竜退治


    1
 田村光子の家に、ファミコンと呼ばれるTVゲーム機がはいってきたのは、3年前のクリスマスの日、1人息子の尚幸へのプレゼントとしてだった。
 当時の尚幸は、まだ丸い顔をした小学校の2年生で、何よりも母親の光子よりも背が低かった。
 その尚幸が、クリスマスの1か月ほど前から、「クリスマスプレゼントがファミコンでなかったら、サンタクロースなんかぶっ飛ばしてやる。ファミコンと違うおもちゃなんか、ぶっ壊してやる」と、毎日のように、口を尖らせては言っていた。
 あの頃の尚幸は、まだサンタクロースの存在を信じていた。それはまた光子の、孫悟空を掌で弄んだ仏のように、尚幸を言葉で弄んだ結果でもあった訳だが。
 彼女は、尚幸の知りたがること訊きたがることには、彼の幼い頃から面倒がらずに丁寧に答えてきたつもりでいる。しかし、その答えの中の、真実と嘘の量とその混ぜ具合は、すべて彼女のその日の気分に左右された。
 その結果、尚幸が信じたサンタクロースの正体は、デパートの玩具売り場の店員が、年に1度、お得意様の子ども達に玩具をプレゼントして、感謝を表すというものだった。
 田村家のクリスマスプレゼントの包装紙はいつも同じデパートのもので、彼の欲しい玩具のことも、玩具売り場の店員なら知っているに違いない。さすがに、小学校2年生ともなると、サンタクロースのことを、トナカイに曳かせた橇に乗った白いひげのお爺さんとは思っていないようだった。
「智也くんとこには、サンタクロースは来なくて、かわりに、お母さんがプレゼントを買ってくれるのだって。きっと、智也くんとこでは、デパートで買い物をしないんだよね」 
 サンタクロースに関係する最後の難問題にも、彼は自分で答えを見つけた。それを報告しにきた時の、尚幸の嬉しさを隠しきれない大真面目な顔を、光子は今でも憶えている。そして、「さすが、尚幸くん!」と答えた時の、彼女自身の胸の痛みもまだ覚えている。

    2
 クリスマスを4日後にひかえた土曜日、夫の秀治がめずらしく明るいうちに帰ってきて、、「おい、尚幸のクリスマスプレゼントは、もう用意しているのか?」と、訊いてきた。「どうせ、明日も出勤するのだから、今日は早々に切り上げて帰ってきた」とも言った。病院事務職の年末の多忙さを言葉で説明されても、光子は「そうですか」と言葉を返す以外にない。
「すでに買って、押入れの中に隠してあるわよ」
「なんとかいうゲームを欲しがっていただろう」
「ああ、ファミコンね。だめだめ、あれはカセットもつけて買ったら、2万円もするのだから。それに、あれは、子どもの目に悪いそうよ」
「友達がみんな持っていると、尚幸は言っていたな」
「それは、尚幸がそう言うだけでしょう。子どもって、自分に都合がいいように、そう言うものなのよ」
「遊びでもなんでも、夢中になれる時は、夢中になったほうがよい。いずれは買ってやるものなんだろう。今を外せば、尚幸の喜びが、半減するだけだ」
「理屈なら、私にだって、わかるわよ」
「尚幸はいないのだろう。おい、今から、おもちゃ屋へ行くぞ」
「はい、はい」
 返事の中に、光子は精一杯の承服しかねる思いを込めた。しかし、秀治が、1度脱ぎ捨てたズボンに手を伸ばすよりも速く、彼女は、予備のお金をしまっている箪笥の引出しに飛びついた。
 何かの婦人雑誌で、著名な女性評論家が『夫婦喧嘩とは、夫がリンゴを妻がミカンをそれぞれ後ろ手に隠し持ちながら、相手のリンゴがミカンが欲しいと言っているようなものだ。リンゴとミカンを半分に割って、交換する知恵を持ちなさい』と言っていたのを、以前に光子は読んだことがあった。その時、彼女は、自分であれば、たかがミカンのこと、半分どころか丸のままでも夫にくれてやるのにと思ったことだ。
 秀治に適当に合わせていれば、手に入るこの安泰な毎日。それよりもミカン1個のほうが重いという天秤があるのなら、見てみたい。今も、光子の天秤は、片方の受け皿にミカンを載せて、もう片方にファミコンを載せて、まだまだ余裕があった。
 さいわいにして、尚幸は、友達の家に遊びに行っている。しばらく留守にしても、問題はないだろう。
 しかしそれから3時間、秀治と光子は思いつく限りの玩具店を、車で廻るはめになった。そして2人が知ったことは、ファミコンは大変な人気商品で、メーカーの製造が販売に間に合っていない、そのためにどこの玩具店も売り切れ状態であること、またクリスマスまでの入荷予定もないということだった。
 玩具店6軒目で、その事実をやっと認めた秀治だったが、それでも帰りの車の中で、「まだクリスマスまで4日もあることだし、万が一ということもあるのだから、探して買っておけ」と、光子に言い渡すことを忘れなかった。

    3
 クリスマス・イブ当日の朝の10時少し前、光子は風邪気味のだるい体を自転車に乗せて、近所のスーパーに向かって走らせていた。寒い日だった。身を切る冷たい風の中に、小雪がちらついていた。
 光子が目指しているスーパーの店の隅には、1坪ほどの広さのおもちゃ売り場がある。しかし、そのおもちゃ売り場の品数の少なさは、そこだけ薄暗い照明にすべて表されているようだった。こんなところに開店と同時に飛び込んだところで、ファミコンがどこにも売っていないといっても、ここほどなさそうな所もなかった。それでも、彼女は夫への言い訳に信憑性を持たせたかった。
