葡萄


  
 その朝、美佐子は腹痛で目が覚めた。
 夢の中で、彼女は夫の達雄に、「お腹が痛い」と訴えていた。すると夢の中の夫は、「それは、飯を食わないからだ」と答え、テーブルの上を指差して見せた。テーブルの上には、夥しい食べ物が用意されていた。「全部、食うたら、腹痛なんかすぐになおる。さあ、全部、食え」と、続けて彼は言った。
 美佐子は無理をして、テーブルの上の一皿一皿を食べていった。しかし、ますます腹痛はひどくなっていくようだ。
「もっと食わんと、なおらんぞ。さあ、食え、食え、食え……」
 女というものが、こんなに飯を食わないものだとは知らなかったというのが、食事時の美佐子に対する達雄の口癖だった。彼女は身長は1メートル55センチ、体重は50キロあるかないかで、若い女性としては標準であろう。しかし「疲れた」とでも言えば、「それは、飯を食わないからだ」と返ってくる達雄の言葉を、覚悟しなければならなかった。
 確かに、彼はよく食べる男だ。快食・快眠・快便の三拍子揃った見本のような男だ。しかし、彼は美佐子より頭一つ背が高くて痩せているので、豚とは言えない。よく食べる馬といった感じがする。
 その彼が、夢の中で美佐子の鼻先に皿を突きつけて、「もっと、食え。食え、食え……」と、言い続ける。
「もう、これ以上は無理。お願いだから、病院に連れて行って」と、両手を合わせて懇願したところで、美佐子は目が覚めた。耳の中には、まだ達夫の「食え、食え、食え……」という声が続いている。耳を澄ましていると、それは遠くで吠えている犬の声に変わった。
 7月の明けきった朝の光が、カーテンの隙間から、部屋に漏れている。枕元の目覚まし時計を引き寄せてみると、6時になろうとするところだった。
 夢の中では、耐えがたい痛みに七転八倒していたはずなのに、はっきりと目が覚めてみると、下腹部がなんとなく張っているような感じでしかなかった。横で寝ている達雄は1枚の夏布団を両手両足にしっかり抱え込み、もう1枚をちゃんとと自分の体の上にかけていた。達雄に布団を取られたので体が冷え、それで、夢の中で、体の不調を感じたのだろうと、美佐子は思った。
 目覚まし時計のアラームが鳴るにはまだ少し時間があったが、あの腹痛を思い出すのも嫌なので、彼女は思い切りよく立ちあがった。

  
 M市の郊外、青い田圃を所々に残して、ミニ開発住宅が乱立している。
 その様を空から見下ろせば、緑色の絨毯の上に赤や青や白の積み木を散乱させたような、美しい光景に見えることだろう。しかし、どの積み木の東西南北どの窓から手を伸ばしても、隣の積み木に触れることができる。そして、青い田圃を吹き渡る夏の風は、積み木の作った迷路を、遠慮して通り過ぎて行った。
 達雄と美佐子の新居も、赤色をした積み木の1つだった。達雄は28歳、M市市役所で働いている。美佐子は23歳、この春に、M銀行を寿退社したばかりだ。
 美佐子は、目が覚めると、毎朝そうしているように、まずダイニングキッチンに入り、昨夜のうちに仕掛けておいた炊飯器のスイッチを入れた。冷蔵庫のドアを開け、味噌汁に入れる豆腐のあることを、確かめる。葱は、勝手口を出た所に、少しばかり植えていた。
 それから、彼女はトイレに入った。
 そこで、忘れていた下腹部の痛みを、再び思いだした。痛みは、去っていったのと逆の順序で、トイレで用を足している美佐子を襲った。下腹部が張ってきて、それが少しずつ痛みに変わってくる。夢の中で感じた激痛になるのに、そんなに時間はかからなかった。
「来て! 来て!」
 壁を叩いて、達夫の助けを求めた。
 しかし、美佐子の声は、2枚のドアに遮られている。熟睡している達雄の耳に届く可能性は、無いに等しい。それよりも、トイレの少し開けている窓から、手を伸ばせば届きそうな北隣りの、自動車販売会社に勤めている吉田さん夫妻を起こしてしまいそうだった。
 痛みが少し和らいだと感じられた時、息を詰めて立ち上がった。一瞬、目の中が真っ暗になった。それからドアに身をもたせかけて、次の痛みが和らぐ時を待った。そして、廊下に転がり出た。四つん這いで、寝室まで戻ることにした。
 脂汗が冷たい筋となって、背中から胸に流れ落ちるのがわかる。顔に噴き出た汗は、鼻の先や顎の先から落ちて、這い進むしかない廊下に染みを作った。額の汗は、目の中に入ってくる。5メートルほどの廊下の向こうが霞んで見えた。
