覗き見
1−1 
   
 午後三時半、スーパー丸栄松木店の店内は、夕方の混雑を避けて一足早く買い物をすませようとする客で、ざわめき始めていた。
 花岡多恵の担当する五号レジも、客が列を作って並ぶというほどでもないが、客足に切れ目はない。「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」の言葉がなめらかに口をついて出てきて、レジ機のキーを操作し客から受け取るお金を数える手がリズムを持つように感じられる。午後一時から五時までの四時間パートのレジ係である彼女にとって、一番好ましく思われる時間帯だった。
「おい、おばちゃん。ピッして、テープを貼れ」
 多恵が先客の釣銭を渡したのと同時に、元気で乱暴な男の子の声が割り込んできた。その手にしっかりと握られている菓子袋が、目の前に突き出されて激しく振り回される。それで先客に言う「ありがとうございました」と次客への「いらっしゃいませ」の言葉の間合いが、少し崩れた。先客の空になったセルフ籠をレジ台の定位置に戻しながら、しかし彼女はその元気な声に歯切れよく答える。
「こんにちは、慎吾くん。幼稚園は楽しかった?」

 その大きな声から充分に想像出来るほど、慎吾くんは太っている男の子だ。レジカウンター越しに見える幼稚園の制服の前ボタンが、今にも弾け飛びそうだ。その制服の胸にピンで留められた名札を見なくても、『すみれぐみ やすだしんご』という名前はもう覚えた。
「今日のおやつは何かな?」
 右に左に飛ぶトンボを捕虫網で掬うように、なんとか慎吾くんが振り回す菓子袋を奪い取り、レジ機にバーコードを読ませる。レジ機からピッと機械音がする。小さな子どもがスーパーのレジ係に向かって「ピッして」と言うのは、「商品の勘定をして」ということなのだ。慎吾君はこの短い時間さえも待ちきれない様子で、丸々したその半身を、まるで水族館のアシカのようにレジカウンターに乗り上げてきた。
「サラダチップス。ちゃんと袋に書いてあるだろう。ジャンケンカードが入っているんだ」
 昨日も一昨日も同じ会話だった。大人のくせにそんなことも知らないのかと、こましゃくれて決めてかかった言葉が面白い。同じような口の利き方をした子どもが、二十年前には多恵にもいた。多恵の場合は、男の子ではなくて女の子だったが。
「慎吾くんは、カードを集めているのね。何枚、集まったの?」
 そう言いながら、支払済みを表す『スーパー丸栄』のロゴ入りの黄色いテープを短く切って、多恵は菓子袋に貼り付ける。「たぁーくさん」と答えるのももどかしそうに菓子袋をひったくると、慎吾くんは再びアシカとなってその太った体を後ずさりさせてレジカウンターから降りた。
「慎吾、おばちゃんに、ありがとうって言うんでしょう」
 先ほどまで慎吾くんの体が乗っていた場所に、買い込んだ食品で溢れそうなセルフ籠を置きながら、後ろからお母さんの安田さんが言った。そう言われて慎吾くんはしぶしぶ目の前のレジ係の名札を一字一字読みながら、「は・な・お・か・た・え、ありがとう」と言う。多恵もその呼びかけに答える。
「よく読めました。慎吾くんも、幼稚園の年長組さんだものね」
「生意気ばかり言って、すみません」
 また安田さんが言う。慎吾くんとは正反対のその痩せた体が、申し訳なさに少し小さくなったように見えた。そして手に負えないやんちゃな息子に向かって、「お菓子を食べるのは、家に帰ってからよ」と付け加えた。こんな親子のやり取りも昨日と同じだ。
 あらためて母親の安田さんの顔を見て、ウエスト辺りに軽く両手を揃え体を斜め前三十度に倒して、「いらっしゃいませ」と、多恵はマニュアル通りの挨拶をした。それからセルフ籠を手元に引き寄せ、時々は値段を読み上げなら、彼女は商品をレジ機に通していく。
 安田さん親子は、幼稚園のお迎えの帰りにスーパー丸栄に立ち寄り、その日の買い物を済ませているようだ。慎吾くんの幼稚園の制服には見覚えがあるし、そのくたびれ具合から見ても、もとからスーパー丸栄の近くに住んでいるのだろうとは想像出来る。しかし多恵のレジに親子が並ぶようになったのは最近のことなので、それ以前のことはわからない。それでもこの数週間で、慎吾くんの名前と、低い鼻を真ん中にして目と口を寄せたような顔も覚えたし、安田さんとも挨拶以上の会話を交わすようになっている。この頃では、安田さんは多恵と二言三言交わす会話が楽しみで、多恵のレジを選んで並んでいるのではないかと思える時もある。
 慎吾くんはスーパー丸栄に来ると、油で揚げた袋菓子か包装紙にロボットの絵が描かれたチョコレートを、おやつとして必ず買ってもらっている。客の買い物の内容についてあれこれ言える立場ではないが、子育てを経験した母親として言わせてもらえば、あまりよくない習慣だと多恵はいつも思っていた。そして安田さんのセルフ籠の中身も、出来合いのお総菜やレンジで温めるだけのレトルトや冷凍食品が多いのが、気になっていた。安田さんは料理が苦手なのだろうか。慎吾くんの肥満の原因はお母さんの食生活の管理にあるのではないだろうか。安田さんがいい人でありそうなだけに、多恵は言ってあげたい思いに駆られる。
 慎吾くんはお相撲さんをミニチュアにしたような体型で元気そのものだ。だが、安田さん自身は消化器系に持病でもあるのかと勘繰りたくなるほど痩せていて、顔にも色艶がない。年齢は三十歳を過ぎたところと思われるのに、化粧もせず、肩の上で切り揃えたパーマをあてていない髪には白いものさえ見える。着ているものも、いつもくすんだ色合いのTシャツとジーパンで、とても地味だ。しかしながら見かけは陰気そうな人ではあるが、打ち解けて話せば悪い人ではないと思う。親子の服はきちんと洗濯されてアイロンがかけられている。何よりも安田さんが優しいお母さんであることは、慎吾くんに向けるその眼差しに溢れていた。
 今日はスーパー丸栄の月に一度の冷凍食品半額の日で、どの客のセルフ籠の中にも冷凍の麺類やお弁当のおかずになりそうなものが入っていた。安田さんのセルフ籠もいつもに増して冷凍食品でいっぱいだ。そして冷凍食品とお総菜パックに埋もれて、今日も慎吾くんが買ったのと同じお菓子がもう一袋ある。
 忙しく動く多恵の手元をじっと見ていた慎吾くんが目ざとくそれを見つけて、「はなおかたえ、加奈ちゃんのお菓子もピッして、テープを貼れよ」と言う。「いつもお手数をおかけしまして。すみません」と、安田さんも本当に申し訳なさそうにこれで二度目の「すみません」を言った。
 加奈ちゃんは慎吾くんの三歳年下の妹だということは聞いていた。以前に「慎吾くんは何歳なの?」と訊いたら、彼は右手の丸々とした五本の指を全部広げて、「五歳」と答えた。「加奈ちゃんは何歳?」と訊くと、その広げた右手の親指と薬指をくっつけて二本の短い指を立てて、「二歳」と答えている。
 二歳の加奈ちゃんに慎吾くんと同じ大きさの菓子袋をおやつにするのはいくらなんでも食べさせ過ぎると思うが、多恵も慎吾くんや加奈ちゃんと同じ年頃の子ども達の母親だった時がある。だから兄弟姉妹の玩具とお菓子は数も大きさも同じにしていないと後々が大変だということは、たとえ五歳と二歳の兄妹でも目に見えるように理解できる。「加奈ちゃんのお菓子にも、ちゃんとテープを貼ったよ」と言ったら、妹思いの慎吾くんはにっこり笑って頷いた。
 こうして多恵は出勤の日は必ず、安田さんの子ども達のおやつに、スーパー丸栄の黄色いテープを貼っている。しかし彼女はまだ加奈ちゃんの顔を見たことがない。慎吾くんの幼稚園のお迎えとスーパーの買い物に連れて歩くには、二歳の子どもはまだまだ足手纏いな存在なのだろう。
 そのうえに今年は四月から降り始めた菜種梅雨がいつまでも続く。桜の花も雨の中で咲いて雨の中で散った。傘のいらない日がきたらそのうちに加奈ちゃんに逢えるだろう。きっと加奈ちゃんはおやつを買ってきてもらうのを楽しみにしながら、お祖父ちゃんかお祖母ちゃんとお留守番をしているに違いない。微笑ましい安田さん宅の二世帯同居に多恵は思いを廻らした。そんな想像がスーパーのレジ係という単調な仕事を楽しくする。
「本日も、お買い上げをありがとうございました。次回のお買い物も、よろしくお願いします」
 清算を終えて今度もマニュアル通りに多恵が頭を下げてそう言うと、安田さんが慌てた様子で言った。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 その言動から人付き合いが苦手なのではと思わせるところもあるが、それでも安田さんはいい人だと多恵は思った。

