母の幽霊


  
 その朝、我が家に、母が宅配便で届けられた。
  人を亡くした寂しさも慌ただしさも少しは落ちついたと思われる頃、蜜柑箱2つ併せたほどの大きさの段ボール箱を、弟のお嫁さんである智子さんが私宛に送ってきた。
 この数年、更年期からくる耳鳴りに悩まされていた私にも、「暑い夏は、昨日で終わりました。今日から、きっぱりと秋ですよ」と、風のささやく声が聞こえるような、そんな9月の終りの朝だった。
 その朝の空の色と同じ清潔な青いポロシャツを着た背の高い宅配便の若い男の子は、「朝早くからすみません」と言いながら、軽々と抱えたその段ボール箱を玄関の上がりかまちにひょいと置いた。私も「お世話になりました」とサインしながら、智子さんの流麗な筆跡でしたためられている送り状を読んだ。
 中身は『衣類』となっている。
 その段ボール箱を軽々というのは、痛む五十肩を持った私の場合は無理だった。それでも「よいしょ」と掛け声をかければ、廊下を通りぬけて座敷まで運び込むことができる。
 それはそのくらいの重さだった。
 だからその中に人が1人潜んでいたとは、宅配便の男の子もそして荷造りした智子さん自身も思いもよらなかったことだろう。
 忙しい合間を縫って荷造りをしてくれた優しさに少しでも応えたいと、段ボール箱に貼られた送り状を、時間をかけて丁寧にはがす。それから段ボール箱の口をしっかり留めているガムテープを、びりびりと一息に引きはがした。
 『衣類』とあるその中身については見当がついていた。


  
 数日前の電話で「やっと、約束のお義母さんの形見の品々、送ることが出来るから……。和恵さんの手元においてもらうのが、1番いいと思うのよ。遅くなってごめんなさいね」と、そう聞かされていたからだ。
 しかし母の形見の品々の1番上に、母自身が入っていたなんてことは、想像外のことだ。
 くしゃくしゃと丸められて詰め込まれていたのか、それともきっちり折りたたまれていたのか、わからない。
 浦島太郎が開けたという玉手箱のように、ゆるゆると立ち上る白い煙に包まれて、母は開けた段ボール箱の中からその姿を現した。
 そして驚いて座り込んだまま声を出すことも出来ない私を振り返ることもなく、勝手知った娘の家の中をすたすたと歩き始め、座敷と続きになっているリビングに入っていく。
 母はソファーのひとつに腰をかけた。
 テレビのまん前を少し斜めに避けたその場所は、我が家に来るとなぜかこういう些細なことで遠慮した、生前の母の定番位置だ。
 20年前にその場所で母は、まだ小さかった孫たちを膝の上に乗せてあやした。
 そのうちに祖母の膝の上に乗れないほどおおきくなり生意気な口をきくようになった子どもたちは、学校カバンを振りまわしながら、そこに座っている母に「おばあちゃん、来てたの?」と一瞥をくれるだけとなった。
 それは母をとても寂しがらせた。
 しかしそれでもまだましだったのだ。その後、進学に就職にと子どもたちが出ていくと、この家は夫と私の2人住まいとなってしまったから。
 それでも年に数度、母は律義に私の家にやってきた。
 そして夫が夜遅く仕事から帰ってくるまで遠慮することもないと知っていながら、母の座る場所は変わることなくそこだった。
 懐かしいものを見るように、部屋の中を見回している母の横顔が見える。ほんとうはその母が1番懐かしい存在なのに。そのことを母の横に座って告げたい。
 しかし母の存在など気づいていないふりをして、私は段ボール箱の中身を確かめ始めた。
『衣類』と書かれた段ボール箱の中身は、生前の母が趣味としていた編み物に関係したものだ。


  
 母は若いころから編み物が上手だった。寒い季節になると、コタツの中で編み棒を手放さなかった人だ。