 その時、寝室の引き戸がすっと開いて、達雄が顔を覗かせた。彼はしばらく、戸の隙間から顔だけを見せていた。
 そして慌てる様子もない平然とした足取りで、4、5歩、こちらに向かって歩き出した。が、ふと立ち止まると、くるりと踵を返して、再び平然とした足取りで引き戸の向こうに隠れてしまった。再び姿を現した達雄の顔には、眼鏡があった。
「眼鏡がないと、俺は何も見えない」と、あとで達雄はそう言った。「虫が知らせた」とも言った。
 達雄は美佐子の膝までずり下がっているパジャマのズボンを引き上げると、彼女を寝室まで引きずって行った。

  
 駆け込んだ救急病院で、美佐子は内科から産婦人科にまわされた。
 痛みのほうは、達雄が新聞で救急当番病院を調べ、箪笥の引出しから健康保険証を探し出し、あたふたと服を着替えているのを見ている間に、また去ってしまった。
 彼女には、腹痛で病院に駆け込んだ経験が、今までに2回ある。1度は、中学生の時だった。そして、もう1度は、2年前のことである。その時の痛みから、2度とも急性の盲腸炎に絶対間違いないと確信した。そして、手術も入院も可能な病院を選んで、駆け込んだ。というのに、医者は、2度とも、便秘による腹痛だと診察した。
「このくらいで大騒ぎして、病院に行って、恥をさらすことはしたくない」
 美佐子は、頑として言い張った。
「医者はな、盲腸を便秘と診断するために、必要なんだ」
 達雄はそう言った。
 美佐子の頭の中は、再び、夢の中で見た、たくさんの食べ物でいっぱいになった。寿司、うどん、スパゲティー、餃子、酢豚、ステーキ……。「全部食うたら、腹痛なんか、すぐに治る」、夢の中の達雄はそう言った。彼の言葉には、不思議な説得力がある。理屈で固めた美佐子の頭の中を通り抜けて、心の一番奥の部屋に入ってくる。
 内科よりまわされた産婦人科で、美佐子は生まれて産婦人科の診察台に乗った。灰色の部屋に、その診察台が2台並んで置かれている様は、その昔、デパートの催し会場で蝋人形展を見た時を、彼女に思い出させた。現代医療機器の始まりは、中世の拷問器具ではないのだろうか。だから、神聖と滑稽が鎮座している。
 診察台の滑稽の極みは、仰向いて足を拡げて寝ている美佐子の胸の上に垂らした、50センチ四方の白いカーテンだった。白いカーテンというよりも、真ん中に赤い丸を書いたら、日の丸の小旗だ。いや、もっと何かに似ているものがあると、彼女は思った。
「ああ、出血がある」
 医者の声が、カーテンの向こうでした。そうだ、この小さなカーテンは、人形劇の幕に似ている。それにしても、先ほどから、彼女の剥き出しの太腿の内側に触れている、柔らかなものは何だろう。
「流産予防の注射をしましょう。家で安静にしていてください」
「あの、安静というと……」
「寝ていることです。1週間後にまた来てください」
 この時になってやっと、美佐子の頭の中で、出血と妊娠と流産という3つの言葉が繋がった。
 看護婦が、美佐子の胸の上の白いカーテンを取り払う。人形劇の第一幕の背景は、むき出しの灰色のコンクリートの壁だった。
 家に帰り、達雄は遅い朝食をとった。美佐子はそれを、布団の中から見上げていた。いつもの湯気の立つ炊きたてご飯と味噌汁のかわりに、テーブルの上には、菓子パンとバナナと牛乳があった。
 医術と、医術だけではカバーしきれない人の心の温度差に対する達雄の表現は、怒りだった。生ぬるい牛乳を飲み干すと、彼は言った。
「注射1本と、寝ているだけで、これが済む問題か」
「私が言ったのじゃないわ。お医者さんが、そう言ったのだから」
「ヤブ医者だ」
「便秘だとは言わなかったでしょう」
 そう言ったあと、美佐子は唐突に言葉を継ぎ足した。
「あっ、わかった!」
「いったい、何がわかったんだ」
「診察されている時に、私の太腿に触れていた、柔らかいもの。あれはね、お医者さんの髪の毛よ。絶対に、そうよ。ねえ、想像出来る?私が、どんな恰好で、診察を受けていたか」
「バカ!いま、そんなことを話題にする時か」
 達雄は、椅子を蹴って席を立った。今日はどうしても休暇はとれないので、これから出勤するのだ。鏡に向かってネクタイを締めている達雄の背中に、美佐子は言葉を投げつけた。