1−2 
   
 スーパー丸栄松木店の正面入り口掲示板に、「本日の特売のお知らせ」とともに貼られていた「レジ係募集・委細面談」の貼り紙を見て思いつき、花岡多恵は客の立場からスーパーの店員になった。その時、彼女はちょうど四十歳だった。十年前のことだ。家のローンを抱えていたので、その年の次女の中学校入学は、彼女に働きに出ることを決心させるよいきっかけとなった。
 あの日から十年経てば、客の買った商品の清算という仕事内容は変わらないが、彼女の私生活は大きく変化した。長女はすでに結婚して隣県に住んでいる。それで家の中で多恵は「お母さん」から「お祖母ちゃん」になった。次女は短大を卒業後に都会での独り暮らしに憧れて家を出た。その次女が小学生の時に拾ってきて飼うことにしたチビは、昨年の夏に十三歳で犬としての天寿を全うした。いまは農機具会社の定年退職を数年後に控えた夫の修治と、長女が孫を連れて帰省する日を唯一の楽しみと思う、夫婦二人の静かでそして退屈な日々だ。
 生活費のために始めた一日四時間のパート仕事だった。長女と次女の教育費に夫婦の収入を注ぎ込んでもまだ足りない何年間は、終わりが来る日があるのかと思えたほどだ。その間には、力を込めればどこかが裂ける古雑巾のように、心も体もどうしようもなく疲れ果てた時もある。同僚との軋轢・客との対応を巡ってのトラブルで、「こんな仕事は辞めてしまおう」と思ったことも一度や二度ではない。
 しかし幸いにも、夫の修治は多恵のすること口煩くない。「家計の足しに、スーパーのレジ係として働く」と言った時にも、男の沽券を一応は口にしないと気のすまない世間の夫のように、「働くのはいいが、家事の手は抜くな」とは言わなかった。積極的ではないにしても家事も手伝ってくれる。だから「辞めたい」と多恵が愚痴っても、「これだから、女には辛抱がない」とは言わなかった。それで今までなんとか続けられたのだと思う。思い出せば何が原因だったのか、「明日、辞表を出す」と息巻いた時、妻のたかが四時間パートの愚痴を修治は最後まで聞いて、「夫婦二人きりの時間が有り余る日々が、すぐに来る。その時は仕事があることに感謝するだろう。早まるな」と、珍しく諭すようなことを言った。もう記憶の奥底に沈んだ話なのに、あの時の夫の言葉通りの今の日々であることに、不思議な気もする。
 仕事のある日は早めに昼食を終え、十二時三十分に時計代わりのテレビを消して家を出る。スーパー丸栄松木店には、自転車を漕いで十分足らずで着く。
 事務所の上のロッカールームで、白い長袖ブラウスと紺色のベストスーツに着替えて、胸に名札を留め、十二時五十分に店内に入る。そして昼過ぎの客影も少ない店内を、青果・鮮魚・精肉・デイリーとコの字型に壁面に沿って歩き、ドライ食品と日用品の特売コーナーが設けられている中央通路を横切る。本日の特売商品を頭に入れて、レジ係としての接客をスムーズにするためだ。林檎のサンフジが一個で九八円、糸コンニャクと板コンニャクの寄り取りが二個で一〇〇円、塩サバの半身が一五八円、中央通路に積み上げられた洗剤はお一人様につき一箱限定で二九八円……。朝刊の折り込み広告で確認したのと同じ商品が、それぞれの特売コーナーに並べられている。
 新入学を祝う桜の飾り付けはすでに取り払われて、五月の行楽シーズンを見込んでのピクニック用品が、店内のあちらこちらにディスプレイされている。ワックスで磨かれた床は天井の蛍光灯に照らされて鏡のように明るく輝き、多恵の穿いている靴のゴム底に触れてキュッキュッと音を立てた。
 数え切れないほどの新鮮な食料品と便利な日用品がスーパー丸栄松木店の陳列台に整然と並び、手を伸ばした客はそれらを掴んでセルフ籠の中に放り込む。セルフ籠がそれらの商品で一杯になると同時に、客もまた幸福な生活も手に入れたような気分になるのだろう。そんな商品に溢れたスーパーの店内が多恵は好きだった。そしてレジ係として客の買い物の清算をする時、彼女は幸福を売る手伝いをしているような気持ちにさえなれるのだった。
 午後五時に学生アルバイトの女の子と交代して、多恵は四時間のパート仕事を終える。案内書に立っている正社員に仕事を終えたことを告げ、明日の打ち合わせをする。それから店内を出て、従業員通用口に据え付けてあるタイムレコーダーを押す。
 ロッカールームに戻る前に、シャッターが半分下りた商品搬入口から外を覗くと、降りやまない雨足が見えた。春先から続く天候不順で、スーパー丸栄松木店もこの数か月客数が伸びず、売り上げを落としている。売れ残って店内から引いた商品がそれぞれのストック場所に収まりきらず、それは天井まで届くほどに積み上げられて従業員通路まで溢れていた。積み重ねられた商品を避けて歩くと肩がぶつかる。
「花岡ちゃんの念力で、スカッと抜けるような青空にしてよ」
 トイレットペーパーの入っている段ボール箱の陰から、不意に姿を現した吉村邦子が多恵に声をかけてきた。少々お堅い雰囲気があって打ち解け難い同僚たちに敬遠されている多恵を、「花岡ちゃん」と気安く呼ぶのは鮮魚担当の吉村さんしかいない。
 吉村さんは鮮魚担当の証しとして、白いキャップで頭をすっぽりと覆い、ビニールのエプロンを身につけ足元はゴム長靴だ。彼女は背も高く体も横に大きい。その見かけと同じく性格も女性にしてはおおらかだ。スーパー丸栄松木店が松木町に店舗をオープンした二十年前から勤めている、最古参の従業員でもある。
 吉村さんの手には値引きシールの束が握られていた。これから夕方の見切り作業に取り掛かるのだろう。二十円引き・三十円引きのシールを鮮魚のパックに貼って、少しでも売れ残り廃棄処分を減らすのだ。雨の日は客数が減るのだから、当然、鮮魚の売れ行きも悪い。「花岡ちゃんの念力で、お天気にして欲しい」という彼女の言葉には、偽りのない溜め息が混じっていた。
「ほんと、毎日、よく降りますねえ。雨乞いをする時は、裸で踊るといいって聞いたことあるけれど、雨を止めるのにも、裸で踊るといいのかしら?」
「どうなんだろうねえ。でも、花岡ちゃんの裸も私の裸も、お空の神様は見たくないってよ」
 この十年、職場を離れてまで世間話に打ち興じるほど吉村さんと多恵は親しく付き合ってはいなかったが、なぜか顔が合うとお互いに冗談が口から出てくる。そして笑い合えば気持ちが通じる。三十代で夫を亡くし、女手一つで三人の子どもを育てあげた吉村さんの言葉には、いつも温かい思いやりが込められていると思う。働き始めた頃の多恵の顔には、浮かぬ思いが出ていたこともあったのだろう。そんな時、吉村さんは多恵の背中をぽんと叩いて言った。「毎日、お父ちゃんは会社で家族のために頑張っているんだし、子どもたちは学校で好きでもない勉強を頑張っているんだからね。お母ちゃんだって、頑張らんとね」吉村さんに明るくそう言われると、多恵は愚痴は胸に秘めて自らを励まそうという気になった。
 多恵と自分の服を脱いだ姿を想像して、吉村さんは声を上げて笑った。そして今度は大きな溜め息をついた。一日七時間正社員と同じように働いて仕入れも担当している吉村さんの憂鬱は、四時間パートの多恵とは比べ物にならないくらいに大きいのだ。しかししばらくはお天気の神様のことは忘れることにしたらしく、吉村さんは言った。
「それはそうと、花岡ちゃん。安田さんを知っている?」
「ちょっと太めの慎吾くんと、そのお母さんのことかしら。最近、買い物に来られると、私のレジに並んでくれるのよ」
「そうそう、その安田さんのこと。私のご近所さんなのよ」
「ああ、そうだったんですか」
 吉村さんの家はスーパー丸栄松木店を挟んで、多恵とは反対の方角にある。吉村さんの住む町はまだ田畑も多く残っていて、昔からの農家が多い。その緑色の田畑を二分するように東から西へとまっすぐに仲野川が流れている。しかし自転車にしか乗れない多恵にとって、吉村さんと安田さんの住むその町は、近くて遠い場所だった。
吉村さんの「ご近所さんなのよ」という言葉に、多恵が一人納得したのは、その町に以前からあったスーパーが休業して改装中で、この秋に再び開店予定だったことを思い出したからだ。それで客の一部がスーパー丸栄松木店にも流れてきている。最近になって安田さん親子が多恵のレジに並ぶようになったのは、そういうことだったのだ。
「慎吾くんのお母さんとよりも、私はお祖母ちゃんのアサさんと親しくさせてもらっているんだけどね」
 確かに吉村さんの年齢だとそうだろう。彼女にも慎吾くんくらいの孫がいるはずだ。多恵は慎吾くんの妹の加奈ちゃんのことを思い出した。
「そうだったんですか。それで、安田さんと慎吾くんがお買い物をしている時は、妹の加奈ちゃんはいつも、お祖母ちゃんとお留守番しているんですね」
 しかし多恵の言葉にいつもであれば打って返す吉村さんが、なぜか答えなかった。黙って俯いて、値引きシールを弄んでいる自分の指を見ていた。多恵の言葉に動揺し、そしてその動揺の訳を言ったものかどうか思案している横顔だった。そして顔を上げた。彼女は頭の中に浮かんでいることとは別のことを言おうと決めたようだ。
「安田さんとこの若奥さんが、レジ係の花岡さんは親切な人ですねって、言っていたわよ」そして値引きシールの束を持ち直すと、それで多恵の背中を叩いた。「花岡ちゃん、今夜の夕食の一品は刺身よ。鮮魚の売り上げに協力するんよ」
 ロッカールームに続く階段を、多恵は弾むような足取りで上がっていた。半日の立ち仕事のあとは必ず足が浮腫み、この階段を上がるのが辛い。しかし吉村さんから聞いた安田さんの「レジ係の花岡さんは、親切な人」という言葉は、魔法のように彼女の足を軽やかにした。

