とともに炬燵から持ち上げた。

    4
 テレビの画面は、深夜スポーツニュースを映している。風呂からあがった修平は、炬燵の中で遅い夕食をとりながら、目はテレビと夕刊の両方を見るのに忙しい。
 彼は若い頃から白髪が多かったが、それをこの頃になって、禿げる髪質でなくてよかったと安心したように言う。そしてそろそろ職場での昇進も気にかかるらしく、これも時々、口にする。煙草は吸わない。酒も付き合いの席でほどほど、マージャンやパチンコは座り詰めでいるのが嫌だと言ってしない。楽しみは、職場の卓球クラブで汗を流すこと。
 その修平の横で、仁美は健斗が小学校で使うお道具箱を入れる袋作りに、せわしく手を動かしていた。お道具箱の中には、この春から健斗が学校の勉強で使う、数え棒やサイコロやプラスティックのお金が入っている。それらのこまごましたものに1つ1つに、時間をかけて健斗の名前を書き入れ、そして青色の木綿布で、そのお道具箱がすっぽり入る大きさに袋を縫った。
 そして今は、その袋にてんとう虫を一匹、アップリケしているところだった。
 この袋の完成を誰よりも楽しみにしていた健斗は、「もうすぐ、1年生のお兄ちゃんになるのだから、お母さんの言うことには『はい』と返事をしなくちゃね」という母親の言葉に渋々従って、隣の部屋で寝息をたてている。
 アップリケのてんとう虫は、赤に黒い7個の星の模様の羽のか わりに、赤い小花模様の布地を背負っている。子どもの下げる袋の上では、そのほうが本物のてんとう虫よりも本物らしく見えた。
 仁美は黒い刺繍糸で、てんとう虫の4本目の足を刺し終えた後、布をかざしながら、「まるで、絵にかいた幸福そのものね」と、別に修平の返事を期待することもなく言ったあと、「そうそう、今日ね、健斗がタクシーに轢かれそうになったのよ」と、言葉を続けた。
 修平の箸の動きが一瞬止まったが、仁美は気づかなかった。彼女はもう1度針を持ち直すと、今度は5本目の足を刺しながら話を続けた。
 新しい自転車に乗った健斗とスーパーマーケットまで買い物に行ったこと。その帰りにブレーキがかけられなくて、健斗が四つ角に飛び出してしまったこと。そしてタクシーの運転手が禿げ上がった頭まで真っ赤にして、「馬鹿野郎!」と言ったこと。
 「私も足がすくんでしまって……。あの自転車は、健斗にはまだ無理だったのよ。『足が地面に届くようになるまでは、今までの古い自転車で我慢しなさい』って叱ったら、健斗も辛かったみたいで、珍しく素直に『うん』って言ったわ」
 話の間に、てんとう虫の6本の足は全部刺し終えた。布の裏に糸を引き込んで結び玉を作り、残り糸を鋏で切った。
「どう、てんとう虫に見える?」
「自転車のせいなんかにするな。母親のおまえが悪いんだ」」
 修平の怒気を含んだ声が返ってきた。
「えっ?」
 アップリケの出来上がりどころの話ではなくなった。仁美は修平の言った言葉の意味が、しばらく理解出来ないでいた。修平がこんな答え方をするとは考えてもいなかった。健斗の事故は本当は起きなかったことであり、そしてもう終わってしまったことだ。次からは道に飛び出さないようにと健斗を諭してやったら、それで済むことだ。修平もそう言うだろうとしか考えていなかった。
「健斗のような子どもの事故は、その母親が気をつけていれば、防げるものばかりだ」
「そんなこと、言われなくたってわかっているわよ。でも、全部が、母親の責任なんて、そんなことにはならないわ」
「何、言ってんだ。そのために、おまえは1日中家にいて、健斗のそばについているんだろう」
「私に、1日中、健斗にくっついていて、健斗の行く所なら、どこへでもついて行けとでも、言いたいの? そんなこと、考えたって、出来る訳ないじゃないの」
「1日中、くっついていろとは言っていない。子どもの事故を防ぐことが出来るのは、母親だと言っているだけだ」
「そんなこと言ったって、……」
 炬燵の中に入れた仁美の足に、再びあの時の感覚が戻ってきた。四つ角に飛び出して行く健斗に向かって、「健斗、ブレーキ!」と叫んだとき、焦る気持ちとともに、彼女の上半身は確かに前に出ていた。しかし腰から下の神経が切れてしまったように、足だけが動かなかった。両足はまるで2本の丸太だった。
「……、子どもの事故をそんなに怖れていたら、子どもなんて産めない」
 仁美の返事に、今度は修平のほうが返す言葉につまった。しかし彼は言葉の代わりに、こんな単純な理屈がどうして女には理解出来ないのだろうという不満の色を、顔に浮かべた。それで十分だった。仁美は続けて言った。
「人間の人生なんて、フィフティー・フィフティーよ。よいことも悪いことも、同じだけある。そう割り切って考えないと、生きていけないわ」
「たった1人の子どもの生死にかかわることが、そんなに簡単に割り切れてたまるものか」
「親の私たちの問題じゃないわ。健斗の人生は、健斗自身の問題よ。たとえまだ子どもでも……」
「もういい。おまえの言うことは、時々、訳がわからなくなる。おい、熱いお茶だ」
 修平は立ちあがると、見る気の失せたテレビを消した。ニュースキャスターの顔が暗くなったテレビ画面の上で、醜く歪んでから小さく吸い込まれていった。仁美も返事の代わりに、修平の前の空になった茶碗や小皿を乱暴に重ねた。