「あれから、いろいろと探してみたのだけど、やっぱり、ないものはなかったわ」
 根も葉もないことを言っている訳ではなく、これくらいに飾った言葉は嘘とは言えない。そのうえに、秀治の性格としては、深く追求してはこないだろう。
 光子があの女性評論家であれば、「夫婦喧嘩とは、お互いの願望に完璧に添おうと思うストレスからくるものだ。どの願望の順番に従い、どの願望を無視するか、夫も妻もそれを嗅ぎわける犬のような嗅覚を持ちなさい」と、言うであろう。光子は、その嗅覚が発達しているほうだと、犬のように鼻を動かしている自分の姿を想像しながら、自分でも思う。だからこそ、彼女は、この10年間の結婚生活の中で、別にこれといった波風を立てることもなく、安泰な毎日を手にいれてきたのだ。
 ところで、件のファミコンは危険信号を感じるほど臭うと、彼女は思っていた。だから、開店と同時にスーパーのおもちゃ売り場に立っているのだ。そしてそこで、彼女は自分のあまりの運のよさにほくそ笑んだ。

    4
 翌朝、尚幸は嬉しさと恥ずかしさを突き混ぜた笑顔で、「ぼく、サンタクロースを信じていて、ほんとうによかった」と、何度言ったことだろう。そしてあまりにも嬉しかったのと、早速にゲームをしたいという気持ちが早って、彼はファミコンを包んでいる包装紙がいつものデパートのものではないのはなぜなのか、母親に訊ねることをしなかった。
 光子はそのことで幾分安心はしたものの、しかしながら、尚幸の推理するサンタクロース像に微妙な変化が出始めたのは、この時からだった。
 この日初めて、光子はTVゲーム機のファミコンというものを、まじかで見た。ファミコンを接続したテレビ画面は、彼女の想像をはるかに超えた鮮明なものだった。
 ファミコン本体の左右についたコントローラーの操作によって、テレビ中央の人型の画像は、飛んだり跳ねたりと自由自在に動く。『スーパーマリオ』という名前のゲームだった。その仕組みは、彼女がどう考えようと、理解出来そうにない代物だった。そしてコントローラーの操作で動く人型の画像は、これまたテレビの画面に次々と現れては消えていく敵を、殴ったり蹴ったりして倒していく。その点数を競って遊ぶものらしい。
 尚幸は友達の家ですでにコントローラーの操作をマスターしていたらしく、目まぐるしいとしか言いようのない指の動きとともに、テレビ画面を食い入るように見つめて、ゲームにのめり込んでいった。
 光子の両親が初めてテレビを購入したのは、彼女がちょうど尚幸ほどの年齢の時だった。夕食の用意も整った茶の間に、大きな箱が運ばれてきて、そしてテレビが据えつけられた。
 今でも、光子は、あの日の興奮を、昨日のことのように憶えている。当時のテレビは、画面が白黒だった。それから彼女は何台のテレビと出会ってきたか。画面は白黒からカラーに変わったが、それでもテレビは、放送局から送られてくる電波を受信するだけの機械の箱でしかなかった。
 テレビを利用したゲームで遊ぶようになるとは、あの時代には誰も考えつきもしなかったことだろう。20年後、尚幸の子ども達は、またこの時代の人間が想像もつかないもので遊ぶのだろうか。
「ああ、死んじゃった」
 尚幸のあげた素っ頓狂な声で、光子は夢想から覚めた。目をテレビの画面に戻すと、敵からのパンチをかわしきれなかったゲームの主人公が、気の抜けるようなBGMに乗って昇天するところだった。
 この日から田村家のテレビは、尚幸とTVゲームに占領されたも同然となった。
 
    5
 3年が過ぎた
 尚幸は小学校5年生の最後の学期を迎えていた。3年前の、鼻を中心にコンパスで円を描いたような丸い顔も体型も、少し変化して、幼児から少年のそれとなっていた。背も伸びて、母親の光子を3センチ追い抜いた。そして何よりも、原因不明の不機嫌が、まるで間欠泉のように、突然、噴き出す。世間でいうところの、難しい年代に入りかけていた。
「欲しいのだったら、予約注文にかぎると思うけれど」
「予約なんかしたってさあ」
「なぜ?」
「おもちゃランドでは、予約番号が3千番を超えているって、みんな言っているよ」
「3千? まさか」
 2月の初めのある日、光子と尚幸は、昨日と同じ会話を繰り返していた。
 2月10日に、TVゲーム始まって以来のヒット作と言われる『ドラゴン・クエスト・V』が発売される。それをおもちゃ屋に予約注文したほうがよいのではないかと、光子は毎日のように尚幸に言っているのだった。
『ドラゴン・クエスト・V』、それは、TVゲーム用語でいうところのロールプレイングゲームのソフト名だ。プレイヤーによって命名されたゲームの主人公であるところの4人の若者たちが、魔物と戦うことで、経験値とお金を得る。経験値を増やすことで主人公たちはレベルアップし、より強い魔物と戦えるようになる。お金は、武器や防具や、戦いで傷ついた体を癒すのに使われる。またゲームの中の村や町を旅しては、秘められた謎や複雑な迷路も解き明かさねばならない。
 そうやって、最後には、ゲームの世界を支配している悪の化身を倒し、平和を再び取り戻す。そういうゲームであるらしい。