2−1 
   
 子どもたちがそれぞれの土地でそれぞれの暮らしを始め、老犬も見送ってしまうと、初めのうちは戸惑いも覚えた夫と二人きりの暮らしだった。しかし最近はそれにも慣れてきたように思う。午前中の家事も以前のように時間に追われることもない。だが、それが寂しい生活なのか清々しいのかは、多恵は努めて考えないようにしていた。
 二人分の下着を洗濯して、散らかることもなくなった部屋に掃除機をかける。必然的に増えた観葉植物に話しかけながら水を遣り、窓越しに庭を眺めながらコーヒーを味わう時間も持てるようになった。庭には昨年の夏にその主人を失った犬小屋がまだ置いてある。飼い犬はチビという名に相応しくない大きな犬だったので、犬小屋は狭い庭の真ん中に鎮座しているという感じだ。犬小屋はパンジーの花に囲まれていた。花は徒長して姿を乱し、長雨のせいで色も褪せている。今度の休日には夏草と植え替えよう。そしてその後で、思い切りよく犬小屋も片づけよう。しかしその休日が晴れていればだが。
 鮮魚担当の吉村さんに安田さんのことを教えてもらってから、一か月が経つ。あの日からもカラッと晴れ渡った日は数えるほどしかない。降り続く雨は、家の中とそして多恵の体の中まで憂鬱に湿らせていた。こういう時は仕事に行きたくないと正直思う。もう辞めても修治の収入で暮らしていけるだろう。まだまだやり残しの多い人生だ。元気なうちにいろいろやっておきたいとも思うし、しかしそれは二十四時間がすべて自由時間となったら、本当に嬉々として取り組みたいほどのものかとも思う。そんなふうに一人家の中で心が揺れる時は、「親切なレジ係の花岡さん」という安田さんの言葉を思い出し、元気な慎吾くんの顔を思い出すようにしている。それは一瞬ではあったが、多恵に心の青空を見せてくれた。
 出勤のある日に一人で食べる昼食は、朝食の味噌汁を温めなおしたものと冷蔵庫の中の残りもので充分に間に合う。テーブルにたった二皿を並べる。そして何か喋っているらしいテレビの画面には興味は湧かなくて、修治が無造作に折り畳んだまま置いてあった朝刊を広げた。天候のせいで、湿り気を帯びた新聞紙は心なしか重たい。それでもページを捲るたびに、紙に相応しい騒々しい音を静かな部屋の中に響かせた。
 新聞をテレビ欄から捲ったところで、不意に後ろから背中を押されたような驚きに、多恵の心臓が跳ね上がった。『おばさん』という平仮名四文字の活字が、射られた矢のように彼女の目の中に飛び込んできた。『こんなおばさんにはなりたくない』、家庭欄の隅に設けられている、女性向け投稿欄の見出しの一部だった。五十歳という多恵の年齢が、自分を含めた年代の女を一括りにしてしまう言葉に、過剰に反応してしまったのか。いやそれだけではなかった。『スーパー』『レジ』『セルフ籠』など、多恵の仕事に関わる言葉が、その後に続いて並んでいた。跳ね上がった心臓は喉元を塞ぎ、締め付けるように脈打つ。それまでは目で活字を追っていても読んではいなかったことに気づかされた。
『今日も一日、雨模様だった……』
 そう始まる文面のどこに多恵の心臓を跳ね上がらせたものが潜んでいるのだろう。文章を読む前に末尾の投稿者の氏名と職業を見る。名前に心当たりはないその女性は年齢は三十五歳で会社員という肩書だ。数行読み進めて、その女性は共稼ぎの主婦でもありまだ子どもがいなようだとわかる。
 新聞に投稿したいと思わせた事件が起きたその雨の日、彼女の職場で女が子どもを産まず働いていることが、同僚たちの間で話題となった。彼女になぜ子どもがいないのかについては書かれていないが、他人の生活への詮索を楽しんでいる同僚たちの思いやりのない言葉は、いつも彼女を傷つけているようだ。そしてその日の仕事を終えた彼女は、疲れた体に深く傷ついた心を抱えたまま、帰宅途中に夕飯の食材を買うためにスーパーに立ち寄った。
『レジで精算している途中、後ろに並んでいた主婦が熱心に私のセルフ籠の中身を覗いていた。三十代半ばのスーツを着た勤め帰りの女が、夕食のために何を買ったか、彼女はそれが知りたくてたまらないという顔をしていた。おばさんというものは、どうしてこうも他人の私生活を覗き見し詮索したがるのだろうか。私はこんなおばさんにはなりたくないと思う』
 新聞を無造作に捲りかけていた多恵の手は止まり、かすかに震えてもいた。新聞に投稿されてその行為を多くの読者に晒されたおばさんとは自分のことに違いない。いつこの女性に他人の持つスーパーのセルフ籠を覗く自分の姿を見られたのだろう。スーパーのレジ係という理由だけではなく、なぜか多恵は他人の持つセルフ籠の中身を覗き見するのが好きだ。そしてその中身と持ち主の顔を見比べて、その人の私生活をあれこれと想像するのが密かな楽しみでもあった。スーパーの通路は公道だから自分の行為に疾しいことはないと思っていたが、それを迷惑だと思う人がいることを初めて知った。
 喉元まで跳ね上がった心臓も落ち着いてきてあるべき場所に収まると、新聞とは不特定多数の購読者が読むもので、だから自分も偶然にその中の一人でしかないことに多恵は気づいた。『こんなおばさんにはなりたくない』という投稿文を書いたその女性のセルフ籠を覗いたのは自分ではないはずだ。他人の買い物の中身が気になるおばさんは、自分以外にもたくさんいるはずだ。そう思いながらも、これを書いて投稿せずにはいられなかった女性への申し訳なさに、多恵は首をすくめた。
 スーパー丸栄松木店の客には、メモを片手に無駄のない買い物を常に心がけている客もいれば、特売で普段より安いという理由だけで、商品を片端からセルフ籠に放り込む客もいる。レジ係を十年もしていれば、清算しながらその客の夕食の献立が言い当てられるセルフ籠の中身に安心し、無秩序な商品が溢れる籠を見れば、その家の乱雑な冷蔵庫の中や部屋の散らかり具合まで想像してしまう。使ったことのない珍しい食材や調味料をレジ機に通す時は敬意を込め、値段の安さに魅かれて買ってしまいその不味さに閉口した食品をセルフ籠の中に見つけた時は、自分と違う味覚を持っているらしい客の顔に何かを見つけようとついつい見つめてしまう。
 買い物の中身からその客の家族構成が窺えるのは当然のことで、これだけは誤魔化しようがない。食べ盛りの子どもが何人もいる家と老夫婦二人暮らしの家では、その中身は全然違うのだ。老人男性一人での買い物姿は十年前には見かけなかったが、今では時々、多恵のレジに並ぶ常連客がいる。男も一人で気軽に買い物をする時代になったのか、それとも男一人で過ごす老後が珍しくなくなったのか。一人分の天婦羅と一人分の煮物……。いろいろな食品が籠から溢れるほどに買い物をする客に交じって、小さくパックされた二品の総菜だけというのは、マニュアル通りに「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と言うのも辛くなる。目の前の客の顔はいつの日かの夫の顔に重なる。
 一つ屋根の下に何人住んでいるのか、毎日のセルフ籠の中身に注意していれば、言い当てられるのではないかと思う時がある。そういえば慎吾くんの妹の加奈ちゃんの顔はまだ見たことはないが、いつも彼女のおやつをレジ機で清算していると、安田加奈ちゃんという名前の二歳の女の子に逢ったような気さえするこの頃だ。
 新聞は湿気を吸い込んでますます重たくなったように感じられた。『こんなおばさんにはなりたくない』という活字をその重さの中に閉じ込めるように畳むと、多恵は立ち上がった。時計代わりのテレビの画面を見なくても、出勤時間が迫っていることはわかっている。