    5
 汚れた茶碗や小皿が台所に運ばれて、きれいに片づられた炬燵の上に、急須と2つの湯呑み茶碗がおかれた。そしてその急須の突き出た小さな注ぎ口から、湯気が一筋立ち上っていく。急須の熱いお湯の中で、お茶の葉が花がほころぶように開いていく気配までもが、立ち上る湯気とともに部屋に満ちていくかのようだった。
 修平と仁美のとげとげしい雰囲気が、そこから揺らめくように和んでいく。修平が初めに口を開いた。
「言い過ぎたと思う」
 2人の言い争いをここまま布団の中まで持ち込みたくないという彼の想いが、言葉の外に表れていた。仁美は急須を抱くようにして、軽く揺さぶった。
「私だって、本当は、健斗の事故が、一番、怖いわ」
「わかっているよ」
 仁美にしても、せっかく得た妥協を失いたくないのは、修平と同じ気持ちだ。それにしてもと、彼女は修平の湯呑み茶碗にお茶を注ぎながら考えていた。……わかってしまえば、こんな簡単なことだったのか……
 夕食の支度のために台所に立った時から、胸をふさぐように居座っていた疑問が、いま、氷が溶けるように彼女の胸の中で解けて行く。
 先ほどの修平との言い争いの中で、売り言葉に買い言葉で、「健斗の人生は、健斗自身の問題」と、彼女は言ってしまった。しかし言ってしまってから、修平に指摘されるよりも先に、そんなことこの6年間に1度だって考えたことがないことに、彼女自身が気がついたのだ。
……健斗の存在が私にとって、フィフティー・フィフティーだなんて、思いつくことさえなかった。私にとって健斗の存在は、オール・オア・ナッシングだった。そして私の母親としての存在も、健斗にとってフィフティー・フィフティーと割り切れるものだとは、考えたこともない。私が今いなくなったら、健斗のこれからの幸福も途切れるものだと、信じて疑いもしなかった。生まれたばかりの健斗を初めて抱いた日から、トラックに轢かれて血まみれになっている自分の幻影なんて、どこか遠くに消し飛んでしまっていた……
 健斗を産む前の自分は、似非ニヒリストもいいところだったと考え至ると、仁美はこみあげてくる笑いを覚えた。そしてこの笑いの中に、幸福な気分が隠されていてその中に安堵さえ入り混じっていることを、彼女自身認めずにはいられない。修平に気づかれぬように顔を伏せて、お茶を入れることに一心不乱な様子をよそおっていた。
「あっ……」
 急須を傾けている手を止めて、仁美は修平の湯呑み茶碗の中を覗きこんだ。一瞬、洗い落としていないゴミだろうかと思った。それは大ぶりな湯飲み茶碗の中で、まるで大海に浮く木の葉のように身を揉んでいる。長さ1センチに足りないお茶の葉の茎だ。
 仁美は修平を見た。炬燵に両肘をついて、彼は両の指先でしきりに瞼をもんでいる。そういえば、最近、彼は目が疲れやすいとこぼしていた。
 仁美は修平の湯呑み茶碗の入れたばかりのお茶を、自分の湯呑み茶碗に移した。修平は瞼のマッサージに夢中で気づいていない。気づいたところで、彼の性格では別に咎めだてることもないだろう。仁美は修平の湯呑み茶碗に、急須に残っていたお茶を改めて満たし、そしてそれを差しだした。
「はい、熱いお茶」
「ありがとう。あれ、えらく楽しそうな顔をしているなあ」
 気を入れて揉み過ぎたために赤くなった瞼の目を向けて、修平は言った。
「お茶を入れながら、健斗のために長生きしたいなあって、そんなことを考えていたのよ」
「それはいい。人間は、死んでしまったら、お終いだ。いいことも悪いこともフィフティー・フィフティーどころか、いっさい何も無くなる」
「その通りね」
 そのあとに続けたかった言葉を、仁美は飲み込んだ。長生きして、健斗とともに地獄に行ってやらねば。そして閻魔大王に、「健斗を返せ」とかけあってやろう。健斗とそう約束したのだから……。静寂な冬の終わりの夜、修平のお茶をすする音だけが聞こえてくる。
 茶柱が立って欲しいと、仁美は祈るような気持ちでそう願った。それはまだ彼女の湯呑み茶碗の中で、右に左にと踊っている。茶柱が立ったら、人に教えてはいけない。そして願い事を3回唱えて、一口に飲み干すこと。そうすれば、必ず願い事は叶う。少女の頃、本気でそう信じていたことを、仁美は思い出していた。



                                       ・・・・・・了・・・・・