春が来た!


   
 冬の新立川は夏に比べて、水量が目に見えて減っていた。枯れたセイタカアワダチソウが川岸を埋め尽くし、その細い水の流れをますます狭めていた。空き缶やペットボトルやビニール袋の残骸が、枯れ草の根元に絡みつくように散乱している。よどんでいるせいだろうか、かすかにヘドロ臭もする。
 その冬枯れの新立川の土手道を室井秀子は自転車を走らせていた。2学期最後のPTA部会を終えた帰り道だった。
 春にこの町に越してきて、子どもたちの通う小学校のPTA役員を引き受けてからの9カ月、彼女は新立川の土手道を自転車で何度往復したことだろう。通学路の整備、登下校の付き添い、遊具のペンキ塗り、夏い休み中のプールの監視員、行事のたび駐輪場の整理、講演会の人集め、PTA新聞の発行……。
 身長150センチ体重70キロの人並み以上に太った体の彼女だから、お世辞にもその姿はさっそうと自転車を走らせているとはいえない。そんな彼女の頭の中で、小学校を校門を出てより繰り返されている言葉がある。
……PTA役員なんか、来年は、絶対にしたくない。あんな人たちのためになんか、絶対にしたくない……
 力を込めてペダルを踏み込むたびに、その言葉は頭から湧いて出た。それはまるで歌のようにリズムさえ作っていた。
 あと数日すると、子どもたちが通う小学校も冬休みに入る。部会最後の議題に来年度の新しい役員選出があった。まだ数か月先のことではあるが、部長の秀子としては、あとを引き継いでくれそうな人の見当をそろそろつけておかねばならない。
 しかし、退屈な部会もそろそろ終わりに近いという雰囲気が、会議室に満ちていた。誰もが部会など早く切り上げて帰りたがっている。あと10日で今年も終りなのだから、しかたのないことではあるのだろう。挙手もなく世間話の延長のような雑談が始まった。
 誰かが言った。
「室井さんが、来年も部長をしたらいいじゃないの」
 秀子はあわてて否定する。
「PTA役員は順番でするものだと、私が引き受けたときに聞きました。私は来年度も続けてするなんて考えていません」
「働いていなくて、小さい子どももいなくて、介護の必要な年寄りも抱えていない。そういう恵まれた立場の人は続けてやらなくちゃ」
「そうそう、室井さんは適任。PTA役員を自分からしたいなんて言う人、いるわけないでしょう」
「では、本日の部会はこれで終わります。どなた様も、よいお年を」
 誰かが部長の秀子の言うべき閉会の言葉を言った。どっと笑い声が起きる。そして秀子1人を残して、ばたばたと帰って行った。その光景を見慣れてしまうと、もうため息もでない。
 しかしいくらお人よしの秀子でも、見下された悔しさはつのるのだ。去っていく彼女たちの後ろ姿から、「太った体も鈍そうだけれど、心はもっと鈍い」と、言葉にこそされない思いが、矢のように秀子めがけて放たれている。
 確かに秀子の70キロという体重は標準をオーバーしている。彼女は35年前のときも、太目で元気な赤ん坊だった。そしてそのまま成長して、15歳で身長の伸びが止まったときに、体重は70キロとなった。
 しかし自分とまったく同じ体型をした娘を愛するのに、母親は条件をつけなかったし、父親も1人娘を溺愛した。
 そして幼稚園から短大まで一貫教育の学校に通ったので、彼女の体重は友人たちの間では、見なれたものとして受け入れられて、からかいの対象とはならなかった。秀子が色白で可愛らしい顔立ちをしていたせいもある。
 短大卒業後に父親のコネで就職をして、そこでルックスも将来性もピカイチな室井健二と出会った。1年ほど人並な恋愛を経験したのち、同僚たちに祝福されて寿退社した。
 70キロの体重を自慢するわけではないが、「結婚で太った。妊娠出産で太った」と友人たちが騒いでいる中で、なぜか結婚しても妊娠出産しても、彼女の70キロという体重に変化はない。
 2人の子どもたちは母親からは色白と可愛らしい顔立ちを受け継ぎ、健二からはそのスマートな体型を受けついだ。
 そのせいもあって、最近ますます口の利き方が生意気になった6年生の絢美は、「ママは前から見ても横から見ても、同じ体型をしている。走るより転がったほうが速いよ」と言う。しかし2年生の弘樹は「僕のママは、このままでいいよ。プヨプヨしていないと、僕のママじゃない」と、腰のあたりに抱きついて可愛らしいことを言う。
 夫の健二は結婚後もその優しさに変わりはない。妻に無理なダイエットをされて体を壊されるほうが、彼は怖いのだろう。秀子に痩せろと言ったことがない。
 見かけは別としていたって健康であるから、世の中には適正数値というものがあるのなら、自分の身長と体重もそのうちの1つなのだろうと、彼女は納得していた。
 この歳になるまで、明るく笑っていたら、、困った問題はすべて素通りしてくれた。しかし9カ月前、健二の転勤で住むことになったこの田舎町では、その納得は通用しなかったのだ。