2−2 
   
 レジ係から解放される午後五時までにはまだ少し時間がある。スーパー丸栄松木店の店内は夕方の買い物客で賑わい始め、十台並んだどのレジにも客が並んでいた。しかし多恵は仕事に集中できないでいた。子どもの、それも赤ん坊ではなく言い聞かせれば聞き分けが出来るのではないかと思わせる年齢くらい子どもの泣き声が、先ほどから店内に響いている。甲高い泣き声の中に時々、喚く声も混じっている。男の子のようだ。
 なんと言って泣き喚いているのだろう。釣銭を正確に数えようとする意識がどうしてもその声のほうにむいてしまいそうになるのを、多恵は必死で抑えつけていた。それでも耳は男の子の声を拾ってしまう。「おばあちゃん」「嫌い」「くたばれ」、三つの言葉が途切れ途切れに聞こえてくる。十年もレジ係をしていると、子どもの甲高い泣き声が一番集中力を削ぐと知っている。
「おばあちゃんなんか、嫌いだ。おばあちゃんなんか、くたばれ」
 それに答えて叱責する女の声もしているが、それははっきりとは聞き取れない。男の子に嫌われている祖母でも、またこうなってしまった以上はもう誰でもいいから、早くその男の子を泣き止ませて欲しい。それは多恵だけでなく、十台並んだレジに立つレジ係の誰もが思うことだった。しかし叱責する女の声は火に油を注いでいた。
「恥ずかしい子だこと。お母さんが甘やかすから、こんな我がままな子になってしまって。いくら泣いても、おばあちゃんは必要のないものまでは買いませんからね」
 突然、多恵の背中に耳が生えて、叱責する祖母の声がはっきりと聞こえるようになったのではない。泣き喚く男の子と叱責する女の声が多恵のほうに近づいてきているのだ。それにしても泣き喚く子どもを諌める話し方というものがあるだろう。曲がりなりに子育てしてきた多恵にでもそのくらいのことはわかる。
 自分のレジだけは通り過ぎて欲しいという願いも空しく、先客の清算を済ませて顔を上げると、怒りで顔を真っ赤にした慎吾くんが、お祖母さんらしい人に手を引っ張られて立っていた。慎吾くんは幼稚園の制服ではなく、Tシャツに短パンだ。今日は安田さん親子の姿を見かけないと思っていたが、幼稚園がお休みだったのか、それとも何らかの理由でスーパーには寄れなくて、それでお祖母ちゃんが慎吾くんを連れて買い物に来たのだろうか。お母さんの看病が必要なほどの加奈ちゃんが病気でなければいいのだがという思いが、多恵の頭の中を忙しなく駆け巡った。
 慎吾くんはお祖母さんに右手を掴まれて引きずられた格好ながらも、自由な左手でしっかりと二つの菓子袋を胸に抱え込んでいる。レジの前に立った二人に、多恵は特別ににこやかな笑顔を浮かべた。
「あっ、慎吾くん。今日は、お祖母さんとお買い物ね。いいわね、何を買ってもらったのかな?」
 どうみても「いいわね」とは言えない目の前の光景だが、祖母の孫への対応をスーパーの店員としては責めるわけにもいかない。しかしにこやかな笑顔とその言葉は、多恵と慎吾くんが親密な関係だということを、お祖母さんにアピールする効果はあった。
「あら、うちの嫁とお知り合いの方ですか。お恥ずかしいところをお見せしてしまって」
 慎吾くんのお祖母さんは並んだレジ係が孫の名前を知っているとわかると、慎吾くんを叱責する言葉をやっと引っ込めた。そしてセルフ籠をレジ台に載せるために片手でしっかり掴んでいた慎吾くんの手を離した。慎吾くんはその隙を逃さなかった。胸に抱えていた二つの菓子袋を持ち直して、多恵に差し出した。
「はなおかたえ。ピッして、テープを貼れよ」
 涙に枯れ果てた声で彼はいつものセリフを言った。しかしお祖母さんが孫の乱暴な言葉に黙っているはずがない。
「まあ、なんていう言葉遣いなんでしょう。母親の躾がなっていないものですから、ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
 初めて見る安田さんのお姑さんは、六十歳を超えたくらいの年齢だった。血色のよい大柄な女性だ。頭は真黒に染めてきつくカールさせていて、原色の賑やかな花模様のサマーセーターを着ていた。そして何よりも丁寧を装ったその言葉の中に人を見下した棘が潜んでいる。言いたいことをはっきり言えずすぐに口籠ってしまうお嫁さんの安田さんは、これではきっと言い返せないだろうと想像した。しかしきっとその人柄は、安田さんのほうがお姑さんよりも何百倍もいいと思う。
 そして「躾がなっていない」というお祖母さんの言葉に、多恵は素直に納得できない。年相応にやんちゃな慎吾くんだが、彼がお母さんのことを大好きで、そして時々見せる子どもらしからぬお母さんへの細やかな心遣いを多恵は知っている。スーパー丸栄松木店での買い物が終わったあと、商品がいっぱい詰め込まれた重い買い物袋を彼はお母さんの代わりに必ず持つのだ。小さな肩を怒らせて床擦れ擦れに買い物袋を引きずる慎吾くんの微笑ましい後ろ姿は、それは彼のお母さんへの愛情以外の何物でもないだろう。
 多恵は聞こえない振りをしてお祖母さんの言葉を無視した。正論を触れ回る声の大きさに、優しさや誠実さが正比例しているかは疑問だ。笑顔を慎吾くんに向けたまま彼から二つの菓子袋を受け取った。皺くちゃになった菓子袋は祖母と孫の攻防を語っていた。きっと中のサラダチップスは粉々に砕けていることだろう。それらをレジ機に押し当てバーコードを読み取らせて、清算済みの黄色いテープを貼った。
「はい。慎吾くん、お待たせしました。留守番している加奈ちゃんのぶんにも、ちゃんとテープを貼ったからね」
 慎吾くんを勇気づけようとした多恵のその言葉に、お祖母さんが驚いて大きく息を吸い込んだ気配がした。多恵は言ってはならないことを口にしてしまったらしい。しかしそれがなにであるかは見当もつかなかった。慎吾くんから視線を移してお祖母さんを見ると、すでにその顔から驚きの表情は消えて、勝ち誇った喜びに卑しく輝いていた。
「慎吾が二つも同じお菓子を欲しがるから、変だとは思ったのですよ。そういうことだったのですねえ。加奈は、昨年、病気で死んでいます」
 その言葉に、多恵の耳の奥で虫が鳴き始めた。聞きたくない事を聞かされた時に始まる耳鳴りだ。慎吾くんは祖母の関心が自分からレジ係へと変わったのを幸いに、二つの菓子袋を受け取ると走り去った。多恵は言ってはならないことを言ってしまった後悔と、加奈ちゃんは死んでいるという事実に混乱し、無言でお祖母さんが買った商品をレジ機に通すことしか出来なかった。
「うちの嫁は本当に何を考えているんでしょう、死んだ子のおやつを毎日買い続けるなんて……」誰の相槌も求めていないお祖母さんの言葉は、日頃の嫁への鬱憤を晴らすのが目的だ。「そんなことばかり考えているから、生きている者の毎日の食事支度が疎かになるんです。毎日毎日、出来合いのお惣菜と解凍した冷凍食品ばかりが、テーブルの上に並んで……。料理が苦手なら、本でも買って学べばいいものを。あんなもの、息子も孫も可哀想だし、年寄りの私が食べられるわけもないでしょう。」
 その言葉の通り、お祖母さんのセルフ籠の中には安田さんの買い物の時には見ることのない、大根や牛蒡や青い葉っぱの野菜や魚や肉が入っていた。しかし魚は小さな切り身で豚肉のパックも小さい。野菜類も種類は多いが一つずつがこまごまとしている。どうみても一人分の食材だ。お祖母さんはお嫁さんを責めるだけで、子どもを亡くしてその痛手から立ち直っていないお嫁さんの家事を分担して手伝おうという気持ちのないことが、買い物の中身からよくわかる。清算を終えた多恵はマニュアル通りの角度に無言で頭を下げた。「ありがとうございました。またご利用くださいませ」とはどうしても言えなかった。
 お祖母さんはサッカー台で買ったものをセルフ籠からナイロン袋に詰め替える時も、そしてその袋を提げて正面出入り口の自動ドアから出ていく時も、距離をおいて歩く慎吾くんに大きな声で喋り続けていた。その声の一つ一つは聞き取れない。だが声の調子からして、まだまだ言い足りない嫁の悪口だと想像できる。次の客のレジをしながら、二人の様子を窺っていた多恵にとって、慎吾くんがもう泣いていないことだけが救いだった。
 しかしそんな祖母と孫の後ろ姿が気になっていたのは、多恵だけではない。隣のレジに立っていた赤岡さんが多恵に意味ありげな視線を送ってよこした。
 日用品係の赤岡さんは客が立て込んできた時だけ呼ばれて、レジに立つ。彼女はこのスーパー丸栄松木店を代表する放送局だ。この店のすべての噂話は彼女から始まり彼女に戻って終結する。安田さんのお祖母さんと孫の慎吾くんの騒動は、彼女の耳も入ったに違いない。多恵がレジを終えて店内を出るころには、もう安田さんの家の事情は尾鰭をつけて従業員の間を泳ぎ回っているはずだ。それは安田さんの家の事情に詳しく親しく付き合っているという鮮魚担当の吉村さんにも伝わって、彼女はきっと胸を痛めていることだろう。

