凍える女


   1
 
丸々と太ったサバが2匹、洗い桶の中に突っ込まれていた。今では何も見ていない魚の目だが、まだかすかな光を持っている。
 そのためにその丸い目は、同居している姑のタネ子の目に似ていると、悦代は思った。常に彼女を監視し、些細な言動の1つ1つを見逃さず文句を言う、底光りのする姑の意地悪で小さな目だ。
 そして、ぬめった光沢のある魚の青い肌は、姑の逞しい腕そのものだ。「亭主には早く先立たれたが、わしはな、魚の行商で、一人息子の昭一を、一人前の男に育てた」と自慢する、長年の日焼けで光沢を持った腕だ。
 そのタネ子が、「今晩のおかずによかろう」と置いてある、行商の売れ残りのサバだった。
 早朝の仕事を終えたタネ子は、すでに一風呂浴びて、台所の隣の部屋で寝ている。北向きで、小窓が一つしかない薄暗い台所の空気を、大きな鼾が震わせていた。
 タネ子のおかげで、夕食のおかず代を節約できて、家計は助かってはいた。しかし、時々は、食べ盛りの子ども達に、好物の肉を腹いっぱい食べさせてやりたいと、悦代は思う。
 それで、今日のように、洗い桶にイワシが6匹突っ込まれていた10日前に、悦代はそれを無視して、大皿一杯の鶏肉の唐揚を作った。ニンニクを効かせたそれは、あっという間に、子ども達と夫の昭一の胃袋の中に消えていった。普段はまったくタネ子に頭のあがらない昭一だが、「やっぱり、肉は美味いなあ」と、言ったほどだ。
 昭一のその言葉に、悦代は首をすくめて、タネ子を盗み見した。
 タネ子は唐揚を放り込んだ乱杭歯の並ぶ口を動かしてはいたが、息子の言葉には何も答えなかった。しかし、このままで終わる訳がないと、悦代は、今までの経験で、身に染みるほどわかっている。
 姑はどんな仕返しを企んでいるのだろうと、悦代は、息をひそめて、数日を過ごした。
 3日後、台所で魚をさばいていた悦代の後ろに、音もなくタネ子は立ち、彼女を驚かせた。隣の部屋から聞こえていた鼾が途絶えた時に、覚悟をしておくべきだったと思ったが、遅かった。ふいを突かれた形で、もう逃げ場はない。
「おまえも、いつまでも家の中で、ぶらぶらしとる訳にはいかんやろう。そろそろ、外で働いてもらわんとなあ。いつまで、こんな年寄りのわしを、働かせるつもりや」
 この数年、姑と嫁の間で、何度となく繰り返してきた話題を、タネ子はまた蒸し返してきた。今までのように、なんとか上手く切り抜けたいと、魚をさばく手は休めずに、悦代は返す言葉を探す。しかし、今回は上手く逃げ切れないだろうという予感がした。
「そのことは、うちも考えんことはないけれど。来年の春に、真美が小学校に上がってからにしようかと……」
 小学校3年生の淳史のことは、心配していない。小学校から帰って来ると、ランドセルを放りだした彼は、鉄砲玉のように飛び出して行く。どこでどう遊んでいるのか、暗くなるまで、帰ってこない。いくら叱っても、とても小学生とは思えない巧みな屁理屈をこねて、逃げる。悦代の財布からこっそりと金を抜き取り、パチンコ店に行っては、閉店まで粘る昭一とそっくりだ。
 しかし、集団の場である幼稚園で過ごすのが苦手で、今でも通園を渋りがちな真美のことは気にかかる。部屋の隅で、真美は、いつも同じ玩具で1人遊びをしている。そのうえに、祖母のタネ子にも懐いていない。そんな真美をタネ子にあずけて、外に働きに出るのは、家計のためとはいえ気がすすまなかった。
「家で遊んどる嫁を養うために、昭一が、汗水垂らして働いとるのかと思うと、可哀想でいかん」
 タネ子はいつものセリフを言う。その汗水垂らして働いて得た金を、あんたの自慢の息子は、勝つ当てのないパチンコにつぎ込んでいると、言い返したい。しかし、、「働いていないおまえにはわからんことやろうが、そのくらいの楽しみがないと、男は働く気にはなれんのや。死んだ亭主もそうやった」と、可愛い1人息子の肩を持つ言葉が返ってくるのは、目に見えていた。
 タネ子は言葉を続けた。その声に、勝ち誇った響きがある。
「八重さんとこの嫁が……、」と、タネ子は行商仲間の名前を言った。「スーパー丸栄で働いとるのは、おまえも知っとるやろう。うちの嫁も働かせたいと言ったらなあ、明日、スーパー丸栄の店長さんが、おまえを直々に面接してくれるそうや。さすがにすることが早い。八重さんが見込んだ嫁だけのことはある」
 悦代は、魚をさばいていた手を止めた。
「明日、仕事の面接やなんて。そんな、あんまりに急な……。それにその仕事、うちに出来るやろうか?」
「そのことも、ちゃんと、ぬかりなく聞いたぞ。心配せんでもええ。食品補充というてな、誰にでも出来る簡単な仕事や。おまえみたいにとろいもんでも、雇うてくれるやろう」
 タネ子の声は、憎い嫁を言い負かした喜びで、甲高くなっている。
 出来の悪い嫁として悦代のあることないことを、タネ子は行商仲間に言いふらしているに違いない。彼女の自慢の1人息子とたった数か月付き合っただけで、腹を膨らませてこの家に転がりこんできた悦代は、その一生をかけても、タネ子の見込んだ嫁にはなれないのだ。
 翌日、悦代は、渋々、スーパー丸栄の面接を受けに行った。
 それは、タネ子の言ったように、いや、八重さんとこの嫁が言ったように、あっけないほど簡単に済んだ。そして、ついに明日は、悦代の初出勤だ。

 寝ている姑に聞こえないように、悦代は小さな溜め息を1つ吐くと、洗い桶からサバを1匹取り出して、俎板の上にのせた。
 これを2枚におろそうか3枚におろそうかと、今夜の献立を思い浮かべながら、彼女は考える。タネ子は煮付けを好むが、子ども達のことを考えれば、やはり竜田揚げだろう。年齢のせいで、揚げ物を嫌う姑の皮肉を、ちくりちくり聞かされるのかと思うと、今から気は重くなるが。
 魚のさばき方と包丁の研ぎ方は、この家に来てから、タネ子に「バカ」「アホ」と罵られながら、覚えた。
 悦代の生まれ育った家は、貧乏暇なしに貧乏人の子沢山と、2拍子揃っていた。両親ともに働きづめに働いていたから、食卓には、スーパーで買ってきた安物のお惣菜が、いつも並んでいた。下ごしらえが必要なうえに、後始末も面倒な頭も尾もついた魚料理など、悦代は食卓で見た記憶がない。
 だからこの家に来るまで、魚をさばいたことがなかった。すでに死んでいるとわかっていても、頭がついて目も開いている魚を切り刻むのに、初めは抵抗があった。
 しかし、タネ子に包丁の扱い方について怒鳴られなくなった頃から、自分は魚をさばく行為が嫌いではないと、彼女は思うようになった。
 今では、生きて胸鰭をぴくつかせている魚の頭を切り落とすことだってできる。命乞いをするかのように、8本の足をぬるぬると腕に絡みつかせてくるタコの、その目と目の急所に、包丁の尖った先を突きたてることだってできる。
 サバの頭を切り落とすために、目の下に包丁の刃をまっすぐに押し当てて、それから体を傾けて、刃にゆっくりと体重をかけていく。柔らかい肉に刃先が食い込む感触のあと、ゴツッと音がして、硬い骨を切断する手ごたえが、包丁を握る掌に伝わってくる。
 サバの頭が、俎板から流しに転げ落ちるのを見届けると、重大な何事かを成し遂げたような爽快感を覚える。こんなことは誰にも言えないが、流しに転がり落ちたサバの頭と、タネ子の頭のイメージが重なる時がある。最近では、その瞬間が、悦代の密かな楽しみになっていた。
 開け放した台所の小さな窓から、初夏の風がふわりと舞い込んできた。 風に混じる潮の匂いは、家のすぐ前を流れる、新立川からだ。新立川の下流数百メートル先は、もう海だ。
 そして、風が、山からとその吹いてくる方向を変えると、今度は、かすかな蜜柑の花の匂いが、鼻の奥をくすぐる。それは身にまとった柔らかな布地がふわりと風に浮くように、この季節には、この町のどこにいても優しく匂ってくる。


  2
 芳川悦代の住む町は、リアス式海岸を正面にした、半農半漁の小さな田舎町だ。
 町の後ろには、てっぺんまで耕しつくされた蜜柑山が低く連なっている。その蜜柑山がすとんと海に落ちる手前に、マッチ箱のような家々が、細長く張りついていた。
 寂れた田舎町だが、それでも時代の流れに、その姿をじわじわと変貌しつつはあった。
 隣町との境の国道沿いに、数年前、広い駐車場を備えた郊外型ショッピングセンターがオープンした。自分それぞれの車を持つ、共稼ぎの若い家族連れで、終日、賑わっている。そのために、町の真ん中にある、昔ながらの民家の軒先を店舗にした本通り商店街は、閑古鳥が鳴くようになった。ほとんどの商店が、日中からシャッターをおろしている。
 そして、その影響を、本通り商店街の真ん中に立地している、スーパー丸栄本通り店ももろに受けている。
 この数年、閉店の噂が絶えない。しかしながら、本通り商店街の衰退とともに創業40周年をむかえたこのスーパーは、近くに住む車を持たない老人家庭にとっては、なくてはならない店であった。
 そして、売れ行きが悪いということは、新鮮さには欠けるが、驚くほど値を下げた見切り商品に出会う楽しみがあるということでもある。少しでも安い食料品を買いたいと考えている主婦たちにも、根強い人気がある。その証拠に、狭い駐車場は、老人たちの手押し車と、前と後ろに大きな籠をつけたママチャリが、いつも雑然と並んでいた。
 そしてこの本通り店は、今では近県一帯に多くの支店を展開するスーパー丸栄の、記念すべき創業第一店舗でもあった。
 創業者の太田仁という人物は、この町が誇る立身出世の有名人だ。それで偉大な創業者の遠い血縁で、同じ姓を名乗る太田信夫を、長年にわたって店長に据えたまま、スーパー丸栄本通り店は、新しく出来たショッピングセンターのよう店内外の美観にはまったく欠けるが、しぶとく営業を続けていられるのだ。