   
 今年の3月のことだ。
「この地区近辺の支店統合を任されたんだ。2年の辛抱だよ。必ず、本社に戻れるからさ」
 そんな夫の言葉よりも、2年後に戻ってきたら、そのときは室井の姓を捨てて秀子の実家の養子になってもよいという約束に心惹かれた。それで彼女は街中のマンション暮らしから、半農半漁のY町に越してきたのだ。
 Y町の三方を囲む緑色の低い山は、すべてその頂まで耕しつくされた蜜柑畑だ。その蜜柑畑の山裾が鋭角を持って、海に落ち込んだリアス式海岸の懐深くに、幾つもの小さな入り江がある。穏やかな灰色の海面に、養殖筏が敷き詰められている。
 絵葉書の光景としてみればそれは美しかったが、山の頂まで耕し、小さな入り江の1つ1つに筏を浮かべるために注がれた労力は、この町に住む人の心の余裕を奪ってしまったのではないかと、秀子は思う。
 秀子が初めて経験する田舎暮らしでの人間関係は、生まれてから35年間、自分はいかに優しい父母と友人に囲まれて世間の苦労を知らずにいたかということを、気づかされた始まりだった。
 すべては、子どもたちの通う小学校のPTA役員に選ばれた、4月のあの日から始まった。
 校庭の桜の花はすでに散っていて、出揃い始めた緑色の葉の先が、薄い影を作っていた。足もとの花壇ではモンシロチョウが舞っている。さわやかに吹き通る風の中に海の匂いがする。
 しかし、秀子の太った体は、寒さには強いが暑さには弱い。閉じ込められていた体育館は底冷えがしたが、校庭に出ると、4月半ばの陽射しに汗が噴いた。
 体育館では、先ほどまで、今年度の第一回PTA総会が開かれていた。総会といっても、その目的は役員の選出だ。総務部と学年部、それぞれ20名を選出するらしい。
 この町に越してきたばかりだから、隅で成り行きを見守っていたらよいだろうと思っていたら、いつの間にか、秀子は体育館のまん中に立っていた。
「室井さん、あなたはすでに、役員になることに決まっているから」と、取り囲まれて、口々にそう言われた。
「みんな順番でやってきているのよ。もうみんな役員経験者で、だから、あなたの順番なの」
「大丈夫。みんなやってきたことだから、誰にだって、できる」
「もちろん、みんなでお手伝いするから、心配しないでね」
 その上に、総務部長という肩書まで押し付けられた。
 しかし、あの日から9か月たったいま、あの言葉とそれを言ったあの人たちは、どこへ消えてしまったのだろう。9か月も経てば、さすがのお人よしな秀子にも、PTA役員選出の裏事情が見えてきた。順番というのは建前で、越してきたばかりの秀子に、これ幸いと押し付けたにすぎない。
「太った体もそうだけれど、心はもっとにぶい」
 無言の言葉で、彼女たちはそう言っている。この町で、PTA役員を引き受けるということは、貧乏くじを引かされたの同じことだ。


   
 冷たい北風を正面に受けて自転車のペダルを踏み込みながら、何十回、心の中で叫んだことだろう。
……PTA役員なんか、来年は、絶対にしたくない。あんな人たちのためになんか、絶対にしたくない……
 気がつくと、秀子はスーパー丸栄新立店の自動ドアの前に立っていた。家族4人の食材を買うために、いつも利用しているスーパーだ。頭の中は悔しさでいっぱいだったが、体は主婦としての日常をしっかり覚えていた。
 黄色いプラスチックの買い物籠を取り上げたそのときに、壁に貼ってある手書きの『お知らせ』が目に飛び込んできた。