2−3 
   
 多恵が出勤した時に降っていた雨は、午後五時には止んでいた。レジに立っていて、途中から客の手荷物に傘が無くなったので、そうなのだろとはわかっていた。スーパー店内は空調が効いていて、衣替えしたばかりの半袖ブラウスの制服では肌寒かった。だが従業員通路に出ると、外の商品搬入口と繋がっているそこはやはり六月らしく、むっとする蒸し暑い空気が淀んでいた。シャッターが半分下りている商品搬入口で、いつもの習慣で身をかがめて外を覗く。青空と山の境界に黒い雲が漂っていて、明日の天気を予報していた。
 今日もビニールの白いキャップとエプロンで身を包んだ吉村さんが、手に値引きシールの束を持って立っていた。その無防備な後ろ姿に明るく声をかけようとして多恵は止めた。長雨のために続くスーパーの売り上げ不振を挨拶代わりのジョークとしてしまうのはもう不謹慎というものだ。それで多恵は吉村さんを驚かそうと、後ろから気配を消して近づきその肩を叩いた。「うわっ」と大きな声を上げて驚いた吉村さんだったが、その振り返った顔には話したいことがあって多恵を待っていたと書いてあった。多恵もそれは安田加奈ちゃんのことだろうとすぐに察しがついた。やはり赤岡さんはレジを離れたあとすぐに「ここだけの話よ」と言いふらし、それは吉村さんにも伝わっている。
「安田さんのところのアサさんが、買い物に見えたのだって」
 振り返った吉村さんは言った。それであの安田さんのお祖母さんはアサさんというのだと知った。同時に吉村さんは重い溜め息を吐き出した。多恵も重い声で答えた。
「泣き喚く慎吾くんと一緒にね」
「アサさんは根は悪い人ではないのだけど、心で思ったことを、そのまま腹の中に溜めておくことが出来ない人なのよ」
「加奈ちゃんはもう死んでいるんだって、店内中に聞こえるような大きな声で言ったわ」
 仕事中の立ち話なので、遠回しな表現は避けてすぐに要件に入るしかない。
「そうなのよ。二歳のお誕生を迎えてすぐだったわ、かわいそうに。私もアサさんには若嫁さんの気持ちが落ち着くまで、しばらくは見守ってあげなくてはと、何度か忠告もしたことはあるのだけど。アサさんは自分が正しいと思うと、すぐに口にしないと気のすまない性質なものだから。そうそう、うちの嫁は料理が下手だ、テーブルに並ぶのは、出来合いのお惣菜と解凍した冷凍食品ばかりだとも、言っていたんだってねえ」
「ええ、そういうことも大きな声で言っていたわ。でもあの意地悪なお祖母さんの肩を持ちたい訳ではないけれど、確かに安田さんってお料理は苦手みたい。毎日の買い物を見ていると私でもそう思うわ」
「あれには理由があるのよ。アサさんが若嫁さんの作る料理に毎日毎日、文句ばかり言っていたから。あれだけ言われると、誰だって料理が嫌になると思うわ。どうせ何を作っても文句言われるのだったら、スーパーで買ってきたお惣菜でも並べておこうかと考えても、しかたがないわねえ。いまどきの若い人は褒められて上手になるのだから、若嫁さんの一つでもいいところを見つけて、褒めてあげなさいって、そうしたら若嫁さんもお料理が上手になるはずと、私も言ってはいるのだけどね」
「そんな理由があったのね。毎日毎日、あんな調子で捲し立てられていたら、ちょっと気の弱い人には辛いものがあるでしょうね」
「アサさんにも若嫁さんにも、それぞれの言い分はあるのよ。そのどちらもよく分かるから、私にはどうしてもあげられない。アサさんも早くからご主人を亡くして苦労して一人息子を育てたし、若嫁さんも可愛い盛りの子ども亡くして辛い思いをして。その二人が同じ屋根の下で仲良く暮らせないなんて、本当に困ったことだわ」
 優しいお母さんである安田さんが、すでに死んでいる加奈ちゃんのおやつを慎吾くんと揃えて買うという行為は、自分も二人の子どもの母親である身に置き換えれば充分に理解できる。その立場になれば、きっと多恵も悲しみが癒えるまで安田さんと同じことをしただろうと思う。そしてお祖母さんの小言に耐えながらお母さんの意思を貫いた慎吾くんは本当に健気だ。それにしてもあのお祖母さんには思いやりがない。彼女がどんな理に適ったことを言ったにしても、あのセルフ籠の中の一人分の食材は彼女がどんなに自分のことしか考えない人間であるか、文字通り一目瞭然というものだ。
しかし吉村さんの話で、安田さんが根っからの料理嫌いではないということを知って、多恵は安心した。慎吾くんのこれからの成長のためにも、いつまでも出来合いのお惣菜や冷凍食品ばかりでは困るだろう。しかしあの手強そうなお祖母さんでは、彼女が自信を取り戻せる日はいつのことになるのだろうと心配だ。吉村さんが言葉を続けた。
「今日のことは若嫁さんには言わないでね。ここに買い物に来るのを楽しみにしているようだから」
「ええ、それは心得ているわ」
 さっきのお返しとばかりに吉村さんは手に持っていた値引きシールで多恵の肩を叩いた。
「花岡ちゃん、今夜のおかずはもちろんサバの味噌煮で決まりよ。さあ早く帰って、大切なお父ちゃんに美味しいご飯を作ってあげんとね」

3−1 
   
 翌日から再び、安田さん親子は二人揃って幼稚園帰りにスーパー丸栄松木店に買い物に来るようになった。そして二人とも昨日のスーパーでの出来事など知らぬ様子で、今までと変わりなく多恵のレジに並ぶ。だから、多恵も加奈ちゃんのことなど聞かなかったふりをして、いつもと変わらぬ態度で接客した。
 相変わらず慎吾くんは丸々とした体をレジカウンターにアザラシのように乗せ、「はなおかたえ。ピッしてテープを貼れ」と、手に持った菓子袋を突き出して命令する。そのたびに「生意気なことを言って、すみません」と、安田さんはその痩せた体をますます小さくして言う。そして多恵もお惣菜と冷凍食品で一杯になったセルフ籠の中から、もう一つの菓子袋を探し出して、「これは留守番をしている加奈ちゃんのぶんね」と言って、これもピッしてテープを貼る。
 数日後、冷凍の餃子をレジ機に通していると安田さんが言った。
「餃子の手作りって、難しいのでしょうか」
 やはり、育ち盛りの慎吾くんにいつも冷凍食品ばかり食べさせていることが、安田さんも気にはなっているのだ。
「あら、そんなことないわ。すごく簡単だし、それに美味しいわ」
「そうなんですか。作ってみたいなと思って、お料理の本を買ったんです」
「頑張ってね」
 そう言うと、安田さんは恥ずかしそうに笑った。その表情が多恵の頭の中で、不慣れな土地で安田さんと同じように家事と育児に明け暮れている長女の顔と重なった。長女も料理の本を見ながら新しいレシピに挑戦したりしているのだろうか。ふと今夜あたり長女に電話してみようと思う。
 安田さんおお祖母さんはあの日から見かけない。このあたりのスーパーは丸栄だけではないし、またこの店に来ても多恵のレジには並ばないということもありえる。あの日の多恵の愛想悪い態度は伝わっているだろう。レジ係としては失格ものだが、それはそれとしてあの顔を見ないでよいということは嬉しかった。