  3
 午前9時、開店1時間前のスーパーの店内は、天井の照明を落としているので、薄暗い。広い正方型のフロアの、2か所の出入り口以外に、窓がないせいだ。経費節約のために、客がいない間の照明を落としているのだとは、この日が初出勤の悦代は知る由もなかった。
 明るい照明の下では、白く輝いているリノリウムの床も、いまは薄汚れたねずみ色で、反り返った歪みがあちこちで影を作っている。重い物を引きずったらしい、細く長い傷跡も無数に見える。
 この日のために新調した悦代の真新しい白いスニーカーが床でこすれて、足を繰り出すごとに、ゴムの靴底がキュッキュッと鳴った。
 しかし、長い脚で大股に歩く保坂食品係長には、新入りパート従業員の感想などに、興味はないようだ。彼の歩調に合わせて、その後ろについて行くだけで、悦代は精一杯だった。保坂食品係長は右に左に指をさしながら、店内に陳列された商品について、口早に説明していく。
「ここは、芳川さんに補充を担当してもらう、豆腐にコンニャクに漬物。その裏の棚が、カマボコや竹輪などの練り製品。それから、ここから向こうが、乳飲料と乳製品で……」
 その後ろ姿がまるでバスガイドのようだと、悦代は、20年も昔の修学旅行を思い出していた。そのせいもあって、せっかくの説明の半分も、彼女の耳に入っていない。耳に入っていたところで、食品関係の専門用語も混ざる、それら言葉を理解するのは難しい。
  保坂食品係長には、数分前に、事務所であったばかりだ。悦代が、スーパー丸栄本通り店の事務所に入ったのは、先日の太田店長との面接と、制服の受け渡しの日と、そして今日で3度目だった。
「おい、保坂。石野さんの代わりに採用した、新しいパートさんだ。さっそく、店内を案内したってや」
 店長のその声で、他の社員とともに机の上に置かれた伝票の束に埋もれていた、1人の男が顔をあげた。
 朝の忙しい時間帯に、作業を中断せざるをえない腹立たしさが、その男の顔に浮かんだ。彼は伝票の束の向こうから、悦代を見据えた。そのくらい目はどこか投げやりで、そのために彫りの深い30代半ばの顔が、陰のある表情に見えた。
 しかし、それは彼が敏捷に立ち上がるまでの、ほんの一瞬のことだった。立ち上がった途端に、彼は、にこやかで明るい顔をこちらに向けた。
「食品担当の、保坂です。これからよろしくお願いします。芳川さんには、僕が担当しているデイリー食品の補充をお願いします。ここであれこれと説明するよりも、さっそくですが、まずは、店内を一緒に見て回りましょう」
 そう言いながら自分に近づいてくる男の背の高さに、悦代は思わず、頬に血がのぼってくるのを感じた。
 自分とさほど変わらぬ身長の昭一と結婚して10年、日々の暮らしに追われてずっと忘れていたことを、いま、彼女は思い出した。昭一と知り合う前には、悦代にも男というものに対して、彼女なりの好みがあった。
 人間というものは、歳月が過ぎるのと同時に、なんでも忘れて行くものだと思っていた。しかし、忘れたと思っていたことは、突然、時も場所も選ばずに甦る。若い頃、映画やテレビで、背の高い俳優やタレントを見て、別世界に住む人達だという諦めはあったものの、それでも胸はときめいた。 
 そして、自分のことを『僕』とスマートに言う男を、この町で、悦代は初めて見た。それもまた、映画やテレビの画面でしか、縁のないものだと思っていた。
 しかし今は、薄暗いスーパー店内を、背が高く、足が長い男の後ろについて行くだけで、彼女は精一杯だ。
 高い陳列台で仕切られた広いフロアは、迷路のように思われた。陳列台に整然と並べられている商品は、生首の行列のようにさえ見える。それらが冷たく悦代を見つめている。こんなところに、1人で取り残されたくない。
 保坂食品係長の指し示す方向に、悦代は訳もわからず首を振り、そして、前を歩く薄緑色のジャンパーを羽織った彼の背中に視線を戻す。店内を横切って、売り場の突き当たりに来た頃には、もう、足元を見る余裕すらなかった。
 突然、沼地に足を突っ込んだような感覚に襲われた。スーパー丸栄の制服である紺色のスカートから出ているふくらはぎに、誰かが、冷水を浴びせかけたと思った。せっかくの真新しいスニーカーが、初出勤の朝にびしょ濡れとなってしまった。
「えっ、こんなところに水たまり……」、そう思ったと同時に、水よりももっと冷え冷えしたものが、彼女の両足に触れた。それは、まるで人の手のように、悦代の両足を撫で回し、そして、両足首をつかんだ。
「きゃっ」
 驚きで、悦代はつんのめった。
 同時に、前を歩いていた保坂係長も立ち止まり、振り返った。勢いあまった彼女は、彼の胸の中に飛び込んだ。
「ここが、冷凍食品売り場です。芳川さんには、冷凍食品の補充もお願いします」
 胸の中に抱かれたまま、男の声が、頭1つ上から聞こえてくる。悦代が咄嗟に思ったのは、ここぞとばかりに矢のように飛んでくる、「ほんま、おまえは何をさせても、どんくさい」という、タネ子の叱責だった。夫の昭一であれば、悦代がよろめくのもかまわずに、10年連れ添った妻でも乱暴に突き飛ばしたことだろう。
 男の胸の中で、彼女は身をかたくした。しかし、振り返った途端に、胸の中に飛び込んできた悦代を抱きしめたまま、彼は動じることなく言った。
「大変でしょうが、今日から、頑張ってください。わからないことがあれば、僕に、なんでも聞いてください」
 保坂食品係長に身をあずけたまま、悦代は自分の立っている場所を見下ろし、そして、水溜りだと思った物の正体を見た。
 スーパー丸栄本通り店の冷凍食品売り場は、フロアの一番奥まった、通路の行き止まりとなった場所にある。 
 いまどきのスーパーでは、冷凍食品は種類も多彩で売れ筋商品だから、店内でも目立つ場所に、かなりのスペースを割いて、平台の陳列ケースで売られている。しかし、ここが開店した40年前頃の冷凍食品の扱いは、こんなものだったのだろう。
 壁面に、棚型の冷凍食品の陳列台が並んでいる。夜間に冷気を逃がさないようにするために、陳列台前面にはロールカーテンがおろされていた。それが、汚れで黄ばんでいるうえに、あちこちが破れていた。
 その破れ目から、冷気が、白く細い霧の筋となって、流れ出ている。そうやって漏れ出た冷気が、床に溜まっていた。
 床に溜まった冷気の中に、悦代と保坂食品係長の足は、埋まっていた。足首をつかんだと感じた冷気の沼は、白くさざ波だってさえいた。それは、まるで白い手を伸ばして、2人の足を伝い、もっと上に這い上がろうとしているようにも、見えた。
「頑張ってください」という男の言葉に、「頑張ります」と、答えるべきなのだろうか。それともまずは、誤解を招きそうなこの状況を、謝罪すべきなのだろうか。
 目の前にある白いワイシャツは洗濯されているものの、落とし切れていない汚れで、真っ白いとは言い難かった。少しくすんだワイシャツと、その真ん中で結ばれた、地味な色のネクタイ。悦代の頭は空回りしながらも、夫の服装に、少なからず無頓着な彼の妻のことを考えた。
 背中にまわされていた男の長い腕がゆっくりとほどかれて、今度は、悦代の両肩におかれた。頬をうずめている胸板のかたさといい、抱きしめた腕の長さといい、男が違えば、それぞれに感触も違うものだ。返す言葉をさがす混乱した頭の中で、夫以外の男に抱きすくめられた心地よさを、それでも確かめている。
 保坂食品係長は、悦代を優しく支えたまま、まっすぐに立たせた。そして、言葉を続けた。
「おお、驚いた。芳川さんは、元気だなあ。店内の次は、食品を保管している、ストック用の冷蔵庫と冷凍庫を見てもらいます。今度は、足元に気をつけてください」
 言葉とともに煙草の匂いがする。低い声の響きが、耳に心地よい。昭一とは、まったく違う。
 働きたくて、スーパーの食品補充の仕事に就いたのではない。しかし、目の前の、背が高く優しい声をもった男のためになら、悦代は身を粉にして働いてもよいと思った。
 タネ子と昭一に、「気のきかない嫁」と言われ続け、時には出来損ないとまで、罵られることもあった。しかし、彼らは、まだほんとうの悦代を知らないのだ。1度決めたことを成し遂げる一途さにおいては、誰にも負けない自信を、彼女は胸に秘めている。
 来た時と同じ通路を引き返す時、先ほどまでは不安でいっぱいだった身も心も、、いまでは軽くなっていることに、悦代は気づいた。薄暗くて、幽霊でも出てきそうに思われた店内のあちこちに、朝の仕事にとりかかり、忙しそうに働く従業員の姿が増え始めた。
 