 2年前に初めて、このシリーズの元となる『ドラゴン・クエスト』が発売されて、それがファミコンで遊ぶ子ども達の間で、爆発的な人気となった。光子も、「お母さんにでもできるゲーム。反射神経なんて関係なくて、そのうえに、謎解きがいっぱいあって、すっごくおもしろいんだ。お母さんと僕とで、どちらが先に魔物のボスをやっつけることができるか、競争しようよ」という尚幸の言葉にのせられて、買って楽しんでいた。
 実をいうと、それまでの光子は、ファミコンに、手も足も出ないでいた。尚幸が芋虫のような短い指で、コントローラーのボタンを押していると、とても簡単そうに見える。ところが見るのとやってみるのとでは大きく違っていて、実際にやってみると、彼女は、全然、この操作が出来ない。
 テレビの画面を見て、どう動かすか頭で考え、コントローラーのボタンを指で押す。この一連の動作に、彼女は時間がかかり過ぎる。反射神経が鈍いのだ。「知識と経験を身につけて、慎重に考え判断し行動する習慣の出来た大人には、ファミコンなんてつまらない子どもの遊び」とは言ってはみるものの、やはり少しは、その言葉の中に、負け惜しみもあった。
 このシリーズの始まりとなるゲーム『ドラゴン・クエスト・T』では、主人公は1人であったから、尚幸は主人公に「なおくん」、光子は「みっちい」と名づけた。あとは時間をかけて魔物と戦い、経験値とお金を稼ぐ。
 光子は、謎を解く手がかりとなりそうな言葉はノートにメモし、また迷路も方眼紙を利用して地図を作った。当時、小学校3年生の尚幸には、メモをとり地図を作ることなど面倒だったに違いない。彼の性格そのままに突っ走るようにゲームを進めていった。そして、謎解きの手がかりを見失い、迷路では迷い、せっかくためたゲームの世界での経験値とお金を失くする。
 ウサギとカメの例え話のごとく、いつの間にか「みっちい」は「なおくん」を追いぬいた。反射神経よりも時間と根気のいるこのゲームで、やがて尚幸は脱落し、TVゲームなんて子どもの遊びと決めつけていた光子は、ゲームにハマっている自分を発見した。
 ファミコンのコントローラーをひとたび持つと、ゲームの主人公でしかないと頭でわかっていながら、彼女は自分の名づけた「みっちい」になりきっていた。「みっちい」との冒険をともに楽しみ、「みっちい」の成長が自分の成長でsるかのように嬉しかった。それは、冒険小説を読んだり映画を観たりするよりも、数段上の初めて経験する面白さだった。
『ドラゴン・クエスト』の発売より半年後に、『ドラゴン・クエストU』が発売される。このシリーズには二番煎じという言葉は関係なかったようで、これもまた前作を超える大人気のTVゲームとなった。もちろん、光子も尚幸も買ってきて楽しんだことは言うまでもない。
 そして、今回の『ドラゴン・クエストV』の発売。
 ところがなんと『ドラゴン・クエストV』は、昨年の秋に1度は発売を予定されながら、その前人気の異常さからくる売り切れパニックが予想されて、発売が意図的に数か月も延期された。だから、光子は尚幸に『ドラゴン・クエストV』を予約注文するようにと、毎日のように言っている。しかし、尚幸はああだこうだと言って、腰をあげようとしない・それには彼なりの隠された計算があった。
 尚幸は5900円の『ドラゴン・クエストV』は、自分で溜めているお年玉で買うと言っていた。友達のみんなが持っているからと、ラジコンカーをクリスマスプレゼントにもらったばかりだ。すでに彼はサンタクロースの正体を知っていた。だが、まだ信じているふりをして、3年前のファミコンと同じ手を使って買ってもらった。だから、もうこれ以上のものは強請れないと、さすがに彼もわかっていた。
 しかしながら、彼は、もしかしたら光子が買ってくれるかも知れないという、甘い期待を捨てきれないでいる。
……ぼくのお母さん、いい歳をして、ファミコンで遊ぶの大好きだから。『ドラゴン・クエスト』も『ドラゴン・クエストU』も、ぼく以上に夢中になっていたもの。今だって、『ドラゴン・クエストV』を、早くやってみたくてたまらないに違いない……
 もちろん、11歳の子どもの考えていることくらい、彼よりは3倍以上生きてきた光子には、手に取るようにわかるのだ。それで2人は、毎日、同じ会話を繰り返しながら、どちらもそれ以上には、会話を発展させようとはしないのだった。
 そして、ついに2月10日となった。
 台所にいる光子を、慌てて呼ぶ尚幸の声がする。
「お母さん、見て!見て! テレビのニュースで、『ドラゴン・クエストV』のことを、言っているよ」
「えっ、本当に?」
 エプロンの裾で手を拭きながら、彼女がテレビの画面に見たものは、東京にある玩具店を取り囲むようにして並んだ、
若者たちの行列だった。行列の先頭に立つ若者は、昨夜からの徹夜組であるらしい。しかし、並んだからといって、すべての者が買える訳ではなく、『本日の販売はここまで』と非情に言い渡す店員の顔が大写しとなり、アナウンサーの声が重なる。
『……、今日の1日だけで、日本全国の玩具店に用意されていた百万本の『ドラゴン・クエストV』が売りつくされました。学校の授業をさぼって行列に並んだために、補導された小中学生が、全国で数百人……。これはもう、子どもの遊びというよりも、社会現象と言ってよいのかも知れません……』