3−2 
   
 七月になった。さすがの空も雨ばかり降らすことに飽きてきたようだ。菜種梅雨からそのまま入梅した今年の春から初夏にかけての長雨も終わりに近い。梅雨明けを誰もが待ち焦がれていた。日捲りカレンダーをあと数枚破ると、ある日突然、空が青く晴れ渡った夏にきっとなる。
 その夜、多恵が風呂から出るのを待ち兼ねて、夫の修治が台所に立った。夫婦二人の生活にも慣れたこの頃、修治は食後に食べたい物があるといそいそと台所に立ち、一人で支度をするようになった。働き盛りの時は家事のすべては妻の仕事と思っていたようだが、やはり歳がそうさせるのだろう。この日も彼は冷蔵庫の中に切り売りのスイカを見つけ、妻が風呂からあがったら一緒に食べようと待っていたのだ。夫のスイカを切り分けるぎこちない包丁の音を聞きながら、多恵は扇風機の前に座り込み洗い髪に風を通していた。
「おい、どの皿を使えばいいんだ?」
 その声に応えようとして腰を浮かした時、つけていたテレビの画面に懐かしい風景が映ったのを目の隅に捉えて、また多恵は座り直した。花岡家のテレビに映る光景は、外国の美しい街並みや日本の都会の雑踏ばかり。毎日それを当たり前と見慣れていると、突然現れた身近な風景に、まるで月世界でも見たように驚いてしまう。
「あら、お父さん。あの川は……」
 全国ニュースからローカル版に切り替わって、テレビの画面は小さな川を中心に据えた景色が大写しになっていた。川の向こうには二十歩で渡り切れそうな小さな橋も映っている。田畑の広がる郊外であれば、どこにでも在りそうなありふれた川だ。それが梅雨の終わりの大雨で増水している。その逆巻く濁流へとテレビカメラは寄っていく。その川に見覚えがあった。吉村さんや安田さん親子の住む町を割るようにして、東から西へと流れる川だった。
「へえ、仲野川じゃないか」
 多恵の呼びかけに、修治もスイカを盛った皿を手にやってきた。
 修治が川の名前をすぐに言い当てられたのは、元気だった頃のチビを車に乗せてその川までよく出かけていたからだ。チビは仲野川の土手道で鎖を外してもらい、つかの間の自由を楽しんでいた。画面一杯の濁流から再びカメラは引いて、土嚢が積まれた土手が大写しになる。その土嚢の列が途切れた所の斜面で、草がなぎ倒され茶色の湿った土が剥き出しになっていた。
『六十二歳の女性が川に転落・行方不明』
 テロップが画面の下を流れて、多恵にも見慣れた仲野川がどうしてテレビに映っているのか事情が分かってきた。聞き流していたアナウンサーの声が意味を持って耳に入るようになった。
『安田アサさん、六十二歳が、本日の早朝に犬を連れて家を出たまま帰って来ないとの家族の届け出を受けて、警察と消防による捜索が行われました。しかし、依然として、安田さんの安否は不明です。安田さんの家の近くには仲野川が流れており、安田さんもよく犬を連れて川岸を歩いていたとの話もあることから、警察の発表では、明日も、仲野川への転落も視野に入れて、捜索を再開する予定です。仲野川は最近の長雨で増水しており……』
 テレビ画面は執拗に、何物かが仲野川の土手を滑り落ちた痕跡と思われる場所を写していた。
「安田アサさんって、慎吾くんのお祖母さんのことかしら」
 スーパーで安田さん親子との毎日の遣り取り、また人目も憚らず嫁の悪口を声高に言い触らすお祖母さんのことなど、多恵は修治にすべて話している。しかし声に出してそう呟いたものの、夫の返事を彼女は聞いていなかった。そういえば、今日は、安田さんと慎吾くんは買い物に来なかったような……、そして吉村さんとも顔を合わせていなかったような……。いろいろと考えながらもすぐに吉村さんに電話をかけようと思ったのは、テレビで言っていた安田アサとはあのお祖母さんに違いないという直感があったからだ。
 スーパー丸栄松木店の従業員名簿から吉村さんの名前を探し出した。電話番号を押す指先が震えて一度は受話器を置き直した。吉村さんは数回の呼び出し音ですぐに電話に出て「もしもし、吉村ですが」と名乗った。その声の後ろに多恵の家のテレビと同じアナウンサーの声が聞こえる。吉村さんも同じテレビ局のニュースを見ていたのだと知って、多恵は自分の直感の正しさを確信した。
「アサさんは、今朝、飼い犬のゴウちゃんと散歩に出かけて。それも今の時期は空の明けるのも早いから、かなり早い時間だったみたい。ゴウちゃんだけが鎖を引きずって帰ってきて、そのまま犬小屋でおとなしくしていたものだから、家の人たちはアサさんがいないということに気づくのが、遅れたのよ」
 安田さんと親しい吉村さんは、もう何度も問われるままにたくさんの人達に同じ話を繰り返したのだろう。暗く沈んだ声だったが、その説明に淀みはなかった。
「先ほどのテレビのニュースでは、仲野川に転落したように言っていたけど」
「そうなのよね。いつもの散歩コースの仲野川の土手に、アサさんのサンダルが落ちていたのよ。だからきっとそうなんでしょうねえ。明日は、仲野川の下流や海のほうでも探すらしいわ」
「安田さんもしばらくは大変でしょうね。しばらくはスーパーに買い物にも来られないでしょう」
「レジの花岡さんも心配していたって、伝えておくわ」
 修治はスイカに齧り付きながらも、電話口から漏れる会話の成り行きに聞き耳を立てていた。スイカは多恵の分も用意されていた。しかしその水っぽい赤色に彼女の食欲は失せてしまった。
「やっぱり、あの安田さんのお祖母さんか?」
と、多恵のスイカに手を伸ばして修治が訊く。そして「しばらくスーパーで買い物が出来なくたって、冷蔵庫の中は冷凍食品で一杯なのだからから、大丈夫だろう」と言った。
「こんな時に、そんな不謹慎なことを言って」
 そう返事を返しながら、夫がそう言いたくなるような安田さんの家の事情のあれこれを夫の耳に吹き込んだのは自分なのだとも、多恵は思った。いまだに冷たい泥水に浸かったままかもしれないお祖母さんのことを思えば、気の毒とも思うが、しかし多恵も心の底からの同情は湧いてこない。「加奈は、死んでいるんです」と彼女の勝ち誇った声を間近で聞かされた者としては、この世には当然の報いという言葉もあると思ってしまう。そんな感情に揺さぶられて言葉が口をついて出てきた。
「今頃って、夜が明けるのは五時前よ。そんな時間に犬を連れて散歩だなんて、犬も迷惑なことでしょうに。いかにもあの自分勝手なお祖母さんのしそうなことだわ。そんな時間には、誰も仲野川の土手なんて歩いていないでしょうに」
 修治のスイカを持っていた手が止まった。
「それで何が言いたいんだ?」
「おやつを買ってもらえなかった加奈ちゃんが、あの世にお祖母さんを呼んだのじゃないかしら」
「変なことを考えるなあ、おまえはまったく……。頼むから、そんなことは明日のスーパーで、誰にも言わないでくれ」
「そのくらいのこと、私だってわかっているわよ」
 あれこれ考え始めると、眠れない夜となった。加奈ちゃんがあの世に呼ぶ訳はないだろうが、多恵もチビを散歩させていて突然鎖を引っ張られて、尻餅をついたことは何度かある。子犬の時はその名前の通りに小さくて可愛かったチビだが、成犬となると予想以上に逞しく大きな犬となった。犬に引かれながら、細い土手道を不用心に歩いていたら運悪く川に落ちることもあるだろう。それもサンダル履きだなんて。
 いくら空が明けるのが早いこの季節とはいえ、まだ誰も起きていないような早朝に一人で犬の散歩とは、電話で吉村さんも言っていたように年寄りとしてすべきではない。何が起こるかわからないではないか。その夜、多恵は眠れないままに暗い天井を見つめた。闇は小さな想像を大きく膨らませる。事故ではなくて、女の一人歩きなのだから事件だって起こる可能性もある。そう、見ている人がいなければ事件だって起きる。落ちたのではなく、誰かと争って突き落とされることだってある。あんなに意地悪く頑固な人だから、ふと消えて欲しいと願っている誰かもいることだろう。
 隣で寝ている修治にこの思いつきを喋ってみたい衝動に駆られた。きっと修治は寝入りばなを起こされた不機嫌な声で、「テレビのサスペンスドラマの見過ぎだ」と言うに違いない。そこまで考えて、願うことと実行することは全然別ものだと、多恵は自分に言い聞かせた。寝返りを打った。一度しか会ったことのないスーパーのレジ係に、こんなことを考えさせる人の死もあるのだと思うと、ますます眠れない。