  4
 朝から、どしゃぶりの雨が降っていた。
 蜜柑の花の匂いがまとわりつく爽やかな5月は去り、長かった今年の梅雨も、この雨を最後に、そろそろ明けてもよい頃だ。悦代が、スーパー丸栄本通り店で働き始めて、2か月が過ぎていた。
 朝の9時に出勤すると、悦代は、まず、冷蔵庫のドアに貼りつけられている、保坂食品係長手書きの指示書を読む。「あれを、冷蔵庫から出して、これを、店内の陳列台に並べて」と、ボールペンで箇条書きに書かれたそれは、女の悦代でも羨ましいきれいな筆跡だった。
 だから、悦代は読み終わると、それを、制服のポケットに入れて、家に持ち帰る。そして、姑のタネ子も夫の昭一も気づかぬ、食器戸棚の引き出しの缶の中に、重ねしまい込んである。保坂食品係長に繋がるものが、家の中にあると思うだけで、1日7時間のパートを終えた疲れた体で帰ってきても、なぜかその後、家事に励むことができた。
 書かれた指示書通りに、冷蔵庫や冷凍庫から商品を取り出して、台車に乗せて店内まで運び、陳列台に並べていく。
 10時を過ぎると、スーパー裏手検収口に、卸し業者のトラックが並び始めて、発注されていた商品や、本部からの送り込み商品が届く。それらを、冷蔵庫と冷凍庫に、そして店内に運ぶのも、悦代の仕事だった。
 タネ子も、そして面接の時の太田店長も同じく、「誰にでもできる、簡単な仕事」と、言った。しかし、商品の名前を覚えて、それをどの陳列台にどのように並べたらよいのか、一通り理解するのには、2か月が必要だった。そして2か月も勤めると、この店の人間模様についても、自然と、耳に入ってきた。そういうことは、こちらから訊ねなくても、仕事以上の熱心さで、誰彼となく、親切に教えてくれる。30人ほどいるパート従業員達は、皆、噂話が好きな地元の女達ばかりだ。
 それらの噂話の中で、悦代が何よりも驚いたのは、「一身上の都合で辞めた」と、面接日に太田店長から聞いていた、前任者の石野恵子のことだった。
 実際の彼女は、退職届を出すこともなく、ある日の帰宅途中に、この町から、その姿を忽然と消していた。
 彼女は、太田店長と不倫関係であったらしいと、その噂話には、尾鰭までがついていた。不倫の事実が、夫にばれることを恐れての失踪か、それとも、甲斐性のない夫の稼ぎと、3人の子どものいる生活に、もともとから不満があったのか。
 面接時に、初めて悦代を見た太田店長は、そのゴルフ焼けした赤ら顔に浮かぶ、落胆の色を、隠そうともしなかった。女好きな太田にとって、石野恵子の後釜としての悦代は、あきらかに見劣りがした。目の前の女には、性的魅力がないと、その顔に書いてあった。
 保坂食品係長の私生活についても、これも、虚実併せた噂話が、いろいろと耳に入ってきた。
 育ちのよさそうな保坂食品係長と、この寂れたスーパーの取り合わせは、世事に疎い悦代でさえ、ミスマッチだと思う。彼のミステリアスな私生活は、噂話の好きな女たちにとっては、太田店長と石野恵子の不倫に次ぐ、恰好の話題のようだった。
 保坂食品係長は、30代半ばの年齢であるらしい。この町の生まれではあるが、都会の大学を卒業したあと、悦代でもその名前を知っている、大手都市銀行に勤めていた。それで、彼は、この町の男にしては珍しく、自分のことを『僕』とスマートに言うのかと、腑に落ちた。
 もちろん結婚もしていたが、人も羨む都会での生活を捨てて、年老いた病弱な母親と暮らすために、彼がこの町に戻ってきたのは、1年前のことだ。戻って来てすぐに、高校で先輩後輩の関係だった太田店長に拾われる形で、スーパーの食品係長として働き始めた。
 その間に、彼についてこの町に来た都会育ちの美しい妻は、いつのまにか、その姿を消してしまった。
 病弱な姑の介護と、今にも潰れそうなスーパーで働き始めた将来性のない夫と、そして何よりも、辛気臭い田舎町の暮らしに愛想をつかし、彼女は都会に逃げ帰ったのだろうと、誰もが想像している。彼ら夫婦に、子どもがいなかったことが幸いだったと言う者もいれば、せめて子どもがいれば、彼も妻に逃げられる状況まで追い詰められることもなかっただろうと、言う者もいる。
 現在の彼は、母親と2人で、海を見下ろす蜜柑山の中腹に建てられた、古い大きな家で暮らしている。
 すでに亡くなっている彼の父親は、町役場の職員だったということだ。それで月々の母親の年金と、人に貸している山と畑の小作料で、彼はスーパー丸栄の少ない給料でも、充分に裕福に暮らしていると、その台所事情まで、噂話は続いた。
 1日に7時間、重い商品を台車に乗せて、店内まで運び、陳列台に並べる作業は、悦代の体に堪えた。何よりも、外気との温度差の激しい冷蔵庫と冷凍室の出入りは、疲れを倍増させる。
 そんな悦代に、保坂食品係長は優しい笑みを浮かべて、「無理をすると、体を壊します。あとは僕がしますから、ほどほどにしてください」と言う。 
 目の前の背の高い男に、妻も子どももいないのだと知って、彼女の心臓は高鳴った。


  5
 その朝、いつものように、冷蔵庫の中の豆腐やこんにゃくを台車に乗せていると、事務所のほうから、太田店長の怒声が聞こえてきた。
 前日の思わしくない売上高の数字を、事務所のコンピュータ画面で確かめたのちに、誰彼かまわず怒鳴り散らすのは、彼の朝の行事のようなものだ。しかし、今朝の彼の声は、少し違って聞こえてきた。
「恵子ちゃんが……、いや失礼、奥さんが、失踪された状況には、確かに同情はしますが、ある日突然に、恵子ちゃんに……、いや失礼、奥さんに職場放棄された、こちらの迷惑というものも、考えてもらえませんかねえ」
「店長さん、この店で働いていた者が、行方不明になっとるというのに、そういう言い方は、あんまりだ」
 続けて聞こえてきた声は、こちらも太田店長に負けまいとして、声を張り上げている。しかし、裏返った声は、細く甲高い。そして、語尾が消え入りそうだ。太田店長のように、普段から、大声で人を恫喝することに、慣れていないのだろう。
 石野恵子の名前が聞こえてきたものだから、興味が湧いて、仕事を中断した悦代は、事務所を覗きに行った。
 他の従業員達も、考えることは同じだった。事務所の前の細い通路の壁に張りつくようにして、すでに、何人もが聞き耳を立てている。悦代の姿を見て、場所を空けてくれたのは、中で話題になっているのが、彼女の仕事の前任者だったからだ。
「そういう言い方は、奥さんの失踪に、うちの店が、なんか、関係していると、聞こえるんですがねえ」
「そんな……。もう少し、誠意のある態度を見せてもらえたらと、お願いしとるんです」
「探せ、探せと言われるが、すでに、失踪届も出しているのなら、そこからは、警察の仕事と違いますか? それとも、奥さんは、どこぞの誰かと、遠く離れた地で、自由気ままな新しい生活を、始めているとか。知らぬは亭主ばかりなり、という言葉もあるでしょうが」
「その誰かというのは、店長さん、あんたのことだと、教えてくれる人もおって」
「失礼な! それ以上言うのだったら、こちらも、それなりの対処を、とらせてもらいますよ。開店の時間をひかえて、見ての通り、こちらも忙しいんです。おい、保坂。石野さんが、もう、帰られるそうだから、出口を教えてやれ」
「出口くらい、わかっとります。どんな些細なことでも、ええですから、うちのについて、わかったことがあったら、連絡をください。待っとります」
 気弱な声の持ち主が、事務所から姿を現す前に、聞き耳を立てていた従業員達は、蜘蛛の子を散らすように、自分たちの持ち場に戻って行った。


  6
 悦代の担当する、食料品をストックした冷蔵庫と冷凍庫は、人がすれ違うのがやっとという、狭い通路の突き当たりに並んでいる。
 古い大型冷却機で、常に室温を4度に保っている、6畳の広さの冷蔵庫と、その半分の広さのマイナス20度の冷凍庫。通路の突き当たりということもあり、この場所に、好んでやってくる従業員はいない。納品業者と保坂食品係長と悦代、そして、暇を持て余した太田店長が、時々、覗きに来る。
 それで、近づいてきた男の気配に、悦代は気づかなかった。
 後ろから、ぬうっと伸びてきたその男の手は、悦代が持ち上げるはずだった、豆腐の入ったキャリーを、台車の最上段に軽々と乗せた。
「せっかく来たもんだから、うちのが働いていたところを、見せてもらおうと思って……」
 事務所から、太田店長の声に混じって聞こえていた、もう1つの声の持ち主だった。声から受けた印象と変わりない、そのみずぼらしい姿に、名乗らなくても、石野恵子の夫だとわかった。
 彼の職業は、塗装関係だろうか。色褪せた青色のツナギに、ペンキが飛び散り、まだら模様を作っている。スーパーで働き、そして育児と家事も一手に引き受けていた主婦を失っては、洗濯も滞るのだろう。汚れた服からすえた臭いが漂ってくる。
「豆腐やコンニャクは思いと、うちのがいつも言うとったが、ほんとやなあ」
「あっ、すみません」
「重いのと冷たいのとで、大変やとは聞いとったけど、そんなに辛かったんなら、相談してくれても、よかったんや。女房に働いてもらわんと、やっていけん甲斐性なしの亭主やと言われたら、言い返せんけど、突然、3人の子どもまで置いて消えてしまうのは、ひどい話でしょうが。あんたも、気いつけて、働かんとなあ」
 太田店長を前にしては出なかった言葉が、悦代が相手だと、堰を切ったように湧いてくるようだ。
 気をつけることが、仕事の内容のことなのか、男女関係のことなのかわからなくて、悦代は、曖昧に答えた。
「うちは、働き始めたとこで、知らんことばかりで」
 その言葉が聞こえているのか、いないのか、ドアから首を突っ込んで、しばらく冷蔵庫の中を見ていた彼は言った。
「こっちのドアが冷凍庫ですか。こっちも、ちょっと、覗いても、ええですか?」
 スーパーの裏手にある、アスファルトで固めた納品業者専用の駐車場に叩きつける雨音が、開け放した検収口から、通路まで伝わって来る。狭い通路の三方の壁に、雨音は反響して、まるで、どしゃぶりの雨の中に立っているようだった。蒸し暑く、じっとしていても、汗が噴き出してきた。
「うわっーー!」
 悦代の許可を得たものの、なぜか、怖々と冷凍庫のドアノブに、手をかけた石野の夫だった。しかし、、細くドアが開いた途端に、彼は、短い悲鳴をあげて、あとずさった。
 冷凍庫のマイナス20度の冷気が、外気の湿気に触れて、一瞬にして、真っ白な霧に変わった。それが、爆風のように、ドアを内側から押し開いて、外に漏れ出したと、石野には思えたのだろう。
「これは、ひどい……」、あわてた石野は、冷凍庫のドアを閉めると、汚れた作業服の腕を振りまわして、顔の前の霧を払った。「うちのが、冷凍庫に出入りするのが、一番嫌だと言っていたのが、よくわかる。毎日、商品を入れたり出したり、まるで、砂の城を築くようなもんだと言っていた。あんたも、大変なところで、働き始めたもんだ」
 そう言ってから、石野がドアを閉めたために、白い霧は、ゆっくりと下りて来て、通路に溜まり始めた。
 初出勤の朝に、店内の冷凍食品陳列台の前で、冷たい手に足首をつかまれた、おぞましい感覚がよみがえる。いまも、死人のようなぞっとする冷たい手が、悦代の足を撫で回し、そして、足首をつかもうとしている。それは、きっと、足に噴き出ていた汗が、冷気に触れて、冷えたせいだろうと思われる。しかし、働き始めて、もう、2か月が過ぎたというのに、悦代は、冷凍庫のドアを開けるたびに襲われる、この感覚に、慣れないでいた。
「忙しいところを、時間をとってしもうて、すみませんなあ」と、石野の夫は言った。
「あっ、こっちこそ、手伝ってもらって」
「うちのやつのことで、どんなことでも、わかったことがあったら、教えてください。連絡を待っとります」
「役に立てたら、ええのやけど……」
 悦代の言葉に、首振り人形のように、石野の夫は、何度も頭を下げた。それから、彼は、両肩を右や左の壁にぶつけながら、ふらふらと、従業員出入り口のほうへと歩いて行った。
 冷凍庫から溢れ出た白い霧は、悦代の足には、興味がなくなったようだ。今度は、床を、這い始めた。狭い通路を這うように流れる白い霧は、もやもやとした、白い帯のように見える。それはまた、ずるずると這う、白い蛇のように見えなくもない。
 石野の夫を追いかける白い蛇から、悦代は、しばらく、目が離せないでいた。
 