      『急募』
      食品補充の簡単な仕事です
      午前9時から午後1時まで
                仔細は梶田食品係長まで     

 読み終わると、秀子の頭の中でエンドレステープのように繰り返されていた呪詛の言葉が消えて、今度は別の言葉が生まれた。
……そうだ、私も働けばいいのよ。あの人たちを見返すには、この方法しかない……
 買い物籠をもとに戻すと、スーパーの店内を通り抜け、従業員出入り口から事務所に入った。見えない手で背中を押されてふらふらと歩いているように、周りの人たちには見えたことだろう。そんな自分の行動に秀子自身の言い訳はたくさんある。
……これは決断ではないのよ、ちょっとした思いつき。求人の仔細について、ちょっと聞いてみるだけ。事務所にだれもいなければ引き返そう。そして何よりも、雇うか雇わないかを決めるのは、梶田食品係長という人なのだから・・・…
 煙草の紫煙が霞のようにたなびく、事務所に自分の声でないような声が響く。
「あのう、梶田さんという方はおられますか? 求人の貼り紙を見てきました」
 狭い部屋の中央に事務机を4つ突き合わせて、その1つに座り伝票をめくっていた男が顔をあげた。薄緑色の作業用ジャンパーを羽織った彼が梶田食品係長だった。
 健二を見慣れている秀子には、貧弱な体型の男に見えた。年齢も健二より10歳は年上だろう。
 しかしさすがは客商売で、彼は主婦を相手に喋り慣れていた。秀子を来客用のソファーに座らせると、彼自らがお茶を2つ淹れてきた。それをテーブルの上に並べながら彼は言った。
「9時から1時までの時間帯で、室井さんに不都合はないですかね?」
 ことの成行きに秀子は驚いてしまった。これは世間話などではない。すでに面接なのだ。
「子どもが小学生なので、ちょうどよい時間帯です」
「土日については、毎週休みというのは難しいですが、ローテーションの組み方で、なんとか希望に添えるようにします」
「10年以上前に2年ほどしか働いたことがないのですが、私にでも出来る仕事ですか?」
「大丈夫。ストックや大型冷蔵庫の中にある食品を、店内の陳列台に並べる仕事です。誰にでもできます。しかし見ての通りの小さな店舗だから、室井さんに能力ありと見込んだら、食品補充以外の仕事もお願いするようになるかもしれません。少数精鋭っていうやつですよ」
 梶田は秀子の内心の動揺など無視しているようだ。胸ポケットから手帳を取り出して、言葉を続けた。
「明日、写真付きの履歴書を持ってきてください。そのときに事務所の女の子に、制服やロッカーの鍵について聞いてください。実際に働き始めるのは、5日後の26日からということで」
「それって、採用ということですか?」
「そういうことで、まあ、よろしく」
 事務所を出てあらためて買い物籠を手に持つと、5日後に働き始めるスーパー店内を歩き始めた。
……夫になんと言おうか。母親が突然働きに出ることを、絢美と弘樹に理解してもらえるだろうか……
 今頃になって不安が次々と押し寄せてくる。しかし夕食作りも主婦としての大切な仕事だ。歩きまわりながら、籠の中に肉や野菜を放りこんでいた。
 こうなったしまったら働くしかないと、頭の芯に冷めた部分もある。