3−3 
   
 安田さん親子が再び多恵のレジに来たのは、テレビのニュースを見てから、二週間が過ぎていた。安田さん親子はその前にも買い物に来ていたのかも知れないが、時間帯が多恵の勤務時間と違っていたのかも知れないし、多恵の休みの日だったのかも知れない。
 安田アサさんが仲野川に姿を消した翌日より、皮肉なことに長梅雨は明けて晴れ渡った青い夏空が続いている。レジカウンターに身を乗り出し菓子袋を振り回す慎吾くんは、その丸い顔も半袖シャツから出た短い丸太のような両腕も、日に焼けて赤くなっていた。「はなおかたえ」といつものように人を呼び捨てにする大きな声が、二週間前より逞しく聞こえるのは多恵の気のせいだろうか。
「慎吾くん、久しぶりね。元気だった?」
 と、多恵もいつものように菓子袋を受け取ってレジ機を通し黄色いロゴテープを貼りながら言った。そして安田さんのほうに向きなおって「お祖母さんのこと、大変でしたねえ」と、この日のために用意していた言葉を言った。アサさんはまだ行方不明だ。いくらなんでも「ご愁傷様です」とは言えない。
「ご心配をおかけして、すみません」
 まだ葬式を出すことの出来ない立場を、安田さんも曖昧な返事で表現した。
 隣町に住んでいた安田アサさんが仲野川に落ちたらしいということは、スーパー丸栄松木店の従業員達の間でもかっこうの噂話の材料となっている。増水した仲野川に落ちた人は過去にもいるが、海まで流されてもその遺体は見つかってきた、今回のアサさんのようにまだ発見されないケースは珍しいと、多恵も噂話の一つとして初めて知った。そして目撃者がいないのだから、もしかしたらと事故ではなく事件かもと、彼女が眠れぬままに考えたことと同じようなことを考え、そして口にする人もいた。しかし吉村さんの睨みが効いて、表立った噂とはなってはいない。何よりもアサさんはまだ行方不明という状態だ。生死の定かでない人のことをあれこれと言うのは、やはり後味が悪い。
 今日の安田さんは二週間前より痩せて頬もこけたように見えた。そして前髪あたりに白いものが増えたようにも多恵には思えた。
 多恵が買い物の支払い合計金額を告げると、安田さんは財布の中に視線を落とした。それでますます落ち窪んだように思われる彼女の瞼に、自然と多恵の目はいった。そしてその目に今まで見たことがないものを見つけて、一瞬、息が止まった。安田さんが瞬くと、その瞼の上にうっすらと塗られた紫色のアイシャドウが見えたのだ。こうして手を伸ばせば届くほどの近くでまじまじと見つめなければわからないほどの、それは淡い色だ。
  そういえばもしかしたら……と多恵は思いついたことがあって、安田さんの口元に視線を移す。やはりその唇も薄いピンク色に染まっている。こちらも一番目立たない薄い色の口紅を塗って、そのあとに拭き取ったとしか思えないような色だった。安田さんがレジに並んだら、お祖母さんのことをどう言おうか、とそのことばかりに気を取られていたので、初めは気づかなかったのだ。しかし化粧をする同じ女なら、目立たないように気を配った薄化粧であっても素顔でないくらいはわかる。化粧した安田さんの顔を初めて見た。

……あら、この二週間でやつれた様子ではあるけれど、なんか綺麗になって……と思い、そう思ってしまったことに多恵は後ろめたさを覚えた。この二週間、きっと安田家ではアサさんの安否を心配する人の出入りが絶えないのだろう。あれこれと心配して気を遣ってその上に身だしなみにまでも心を配らなければならないのだと、多恵はその大変さを想像した。
 しかし薄化粧をした安田さんだったが、久しぶりに覗くセルフ籠の中身は変わっていない。相変わらず出来合いのお惣菜パックと冷凍食品ばかりだ。……と思っていたら、籠の中から豚挽肉とキャベツと餃子の皮が出てきた。化粧と違って料理のことだったら、口にしても不適切な話題ではないだろう。多恵は少し嬉しくなって客とレジ係というお互いの立場を忘れた。
「あら、今夜は手造り餃子なんですね」
「お料理の本の通りに作ってみようと思うんです。やっとそんな気持ちになったのもで。上手に出来ないかもしれないけれど」
 自信なさそうに答える安田さんの声がそれでも弾んでいるように聞こえる。
「大丈夫。前にも言ったけれど、そんなに難しくはないから。それに沢山作ったら、冷凍しておくと、便利よ」
「あっ、そうですね。そうしてみます。すみません」
 次客の清算を済ませて顔を上げると、正面入り口から出ていく安田さん親子の後ろ姿が見えた。いつものように安田さんが買い物袋の一つを持ち、慎吾くんがもう一つを引きずるようにして下げていた。そんなふうに持ったら中に詰めたものが潰れやしないかと思うものの、乱暴者の慎吾くんなりのお母さんへの愛情表現だと思うと、いつまでも見送っていたくなるような光景だ。
……あら、安田さん、スカートを穿いている……、いつもは洗濯をされてアイロンも掛けられてはいるけれど、地味なTシャツとジーンズ姿の安田さんだった。顔色が悪くて痩せていて、語尾に必ずつける「すみません」という言葉が口癖の安田さんだったが、そのスカートを穿いた後ろ姿に初めて綺麗な形の脚をしたスタイルのよい人なのだと気づかされた。
 数日後も、薄化粧をしてスカートを穿いた安田さんはスーパー丸栄松木店に買い物に来て、多恵のレジに並んだ。多恵は訊いた。
「餃子、上手に出来ましたか?」
「形が不揃いで。でもまあなんとか」
 そう答えて安田さんの顔が明るく輝いた。いつものように菓子袋を手にした慎吾くんもすかさず「おれも、手伝ったんだぞ」と言う。
 先日はセルフ籠に餃子の食材が入っていたが、今日の籠の中は人参・ピーマン・水煮のタケノコそして豚肉の角切りで、夕食の献立は酢豚のようだ。安田さんの口紅も心なしか数日前よりも濃いように見える。多恵は嬉しくなった。
「慎吾くん、明日もまた、お母さんと一緒に買い物に来てね」
 しかし慎吾くんは答えた。
「はなおかたえのバーカ。明日から、幼稚園は夏休みなんだぞ」
「幼稚園のお迎えがなくても、時々、こちらに買い物にきます。すみません」
 安田さんは声も体も小さくして謝った。
「いつも、お買い上げありがとうございます」
 そう言って頭を下げながら、多恵はふと思った。酢豚の材料に気を取られていたのでよく見なかったが、今日の安田さんのセルフ籠の中には加奈ちゃんのお菓子がなかったような……。

4−1 
   
 スーパー丸栄での仕事が休みの日、多恵は自転車を押しながら仲野川の土手道をゆっくりと歩いていた。梅雨が明けたせいで仲野川は水量を減らし、今では大小の白い石が転がった川底を見せている。鳥となって空から見れば、穂が出そろっていっそう緑の濃くなった稲田を二分する白くて細い帯のように見えることだろう。テレビのニュースで見た泥水が逆巻く仲野川とはもうまったく別の川のようだ。この辺りの川幅は十メートルにも満たない。西に向かってゆっくりと蛇行している。ずっと下流で合流している一級河川に流れ込む支流の一つだ。
土手道の両側には人の腰ほどの丈で夏草が生い茂っていた。その夏草の根元に埋まるようにして、増水の時に並べられた土嚢が破れて中身を晒していた。道に倒れた雑草の葉の先を自転車の車輪が押し潰し、そのたびにむっとする草いきれが足元から立ち上る。細い土手道は未舗装で自転車のハンドルを取られそうな穴が幾つも開いている。それで多恵は自転車から降りて押していた。安田アサさんが滑り落ちたという場所を見に来て、自分が自転車もろとも川に滑り落ちてしまうことだけはなんとしても避けたいと思ったからだ。しかし今の状態の仲野川では、打撲や擦り傷で痛い思いはしてもアサさんのように流される心配はない。
好奇心に駆られて見に来てしまった仲野川だったが、実際に土手道に立つと、アサさんのサンダルが片方残されていたというその場所を特定するのは、不可能だと思い知った。まだ一か月も経っていないが、当然ながら土が剥がれた跡など残っている訳もなく、まだ若くて元気だったチビを連れて歩いた頃となんの変わりもない。
頭上の夏の日差しが少し西に傾いて、真正面から多恵の顔をじりじりと炙る。どこにも木陰はない。噴き出した汗が服の下を何度もぬるっと流れた。時折り稲田を吹き渡る風が爽やかなことだけが救いだった。もう事故の起きた場所を探すことは諦めて、多恵はゆっくりと歩きながら、アサさんがどのような状況で足を滑らせたか想像した。しかし実際にこの場所に来てみると、運が悪ければそういうこともあるだろうとも思い、また大人が足を滑らせたくらいでそんなに簡単に落ちるだろうかとも思えた。咄嗟に草の根か護岸のコンクリート壁にしがみつくことも出来るはずだ。
「昔からこの辺りの川に落ちて流される人は時々いて、それでも海の決まった場所で遺体は必ずあがってきた。だから安田アサさんもそのうちに見つかるはずだ」という、噂話を思い出した。スーパー丸栄松木店の古参の従業員の中にはそういうことに詳しい人がいて、吉村さんの睨みの聞かない所で、初めの頃はひそひそとそう囁かれていたのだ。だから一か月も見つからないのは変ではないかと、暗に仄めかす人もいた。しかし行方不明のお姑さんを案じる安田さんが、慎吾くんを連れて健気に買い物に来ている姿を見れば、そんな疑問は簡単に同情に変わっていく。そのうえにテレビや新聞は日々に興味を引く新たな事件を次々と報道していて、人々の関心など同じ所に留まってなどいない。
アサさんはどうなっているのだろう。未だに大海原を漂っているのか、海底の藻に絡まって浮きあがれないでいるのか。それとも川底の土の中に埋もれてしまったのか。見たことなどないが、夏の暑い盛りに土に埋まった遺体というものはどうなっているのだろう……。そこまで想像して、さすがに多恵は気分が悪くなり考えることを止めた。
西日に逆らってまっすぐに顔を上げると、ずっと向こうにテレビに映っていた通りのコンクリート製の小さな橋が架かっているのが見える。その橋を渡って坂道を下った先に、田畑に囲まれて何軒かの家が肩を寄せ合って建ち並んでいるのも見える。