  7
 この夏、悦代の体調はすぐれない。急激な気候の変化についていけないせいもあるし、スーパー丸栄での、慣れない仕事のせいでもある。
 初めて経験する、ストック用冷蔵庫とそれ以上に凍えそうな冷凍庫への頻繁な出入りの繰り返しは、彼女の自律神経を狂わせた。体中の関節が、音を立てて痛む。そして、心を閉ざす幼い娘の真美を、口煩い姑のタネ子に預けていることも、また、彼女の心を重くさせた。
 夕方、仕事を終えて、重い足を引きずって家に帰りつき、スーパー丸栄で買ってきた、出来合いの総菜を食卓に並べて、風呂に入れば、もう、彼女の体は、電池の切れた玩具同然の代物になってしまう。何キロか、痩せもしたようだ。制服のウエストが、緩くなっていた。
 それでも、朝になって、這うように起きだして、出勤する。そして、保坂食品係長の顔を見て、その声を聞けば、彼女の体は、コマネズミのように動き出す。
 保坂食品係長への漠然とした想いは、彼女の頭から、日々の生活で蓄積される嫌な事柄を、追い出してくれる。もしかしたら、日々の嫌なことをことを忘れるために、彼女は、保坂食品係長を中心に据えた、妄想の世界にすがりついているのかもしれない。
 週に2日ある公休日に、身体は休まるが、心が休まらない状態に、彼女は戸惑うしかなかった。


  8
 冷凍食品卸会社『アサヒ冷食』の安井は、週に1度、スーパー丸栄本通り店にやってくる。
 そして、彼は、3畳ほどの広さのストック用冷凍庫の中を、冷凍食品が入った段ボール箱で、いっぱいにする。時には、冷凍庫のドアを開けると、積み重ねられた段ボール箱で、壁ができていたということもあった。
 保坂食品係長は、悦代に、「冷凍食品の管理は、発注もストック内の在庫管理も、安井さんにまかせてあります。芳川さんは、店内の陳列台が品薄になった時だけ、補充してしてください」と、言った。
 しかし、安井によって卸された商品の多さと、冷凍庫内の乱雑さで、補充しなければならない目当ての商品を探し出すのが、大変だ。そのために、1日の仕事の終わりに、冷凍庫内の整理整頓をしなければならない。
 段ボール箱を、商品の種類によって、右の壁に左の壁にと分けて積み直す。冷凍庫内はマイナス20度だから、あまり長くは中にいられない。梅雨が明けて、冷凍食品の中に、売れ筋の冷凍枝豆やロックアイスが増えたこともあって、冷凍庫の片づけは、もはや、悦代のサービス残業となっていた。
 時々は、保坂食品係長もやってきて、その端正な顔を曇らせ、「これは、特売セールをして、はかさんといけませんねえ。大丈夫です。半額にすれば、すぐに売れてしまうでしょう」と、言う。その言葉通りに、半額見切り品のシールが貼られる生鮮食品と、この冷凍食品の特売で、夕方になると、スーパー丸栄本通り店は客で賑わった。
 ちまちましたデスクワークの嫌いな太田店長は、自分はあちこちで、お気に入りのパート従業員達とのお喋りに時間を潰しながら、後輩の保坂に仕事を押しつけていた。
 それで、保坂食品係長は、業務中の大半を、伝票を山のように積み上げた机に向かって座り、本部に提出する書類に数字を書き込むのに、忙しい。そのために、彼は、自分の仕事である、商品管理にまで、手を回す時間がなかなかとれないでいる。冷凍食品の管理を、発注まで含めて、卸し業者の安井に任せているのは、そのせいなのだろう。
 しかし、この頃には悦代にも、商品の仕入れを卸会社の社員にまかせきりにしたり、定価販売の卸値で仕入れた商品を特売で処分するということは、スーパー側が損をするのだということがわかるようになっていた。
 忙しい保坂食品係長の足元を見透かした、『アサヒ冷食』の安井の納品の仕方に、文句の1つも言いたいところだが、しかしながら、それは、悦代の仕事ではない。彼女に出来るのは、サービス残業をして、冷凍庫内を片づけることくらいだ。
 しかし、冷凍庫内の奥がやっと覗けるくらいに片付いたころに、安井はやってきて、再び、なんの遠慮もなく、商品を詰め込んでいく。失踪した石野恵子の夫が、妻の言葉として言っていた、「まるで、砂の城を築くような仕事」とは、このことだったのかと、この頃では、悦代も納得するようになっていた。
「今週も、あいかわらず、よく売れているじゃないですか。さすが、天下のスーパー丸栄さんだ」
 突然、後ろから、安井が声をかけてきた。
 冷凍庫のドアを開け放しいたので、古い冷却機が、あえぐような騒々しい音を立てていた。それで、彼女は、安井が後ろに立っていたことに、気づかなかった。
 汗染みの浮いたシャツを着た安井は、薄笑いを浮かべつつ、いつものように、心のまったくこもっていないお世辞を言った。やっと片づけたところに、また商品を押し込む気でいるのだろうと思うと、悦代も言い返したくなった。
「今週は、ずっと、冷凍食品の半額セールをしてたから」
「へえ、そうなんですか。じゃあ、これからも、この調子でよろしくお願いしますよ。なんせ、スーパー丸栄本通り店さんは、わが社の上得意様ですからねえ」
 悦代が、これ以上は言い返せないことを知っていて、安井は、他人事のように答えた。悦代の遠慮がちな皮肉が通じる男ではなかった。
 そして、悦代の肩越しに、彼女が片づけて、やっと奥まで見渡せるようになった、冷凍庫内を覗いた。今日は、どのくらいの商品を卸したらよいのかと、目算しているのだろう。
「あらら、保坂さん、まだ片づけていないのか。いつまでも、冷凍庫の中に、私物を置いちゃって」
 冷凍庫の一番奥に積み重ねられている2つの小さな段ボール箱を見て、彼は言った。
 その箱は、横幅は40センチで奥行きも30センチ、そして高さは30センチほど。側面には、この町の名前と、蜜柑の絵が赤い色で印刷されている。蜜柑の産地のこの町で、冬になるとどこでも見かける、段ボールで出来た蜜柑箱だ。それが、冷凍庫の奥に2つ、几帳面に角を揃えて、積み重ねて置かれている。
 しかし、その箱が、安井の卸す冷凍食品の入った段ボール箱と容易に見分けがつくのは、白いビニール紐で、しっかりと縛られているからだ。太くて白いそれは、、十文字の形で、何重にも箱に巻きつけられ、解くのが不可能なほどにかたい結び目でくくられている。箱を開こうと思えば、まずはその紐を切るための、鋏が必要だった。
 冷凍庫内を片づけている時に、悦代も持ち上げたことがある。毎日、牛乳や豆腐やコンニャクの入った箱を持ち上げていると、だいたいの重さの見当がつくようになっていた。1つの箱の重さは、10キロくらいか。
 それが、冷凍庫の一番奥に積み重ねられいて、こうして片付いて奥まで見渡せるようになった時だけ、その姿を見せるのだった。
「釣った魚が入ってるって、保坂係長さんが言ってた。係長さんは、魚釣りが、趣味なんやて」
「そうそう、保坂さんは、おれにも、そんなことを言っていたなあ」 
 太田店長と、そして取引業者にさえいいように利用されている保坂食品係長は、毎日毎日、手いっぱいの仕事を抱えている。そのために、公休日にも、彼は休めない状態だ。
 そんな彼の唯一の楽しみは、たまさかに訪れる休みの日に、家から見下ろすことのできる小さな入り江に船を浮かべての釣りなのだと、悦代は彼から直接聞かされたことがある。小さいながらもモーター付きの自分の船を持っているのだとも、彼は言った。
 そんなささやかな楽しみを、彼は遠い目をして、悦代に話してくれたことがあった。
 あの日、いつものように退社時刻を過ぎてから、冷凍庫内の片づけをしていたら、スーパーの駐車場にある自販機で買ったらしい冷えた缶コーヒーを2つ持って、保坂食品係長がやってきた。
「いつもすみませんねえ。あとは、僕がしておきますから、芳川さんは早く帰ってください。家では、小さいお子さんが待っているのでしょう?」
 そう言って、彼は手にしていた缶コーヒーの1つを悦代に渡すと、狭い通路に背中をあずけて立ち、もう1つの缶コーヒーを自分で開けて、そして一口飲んだ。
 あの時も、開いたドアから冷凍庫の奥が見渡せて、積み重ねられた、白い紐で縛られた段ボール箱が見えたのだった。そして、冷凍庫のドアを閉めようとした悦代の背中に向かって、彼は、たいしたことでもないという口調で言った。
「ああ、あの奥の箱には、僕の個人的なものが入っています。というか、釣れ過ぎた魚や残った釣り餌を、ちょっと、置かせてもらっているんです」
「あっ、係長さんは、釣りが好きやったん?」
「そうなんですよ。いまのところ、僕の唯一の楽しみと言っていいかなあ。でも、喜んでいいのかどうか、たまに釣れ過ぎて、困ってしまって。それで、しばらくの間、箱に詰めて、ここに置いているんですけれどね。店の冷蔵庫や冷凍庫を、本当は、私物保管に使ってはいけないですが……」、そう言って、言葉を切ってから、彼は笑いながら言った。「だから、店の他の人達には、内緒にしていてください」
 引き込まれそうな、保坂食品係長のくったくのない笑顔と、それから、彼の口から出てきた、「内緒にしてください」という親しげな言葉は、身が震えるほど、悦代には嬉しく感じられた。
 冷凍庫のドアを閉めて、保坂食品係長と並ぶように立ち、彼女は、缶コーヒーのプルトップを開けた。本当はもったいなくて、飲みたくなかった。できることなら、こうして、彼と親しく話せた今日の記念として持ち帰り、毎日溜め込んでいる、あの手書きの指示書とともに、隠しておきたいと思う。
「内緒と言われても、うちには、そんなことを話す親しい人、この店にはいないから」 
 悦代の言葉を聞いているのかいないのか、彼は、ふと、遠い目をした。その横顔を盗み見て、きっと、彼は、入り江に浮かべたボートで、独り釣りを楽しむ自分を想像しているのだろうと、彼女は思った。
「そうだ、芳川さん。僕の釣った魚、いりませんか?」
 そう言って、悦代の姑の生業が、魚の行商であったことを思い出したのだろう。再び、彼は、楽しそうに笑った。
「あっ、芳川さんに、魚は必要なかったですね。この町の人は、釣った魚なんか珍しくもない人ばかりで。それに、1度、冷凍したものをあげるのも気がひけるし。母と2人暮らしでは、食べきれない時もあって。それで、次の釣りの時に、撒き餌として、海に捨てることもあるんです」
「ああ、海に返すんやねえ」
「海に返す?」
「海でとれたものは、海に返してやらんと」
「あっ、芳川さんって、いいことを言いますねえ。そう、海に返すんです。そうやって、あの箱も、そのうちに片づけますから。でも、なかなか休みがとれなくて、最近は、好きな釣りに行くこともできません」
 2人でそんな話をしたあの日は、段ボール箱が、確か4つあった。
 いまは、2つに減っている。先日にやっととれた公休で、保坂食品係長は久々の釣りを楽しみ、そして、2つの箱の中身を、海に返したのだろう。
「本店の監査でも入って、見つかって、箱の中を見られたら、面倒なことになると言っているのに、本当に、どうしようもなく、呑気な人だなあ、保坂さんは。まあ、それがこちらには、ありがたいところでもあるって訳で……。自分が卸した商品と間違えて、おれは、あの箱の中身を、ちょっと拝ませてもらったことがあるけれど。あっ、忠告しとくけれど、あんたは見んほうがええよ。うん、見んほうがええなあ、絶対に。さてと、その呑気な保坂さんに、これからちょっと挨拶でもしてくるか」
 安井は、軽く口笛を吹きながら、去って行った。その後ろ姿が、まるで、子どもがスキップでも踏んでいるかのように、嬉しそうに、上下に弾んでいた。保坂食品係長と、よほどいい商談をするつもりに違いない。
 冷凍庫の中を見て、悦代は溜め息をついた。これ以上片づけても、安井を喜ばせるだけだ。