 若かった父も子どもだった私も弟も、冬になると母の編んだセーターを着せられた。
 しかし老眼を気にし始めた頃から同時に根気も失われたようで、自分のものを編むのに精いっぱいとなり、そしてこの10年近くは編み棒を持っている姿を見るのはまれになった。
 藤色の縄編み模様のセーターやベージュ色の穴あき模様のカーディガンなど、段ボール箱に詰められたそれらを1枚1枚取り出して畳の上に広げた。
 数多く編もうとか、編み物をすることを家計の足しにしようとか考えていなかった母だから、色も美しく手触りもよい毛糸で、どれも丁寧に編まれていた。
 それらを身にまとっていた母を思い出す。段ボール箱から解き放たれた母の思い出が、部屋の中に満ち溢れる。
 そして段ボール箱の底からは、母の愛用していた編み棒と、何冊ものデザインブックと、『編み物記録帳』と懐かしい母の字で書かれた大学ノートが3冊、そしてたぶんこれから編もうと思い用意していたものらしい新しい毛糸玉もいくつか……。
 竹で出来た編み棒は、長年の使用で艶のある濃いあめ色に変色していた。 デザインブックは物持ちのよかった母を忍ばせて古いものだ。本の角が擦り切れて折れ曲がっている。
 『編み物記録帳』と書かれている大学ノートは、編んだセーターやらカーディガンの製図や使用した毛糸の種類などを書きとめて、覚え書として使っていたらしい。
 3冊のノートそれぞれに違う紙質で、母が編み物とともに過ごした時間の長さが偲ばれた。
「私も、編み物をしたくなったわ」
 しかし私の独り言に母の返事はなかった。
 最後に半透明なナイロン袋が出てきた。かなり古いもののようで、長い年月にしなやかさを失ったそれは、段ボール箱から取り出すときに、私の手の中でかさかさと音を立てた。
 その枯葉を踏みしだくような音に、母が反応した。
 長い旅から戻ってきた人のように、部屋のしつらえを懐かしそうに眺めていた母が、体をひねってこちらを見返したのだ。
 最近は望んで眠りについても、夢の中になかなかその姿を現さない母の顔が、そこにあった。
「お母さん、これが気になって、それでうちに来たのね」
 母は立ち上がりそして頷いた。
 ナイロン袋の中からは、とっくの昔に気化して匂いも抜けた防虫剤の包装紙と、紺色のセーターが出てきた。
 セーターはずいぶんと古いものだ。
 紺色の毛糸は所々色落ちして、染みがついたように茶色く変色している。強く引っ張ればそこから糸は切れてしまうことだろう。 戦後の右肩上がりの経済成長の中で大きくなった私にもわかった。これは50年以上もの昔、物資も少なくまた何につけ質のよいものが手に入りにくい時代の毛糸で編まれたものだ。
 広げてみて、その大きさですぐにこれは男物のセーターだと知れた。
  着丈や袖の長さから推しはかって、背の高い大柄な男性のものと思われた。小柄だった祖父や父のものではなさそうだ。
 そして家族の衣類の管理が仕事でもある主婦をしていれば、私にもわかる。このセーターは水をくぐっていない。
 つまり丁寧に編み上げられていながら、袖を通されていないのだ。編み上げたものの何らかの事情で、着てはもらえなかったのだろう。
 細い毛糸で、二目鹿の子模様にかっちりと編まれていた。防寒にむいている厚みのある模様だ。
 しかしそのぶん、編みあげるまでの手間はかかったことだろう。その編み目に喜んで着てもらえることを考えながら編んだのだろうと思わせる、愛情が感じられる。
 しかしながらこの古いセーターを私にどうせよと、母は言いたいのだろうか。
「いったい誰のセーターかしらね? 私には見当もつかないわ」
 紺色のセーターを懐かしそうに見つめている母に、私は言った。
 気づかぬ間に、母は物言わぬまま私に寄り添っていた。母の視線がゆっくりと段ボール箱の横においてあった『編み物記録帳』へと移る。「それで調べてみて」と、母の目は言っている。