 光子と尚幸は、思わず顔を見合わせた。光子は呟いた。
「おもちゃランドの予約が3千人って、本当のことだったのねえ」 
 
    6
 その後、『ドラゴン・クエストV』は、1週間ごとに、全国の玩具店で追加販売されたが、3月になっても、おもちゃランドのの窓ガラスには「『ドラゴン・クエストV』は、売り切れです」の、張り紙が貼られたままだった。
「今からでも、予約したらいいのに」
 あの発売日より1か月経った日、光子は学校から帰ってきた尚幸を子ども部屋の前で捉まえて、そう言った。その実、この日、彼女自身がおもちゃランドに出向いて、『ドラゴン・クエストV』を予約してきたのだった。彼女の顔に笑みが浮かんでくる。がそれを尚幸に悟られないように、さりげなく嘘をつくのは難しかった。
「もう、クリアしたって、自慢している友達もいっぱいいるのに、いまごろ予約したなんて、笑われるだけだ」
「まだ買えない人もいるってことは、まだまだ売れているってことなのだから、笑いたい者には、笑わせておけばいいのよ。それよりも、尚幸くんは、『ドラゴン・クエストV』で、遊びたくないの?」
「うるさいなあ。そんなこと、ぼくにはわからん」
 尚幸の機嫌の悪い時に口をついて出てくる3つの言葉、「知らん」「わからん」「うるさい」のうち、早々と2つ纏めて出てきた。今日の尚幸の不機嫌指数は、かなり高そうだ。
 最近の尚幸の言動は荒れていた。原因としては、この1年で慣れ親しんできた5年3組の担任や級友たちと、あと20日あまりで別れるからとしか、光子には思いつけない。
 尚幸には、昔から、そういうところがあった。毎年の3月と4月には、母親の後追いをして、まるで不安を追い払おうとでもするようによく喋っていた。それが今年に限って、彼女がそれとなく訊けば、「知らん」と言い、次に「わからん」と言い、最後に「うるさい」と言ったきり口を利かなくなる。こうのような尚幸の急激な変化に、光子のほうがついていけないでいた。それが今日の『ドラゴン・クエストV』の衝動的な予約と結びついたのだろう。久しぶりに、尚幸の屈託ない笑顔が見たかった。
「実を言うと、今日、おもちゃランドで予約してきたのよ」
 ふて腐れた顔はそのままだが、彼の2つの目が好奇心で明るく輝いたのを、彼女は見逃さなかった。
「へえ、予約したんだあ。それで、いつ、買えるの?」
「あら、ご心配なく。お母さんの名前で予約して、お母さんのお金で買って、お母さんが遊ぶのだから」
 しまった、言い過ぎたと途中で思ったが、光子の動き出した口は止まらない。尚幸の目の輝きが消えて行く。彼は怒りに声を震わせて言った。
「いつ買えるかってことを、聞いているんだ。お母さん、頭が馬鹿になって、耳も遠くなっているんだろう」
「2週間あとの、日曜日よ。あら、尚幸くん、もうすぐ、春休みじゃないの。いいなあ、毎日遊べて」
 どちらも望んではいなかったと思われるのに、親子の会話は妙な方向に捻じれてしまった。光子の鼻先で、子ども部屋のドアが音を立てて閉じられた。

    7
 それから2週間後の日曜日の朝まで、光子と尚幸の間では、いつもと同じような会話が交わされた。しかし、その中に『ドラゴン・クエストV』という言葉は、1度も出てこなかった。
 時折り、尚幸が何か問いたげな素振りを見せることもあったが、光子は気づかぬふりをして避けた。火に油を注ぐという例えのように、もう1度あの話題を蒸し返せば、不愉快な結果に終わるのは目に見えている。母親の言葉を鵜呑みにしてサンタクロースを信じた尚幸ではもうないとわかってはいたが、犬や猫のように噛み合って、親離れ子離れしようとしている自分達の姿から、しばらくの間でも、彼女は目を逸らしていたかった。
 台所で、光子は、日曜日の遅い朝食の用意をしていた。春めいた明るい陽射しが、冬の間の窓の汚れを浮き立たせていた。いつもの日曜日と同じく、秀治はお昼前にならないと起きてこないし、尚幸も友人達と遊ぶ約束でもしていない限り、布団の中で漫画本に夢中だ。
「おっはよう!」 
 その尚幸が、後ろに立っていた。彼は珍しく着替えも済ませ、短い前髪が濡れているところを見ると、洗顔も済ませているようだ。
「お母さん、今日、なんだろう?」
 なんの話なのかは、聞き返さないでも光子にはわかった。尚幸のセーターの下で丸まったシャツの襟を直してやりながら、彼女は言った。
「あら、気にかけていてくれたの? それは、どうもありがとう。でもいいのよ、夕方にでも、買い物のついでにおもちゃランドに寄って、買ってくるから」
「それを、この尚幸さまが、行ってきてやろうと言っているんだ。ありがたく思え」
 尚幸は襟を直す母親の手を払おうとはしなかったが、口調は偉そうでぶっきらぼうだった。彼女も大げさな諦めの表情を作って、答えた。
「そんなにまでおっしゃって下さるのなら、お言葉に甘えさせていただきましょうか」
「はじめから、そう言えばいいんだ」
 彼は、母親の手から『ドラゴン・クエストV』の予約券とお金をひったくるように受け取ると、自転車に飛び乗って行ってしまった。そして、それから30分たった。