   
 制服の支給を受けたのは、初出勤の前日だった。秀子の体に合うサイズの制服は常備していなかったので、本店から取り寄せるのに日数がかかった。
 そのときは初出勤の日があてにならない口約束のように思えて、現実感がなかった。初出勤の朝にはスーパー丸栄新立店は消えているのではないか。
 しかしさすがに制服の支給を受けると我に返る。明日からはスーパーの店員として働くことを、秀子はまだ健二にも子どもたちにも言っていない。
 小学校も冬休みになっていた。
 友達と出かけようとしていた絢美をつかまえて、「ママはね、明日から、働くことにしたのよ」と言うと、一瞬、その顔に子どもらしい驚いた表情が浮かんだ。しかしすぐにいつもの無表情に戻る。
「べつに、私には、関係ないから。ママの好きなようにすれば」
 絢美はそう答えた。この町に越してきて早々に、PTAの役員を引き受けることになったと告げたときも、同じ返事が返ってきたはずだ。そして「どこに出かけるの?」という母親の問いに、「言いたくない」と面倒くさそうに吐き捨てる。
 この年頃の反抗期の子どもはなんと扱いにくいものだろうと秀子は思う。それほどまでに母親に自分の心の内を見透かされるのがいやなのか。しかし秀子は母親としての自信のなさから、娘の態度をいさめることができない。
 母親が働き始めるということを理解するのには、弘樹はまだ幼かった。「ママね、明日から、スーパーで働くのよ」と言ったら、「ママがパパみたいに働いたら、僕のご飯は誰が作るの?」と、泣き顔になって聞き返してきた。
「1日4時間のお仕事だから、お昼過ぎには帰ってくるのよ。心配しなくても、ご飯はちゃんと作るからね」
「うん、それならいいよ。ママ、がんばってね」
 安心した弘樹は秀子の腰に抱きついてきた。そしてそのぷよぷよ感を確かめると、姉に続いて家を飛び出して行った。
 あとは夫の健二の帰宅を待って、彼を説得しなければならない。弘樹にも言ったように、健二が出勤したあとに家を出て昼過ぎには帰って来られるが、給料のこともあるし、何よりも夫婦なのだから、黙っていることはできない。
 その日1日、彼がああ言ったらこう言い返そうかと、秀子はそればかりを考えていた。
「私ね、明日から、スーパー丸栄で働くことに決めたの」
 いつものように遅い夕食をとっている夫にむかって、秀子は言った。その言葉に驚いた健二は目を丸くして言った。
「えっ、おれの給料では、暮せてなかったのか? それとも秀ちゃん、何か特別に買いたいものがあるとか?」
 その的外れな答えに、かえって秀子の腹は据わった。
「来年のPTA役員を断るには、この方法しかないのよ。家事は今まで通りにできるわ。」
「役員の仕事を、楽しそうにやっているとばかり思っていたよ。新しい友達もできたって言っていただろう」
「ちっとも楽しくないし、友達ができたなんて言っていません。明日から、私は働きにでます」
 健二がどう反応するか見当もつかなくて、ずっと不安だった。優しい夫だから怒鳴り散らすということはないと思ってはいたが、鳩が豆鉄砲を食らったような驚きも、また想像していなかった。
 しどろもどろにそれでも妻を説得しようと言葉を探している健二の様子に、秀子は逆に勇気が湧いてきた。自分の人生をどう生きるか、自分で決めるのは、恐れていたほど難しいものではない。
 12月26日、スーパーでもっとも忙しい年末商戦のまっただ中に、秀子は自ら飛び込んだ。