『編み物記録帳』にはセーターなどの製図・模様編みの種類・ゲージ・使用編み棒号数・使用糸の名称とその使用グラム数、そして編み始めと完成年月日が、見開き2ページを使って記入されている。
「こうして書き残しておくと、次に編むときの参考になるんだよ」と、母から聞かされたことがあった。
 1番古いノートはきめの粗い粗悪紙を束ねたものだ。そのうえに薄い鉛筆書きなので読み取りにくい。
 それでも指を折っ確かめてみると、そのノートの始まりは、母が15歳のときに編んだマフラーからだった。15歳の母の字には初々しさがある。
 さっそく、メジャーで紺色のセーターの胸周りと着丈と袖丈を測る。
しかし2目鹿の子編みという模様と寸法で、ノートの中から当てはまる記録を探し出すのは、時間のかかる作業だった。
 座り込んでしまった座敷であっというまに時間は流れ、「これに違いない」とやっと探し当てたときは、すでに正午が近かった。
 このセーターが編まれたのは、父と母が結婚したという日に近く、私が生まれた前の年だ。
 見合い結婚だったという両親の出会いを思い出した。
 結婚前に母が父のために編んだものの大きくて着てもらえず、思い出として大切にしまっておいたものだろうかと想像した。
 いっしょにノートを覗き込む母の目も、このセーターに間違いないと言っている。
 しかし古いセーターと『編み物記録帳』の書き込みとが一致しても、それが誰のために編まれたものなのか、肝心の名前がない。これからどう推測していけばよいのだろう。
 我が家に現れた母の幽霊は足があっても、声はないらしいということにやっと私は気づいた。


  
 その夜、智子さんにお礼の電話をかけた。
「手間がかかったでしょう、ほんとうにありがとう。嬉しかったわ。段ボール箱を開けたとき、母が入っているのかと思ったくらいに」
 その母は相変わらず、リビングの定番位置に座っている。
 その横では風呂上がりの夫がテレビを見ていた。2人とも手を伸ばせば触れるほどの傍にいるが、お互いの存在には無関心でいる。
 智子さんは私の言葉を冗談だと思い、電話口の向こうで声をあげて笑った。
 「セーターやカーディガンは、和恵さんがほどいて編みなおすのもよいし、お母さんの思い出としてそのまま残しておくのもよいし。どちらにしても、和恵さんの手元に置いておくのが、1番いいことだと思うのよ。お母さんもそれを望まれていたと思うから」
「そうさせてもらうわ。どれも私には小さくて、着られそうにないから」
 母の手編みのセーターを着ることができないのは残念だった。父も母もそして弟も小柄だった。なぜか私1人だけが、背も高く手足も長い。
「和恵は、よく食べるから」とも「祖父方に大柄な人がいた」とも聞かされて育った。そう言って気を使われるほどに、家族と体型が似ていないという事実は、子どものころの私に疎外感を与えた。
 しかし50歳も過ぎれば、そういうことも多感な子ども時代の些細な感情として忘れていた。母の形見に袖が通せないということで、忘れていたこと思い出した。
 荷造りの労をねぎらい、母の思い出からお互いの家族の近状へそしてまた母の思い出へと、女の長電話は話題がつきない。
 だがあの紺色の男物のセーターの話は、智子さんの口からは出てこない。やはり毛糸や編み棒と同じく母の形見の1つでしかないのだろう。
 やっと別れの言葉の出番が来て受話器を置こうとしたとき、「あっそうそう」と何ごとかを思い出したらしく、彼女は言った。
「和恵さん、藤原さんっていう男の人、知っている?」
「藤原さん? さあ……」