……おもちゃランドに行って帰ってくるだけにしては、あまりにも遅い。あわてて飛んで行ったものだから、もしや、交通事故にでも。それとも、おもちゃランドの周辺には、お金を持った小学生を狙って不良中学生がたむろしているという噂も聞いたことがある……
 考えつく限りの不安で光子の心が一杯になった時、尚幸が帰ってきた。出かけた時のご機嫌な気分を、おもちゃランドの行き帰りどちらかの道で捨ててきたらしいことは、その顔を見れば確かだった。
「遅かったのね。心配していたのよ」
「おもちゃランドの自転車置き場で、自転車を倒してしまった。そうしたら、ほかの自転車も全部倒れて、直すのに時間がかかった」 
 危ない雰囲気で、尚幸の声がかすれている。
「まあまあ、それは大変だったわね。それで、お目当ての物は、無事に買えたの?」
「買えたさ。でも、お釣りをもらって財布に入れるとき、焦っていて、お金を落としてしまった。お店のお姉ちゃんが、『ぼくは、嬉しくて、たまらないのでしょう』って、馬鹿にして笑った」
「へえ。ほんとうは、そのお姉ちゃんはすごい美人で、見つめられて、尚幸くんの手が震えたのにねえ」
「うるさい。全部、お母さんが、悪いんだ」
……えっ、お母さんが悪い? 『ドラゴン・クエストV』を予約して、お金を払い、しかし、買いに行くという楽しいところは、あっさりと譲り渡した、このお母さんが悪いって、どうして?……
 人前で恥を掻くこと、人に笑われることが、一番堪えられない年頃だということは、光子も経験があることだから許してやれると思っていた。しかし、尚幸の「お母さんが、全部、悪い」という言葉を聞くと、彼女も冷静ではいられなくなる。彼女を困らせるその言葉は、尚幸がその効果を知って使っているとはわかってはいるが、ではなぜそうまでして、母親を怒らせたいのかと考えれば、皆目見当がつかない。
 怒りに任せた言葉が口をついて出そうになるのを、この日くらいは楽しい日にしたいという想いで、光子はかろうじて我慢した。彼女は、さりげなく話題を替えたつもりで言った。
「じゃあ、忘れないうちに、そのお釣りをもらっておこうね」 と、言いながら差し出した手が、途中で止まった。信じられないようなことが起きた。
 尚幸が、口を開けたままの財布を逆さまにして、激しく振ったのだ。小さく折り畳んだ千円札は畳の上に落ちたが、硬貨は派手な音を立てて畳の上で跳ねると、そのまま転がっていった。光子の目はその転がっていく硬貨の行方を追い続けたが、彼女の2本の足は追いかけていくことを拒んだ。
 硬貨は敷居で止まることなく、廊下を転がっていく。耳鳴り以外に光子には何も聞こえなくなっていた。硬貨は壁に当たってしばらくくるくると回り、そしてやっと止まった。硬貨を追っていた視線を、彼女は尚幸の背中に向けた。
「尚幸!」
 尚幸は、すでにテレビの前に座り込んで、買ってきたばかりの『ドラゴン・クエストV』を、ファミコン本体にセットすることに夢中になっている。母親に名前を呼ばれて、彼は振り返った。彼の顔は屈託のない笑顔で輝いていた。
「お母さん、やっと、『ドラゴン・クエストV』が始められるよ。早く、ここに来て、ファミコンのスイッチを入れてよ。お母さんの『ドラゴン・クエストV』なんだから」
 笑っている尚幸の顔のどこを探しても、転がっていった硬貨のことを考えている様子はなかった。
「洗濯もしなくちゃいけないし、お母さんが、今からゲーム出来る訳がないでしょう」
 尚幸は少し考えていた。そしてもう1度笑ってみせた。今度は嬉しさに恥ずかしさをつき混ぜたあの笑顔、光子を幸せにするあの笑顔で。
「じゃあ、ぼくからしてもいい?」
 光子はすぐには返事が出来なかった。しかし勝負は決まっていた。
「お父さんが、まだ寝ているのだから、音を小さくしてするのよ」
 彼女はそう答えるしかなかった。尚幸も「あ・り・が・と・う」と、ぱくぱくさせた口の形で答えた。

    8
 パチンとファミコンのスイッチが入った。
 テレビの画面が真っ暗になり、それから『ドラゴン・クエストV』という、小さな英文字が現れた。BGMはなかった。日本で3百万本を売りつくし、少年少女を熱狂させたというゲームにしては、あまりにも静かな始まりだ。
 尚幸はいつものように、『ドラゴン・クエストV』の勇者には、「なおくん」、そしてあとの3人のメンバーには、「よっちん」「かあくん」「しらたま」と、名前をつけた。3つの名前は、尚幸の友人のニックネームだ。
「おまえたちの名前を、ぼくのパーティーの仲間につけてやるよって言ったら、みんな喜んでくれたよ。これから毎日、みんなに、ゲームの経過を報告することにしているんだ。ああ、わくわくするなあ」
 テレビ画面にランダムに表示されるメンバーの数値をコントローラーで決定しながら、尚幸は言った。この2週間、彼は無関心を装いながら、その裏では、ゲームを始めるための準備を着々と進めていたようだ。
「お母さんも、もう、メンバーの名前、決めているんだろう。せめてものお礼に、ぼくが、最高の初期数値を持ったパーティーを、作ってあげるよ」
 目はテレビ画面に向けたまま、尚幸が言った。
「それが、なぜか、いい名前が思いつかなくて。尚幸くんが、名前も考えてくれる? 今回は、ゲームを始める前に、いろいろとあり過ぎて、気が重くて、あまり楽しめそうにはないわ」