   
 スーパー丸栄新立店で秀子に与えられた仕事は、食料品の補充だった。
 朝9時に出勤して、すぐに豆腐・コンニャク・牛乳を陳列台に並べる。それらは水を含んだものばかりで重い。慣れない力仕事の上に体型からくるハンディーで、人1倍作業に時間がかかっている。そんな後ろに新入りパート従業員の仕事ぶりが気になるらしい梶田係長が立つ。
「室井さん、もう少し、手早く出来んかな?」
 そう言いながら、彼は食品補充のお手本を自ら実演してくれる。1リットル入り牛乳パックを片手で2本ずつ持ったり、豆腐のパックも両手で同時に6個もわしづかみにする。
 しかしいくら真似したくても出来ないこともある。梶田が小柄な男であっても女の秀子よりは腕力があるのだ。秀子は顔を伏せたままで、「頑張ってみます」と申し訳なさそうに言うしかない。しかし胸の内では「4月までの辛抱だ……」と呟き、梶田係長のため息をやり過ごす。
 そのうちに彼を呼び戻す事務所からのアナウンスが店内に響く。開店前のスーパーは戦場だ。係長がいつまでも新入りパート従業員の後ろに立って、その仕事ぶりを監督していられる訳がない。 この時間だけをなんとかやり過ごせば、あとは時間の流れに乗って、自分のペースでやれる。
 無我夢中で働いて正月を迎え、1月も半ばとなればおのずと、秀子にもそういう知恵はついてきた。
 開店すると、今度はスーパー裏口に次々とやってくるトラックから降ろされる食品の補充だ。「これはあそこに、あれはここに」と先輩従業員に言われるままに、秀子は午後1時まで店内を走りまわる。
 仕事中は忙しさを感じない。太った体を見つめられて、「仕事が遅い」と言われると、そのときは気分が落ち込むが、それは一瞬のこと。先輩従業員たちと食品補充という目標にむかって体を動かしていると、こんな自分でも必要な存在だという高揚した一体感をおぼえた。
 仕事中の4時間は、いやなPTAのことも反抗期の絢美の棘を含んだ言葉も忘れられた。体は疲れるが仕事を終えたときの充足感は、この10年間の家事労働では感じられなかった爽快さだ。
 作業能率の悪いのは、陰日向のない勤務態度を示すしかない。秀子がこの仕事に向いていないのであれば、それは梶田係長から切りだしてくることだ。新しいPTA役員が選出される4月までは頑張ろう。その前に解雇を言い渡されたときは、それはそれまでだと思うと気が楽になった。
 仕事に体が慣れてきた。30代の自分の体は、この仕事についていけるほどにまだ若いのだと思えた。
 その朝出勤すると、事務所のドアから顔だけを出した梶田係長が秀子を呼び止めた。
「室井さん、ちょっと来てくれる?」
「はい」と答えて小走りになったものの、解雇という言葉が頭に浮かび、不安が胸をよぎる。解雇という言葉に不安になるのは、働くということに欲が出てきたということなのだろうか。あれこれと考える彼女の顔に緊張が表れていたようだ。
「そんな恐い顔をせんでも」と、椅子に座ったままで梶田係長は言った。そして手に持っていた薄い紙きれをひらひらと振って見せた。
「はい、ご苦労さんでした。今月の給料明細。室井さんは先月の月末から働き始めたばかりだから、少ないよ。でも初給料には違いないから、とりあえずはおめでとうさん。これからも頑張ってな」
 渡された給料明細書を押し頂くと、そのまま秀子はぱたぱたと廊下を走り、ストック用の大型冷蔵庫の中に駆け込んだ。冷蔵庫の中には、陳列台に並べきれなかった牛乳や豆腐やその他の食品が山積みされており、湿ったさまざまな臭いがこもっている。その上で裸電球が1つ薄ぼんやりと灯っている。
 いつも寒くて、扉を開けるのさえいやな冷蔵庫だった。しかし天井に取り付けられた冷却機から吹き付ける冷たい風が、このときばかりは火照った頬に気持ちよかった。
 2つ折りになった紙きれのミシン目を破った。てっきり解雇通知だと思ったので、まだ動悸がする。暗いがそれでも小さく印字された金額が読めた。
 世の中には経験してみて初めて、「ああ、そうか」と実感できることがある。頑張った代償を金銭であがなってもらうということは、こんなに嬉しいことだったのか。たった10年ほど家の中にいて健二に養ってもらう生活をしている間に、働いて金銭をもらう喜びを忘れていた。給料明細書を再び2つ折りにして制服のポケットに入れたら、そこが誇らしげに膨らんだ。
 豆腐を並べる手が弾んでいる。初給料の喜びは、秀子の全身から立ち上っていたようだ。梶田係長のではない軽やかな足音がして、彼女の後ろで止まった。
「室井さん、仕事はマイペースでね。係長の言うように働いていたら、体を壊すわよ。みんなも適当にやっているんだから」
 初給料の日に初めて同僚から励ましの言葉をかけられた。