「お母さんに暑中見舞いを頂いて。それで亡くなったことをお知らせしたら、わざわざ家まで、お焼香に来てくださったのよ。なんでも、昔のお母さんのお知り合いなんですって。ちょっと待ってね。仏壇に置いてある葉書をとってくるから」
 受話器からオルゴールのメロディーが流れてきた。弟の家の磨きこまれた細くて長い廊下を思い出す。
あの廊下の先は母の部屋に繋がっている。母を電話口に呼び出してもらった日々を思い出した。
 単調に流れていたメロディーが途切れた。
「ええと、お名前は藤原昌彦さん。あの年代の人にしては、背の高い体格のよい人だった」
「母が若いころに銀行に勤めていたという話は聞いたことはあるけれど。その頃の知人となると、私も知らなくて……」
「本当にねえ。もう50年も昔の話でしょうから」、そして智子さんは葉書に書かれている住所を読み上げた。「あら、偶然ね。和恵さんと同じM市よ。お逢いすることあるかしら。そのときは、お焼香のお礼を言ってくださいね」
 そして電話は切れた。
 私は電話機の横においてあるメモ用紙に『藤原昌彦』と書き込み、それから智子さんから聞いた住所と電話番号も書き足した。 同じM市といっても人口50万人の地方都市の北と南では離れすぎている。バスも乗り換えなければたどりつけない。偶然に同じ町に住んでいることにはなるが、すれ違ったことさえないだろうと思えた。
 テレビを見ていたはずの母がこちらを見ている。その目はもの言いたげだ。
「お焼香のお礼に、お伺いしなくちゃね」
 私がそう言うと母は微笑んだ。その母の顔を見て確信した。あのセーターは藤原昌彦のために編まれたものに違いない。
「誰と話しているんだ?」 夫もこちらを見て怪訝そうに聞いてきた。
「いいえ、独り言……」
「独り言が多いのは、歳をとった証拠だぞ」
 風呂上がりのビールを口に運びながら、夫は意地悪なことを言う。


  
 その夜から数日考えた末に、昨日、藤原昌彦に電話をした。
  相変わらず母の幽霊はリビングに居座っていた。その所作はのんびりとしていて別段急かすこともなく、しかし紺色のセーターの主に私が会うまでは居続けるつもりでいるらしい、固い決心だけは伝わってくる。
 母の希望を叶えれば、母の幽霊はその姿を消すだろう。いつまでもこの家にいて欲しくもあった。
 しかしそれは一言も話さずにただ座っているだけの母にも、そして私にもきっとよくないことに違いないとそれだけはわかっていた。
「今から、藤原さんっていう人に、連絡をとってみようと思う」
 そう言うと、私を見つめていた母が嬉しそうに微笑んだ。
「……、お嬢さんがいらっしゃるとは聞いていましたが、なんと同じM市内とは……」
 簡単な私の自己紹介に彼は心底驚いたような声をあげ、そして言葉を続けた。
「それで、なんでこちらまで?」
 訪問の真意を訊かれたのかと思った。とっさに答えることができなかった。「母の幽霊が、あなたに会うようにと言っています」とは、いくらなんでも言えるわけがない。
「遠方を、わざわざご焼香に来ていただいたお礼に」という言葉は頭の中に用意していたが、とってつけたようにも思えたので、なめらかに口からは出てこなかった。
「えっ、……」
「乗用車、それともバス?」
 藤原正彦は、交通手段を訊いたのだ。
「あっ、バスでお伺いしようと思っています」
「それだったら、バス停で降りて引き返したすぐの通りだからね。藤原不動産という看板が出ているから、それを目印にしてもらうとわかりやすいかな。ああ、退職後に始めた小さな事務所で、今はもう閉めてはいるんだが、看板だけは残っているんでね」
 道順を説明する声が優しそうなので、ほっと胸をなでおろす。
 彼も母とそう変わらぬ年齢だ。とっくに実社会からはリタイヤしていて、時おりの訪問者を待ち望む人恋しい毎日を過ごしているのに違いない。でなければ、昔の勤め先の同僚ということで、母の位牌に焼香するために山深い田舎まで出向いたりはしないだろう。