 光子は、そう答えた。一瞬、尚幸の視線を感じたと思った。
「そんなことを言っちゃって。そうやって、ぼくを油断させて、ぼくより先にクリアするつもりなんだろう? でも、絶対に、ぼくがクリアするからね。友達と約束したんだから」

    9
  尚幸に中学受験させてみようとは、秀治が言いだしたことだった。
 突然、見せた、彼の尚幸への教育的関心だった。今の親子3人の、ぬるま湯に浸かっているような日々に満足していた光子には、晴天の霹靂といってもよいほどの驚きだった。しかし、秀治の「サラリーマンにとっては、学歴は財産だ」という言葉には、口達者な彼女にさえ言葉を挟めないような響きがあった。
 しかし、はたして尚幸にとって、中学受験はプラスになるのだろか。塾とに通わず学校の授業だけで、まあまあの成績の尚幸に、時々は、親心をくすぐられることはある。目標を持たせて、塾に通わせれば、もっとよい成績を望めるのではないかという甘い期待はある。しかし、せっかく楽しんでいる尚幸の学校生活を、親の無理な期待の押し付けで、潰してしまうのではないかという心配もある。光子には、どちらとも決めることはできなかった。
「おまえの母親としての気持ちはわからないでもないが、継がせる稼業も残してやる財産もない尚幸の将来を、もう少し、現実的に考えて欲しい」
 と、秀治はなおも言葉を続けた。
 光子は、例の、頭の中の天秤を思い出した。片方の受け皿にミカン1個を乗せ、もう片方に、尚幸の中学受験を乗せてみた。釣り合えば、喜んで、尚幸の中学受験を、秀治に差し出すつもりでいた。ところが天秤の針は、大きく左右に振れるばかりで定まらない。光子は、この時初めて、この天秤では測れないものもあることを知った。いくら安泰な生活が好きといっても、尚幸を犠牲にすることは出来ない。
 最後に、「おまえの甘さが、尚幸の将来をだめにする」と、秀治に痛いところを突かれた。
 光子は、重い腰をあげて、中学受験コースのある塾へ相談に行った。それでもまだ、、「これからたった1年の受験勉強では、いくらなんでも私立中学校を受験するなんて、無理な話だと、塾の講師に笑われるだろう」という一縷の希望が、彼女の胸の中にはあった。塾の講師がそう言ったといえば、秀治もなっとくするに違いない。尚幸の将来がどうなるのか想像もつかないが、中学受験に関してだけは、立派な言い訳を手に入れることが出来る。これでまだしばらくは、安泰な生活から引きずり出されずにすむというものだ。
 会った塾の講師は、25歳くらいの、まだ若い男だった。えらく姿勢がいいというのが、光子の受けた第一印象だ。その上に、この頃は学校の授業参観の時でさえ教師たちの服装に見かけたことのない、三つ揃いのスーツを、その折り目からピシリと音がしそうなほどに着こなしていた。その見かけに、彼女は嫌な予感がした。
「尚幸くんの今の成績であれば、中学受験も不可能ということはないでしょう」 彼は、まずは、光子の母親としての自尊心を上手にくすぐった。「ですが、もし中学受験の結果がどうであれ、受験というものは、高校そして大学へと続いて行くものです。当塾でのこれからの1年間の経験が、無駄になることはありません」 希望の糸が切れたのを、彼女は感じた。「お母さんは、尚幸くんに、塾に通うように言ってくださるだけで、あとの心配はご無用です。あとは、僕に、すべて任せてください。ご期待にそえるように努力いたします」
 光子の手の中には、いつの間にか、塾の入会申し込み用紙が握られていた。
「さっそくですが、この春休みから、春季特別講座があります。そして、1学期から、週に3日、夕方6時から9時までの授業となりまして……」
 あとで光子が知ったところによると、その若い講師は、カチンコチン先生と子ども達に呼ばれていた。その若さで、彼が中学受験コースの主任を任されている訳が、たった10分ほどの面接で、彼女には身にしみて理解できた。ただ、その講師は、そのカチンコチンとした姿勢と服装が新鮮で、子ども達に人気があるのだと、後日、尚幸が教えてくれた。
 中学受験と通塾について、「ぼくは、どちらでもいいよ」という言い方を、尚幸はした。
「塾の春季特別講座にも、行けというのなら行ってもいいけれど、その代わり、春休み中は、毎日、『ドラゴン・クエストV』で遊んでもいい?」
 田村家では、1年前より、TVゲームは水曜日と土曜日の週に2回だけと、厳しく制限されている。「TVゲームは、子どの達の視力によくない」というデーターつきの新聞記事を読んでから、光子が作った規則だ。いまの尚幸にとって、これが一番の不満の種だった。
 尚幸の『ドラゴン・クエストV』のパーティーは、武器や防具を買い揃え、魔法の呪文も回復の呪文も使えるようになっていた。恐ろしい魔物の潜むアリアハンの地下迷路も通り抜け、新しい世界の冒険に一歩を踏み出したばかりだ。
 クリアするのに70時間かかるといわれるゲームは、まだまだ始まったばかりだが、それだからこそなおさらに、これからゲームの展開に興奮を抑えきれないでいた。彼は『ドラゴン・クエストV』のために、これから1年も続く、灰色の受験生活を背負いこむつもりだった。

    10