  9
 保坂食品係長の背の高さ、ハンサムな顔立ち、パート従業員にも丁寧な言葉で話しかける優しさ、そして妻に逃げられたという気の毒な環境、病弱な母親との2人暮らし、そのどれもが、悦代の心をとらえた。しかし何よりも、彼の家が、蜜柑山の中腹にあるということを知った時、彼への秘めた片想いは、彼女の心の中で、戻りようのない一線を飛び越えた。
 町を見下ろす場所に住んでみたいという思いは、物心ついた時から、彼女の心の中にある。
 自分の生活、いや人生そのものが貧しいのは、見下ろされる場所に住んでいるからだと、幼い頃に根付いた思いは、いまだに彼女の心の中にある。地べたに這いつくばるように、その日の暮らしにあくせくしている人間を、高い所から、悠然と見下ろしてみたい。そうすれば、自分の人生そのものが、変わるような気がした。
 5人兄弟姉妹に挟まれて育った、貧しさの象徴のような6畳2間と4畳半1間のアパートは、車も乗り入れることの出来ない、細い路地の奥にあった。裏町という言葉そのものの界隈だった。
 そしてタネ子の若くして死んだ夫が残した、トタン屋根の今の家も、生まれ育ったあの安アパートと、変わったところはない。窓から手を伸ばせば、隣の家の軒先に触れることができ、ごちゃごちゃと植え木鉢を並べた場所を、見栄をはって裏庭と呼ぶのも同じだ。
 そのうえに、タネ子の家は、目と鼻の先に、ドブと磯の混じった臭いを漂わせる、新立川の河口がある。海に近いということは、この町で、もっとも低い場所だということだ。
 保坂食品係長が母親と2人で住んでいる、蜜柑山中腹の家を見てみたいという思いは、彼女の心の中で膨らんだ。
 真美を自転車の後ろに乗せて、噂で聞いた道順を頼りに、蜜柑山の坂道を登った。
 真美を連れてきたのは、人の家を覗き見する後ろめたさがあったからだ。スーパー丸栄の顔見知りの誰かに出会って、「なぜ、家からは反対方向の、この道を歩いているのか?」と聞かれても、真美と一緒なら、子どもの気まぐれのせいにして、咄嗟の言い逃れができる。
 蜜柑畑を縫うような細い山道は、車で走れるように舗装はされていたが、真美を乗せた自転車を漕いで登るのは大変で、途中から、押して登らなければならなかった。背中を汗が流れ、ブラウスが濡れた。
 しかしそれは、時おり吹き抜ける風にすぐに乾く。蝉の鳴き声が、やかましいほどに賑やかなのに、山そのものは、静寂だ。
 5月に花をつけた散らせた蜜柑の木は、いまは、ピンポン玉ほどの大きさで、葉と同じ色の実をつけていた。花の甘い匂いの季節は去ったが、いまは、緑色の爽やかな香りがする。
 保坂食品係長の家は、長く続く白い土壁と、たくさんの庭木に囲まれた、和風の平屋建てだった。
 病弱な母親と2人暮らしと聞いて、なんとなく想像していたよりも、ずっと大きな家だった。自分の知っている範囲以上には、人の想像というものは膨らまない。目の前の想像を超えた家の構えに、悦代は顔が火照った。
 それもあって、1度目は、保坂家の前で、立ち止まることさえ憚られて、脇目もふらずに足早に通り過ぎた。そして、少し行って振り返って見た家の、覆いかぶさるような銀色の日本瓦の美しさに、見とれた。
 視線を移せば、これは想像通りに、蜜柑山の中腹から、スーパー丸栄のある本通り商店街を中心にして立ち並んだ家々が、ミニチュア玩具のように小さく見える。自分の家は?と探したが、あまりに小さく建て込んでいて、探し出すことはできなかった。
 乱雑に並べた積み木のような家並みの向こうは、保坂食品係長が、たまさかの休日に、釣り糸を垂れる入り江があって、その後ろは、悦代がまだ行ったこともない外国へと続く、広い海が広がっていた。
 2度目は、通り過ぎながら家の中を覗くと、半分巻きおろした簾の下に広縁があって、その奥に薄暗い座敷が見えた。家の中に、部屋の数はいくつあるのだろうと、悦代は思う。
 うっそうと生い茂る庭木が、蜜柑山に溶け込んでいる。その家で営まれている、保坂家の豊かで静かな暮らしぶりを想像して、その日から、悦代の、ますます寝苦しい夜が続いた。
 3度目は、家の前でしばらく立ち止まって、前庭に植えられた、赤い花に見とれた。しかし、玄関から出てくる人影に気づき、あわてて足早に去った。
 4度目は、吐く初を、頭の後ろで丸くまとめたワンピース姿の女が庭に出て、その赤い花に水を撒いていた。きっと、保坂食品係長の母親なのだろう。病弱と聞いていたが、日常の家事をこなすほどには元気なのだと知って、自分の身内に感じるような嬉しさを覚えた。
 その頃には、蜜柑山を吹き渡る爽やかな風に、秋の気配が混じるようになっていた。容赦なく照りつけていた夏の陽射しも優しくなり、その下で、悦代が、その名前を知らない赤い花は、色鮮やかに咲き誇っている。
 このように、他人様の家を覗き見する母親の密やかな楽しみを、父親の昭一や祖母のタネ子に言わないようにと、悦代は真美に口止めした。しかしそうしなくても、真美は、聞かれないことを自分から話す子どもではない。
 