 私はあえてそう思おうとした。
 母の幽霊がいくら望んだとしても、菓子折り1つを手土産に見知らぬ男性を訪ねる無謀な計画に、腰をあげるのは気の重いことだった。


  
 生前は足が少し不自由だったという私の心配をよそに、母の幽霊は乗り継ぎで降りたバスターミナルの人ごみのなかを、迷うことなく歩いている。
 2度目に乗り込んだバスの中は先日までの冷房が切られていて、走り始めると開け放した窓から吹き込んでくる爽やかな風が、頬に心地よい。
 まるで遠足に出かけた子どものように、私の隣に座った母は車窓の風景を眺めていた。しかし私には見えるその姿が、他の乗客に見えてはいない。
 乗り継ぎのバスを降りて気持のよい陽射しの中を歩くこと5分、藤原不動産は家の建てこんださほど広くない通りに面して建っていた。
 昨日、彼から電話で聞いたとおりの店構えだ。民家の玄関先を改築した小さな事務所だ。目印にするようにと言われていた看板は、所々ペンキがはげ落ちている。
 出入り口のガラス戸に、以前は物件案内が何枚も貼られていたのだろうが、閉店したいまは白いカーテンが引かれているだけだった。
 しかしそのカーテンが少し開いているのは、私の訪問を待っているということだろう。
 その隙間から興味津々に中を覗いていた母が振り返った。「ここに、間違いないよ」と、その目が言っていた。
「ごめんください」
 そう声をかけて、私はガラス戸の引き手に手をかけた。
 すぐに聞こえると思われた返事がなくて、初めは留守かと考えた。
 しばらく待たされたのち、事務所と家を仕切る布製の衝立の蔭から、スーパーのビニール袋をぶら下げた藤原昌彦が現れた。
「ああ、いらっしゃい。これは驚いた。若いときのお母さんにそっくりだ」
 50代の私が、20代の母にそっくりというのはありえない。多分のお世辞の含まれた言葉だ。母に似ていると言われて育たなかった私は返事に詰まった。
 しかし初めてみる彼の顔に呆然と見入ってしまったのは、その顔の上に言葉を失わせるほどの懐かしいものを見つけたからだ。
 舅を見送ってからは久しく、父も他界してからすでに10年たっている。この年代の男性と顔をつき合せたのは久しぶりのことだった。
 八の字に垂れ下った眉、眼尻の深いしわ、鼻梁の尖り具合、その顔には当然のごとく老人特有の特徴が刻まれていた。生前の舅をそして父を、その顔の中に思い出したとその時の私は思った。
 母の幽霊と過ごした数日で、現実の時間の流れから少し離れた異世界に、私は足を踏み込んでいたのかもしれない。
 言葉を失った私にかまうことなく、彼は手にぶら下げていたビニール袋を目の高さまで持ち上げて、言葉を続けた。
「おもてなししようにも、最近の若い人の口に合うものがわからなくてね」
「突然に押しかけてきたのは私のほうですから、どうかお構いなく。それに私はもう若くありません」
 しかし彼は言った。
「いいや、僕から見たら、羨ましいほどにお若い……。まあ立ち話もなんだから、腰かけて待っていてください。お茶をいれてこよう」
 事務所に置かれた応接セットを私に指示し、スーパーの袋をがさがさいわせて、彼は奥にあるらしい給湯室に引っ込んだ。それからお盆を持って衝立のこちらとむこうを何度も行き来した。
「あれはどこにしまったかな?」と、茶器のありかを探しているらしい独り言が聞こえてくる。
 そんな藤原昌彦の後ろ姿を、私はこっそりと目で追った。
 短く刈り込んだごま塩頭、地味な灰色の長袖シャツに茶色の薄手の上着とズボン。
 彼が後ろ姿を見せるたびに、私は彼の着丈・肩幅・袖丈を目で計った。今は鶴のように痩せているが、若い頃はもっと肉付きがよかったかもしれない。しかし寸法だけでいうと、あのセーターは彼の体型にあっている。