 幼稚園と小学校で、尚幸も8回の春休みを経験したことになるが、こんなに規則正しい春休みは初めてであろう。
 朝8時に起床、洗顔と朝食を済ませた後、9時より『ドラゴン。クエストV』をセットした、ファミコンの前に座り込む。11時より少し早いが昼食、12時過ぎのバスに乗って塾へ。講習は1時より4時までの3時間だが、家に帰って来るのは6時だ。それから夕食、テレビ、お風呂、時には、漢字練習100回などという塾の宿題もあった。
「学校もない、宿題もない、24時間まるごとぼくのもの。そんな春休みがなつかしい」と、時には愚痴るようなことも言っていたが、それでもまだ、毎日、2時間以上TVゲームが楽しめる喜びのほうが大きいようだ。そして、その喜びを倍にしてくれることが、春休みが始まって3日目にあった。
「あしたから、智也くんがうちに来るよ」
「来るって、どうして?」
「決まっているじゃないか。『ドラゴン・クエストV』をするためだよ
 智也くんは、尚幸と同じ幼稚園にも通った、ご近所の同い年の男の子だ。2人は気が合えば遊び、お互いに気に障ることがあればしばらくは顔を合わさないという、子どもにしては割り切った付き合い方をしている。
「智也くんだったら、とっくの昔に『ドラゴン・クエストV』なんか買ってもらって、クリアしているんじゃないの?」
「通知表の結果がよかったら、買ってもらうって言っていたけど、ぼくの家に来るということは、智也くん、買ってもらえなかったみたいだ」
「ああ、どこの家の親も、考えることは同じなのねえ」
「それ、どういう意味?」
「大人の独り言よ。気にしないで」
 翌朝、9時きっかりにチャイムが鳴って、智也くんがやってきた。
 彼はめくり過ぎて表紙が半分破れかけている『ドラゴン・クエストV』のガイドブックを持参してきた。そしてテレビの前に座り、尚幸のやっている『ドラゴン・クエストV』の画面を見るなり、言ったのだ。
「おまえ、まだこんなところで、うろうろしているんか、情けねえぞ。はやく、ノアニールの洞窟にはいって、『夢見るルビー』をとってこいよ。なになに、宝箱のある場所がわからないだと。そんなら、この俺様が教えてやろうじゃないか。ありがたく思いなよ」
 それから智也くんは、持参したガイドブックを、おごそかに開いた。尚幸が首を伸ばして覗こうとすると、彼はまた言った。
「これは、おれのものだ。見せてたまるものか」
 ある日、智也くんは、ゲームの途中でトイレに立った。この時とばかりに、光子と尚幸の目が合った。2人の目は同じことを問いかけている。智也くんのガイドブックって、どんなものなのだろう。
 畳の上に、ページを開いて伏せられているガイドブックに、光子の手が伸びた。ガイドブックには、鉛筆で、○印や×印が、そしてミミズの這ったような字でも、いろいろと書き込まれていた。尚幸が声をひそめて言った。
「へえ、次のページが見えないように、ホッチキスで留めてあるよ」
「ガイドブックって、便利ねえ。今度、本屋さんで、買ってきてあげようか」
 尚幸は少し考えてから言った。
「いいよ。智也くんのあるんだから、2冊ももったいない」
 光子はガイドブックを元のように戻してから、昼食の準備のために台所に立った。
「すまん。待たせてしまったな。さあ、がんがんやろうぜ」
 智也くんの大きな声がする。
 春休みの間、1日も休むことなく、智也くんは9時にやってきて、11時に帰って行った。その間、彼は尚幸に、「おれにも、ゲームをやらせろ」とは、1度も言わなかった。尚幸も、智也くんにガイドブックを見せろとは言わず、彼の指示に従ってゲームを進めた。役割分担をした2人が、ゲームの世界にのめり込んでいるのが、その緊張してテレビの前で正座している後ろ姿でわかった。
 
    11
 4月が終わろうとしていた。
 この日、朝より曇っていた空から昼を過ぎたころ、雨が降ってきた。雲の上から、、細かいジョウログチで散水しているような雨だった。しとしとと、雨音までもが優しい。そして尚幸が学校から帰って来た時、時計の針は5時を回っていた。
 尚幸の不安は的中して、やはり6年生のクラス替えでは、「よっちん」「かあくん」「しらたま」とは離れてしまった。
 特に「よっちん」は、、尚幸が生まれて初めて得た親友だった。すでに社会人になっている兄を持つ「よっちん」は、物知りで、兄貴肌のところがあった。兄弟のいない尚幸にとって、この1年間は、「よっちん」は兄のような存在だった。そしてその「よっちん」を中心に、「かあくん」「しらたま」と自分の4人で、学校で他愛ない悪戯をする時に感じる連帯感は、彼に友達の大切さを教えてくれた。
 今、尚幸は、「よっちん」に代わる新しい友達を見つけようと、焦っていた。そしてどうやら白羽の矢を立てた、クラスメイトはいるらしい。学校の授業は早く終わっているはずなのに、毎日、下校が遅くなるのはそのためだ。この1年を、彼と友人として付き合えるかどうか、少しの間でもくっついていて確かめようとしていた。今の尚幸にとって、新しい友人を得ることは、何よりも優先しなくてならないことだった。
 それであれほどやっていた『ドラゴン・クエストV』も、この10日ほど、少しもやっていない。尚幸のパーティーは、ラストボスのいる地下の世界まで来ていた。ゲームは、もう終わりに近いというのに。