  10
 ちょうどその頃、『アサヒ冷食』の安井が、スーパー丸栄本通り店に来なくなった。 
 毎週、『アサヒ冷食』から、安井とは違う顔の社員がやってきて、冷凍食品を卸して帰る。担当者が変わったのであれば、悦代に挨拶くらいはあるはずだし、保坂食品係長から、話もあるだろう。安井は、病気療養中なのだろうか。知りたくもあったが、彼らは、安井と違って、悦代に話しかけることもなく、仕事を終えると、あたふたと忙しそうに帰って行った。
 そういうことが、1か月ほど続いたある日、悦代事務所に呼ばれた。顔だけは知っている『アサヒ冷食』の営業部長と、初めて見る色白で気の弱そうな若い男が、保坂食品係長とともに、悦代を待っていた。
「安井さんが来られなくなって、アサヒさんの担当が変わりましたので、芳川さんにも、紹介しておこうと思います」
 そう言って、保坂食品係長から、若い男を紹介された。見かけどおりに内気な性格のようで、紹介された彼は、椅子から立ち上がりもせず、ぺこりと頭を下げただけだった。 
 『アサヒ冷食』の、営業部長は言った。
「保坂係長さんと芳川さんには、当社の安井のことでは、ご迷惑をおかけしております。申し訳ございません。それにしても、安井は、いったいどこで何をしておるのやら」
 『アサヒ冷食』の関係者や、保坂食品係長には周知のことであった話なのだろうが、安井が病気療養中ではなく、失踪したのだということを、悦代はその言葉で初めて知った。
 乗り捨てられていた安井専用の保冷車が、隣町の山中で、紅葉狩りに来た若者たちのグループによって、発見された。無数の赤や黄色の落ち葉が、無人の車体に貼り付いていたとのことだ。そして、得意先に卸す予定だった冷凍食品は、車の中で、解け腐り始めていた。
 それで、今までは、世間体を考えて、緘口令をしいていた『アサヒ冷食』としても、社員の失踪を公にすることにした。車の状態や、安井の勤務表からみて、安井の失踪は1か月前のことだと、営業部長は言った。それは、彼が、スーパー丸栄本通り店に来なくなったのと、同じ頃だ。
 山中に車を乗り捨てたのは、この町を離れるにあたって、少しでも、時間を稼ぎたかったのだろうと、『アサヒ冷食』の営業部長は言った。
「ギャンブルにのめり込んで、あちこちに、借金があったようで。金策尽きて、危ない筋にでも追われて、この町から、逃げ出したのでしょうなあ」、それから、彼は、自分の横に座っている若い男を、思い出したようだった。「おい、芳川さんに、ストックを見せてもらってこい。無口で、気の利かないところもある男ですが、仕事のほうは、いたって真面目ですので、今までと変わりなくよろしくお願いします」
 安井が行方不明と知って、悦代が彼の安否を気遣ったのは、事務所にいたあいだのことだった。
 安井の後任になる若い男を従えて、ストック用冷凍庫のある場所に向かうちに、彼女の胸の中では、安堵の気持ちのほうが大きくなっていた。一歩一歩と歩みを進めるうちに、足取りが軽くなる。空中へと続く透明な階段を、登れそうな気分だ。
 安井はこの店に来ると、冷凍庫の片づけをしている悦代に見え透いたお世辞を言い、それから事務所の保坂食品係長を呼びだすと、店から離れた、納品業者専用の駐車場の片隅で、立ち話をする。2人で、缶コーヒーを飲んだり、煙草を吸ったりしながら、話し込んでいる姿は、スーパーの社員と卸し会社の担当者が、一息入れながら商談をしているように、遠目には見えた。
 話の内容までは、聞きとることはできなかったが、そういう時の安井の顔は、いつもの小賢しさが一段と増して、饒舌になっているように、悦代には見えた。遠目ながら、安井のその顔と態度に、保坂食品係長を困らせているとまで見えたのは、社内規定違反を犯してまで、納品の管理を任せているという事情を知っている、悦代だからだろうか。
 保坂食品係長の顔が暗いのは、葉を繁らせた木の陰に立っているせいだけでは、ないように思える。悦代が初出勤の日に初めて見た、仮面をかぶったような、あの時の彼の顔を思い出す。
 安井がいなくなって、何よりも、保坂食品係長のあの暗い顔を見なくてよくなったのだと思うと、彼女は嬉しかった。『アサヒ冷食』の新しい担当者に説明する自分の声が、突き当たりの狭い廊下に、明るく響く。
 彼女は、新しい担当者のために、冷凍庫のドアを開けてみせた。この1か月は、安井による滅茶苦茶な納品がなかったので、冷凍庫の中は、きれいに片付いている。もう、サービス残業までして、冷凍庫の中の整理整頓をしなくてもよくなったのだと思うと、自分の声も弾んで当然だろうと、彼女は思った。
「ここが、冷凍庫やから」
 悦代の言葉で、若い男は、ちょっと首をかしげて、冷凍庫の中を覗いた。そして、納得したように、頷いた。
 今ごろの若い男の子は、お愛想の1つも言えないのかと、自分のことは棚にあげて、悦代は思った。そして、その考えを、慌てて、頭の中で打ち消した。安井に懲りたあとだから、冷凍食品の担当者は、このくらい無口なほうが、ありがたい。
 若い男にも、冷凍庫の一番奥に置かれている、ビニール紐で括られた保坂食品係長の私物の段ボール箱は、見えたはずだ。しかし、彼は「あれは、なんですか?」とは、聞いてこない。悦代は、そのことも、嬉しかった。
「私物の保管は、社内規定違反だ」と、安井が教えてくれた時にあった、2つの蜜柑箱は、すでになくなっている。 保坂食品係長が持ち帰って、その中身である釣れ過ぎた魚は、母親の手によって、煮付けられたのか、塩焼きにされたのか、それとも、海に返されたのか。
 しかし、冷凍庫の中に、段ボール箱を見かけなくなったのは、ほんの少しのあいだのことで、1か月ほど前に、再び、蜜柑の絵が描かれた新しい段ボール箱が置かれた。
 いつものように、白いビニール紐で、何重にも縛られて、角をきっちりと揃えられて、冷凍庫の奥に積み重ねられたそれは、いまは3箱に減っているが、置かれた当初は、5箱もあった。
 1か月前の、その日の海は、よほどの大漁であったらしい。


  11
 天井からぶらさがっている裸電球が、積み重ねられた商品やキャリーを、薄ぼんやりと照らしている。冷凍庫内の温度は、4度。甘いヨーグルトやプリンに、納豆や漬物が混ざった湿っぽい雑多な臭いは、相変わらずだ。
 秋も深まって、悦代は、制服の上にカーディガンを羽織り、足元は、厚手のストッキングにソックスを重ねていた。それでも、冷凍庫内に、長時間こもって、商品補充の準備作業をしていると、頭上の冷却機から吹き付けてくる、4度の冷気にまともにさらされて、体の芯まで冷えてくる。
 そんな悦代を見かねたのか、牛乳の納品業者が、知恵をさずけてくれた。
「芳川さん、毎日、冷えるやろう。長時間、冷蔵庫の中で仕事をする時は、ドアを閉めたらええのよ。そうしたら、冷蔵庫の冷気は逃げんから、冷却機のスイッチも入らんわ」
「そうなん、知らんかった。これから、試してみる」
「ただ、教えてあげてから言うのもなんやけど、誰もおらんと思って、ドアを開けて、芳川さんがいたら、ドアを開けた人は、びっくりするやろうなあ」
 そう言って、彼は、自分の言葉に自分で笑った。納品に立ち寄るあちこちのスーパーで、何度も経験しているに違いない。
 その言葉に従って、悦代は冷蔵庫の中に入ると、ドアを閉めるようになった。
 確かに、冷却機のスイッチは入らず、寒さがかなりしのげるようになった。そして忠告通りに、外の通路で人の気配がすれば、彼女は、仕事を中断してドアを開けるか、物音を立てることにしている。
 しかし、この時、外の通路に響く足音に続いて聞こえてきた声が、太田店長だとわかって、悦代の手は、ドアノブにかかったまま止まってしまった。太田店長の、一方的に怒鳴り立てる声は、いまだに苦手だ。
「昨夜、石野恵子のことで、警察の人間が自宅に来た。本当かどうか知らんが、行方不明者捜索特別月間とかいうもので、形式的なものだと言っていた。あれが今どこにおるかは、本当に、わしも知らん。それでも、あれと、男と女の関係にあったことは、事実だ。面倒なことになるかもしれんなあ」
 本人は、声を潜めてはいるつもりなのだろうが、常に、相手を恫喝するような話し方しか出来ない太田店長の声は、小声で秘密の話をするのにはむいていない。断熱材を入れた冷蔵庫の熱い壁を通しても、よく聞こえた。
 その声にぼそぼそ答えているのはいるのは、保坂食品係長だ。しかし、その内容までは、悦代には聞き取れなかった。
「恵子も、俺の態度が煮え切らんからといって、なにも、亭主と子どもを置いて、家を出てしまうようなことを、せんでもええのに。おまえに、恵子の説得を頼んだのに、なんにもならんかったなあ。おまえに任せれば、あれも大人しく亭主の元に戻るかと思ったが、甘い考えのようだった。そうそう、今日の話は、これだけではない。どうも、近々、この店に、本店の会計監査が入るらしい。泣き面に蜂だ」
 悦代は、ドアを開けなかったことを、後悔した。職場の上司の秘密めいた話など、聞きたくもなかった。しかし、いまさら、自分の存在を、彼らに教える訳にはいかない。緊張に息がつまり、体が強張ってきた。
 保坂食品係長のぼそぼそと答える気配だけが、伝わってくる。それをさえぎって、初めて聞く太田店長の気弱な声が続いた。
「保坂、いまさら言ってもしかたがないが、おまえには、面倒をかけたなあ。ほんのツナギのつもりで、すぐに、穴は埋めるつもりだった。おまえが優秀な銀行員だったことが、かえって、あだになった。伝票の操作だけで、こんなに長く騙し通せるとはなあ。それが、間違いの元だった」
「……、まだ、なんとか、……」
「あんな女との腐れ縁で、店の売り上げ金に手をつけてしまった、俺が馬鹿だった。しかし、俺の横領が警察沙汰になって、新聞にでも載れば、恵子も、ひょっこりと、姿を現すかもしれん。そうしたら、あの亭主は喜ぶだろう」
「……、もう少し、……」
「いや、もうだめだ。何をやっても、手遅れだ。覚悟は出来ている。俺に頼まれて、手を貸したといえば、おまえの罪は軽いはずだ。いっそ、あの家も山も売り払って、こんな田舎町、お袋さんと一緒に出ていけよ」
 太田店長を説得しようとする保坂食品係長の声が、ぼそぼそと続いた。しかし、すでに腹の決まっているらしい太田店長は、もう、それに答えようとはしなかった。しばらくして、去っていく重たい靴音が聞こえた。
 ほっとした悦代は、つめていた息を吐きだした。息をするのも、忘れていた。強張っていた体の節々が、吐きだした息とともに緩む。
 緊張から解放された体が大きく傾いて、台車に積み重ねていたキャリーにぶつかり、3パック百円の特売納豆が、冷蔵庫の床に散らばった。
 冷蔵庫のドアが、外から開いた。
「なんで、あんたが、そこにいるんだ?」
 ドアから顔を覗かせた太田店長はそう言い、あとは言葉にならなかったようで、いまいましく舌打ちした。
 太田店長がドアを開けると同時に、冷却機のスイッチが入った。旧式の機械のガタガタといううるさい振動とともに、ゴォーッと、冷気が吹き出る。
 悦代はその音に負けないように、声を張り上げた。
「冷却機がうるさくて、うちは、何も聞いていないです」