   
 秀子がスーパー丸栄で働き始めたことは、当然ながらPTAの間でも知れ渡った。
 その中でも、次年度の役員を再び秀子に押し付けて、自分たちは逃れようとたくらんでいる者たちにとっては、気になってしかたのないことであるらしかった。スーパー丸栄に秀子の姿を求めてやって来る者もいる。買い物ついでに彼女の仕事ぶりを偵察しにくるのだ。
 食品補充に追われていると、「室井さん」と背後から声をかけられる。振り返ればPTAで見知った顔があって、その顔には「あんたに、こんな仕事が続くわけがない」と書いてある。あからさまに皮肉を言われるときもある。
 秀子も、身長150センチの体を精一杯伸ばして答える。
「私も働いていますので、もう、忙しくって」
 この10か月ずっと一方的に聞かされていた言葉をそのまま返しているだけだが、相手の顔に浮かんだ悔しそうな表情を見逃すことはなかった。
 これが『見返す』ということなのかと思った。そして言い返す言葉に快感を覚えている自分自身に少し驚く。
 その日の遅い夕食時間、健二は、鶏肉から揚げ餡かけに箸を伸ばしては引っ込めるということを繰り返していた。
 大皿にレタスを敷いて、トマトやキュウリを添えても、鶏肉のべたべたした脂っこさと濃い味付けは誤魔化しようがない。秀子が働き始めて、室井家の夕食の献立が少し変化した。
 メインの一品がスーパー丸栄で買った総菜であることが多くなった。パート仕事であるから、主婦の日常の半端な時間をやり繰りすれば、家事にしわ寄せはこないと思っていた。しかし立ち仕事で疲れた体のことを考えれば、1日4時間の仕事でも、子どもたちが学校に行っている間の暇つぶしとはならない。
 それでついつい出来合いの総菜が食卓に並ぶようになる。ファーストフードに慣れた子どもたちに抵抗は少ないようだが、健二はこの出来合いの総菜が食卓に並ぶことには不満だった。
 しかし彼は優しい男なので、ストレートに妻の献立文句を言うことは、夫の沽券にかかわると思っている。
「弘樹も絢美も、母親不在で、この2か月、寂しかったに違いない」
 子どもたちの名前が出たので、秀子は隣の部屋に視線を移した。風呂上りでパジャマに着替えている子どもたちは、テレビのお笑い番組を見ていた。いや、お笑芸人のダジャレに声をあげて笑っているのは弘樹だけで、絢美の後ろ姿は緊張している。両親の話が気になるのであれば、、素直にこちらを向いて話に加わればよいのにと、秀子は思う。
 健二はまだ喋り続けていた。
「もうすぐ、PTAの最後の部会があるのだろう? 確か、働くのはそれまでだと言っていたよね?」
 その問いかけに秀子は答えられなかった。近頃の彼女は自分がなんのために働き始めたか忘れている。仕事がおもしろくなり始めているのだ。突然、絢美がこちらに向きなおった。
「パパ、絢美はママが働いていたって、ぜんぜん、寂しくなんかない」そして慌てた健二が口を開くよりも早く、次の言葉を続けた。「だから、ママの好きなようにさせてあげて。働いているママは、今までのママとは違う人みたい。毎日、ママは楽しそう。絢美は、そんなママが好き」
 娘の言葉に、箸でつまんでいた2個目の鶏肉を、健二は取り落とした。じわっと溢れてきた涙で、秀子の視界が曇った。


   
 新立川の土手沿いの道にも、春が来ていた。ヘドロの川だと思っていた水面が、明るい陽射しにきらきらと輝いている。
 何度も通った道だったが、今日初めて、桜の木が植わっていることに気づいた。薄青い早春の空を背景に、木の枝が思いっきり手を広げている。その先の膨らみは、無数の蕾だ。
 まだ冷たい風が秀子の頬を撫でる。それが心地よい。この1年、ずっとうつむいて淀んだ川面ばかりを見ながら、自転車でこの道を走っていた。しかしこうして顔をあげれば、嫌いだとばかり思っていたこの田舎町も、まんざら捨てたものではないと思えてきた。
 今年度最後のPTA部会はさきほど終わった。議事に図る案件もなければ決定しなければならない議題もない。慰労会を兼ねた簡単な茶話会だった。
 そのせいか、この1年で役員の出席率が1番よかった。しかしもうそんなことでは、秀子の気分は落ち込んだりはしない。彼女の留任を話題にするものはもう誰もいなかった。『PTA役員を経験して』という、PTA新聞に載せた秀子の投稿文をすでにみんなは読んでいるのだろう。
 この町に越してきて、訳もわからずに押し付けられてPTA役員となり総務部長となった経緯を、彼女は正直に書いた。それから専業主婦だった立場からスーパーで働くようになり、PTA役員と仕事を両立させる大変さも書いた。
そして最後には、「PTA活動と主婦が仕事を持つということ、そのどちらの大変さも充実感も、実際に経験してみないとわからない。そしてその経験こそが、自分を成長させる」という言葉で締めくくった。
 PTA新聞の原稿という形をとりながら、それは自分の足で自分の人生を歩み始めた自分自身への手紙でもあった。書き終わって気づいた。太った体を上から下へと見下ろされ、「体も鈍そうだけど、心も鈍そう」と言われたときの悔しさは消えていた。
 
この最近、スーパーの制服が緩くなったような気がしていた。ダイエットの神様がどうやら彼女の前にその姿を現したようだ。神様の前髪をつかんだのだから、絶対にこの手は離すものかと彼女は思う。
 自転車のタイヤが小石に乗り上げて、秀子の体は軽やかにサドルの上で跳ね上がった。





                                              (了)