「ほんとうに、飽きっぽいのだから。いつだって、途中で投げ出してしまって。もう、新しいTVゲームは、買わないわよ」と責める光子に、「地下の世界は暗くて、ゲームやっていると、うっとおしいんだよ」と、尚幸は答えた。彼はまた、「知らん」「わからん」「うるさい」しか言わない、不機嫌な状態になっていた。
 5時を過ぎて帰ってきた尚幸の顔を見て、光子は言った。
「何をしていたの。早くしないと、塾に遅れるわよ」
「いちいち、うるさいんだよ」
 そう言って自分の部屋に入っていった尚幸だったが、しばらくすると、青い顔をして戻ってきた。
「どうしよう、塾の宿題をするのを、忘れていた」
「お母さんは、知らん」
 尚幸の口調を真似て、光子は答えた。ここで優しい顔を見せると、それは塾を休むことに繋がり、そして、いずれは塾を止めることになるのが、目に見えていた。
「早く、ご飯を食べないと、バスに乗り遅れるわよ」
「ぼくは、ほんとうは、塾になんか行きたくなかったんだ。中学受験なんか、大嫌いだ」
 尚幸の目が潤んできた。それを拳で乱暴にぬぐったので、目の縁が真っ赤になった。小さい頃は人一倍の泣き虫だった尚幸が、涙を見せなくなって、何年になるのだろう。久しぶりに母親に見せた、泣き顔fだった。
 結局、夕飯も食べずに、尚幸は雨の中を飛び出して行った。
 
    12
 光子は、ファミコンの前に座っていた。
 尚幸が塾でどんな思いをしているだろうと考えないでいるには、『ドラゴン・クエストV』の世界に逃避しているのが、一番だった。彼女は尚幸の作ってくれたパーティーを、慎重に育ててきた。無謀な冒険で、パーティーを全滅させたことは、一度もない。そのために時間はかかったが、しかし今は、尚幸のパーティーよりも先を進んでいる。
 今夜の光子は、『ドラゴン・クエストV』の世界を支配しているという、魔王の住む神殿をがむしゃらに攻め立てた。それで、彼女のパーティーは、何度も何度も全滅した……。
 雨は止んでいた。霧が、人通りの途絶えた家並みを覆っている。
 バス停傍の街路灯も、その霧のせいで、滲んだ光の輪を背負っていて、それが光子に、尚幸の潤んだ目を思い出させた。尚幸の顔を見たら、「塾なんか止めてもいい。中学受験のことなど、忘れよう」と言ってやろうと思いながら、彼女はバスを待っていた。
「むかえに来てくれて、ありがとう」
 バスから降りてそう言った尚幸の顔は、すっかり穏やかになっていた。瞼も腫れていない。
「忘れた宿題は、どうなったの?」
「ぼく以外にも、忘れた子がたくさんいてさあ。次の授業までに、してくることになった」
 2人で歩いていると、尚幸の肩が自分の肩よりも高い位置にあることに、光子は気づいた。今に、この子を見上げて話すようになるのだろうと、彼女は思いながら言った。
「自動販売機で、ジュースを買ってあげるわ」
「やったね」
「家に帰ったら、ジュースで祝杯をあげるのよ。お母さんね、『ドラゴン・クエストV』を、クリアしちゃった」
「そうだろうと思った。そんな顔をしている」
「あら、そうかしら」
「それで、感動した?」
「今夜、まさか、クリアするとは思わなかったから、感動はあまり感じなかった」
「魔王は、どんな奴だった?」
「そうねえ……」
「あっ、聞くのはやめた。ぼくの目で見たいから。『ドラゴン・クエストV』、やっぱり、最後までやってしまおうかなあ」
「あと5で5時間も頑張れば、クリアできると思うわよ」
 光子は立ち止まって、空を見上げた。雲が切れかかっていて、星が1つ2つと覗いている。彼女は右手を上げると、芝居がかった仕草で、その星を指示して言葉を続けた。
「若者よ、再び、立ちあがる時がきたのだ。『ドラゴン・クエストV』の世界は、きみを待っている。さあ、行くのだ、勇気を友として」

    13
 翌日から、田村家の居間では、再び『ドラゴン・クエストV』に熱中する尚幸と智也くんの姿が見られるようになった。尚幸の塾通いのこともあって、クリアしたのは、2週間後のことだ。
 エンディングの画面を見ながら、尚幸は興奮した顔で言った。
「こんなに感動したのは、はじめてだ」
 智也くんも言った。
「おばちゃん、おれ、こんなエンディングは、もう20回は見たよ。浩平くんの家と彰くんの家と……」
 光子は鏡を持ってきて、智也くんの顔を、彼自身に見せてやりたいものだと思った。智也くんの顔も、尚幸に負けず劣らず、興奮で赤くなっている。
「お母さん、これから智也くんと公園に行くんだけど、10分間だけ、ファミコンをこのままにしておいてくれる? ぼく、とても、自分の手では、ファミコンの電源を切れないよ。10分間だけでいいから、エンディングを、このままにしておきたいんだ」
 尚幸と智也くんの居なくなった静かな部屋で、ちょうど10分後きっかりに、光子はファミコンの電源を切り、それから真っ黒な画面になったテレビも消した。
 こうして、光子と尚幸の母子の、『竜退治』にまつわる長い物語は終わった。いやもしかすると、TVゲームという目には見える形ではなく、2人の『竜退治』の冒険は、これからもずっと続いていくのかも知れない。


                               ・・・・・了・・・・・