「流産もまた、神の恵みっていう言葉、知らないのでしょう?」
「神の恵み? それは、どういう意味なんだ?」
 達雄は振り返った。美佐子は答えなかった。達雄の声が荒くなった。
「どういう意味なんだ?」
「生まれて来ないほうが幸せだ、という子どももいるということを、空の上にいて、なぜか、神様はご存じだということよ」
 美佐子は、達雄の言葉を待った。彼女の頭の中で、夢の中で見たたくさんの食べ物が溢れ始めた。寿司、うどん、スパゲティー、餃子、酢豚、ステーキ……。しかし、彼は何も答えなかった。再び背を向けて、ネクタイを締めはじめた。美佐子の頭の中のたくさんの食べ物が色彩を失っていく。
「おまえは、いったい、どういう育ち方をしたんだ?」
 達雄は背中を見せたままで言った。
 美佐子は、返事のかわりに、枕元の4つ折りの新聞を、彼の背中めがけて投げつけた。新聞は達雄の背中の真ん中に命中した。乾いた音だけが派手だった。

  
 部屋の中に、夕暮の気配が忍び込んでくる。しかし、網戸とカーテンのために、薄暗い部屋の中の空気は淀んだままだ。
 美佐子は、左足を庇いながら、寝返りを打った。『泣き面に蜂』とは、このことに違いない。先ほど、無造作に寝がえりを打った途端に、左足がこむら返りを起こした。体をエビのように曲げて、その痛みに耐えた。そして、座布団を丸めて足枕でも作ろうかと、立ちあがった。
 朝は、下腹部全体の痛みであり張った感じだったのが、いま、その痛みは一点に集中していた。子宮は洋梨を逆さにした形で、大きさもそのくらいと、何かの本で読んだことがあったが、今は、その形と大きさが書かれていた通りだということが、自分の体の中にあって、実感できた。そして、立っていると、その実感が強くなってくる。
 美佐子は立ったままで、ゆっくりと、百まで数を唱えた。実感が痛みをともなって、ますます強くなってくる。彼女の体の中で、今や、子宮は逆さ洋梨の形をした、鉄の玉だった。今にも、膣口から、つるっとすべり落ちてしまいそうだった。
 最後の百まで唱え終えてから、布団に横たわった。それ以上立っていなかったのは、勇気がなかったからなのか、それともそれが芽生えたばかりの小さな命の運命なのか。もし、無事に生まれてきたら、その子どもに教えてもらおう。美佐子は、そんなことを考えた。
 母に、電話をかけた。
 3回目の呼び出し音で、母は電話に出た。娘からの電話だとわかると、母は、この夏の暑さで更年期真っ最中の体が、どんなに不調であるかということを、すぐに訴え始めた。電話をかけてしまったことを、美佐子は悔み始めた。しかし、もう遅い。
「私が、体調が悪くて辛い思いをしているのに、お父さんは、おまえは横着なだけだって言うのよ。せめて、庭の草花の水遣りくらい、手伝ってくれたらいいのに。この暑さで、私の大切な花が、枯れてしまいそう……」
「今日、病院に行ったら、流産しそうなんだって」
 母の話が、枯れそうな花のことから、更年期の辛い体調へと戻る。まるで、ギャング映画の機関銃の流し打ちのシーンを見ているような気分に、美佐子はなった。彼女は、無数に被弾してしまった。
「安静にしているしか、ないらしいのよ。寝ていたら、いいだけだから。洗濯も掃除も食事のほうも、1週間くらい、なんとかんるわ。どうしても、お母さんに助けて欲しい時は、また、電話する」
 父と母の仲が、悪くなったのは、いつごろからのことか。美佐子が小学生の頃までは、親子3人の楽しい思い出しかない。しかし、ただ、彼女が気づかなかったのだろう。
 母は、美佐子にいつも言っていた。
「あなたのために、私は我慢して、お父さんと暮らしている。あなたが結婚したら、私は、お父さんと別れて、新しく人生をやりなおすわ。あなたなら、私のこの気持ち、わかってくれるでしょう」
 そして、たった1か月前に、母は言った。
「お父さんと別れるのは、もう、やめにしたわ。50歳を過ぎた女に、自活できる仕事を見つけられる訳、ないでしょう。今更、私が苦労するなんて、馬鹿げている。あなたも結婚したのだから、女の苦労がわかるはず」
 どちらの言葉を言った時も、母の顔は生き生きとして、その声は溌剌としていた。美佐子は、母に、裏切られたとも、騙されたとも思っていない。しかし、ひどく損をしたような気分だ。