  12
 保坂食品係長が、太田店長の不正経理に手を貸していた。
 それが、2人によって、どういうふうになされていたのか。そういうことに疎い悦代には、よくわからない。また、そのことで、太田店長がスーパー丸栄を辞めようと、警察につかまろうと、興味もなかった。
 しかし、保坂食品係長までが、スーパー丸栄を辞めるのは困ると、彼女は思う。彼が、蜜柑山のあの家を売り払って、この町を出て行ってしまったら、これからは何を楽しみに、自分は生きていけばよいのだろう。
 眠れぬままに、何度も布団の中で、悦代は寝返りを打った。
 しかし、彼女のないに等しい知恵では、解決策など思いつきもしない。ただ考えつくことは、『アサヒ冷食』の安井のように、太田店長も、その姿を、この町から消せばよい。そうすれば、すべては、彼1人が起こした不始末の結果と、世間も本店の監査も警察も、そう思うのではないだろうか。
 それにしても、人はなんとまあ、簡単に、行方不明になることだろう。
 借金で首の回らなくなっ安井もそうだが、不倫が亭主にばれそうになった、石野恵子もまたそうだ。保坂食品係長の妻でさえ、この田舎町の暮らしが嫌だという理由だけで、その姿を消したではないか。太田店長がこの町から消えれば、すべてのやっかいな問題は、かたがつきそうに思える。
 浅い眠りが、彼女を襲った。そして、夢を見た。
 見知らぬ家の、それでいてなぜか勝手を知っている台所に、彼女はいた。その広い台所の隅に据えられた、小さな流し台に向かって、彼女は立っていた。
 磨き過ぎて、光沢を失ったステンレスの流し台は、今の自分の家のものと、まったく同じものだった。流し台から目を上げれば、申し訳程度に開いた小さな出窓も、同じだった。しかし、出窓から手を伸ばせば届きそうなところに、黄色く色づいた実がたわわな、蜜柑の木が見える。それで悦代は、保坂食品係長の家の台所に立っているのだと、気づいた。
 その台所で、彼女は、魚をさばいていた。足元の青い大きなポリバケツの中には、この10年間、姑のタネ子が持ち帰ってきては彼女がさばいてきた、いろんな種類の魚が、何も見ていない目を丸く見開いていた。
 それらを、1匹ずつ取り出しては、俎板の上に乗せ、鱗をけずり、頭と尾を落とし、内臓を掻き出して3枚におろす作業を、彼女は続けていた。ポリバケツの中の魚は、さばいてもさばいても、減ることを知らない。生臭いにおいが、彼女の手や体にしみこんでいく。
「大漁だったんですよ。芳川さんには、迷惑をかけます」
 保坂食品係長が、後ろから、声をかけてきた。
 振り向くと、彼は手に、黒いビニールのゴミ袋を持っていた。ああ、そうだったのか、これらの魚は、タネ子の行商の残りものではなくて、保坂食品係長が釣ったものだったのか。そう思いながら、夢の中の悦代は喋っていた。
「係長さんの仕事は、もう、終わったんですか? ここが終わったら、手伝おうと思っていたのに」
「いやあ、芳川さんにばかり忙しい思いをさせては、申し訳ないですから。あっ、このゴミ袋、余ったので使ってください」
「あっ、すみません。でも、うちは、魚の臓物は、家の前の新立川に捨てているから。海に近いし……」
「海でとれたものは、海に返す……、ですよね」
 あの時の、自分の言葉を憶えてくれていたのだと、嬉しくなった。そしてその言葉のあと、彼は、悦代の期待通りに、彼女をその胸に抱きしめた。以前に聞いた、「芳川さんは、元気な人ですね」という、言葉とともに。
 彼は、家の中でも、職場と同じ服装をしていた。汚れで少しくすんだ白いワイシャツに、地味なネクタイ。その胸に抱きしめられていると、彼がいま終えたばかりだという仕事の内容が、まるで読みとるように、悦代には理解できた。見上げると、彼の目は優しく笑っていた。
「僕の仕事ぶりも、見てもらえますよね? 僕の後ろをついて来てください」
 広い家だった。右に左に曲がる廊下が、延々と続いていた。迷子にならないようにと、悦代は、前を歩く男の背中ばかりを、見ていた。いつの間にか、家の中の光景は、初出勤と同じ、証明を落としたスーパー丸栄の店内になっていた。
「ここです」
 廊下の突き当たりに見慣れた、冷凍庫のドアがあった。やはり、ここは、スーパー丸栄本通り店の中だったのか。台車をぶつけたへこみで傷だらけの、見慣れたドアを、保坂食品係長が開けると、中から、真っ白な冷気が溢れ出た。
「これが、いま終わったばかりの、僕の仕事です」
 彼は、冷凍庫の奥を、嬉しそうに指差す。冷気の霧が晴れたそこには、白いビニール紐で括られた段ボール箱が、角を揃えて、積み重ねられていた。
 それを見た感想を、悦代は正直に口にした。
「店長さん、こんなに小さくなって」
「いやあ、切り分けて詰めれば、こんなものですよ」
 そこで、彼女は目が覚めた。


  13
 スーパー丸栄本通り店のレジの近くに、お歳暮商品のコーナーが設けられた。客が押して回るカートの中身も、肉や白菜や豆腐などで、かさ高くなっている。鍋物食材の品切れを起こさないようにとの、保坂食品係長手書きの注意書きが、冷蔵庫のドアに貼られた。
 数日前からの寒波襲来で、特売のキムチがよく売れている。ご近所のここ数日の夕食は、申し合わせたようにキムチ鍋なのだろうと、想像しながらの商品補充は、いつもであれば楽しいものだ。しかし、今朝の悦代は、それどころではなかった。
 太田店長が出社しなくなってから、2週間が過ぎていた。彼の妻から、夫が帰宅しないことを心配する電話が店にあって、それで店長の失踪は、従業員たちに知れ渡るところとなった。
 彼の言動が、しばらく前から変化して、彼が物思いにとらわれているらしいことは、従業員の誰もが気づいていた。大きな声で、誰彼に当たり散らさなくなっていた。ぼんやりと、店内を、徘徊することが多くなっていた。赤黒くゴルフ焼けしていた彼の顔が、青白くなってきていた。
 彼が、伝票と端末機を操作して、かなりの額の売り上げ金を着服していたことは、すでに、従業員の誰もが知っている。
 太田店長は、用意周到に、この日が来るのを待っていたのだろう。春に同じように失踪している元従業員で、不倫関係にあった石野恵子と、今ごろ、彼は一緒に暮らしていると、従業員の誰もが考えている。横領を誤魔化しきれないところまできて、彼は、愛人の待つ地で、新しい生活に飛び込んだに違いない。
 それで今朝、開店前に従業員が呼び集められ、今では店長代理も兼ねている保坂食品係長から、本店監査部社員の2人を紹介されて、これから彼らがこの店ですることを告げられた時、従業員達は皆、驚きもしたが、すんなりと納得もしたのだ。
 悦代だけが、太田店長の、本当の居場所を知っている。
 彼は、変わり果てた姿になって、段ボール箱に詰められ、冷凍庫の中にいる。2週間前に、再び、保坂食品係長によって、箱が6個、冷凍庫の中に置かれた。小柄な安井が5箱なら、大柄な太田店長は6箱になるだろうと思っていたので、その通りだったことが、不気味と思うよりも、悦代には面白く思えた。
 それで、段ボール箱を見つけた日、悦代は、保坂食品係長をからかった。
「大漁だったんやねえ」
 言ったあとで、媚を含んだ、馴れ馴れしい自分の声に驚いた。
 しかし、彼は気にもとめない様子で、頭を掻きながら、本当に困った顔をして答えた。
「そうなんですよ。あの日は、海に出ている間、入れ食い状態でした。釣れ過ぎた魚、誰かもらってくれそうな人に心当たりありませんか?って、あっ、また、こんなこと聞いてもしかたがないですよね。芳川さんには、迷惑をかけないように、すぐに片づけます」
『アサヒ冷食』の安井に、呑気すぎるとまで言われた彼だが、今回は珍しく早い片づけに取りかかっていた。2週間で、6箱のうち5箱が、あっというまになくなった。
 しかし、店長不在のために、ますます、仕事に追われることになった彼にとって、今朝の突然の本店監査は、想定を超えていたようで、最後の1箱がまだ残っている。
 事務所内で、伝票や書類の監査が終わったら、ストック置場の在庫チェックもあると、朝礼で、保坂食品係長は言葉を続けた。
「従業員の皆さんも、本店から来られた監査の人の仕事がしやすいように、お忙しいこととは思いますが、仕事のあいまに、ストックの整理も、心がけるようにしてください」
 そう言いながら、保坂食品係長は、何事かを伝えたい目で、自分を見つめているように、悦代には思われた。きっと、彼は、あの段ボール箱が気になっているのだ。「人目に触れぬように、片づけて欲しい」と、その目は、そう頼んでいるのに違いないと、彼女は思った。
 それで、店の床に膝をついて、瓶詰キムチを並べながら、彼女は心がここにあらずの状態だった。
 保坂食品係長はずっと事務所にこもって、本店社員の2人に伝票を見せたり、端末機のモニターの数字を指差して、説明したりしている。彼に、あの箱を持ち出せる自由な時間はない。ストック置場のチェックが始まる前に、あの箱を、誰にも気づかれないように、持ち出す方法はないものだろうか。
 しかし、たとえ無事に店外に持ち出すことが出来たとしても、それは、どこにでも置いておける代物ではない。家に持ち帰ってもよいが、解け始めたら、ひどく臭うのだろう。そしてどう考えても、家庭用冷蔵庫の冷凍室に、あの箱は収まりそうにない。たとえ箱を開けて、その中身を取りだしたとしても……。
 その時、ふいに、後ろから肩を叩かれた。
 家に持ち帰った段ボール箱のビニール紐を切って開け、その中の黒いゴミ袋に入れられているものを1つ1つ取り出してと、あまりにも具体的に考えていた彼女は驚いて、床から10センチは飛び上がったはずだ。持っていたキムチの入った瓶を落とすことだけは、かろうじてまぬがれた。
 振り返ると、夫の昭一が立っていた。
 地元の運送会社でトラックの運転手をしている彼は、夜通しトラックを走らせて、早朝に帰ってきた。そのまま、「今日の仕事は休みだ」と言い、布団にもぐりこんだ夫に、幼稚園から帰って来る真美の面倒を見るように頼んで、彼女は家を出てきた。
 その夫が、スーパーの開店と同時にどうしてここにいて、そして、にやにやと笑いながら立っているのか。
「忙しいところを、ちょっと……。すまんなあ」
 ひと眠りして、すっきりした顔の昭一が、妻の文句を封じ込めるために計算された笑顔を見せて、立っている。
 出会ってそしてこの10年間、この「おまえだけが頼りだ」とい、う無邪気をよそおった笑顔に、騙され続けてきた。今では、悦代もよくわかっている。彼がこの笑顔を見せる時は、ろくでもない頼みごとか下心のある時だ。
「どしたん? 真美に何かあったん?」
「真美は、幼稚園に行っている。あとのことは、お袋に頼んであるから、心配せんでもええ。それよりもなあ、ちょっと、金を都合して欲しいのよ。ここ、今日が給料日やったろう」
 その言葉で思い出した。隣町のパチンコ店が、最近、リニューアルオープンしたことを。「こづかいがないのなら、パチンコになど行かんでもええことやろうに」、そう言おうとしたが、同僚や客の目がある店内で、夫婦の言い争いはしたくない。というか、今はとてもそういう気分ではない。
 大きな問題を抱えた彼女には、考える時間が必要だ。なにがしかの金額で解決するのであれば、昭一には早くこの店から出て行って、パチンコ店でもどこでも行って欲しかった。
「いくら? 店の入り口にあるATMで下ろしてくるわ」
「恩にきるで。そのうちに、絶対に返すよってにな」
 彼は、右手の人差指から薬指までの3本の指を上げて見せ、それから妻の顔色をうかがって、薬指を折り曲げた。
 目の前に突きたてられた昭一の指を見ていて、突然、悦代は閃いた。彼の勤める運送会社は、この町でとれる海産物も扱っている。ナマモノを扱うのであれば、会社の中には、この店のような、ストック用冷凍庫もきっとあるに違いない。そうだった、思い出した。そんな話を、昭一から聞いたことがある。
 そこへ、あの箱を移せばよい。廃棄ゴミを入れるビニール袋に入れて、台車で、スーパー裏手にあるゴミ置き場まで運べば、毎日のように、売れ残り食品を廃棄しているス−パーで、その中身についてとがめる者はいないだろう。
 運のいいことに、今日の従業員たちはみな自分の仕事に忙しく、またゴミ置き場は、ゴミ収集業者以外には、人の出入りのない場所だ。
「お金をあげるかわりに、ちょっと頼まれて欲しいことがあるんやけど。店の裏に、車を回してくれる?」
「ええぞ、なんでも任せてくれ。そしたら、やっぱり、これで頼むなあ」
 1度折り曲げていた薬指を、昭一はまた上げてみせた。