 レース模様のクロスがかけられたテーブルに、お茶とお菓子が3人分、ぎこちない男の手によって並べられた。
「こちらはお母さんの席ということで……。あなたと僕を引き合せてくれたのも、きっとお母さんのご配慮があったからだと思います」
 藤原昌彦に母の幽霊が見えているのだろうかと思い、少し慌てた。しかしそう訊ねるのはためらわれた。自分の前にまで並べられたお茶やお菓子に、母は嬉しそうだ。
「やあ、すっかり待たせてしまったね。それにしてもお母さんは突然のことで、ご家族のみなさん、お寂しくていらっしゃることでしょう。僕が訪ねたりしたものだから、かえってご迷惑をかけてしまったのではないかと……」
「いいえ、母も喜んでいると思います。ご遠方をありがとうございました。弟嫁が、同じM市内に住んでいらっしゃるのだから、どうしてもお礼に伺って欲しいと申しまして。あのう、母とは昔、職場が同じだったとか」
「そうです。かれこれ50年も昔に、銀行の小さな支店の窓口で、先輩後輩の関係で机を並べていました。あの頃のお母さんは仕事も人一倍にこなし、また誰にでも親切で……弟さんのお嫁さんにもあの時お話したことなのですが、僕はあなたのお母さんにひそかに憧れていました。
 あっ、こんな話は、実の娘さんには不愉快でしょうか?」
「若いときの話をあまりしない母でしたので、そういう話は私には初耳です。今日はよい機会ですので、いろいろ聞かせてもらおうと思って、楽しみにお伺いしました」
「あはは……、そう言ってくれると嬉しいです。当時の僕は学校を卒業したばかりの、お母さんと同い年の頼りない若造でしたからね。お母さんには公私にわたっていつも叱られてばかり、僕の切ない気持など少しも伝わっていないようでしたねえ。お母さんはそのうちよいご縁があって、よい男性と結婚されました。それでこんなにいいお嬢さんが授かったのだから、よかった、よかった」
「それで母とは再びどのようなご縁で? なんか尋問しているみたいですね」
「お母さんは結婚を機に退職されましたが、男の僕は定年まで、あちこちの町に異動しながら勤めていまして。退職の時に、奇特な同僚が同期の古い名簿を整理して、あちこちに配ったようです。それを見たお母さんから『懐かしく思い出した』という内容のお手紙を頂いたのです。それからは季節の変わり目ごとに、ちょっとした挨拶文を交わすというか……」
「ああ、そうだったのですか。それで疑問が解けました。でもあの世で母は今頃、噂話にくしゃみしているかもしれません」
 そう言いながら、私は座っている母を見た。
 母の幽霊は話もしないがくしゃみもしないものらしく、私と藤原昌彦を交互に見やっては2人の話に聞き入っている。
「亡くなった人は、こうして思い出してあげることが1番の供養といいますから。今日は、おおいに噂話をしてあげようではありませんか」
 彼の話してくれた若い頃の母は、私が想像できる範囲のものであったりなかったりした。そのたびに私は相槌を打ち、また質問を繰り返した。2人で小さな笑い声をあげ、ある時は声を失った。
 しかし忍び寄る寂寥を追い払うために、2人のうちのどちらかがすぐ口を開くのだ。
 いつの間にかガラス戸から射しこむ秋の陽が傾いていた。


  
「ああ、気のつかぬことで……」と彼は少し疲れた声で言い、冷めたお茶を淹れかえるために、3つの湯呑茶碗をお盆にのせて立ち上がった。
 私は暇乞いを言うよいチャンスだと思った。
「楽しいお話で、長居をしてしまいました。そろそろ失礼いたします」
 そして外出しているのだろうか、最後までその姿を見ることのなかった彼の妻のことが気にかかった。
「奥様にもよろしくお伝えください」
「あっ、女房はもういないのです。3年前に、病気で亡くなりました」