「お母さんの子どもとして生まれて来て、私は、とても損をしたような気がする」と、母に言ったところで、母には到底理解してもらえないさろう。美佐子は、受話器を置いた。

  
 夜になると、昼間に太陽に焼けるだけ焼けたセメント瓦の熱気が、安普請の天井を突きぬけて下りてきた。熱気の塊が灰色の靄となって、天井辺りに漂っているのが、美佐子の目には見える。目を凝らしていると、熱気の雲の塊の中で、オレンジ色の火花が光っているのさえ、見えそうな気がする。
 達雄の夏のボーナスで予定していたクーラーの頭金は、なぜか、彼の眼鏡に化けてしまった。4万円の外国製のフレームと、2枚で3万円也の圧縮レンズは、達雄の顔を以前の3倍はスマートに変身させた。
「ああ、クーラーが欲しい」美佐子が、思わず口に出して独り言を言うと、「何を、ぶつぶつ言っているんだ」と、玄関で、達雄の声がした。
 いまいましい眼鏡をかけた顔の下の両手に、彼は、スーパーの袋を2つも提げていた。2つの袋は、美佐子の枕元に乱暴に投げ出されて、どさっと大きな音をたてた。
「かわりなかったか」
 達雄の声に、朝の不機嫌さは残っていなかった。
「かわりがあったら、こんなところで、寝てなんかいない」
「口だけでも、元気で、よかった」
 ネクタイをゆるめながら、彼は美佐子の枕元に座り込んだ。スーパーの袋を引き寄せて、ごそごそと中身を確かめている。嬉しくてたまらないという顔をしていた。
「さあ、袋の中から、何が出て来るか、お楽しみ、お楽しみ。驚くなよ」と、彼は言った。「これは、今夜の寿司とインスタント吸い物。それから野菜の天婦羅とヒジキの煮付けのパックが2つ。これは、竹輪と蒲鉾。冷蔵庫に入れておけば、いつでも食えるだろう」
 達雄は、1つ1つ取り出しては、畳の上に並べていく。
「2人分の、食事の量というものが、ちっともわかっていないのね」
「そんな、細かいことを言うな。食べることは、おれの唯一の楽しみなんだ。まだ、あるぞ。明日の朝のパンとハムと果物と牛乳。カップ麺が5つ。ビールのつまみのピーナツとスルメ。美佐子の好きそうなクッキーに煎餅にチョコレート。特売の卵も買ってきた。玉子焼きくらいなら、おれにも作れるだろう」
 スーパーの袋から次々と出てくる食べ物を見ていて、これはまるで朝に見た夢の再現のようだと、美佐子は思った。
「それから週刊誌が2冊、寝ているだけでは退屈だろうから、他に読みたい本があったら、言えよ」
 達雄は、食べ物に囲まれた中で、急に姿勢を正した。
「いろいろ考えたが、美佐子、1週間だけ、何も言わずに何も考えずに、おれの言うことを聞いてくれ。掃除も洗濯も飯のことも、全部、おれがする。そして1週間経ったら、その時に、次はどうするか、2人で考えよう。頼むから、そうしてくれ」
 美佐子は寝がえりを打つと、達雄と彼が畳の上に並べたたくさんの食べ物に目をそむけた。目はそむけたが、その目から涙が溢れてくるのを止めることは出来なかった。
「わかってくれた?」
 達雄は、もう1度、念を押した。彼は手を伸ばして、夏布団からのぞいている、美佐子の汗で湿っている髪を撫でた。美佐子は小さく頷くしかなかった。達雄の声が、明るくなった。
「実を言うと、もう1つ、とっておきの物を買ってきているんだ。ちょっと、待っていろよ」
 まだ何か入っているスーパーの袋をぶら下げて、彼はダイニングキッチンに消えて行った。流しで、何かを洗っているらしい水音がする。
「ほら、見てみろよ、この夏の初物。これを食って、元気の出ない訳がない」
 美佐子は見た。達雄の手には、濃い紫色をした大粒の見事な葡萄の房が、ぶら下がっていた。それも、水の滴をぽたぽたと、廊下や畳の上に滴らせながら。
「ああ、……」
 美佐子は、早くお皿に載せないと、畳が濡れてしまうと、言おうとした。それに、高価な物を買ってきてとも。しかし、どちらの言葉も、口の中でもつれて出てこなかった。
 達雄は、ダイニングキッチンの灯りを背にして、立っている。濡れた葡萄は、後ろから光をうけて輝いていた。それが美佐子の涙に滲んだ目には、葡萄そのものから、金色の光の輪がいくつも放たれているように見えた。美佐子は言った。
「……、葡萄から、後光が差している」



                                       ・・・・・・了・・・・・・