  14
 切り落としたサバの頭と尾びれと、掻きだした内臓を、洗い桶から拾いあげて、片手鍋の中に集めた。そしてそれを持って、ゴム草履をつっかけると、勝手口から外に出ようとした。
「お母ちゃん、真美ちゃんも行く」
 勝手口から出ようとした母親の姿を見て、部屋の隅で、絵本を読むでもなくただ捲っていた真美が立ちあがって、追いかけてきた。いまだに、真美の言葉は、2つか3つの単語が連なるだけだ。そのせいか、感情を言葉で言い表せない不安を、母親にまとわりつくことで解消しようとする。そんな子どものあどけない顔がいじらしい。
 真美の乱れた前髪を、指で梳いてやってから、悦代は言った。
「お魚さんの、頭やしっぽやお腹の中のものを、海に返しにいくよ」
 差し出してきた娘の小さな手を、鍋を持たないほうの手で握りしめる。
 裏口から数十メートル歩くと、新立川の護岸壁に突き当たる。
 海から吹いてくる風はまだ冷たく頬を刺すが、水面のきらめきが、春の近いことを感じさせた。あと2か月すれば、蜜柑山に白い蜜柑の花が咲き、この町は、その爽やかな香りに包まれるだろう。
 鶏肉の唐揚で、姑のタネ子の機嫌を損ねたために、スーパー丸栄本通り店に勤めるようになって、もうすぐ1年がたとうとしているのかと、悦代はあらためて思った。いま自分がここに立っているのさえ不思議なほどに、いろいろとあった1年だが、過ぎてしまうと、あっという間でしかなかったとも思う。
 いちおうは周囲を見渡して、人影のないことを、確かめる。それからコンクリートの護岸壁の縁から、身を乗り出すようにして、淀んだ新立川の河口を覗きこむ。青緑色に濁った川底の深さは、目では測れず、魚の影も見えない。川面に浮いたビニールのゴミ袋が、同じ場所にとどまっているのは、満潮で、川の流れが止まっているからだろう。
 最近は、こんな田舎町でも、環境保全とか地球に優しくだのと煩くなっている。ゴミの分別も事細かく指定されていて、もちろん、海や川にゴミを捨てることは、禁じられていた。それで、悦代は、自分の心に、少しだけ言い訳をする。
……海からとれたものを、海に返して、なんで、悪い?……
 手を突きだして、片手鍋をひっくり返した。空中に投げ落とされたサバの頭と尾と臓物は、水面から伸びた見えない手に誘われるように、まっすぐに落ちていき、ポチャンポチャンと、だらしない水音を立てた。緑色のさざ波が、干渉しあいながら、丸く広がっていく。濁った水の色だが、落ちた物が、ゆらりゆらりと揺れながら、引き込まれていくのが見えた。

 あの時の、本店の監査は、3日間も続いた。
 太田店長は、店の金をどのくらい使い込み、そしてその結果はどうなるのか、従業員には何も知らされなかった。太田店長は、いまだに姿を消したままだ。「これでもう、本通り店は、間違いなく閉店になる」と、しばらくは、従業員の誰もが考えた。
 悦代にとっても、時計の針が止まったかのような、日々だった。保坂食品係長の私物の段ボール箱を隠すという小細工をしても、店そのものがなくなったら、どうしようもない。
 しかし、経営者側がその処遇に困る太田店長のようなタイプの従業員は、1人去ってもまた1人と、湧いて出るもののようだ。
 先月、本通り店に新しい店長が赴任してきた。彼は赴任したその朝から、太田店長と同じように、店の売り上げのことで、従業員に怒鳴り散らした。その声には、島流しの憂き目にあったための、八つ当たり的怒りが含まれている。
 しかし、従業員達は、本通り店がこれからも存続する安心感で、そんな彼を喜んで迎えた。というよりも、店長とはそんなものだと誰もが思っているので、彼らは聞き流すコツを心得ている。
 新しい店長が、机に向かっての事務作業が嫌いなのも、前の店長によく似ていた。そのために相変わらず、保坂食品係長は、事務所で伝票に埋もれる日々だ。
 すべてが落ち着いた頃を見計らって、再び、昭一に頼んで、あの段ボール箱を冷凍庫の中に戻した。その時、「会社の冷凍庫の中に隠しておくのは、大変だった」と、昭一は指を2本立ててみせ、その希望に、悦代も応えなければならなかったが。
「芳川さんには、いつも迷惑をかけますね。別に監査部の人達に見られても、どういうこともなかったとも思いますが、あの人達の心証をよくするには、やはりああいう時は、面倒なことは避けたほうがいいですから」
 再び、冷凍庫の奥に置かれた段ボール箱を見て、保坂食品係長は言った。
 段ボール箱1つを隠すのに、大枚五万円もかけた悦代も、遠慮なく言う。もう、馴れ馴れしく響く自分の口調も気にならなくなっていた。
「感謝の言葉より、ちゃんとしたお礼が欲しいのやけど」
「驚いたなあ。芳川さんも、そういうことを言うんですね。いいですよ、芳川さんのためになら、僕はなんでもしますよ。何か、欲しいものでも、あるのですか?」
「欲しいものはないけれど、して欲しいことがあって…・・・。そのうちに、お願いすることになると思うけれど」
「おお、怖いことを言いますねえ」 彼は、明るい笑い声をあげて答えた。「いいですよ。芳川さんの頼み事だったら、僕は、なんでもします」
 翌日、彼は、最後の1つとなっていた箱を、持ち帰った。
 今までのすべての箱の中身のように、煮付けられたのか、塩焼きにされたのか、それとも無事に海に返されたのか。たぶん、海に返されたのだと、いまの悦代には、そう信じられるだけの、確証がある。太田店長を最後に、スーパー丸栄本通り店の関係者で、行方不明になる人間は出ていない。あの日を最後に、いまのところ、冷凍庫の中に、保坂食品係長の私物の段ボール箱が置かれたことがない。

「おさかなさん、バイバイ」
 護岸壁によじのぼった真美が、半身をくの字に折り曲げて乗り出し、川面に手を振った。
 どこに潜んでいたのか、数匹の小魚が姿を現して、海に返っていくものを取り囲み、それもまた、ゆらりゆらりと水底に沈んでいく。切断面を見せていたサバの頭が反転して、その顔を見せ、一瞬、丸い目が、悦代を見上げた。やはり、その目は、タネ子に似ていると思う。
 春の訪れを予感させる風に吹かれているだけではない喜びが、悦代の胸の中に、ふつふつと湧いてきた。それで彼女も、小さく声に出して「バイバイ」と言い、手を振った。


                                               ・・・・・・・・了…・・