「それは知らぬこととはいえ、失礼なことを言ってしまいました。母を亡くした自分の寂しさばかりにかまけてしまいましたが、お寂しい毎日でしょう」
「こればかりは覚悟していたこととはいえ、慣れるのに時間がかかりましてね」
 1度持ち上げたお盆をテーブルに戻すと、彼は狭い事務所を横切り、ガラス戸を開けてくれた。ガラス戸を片手で押さえているその立ち位置のために、私は再び間近に藤原昌彦の顔を見ることになった。
 その顔の中にはやはり初めに感じた懐かしさがある。
 しかし1時間ほど彼と顔を突き合わせて母の思い出に浸っている間に、気づいていた。彼の顔の中にあるのは、晩年の舅でもなく父でもない。
 最近老いが現れつつある鏡の向こうの私の顔だ。眼尻のしわ・垂れ下がっている口角・頬に浮き出た老班、今はかすかだが、20年後にはもっとよく似た顔が鏡の中にあるだろう。
「ああ、そういうことだったのか」という、漠然とした不安が私の胸の中で大きくなり、そしてそれはよみがえった思い出と共に、錐で刺すような痛みも伴った。
「この子は、誰に似たのかしら?」
 笑い声とともに家族の間で交わされる会話が、我が家ではずっと禁句だった。それを家族の誰にも似ていない、女にしては大柄な体格に気を使われているのだと思っていた。
 母がするりと私の横を通り抜け、一足はやく外に出る。私も慌ててそのあとを追った。
 その私たちを彼の言葉が引きとめた。
「男やもめの1人暮らしは何かと心配なことが多いからと、長男から同居をすすめられていましてね。やっと決心がついたところでした。ぼちぼちとこの町から出て行く準備をしています。最後の思い出に、あなたに逢えて、ほんとうによかった」
 藤原昌彦は通りを窺いながらそう言った。
 彼の柔和な顔は、1時間ほど前に私たちを迎えた時と何も変わっていない。突然襲ってきた驚きと胸の痛みが顔に出ていないことに安堵しながら、私は深く頭を下げた。
 今の私に出来ることはこれだけだった。


  
 バス停までの道のりを、母は私の後ろを少し遅れてついてくる。
 バスが来るまでの時間には余裕があるので、母の遅い足取りに歩調をあわせた。
 私よりも母のほうが後ろ髪を引かれる思いだろう。私はこの場所に戻ってこようと思えばいつでも出来ることだが、思いを遂げた母の幽霊はこの世にさえ戻って来られないに違いない。。
 胸の痛みとそれと同時に高鳴っていた動悸も、バス停が近づくほどにおさまった。
 母の幽霊に足があって口がないことに、この数日間の母との生活で初めてありがたいと思った。
 四つ角を曲がってその車体をこちらに向けて、ゆっくりと近づいてくるバスが見える。それを見ると、ふと、家に帰ってからの今夜の夕食の献立が気になった。
 バスターミナル近くのデパート地下食品売り場で、夫の喜びそうなどんなお惣菜を買おうかと考える。50歳になった私は自分の出生の秘密よりも、そういうことのほうが気になる。そして日々の家事に心配れる自分の年齢が嬉しかった。
 それはまた幽霊となって現れた母と藤原昌彦への感謝とも重なるものがある。50年前に彼らが出逢っていなければ、今夜のお惣菜に心配る私も存在していないのだ。
 バスは渋滞に巻き込まれて少し遅れてやってきた。
 母に差しかけていた日傘を閉じながら、私は言った。
「お母さん、心配しないでね。私はもう大丈夫だから。天国のお父さんも待ちくたびれているころでしょう」
 バスに乗り込む私の後ろで、母の気配が消えた。振り返らなくてもわかった。
 母は空に戻っていった。
 再びくしゃくしゃと丸まった姿になったのか、折りたたまれた姿となったのかは、来た時と同様に定かではない。しかし2度と私の前にその姿を現すことはないだろう。
 それだけは確かだ。