4−2
   
 昨日、その中に安田さんの家と自分の家もあると吉村さんに教えてもらった。多恵は姑息にも言い訳も用意していた。「料理をする楽しさに目覚めたらしい安田さんに、お菓子の本をプレゼントしたいのよ」そう言うと、吉村さんはとても喜んで安田さんの家を教えてくれたのだ。安田さんの化粧や服装の変化に気づくと、無性にアサさんが滑り落ちた仲野川と散歩に連れていたという犬を見てみたいという思いを、多恵は抑えきれなくなっていた。事件の起きた場所を実際に見てみたい。人を川に引き摺り落としたという犬も見てみたい。そして納得したかった。しかし何を納得したいのかと聞かれれば答えようもない。勝手な想像から湧きおこる抑えきれない好奇心だとは吉村さんにも言えない。
 橋を渡って坂道を下り、初めに通り過ぎた吉村さんの家の軒下には、スーパー丸栄の鮮魚担当者が着る白い制服が干されていた。庭にはたくさんの向日葵が咲いている。古いけれど住んでいる人の心遣いを感じさせる家や庭から受ける印象も吉村さんそのものだ。安田さんの家は吉村さんの家の三軒隣に建っていた。こちらは家の前の道に飛び出して青い子ども自転車が転がっていたので、すぐに安田さんの家だろうと見当がついた。
 昨日の話の中で、吉村さんも安田さんも元々は農家だったが、どちらも働き手の夫を若いうちに亡くしたために、すでに田畑は手放していると聞かされていた。しかしそれでも住宅密集地の猫の額ほどの敷地の上に建っている多恵の家に比べれば、その庭の広さには羨ましいものがある。自転車を停めて転がっている子ども用自転車を立て直しながら覗いた安田さんの家は、重たそうな日本瓦で潰れそうに見える古い家に増築された二階建ての新しい家がくっついていた。今では車庫として使われているらしい納屋が、手入れされていない枝を張った庭木と生い茂った雑草の中にある。玄関横には水の張っていない池もあり、半分落ち葉で埋まっていた。以前はきっと手入れの良い日本庭園の形をしていたのだろう。しかし今は一歩間違えれば幽霊屋敷の雰囲気さえ醸し出している。
 納屋の前に犬小屋はあった。多恵の抑えきれない好奇心のもととなった犬が冷たい地面に腹を押し当てるようにして長々と寝そべっていた。いかにも日曜大工で作ったと思われる水色のペンキが剥げかかった犬小屋だが、入口にまるで人間の家の表札のように書かれている『ゴウちゃんの家』という字はかろうじて読めた。ゴウは多恵の足音を聞きつけてゆっくりと起き上がる。ゴウちゃんという名前を吉村さんから聞いた日より、飼っていたチビよりも一回り大きく気性も激しい犬を想像していた。目の前の犬はチビよりも二回り小さいマメシバだ。そして吠えることなく人懐っこい性格そのままに尻尾を振った。
……この犬が、アサさんを川に落としたのか……そう思いながら、近寄って頭を撫でてやると、ゴウは簡単に腹を見せた。番犬にはならないことは一目瞭然で、とても飼い主を散歩の途中で川に引き摺り落とすような乱暴な犬には思えなかった。しかし不運というものは人智とは関係のない神様の領域で起こるものだ。
 しゃがみ込んだ多恵の後ろで家の引き戸が開く音がして、振り返ると安田さんが顔を覗かせていた。
「こんにちは。どちら様ですか。なんのご用でしょう」
 訝しげに目を細めてこちらを見る安田さんに、多恵も慌てて立ち上がる。
「突然、お邪魔してごめんなさい。近くを通りかかったものだから。こちらがたぶん、吉村さんに聞いていた安田さんのお家だと思ったもので……。ああ、よかった」
 涼しげな襟なし袖なしのワンピースを着た安田さんはエプロンを外しながら近づいてきた。近づいてくる彼女のその目の色で、馴れ馴れしい口を利く訪問者に、頭の中でスーパー丸栄の制服を着せているのが見て取れた。やっと、スーパー丸栄のレジ係の花岡多恵だとわかったようだ。
「あっ、花岡さん。花岡さんもこの近くだったのですか?私、何も知らなくて」
「いえ、そうではないのだけど。ほら、最近、安田さんってお料理が楽しそうだから、それでこの本を差し上げようかなと思って。嫁いだ長女から『簡単で美味しい手作りのお菓子が出来る』って、聞いていた本なの」
 心が疾しいと返って言葉はどんどんと溢れるものだと、多恵は喋りながら思った。偶然通りかかったという言葉とお菓子の本を持ってきたとでは、話に矛盾がある。しかしなんとか誤魔化さなくては、そう思うと言葉が溢れてくる。しかし安田さんは多恵の矛盾した言い訳を気にしていない様子だった。お化粧して着ているものも以前とは違ってお洒落だが、いつもの「すみませんが」が口癖の大人しい安田さんだ。
「まあ、すみません。あっ、上がってお茶でも、家の中は散らかっていますけれど」
 気持ちとは裏腹に口だけは動いて、簡単に言葉が出てきた。
「いいえ、ほんと、通りかかっただけですから。でも、喉が渇いて。冷たいお水を一杯頂けると嬉しいわ」
 図々しく上がりこんだ安田さんの家の母屋の座敷は、広縁が二方を取り囲んでいて、外の蒸し暑さが嘘のように素足に触れた畳が冷たかった。山水画の掛け軸の飾られた床の間の横に仏壇が置かれている。安田さんが台所で麦茶の用意をしている間に、多恵は仏壇を覗きそして線香に火をつけ手を合わせた。幾つかの古びた位牌と小さい子どもの写真が飾られている。加奈ちゃんを初めて見た。慎吾くんにどことなく目鼻立ちの似た加奈ちゃんは写真の中で無邪気な笑顔を見せていた。安田さんの足音にあわてて立ち上がり座卓の前に座り直す。
「まあ、拝んで頂いて。ありがとうございます」と、お盆に汗を掻いた麦茶のグラスを乗せて座敷に入ってきた安田さんは言い、「こんないいものを頂いてしまって」と、座卓の上のお菓子の本の横にそのグラスを置いた。しかし仏壇の中の加奈ちゃんとまだ仏壇には飾られていないアサさんの話題は避けたいと、その口調に表れている。多恵のほうも、塀越しの安田家の覗き見だけでは物足りなくて図々しく上がりこんだものの、それからのことは何も考えていなかった。それでさりげなく話題を変えた。
「あら、慎吾くんは?」
「幼稚園のお友達の家に遊びに行っているんです。せっかく来ていただいたのに、すみません」
「私こそ、通りがかっただけだから。おばさんのお節介だと思って、許してね。ゴウちゃん、人懐っこくって可愛いですね」
 主と来客に見捨てられたゴウちゃんが再び冷たい地面に腹をつけて長々と横たわった姿が、座敷からでも見えた。
「慎吾にせがまれて飼い始めたのですけど、番犬にならなくて困っています」
 安田さんは多恵の印象通りのことを言った。
「我が家にも子どもたちにせがまれて飼っていた犬がいたんですけれど、昨年の夏に死んでしまって」
「それはお寂しいですね」
「飼い犬も死んでしまったし、子ども達も家を出てしまって、最近、心の中に穴が開いたような感じがする時があるのよ……」
 だからと言って、好奇心のままに押しかけて来た言い訳になるのだろうか。冷たい麦茶を一口飲んで喉を潤し、多恵の心中の疾しい気持ちが忙しなく新しい話題を探した。惰眠を貪り始めたゴウちゃんから視線を移し、うっそうと繁った庭木と雑草の生えた庭を見渡す。多恵の視線を安田さんも追っている。
「広いお庭ね。羨ましいけれど、でも、手入れが大変そう」
「母が大切にしていた庭なんですが、私も慎吾の世話や家事で忙しくて、手入れが行き届かなくて」
 そんなふうに手入れが行き届かない場所があるほどの敷地の広さを、多恵は羨ましいと思った。庭の隅の一画、剪定されていない庭木の建ち並ぶ向こうに、ブロック塀を超える勢いで夏草が生い茂っている場所があった。まるで仲野川の土手のような草の生い茂り方だ。赤茶けた山土で造成した多恵の庭にも雑草は生えるが、あんなふうに緑色も濃く人の背丈ほどに伸びることはない。どんなに土が肥えていたら、もしくは肥料を利かせれば、あんなふうに庭に草が生い茂ることができるのだろう。
 仲野川の土手道で想像した川底に埋もれたアサさんの遺体を、多恵は今度は頭の中で裏庭に埋めてみた。未だに遺体が見つからないということは、そういうことだってあり得るということだ。しかし、アサさんの遺体がどこにあろうと多恵には関係のないことだ。安田さん親子が幸せな顔をしてスーパー丸栄松木店に買い物に来てくれたら、多恵にはそれだけで充分に嬉しい。
「長居はご迷惑でしょうから、これで失礼しますね」
「何のおかまいもせずに、すみません」
「また、慎吾くんと買い物に来てね。それだけで嬉しいわ」
 多恵は明るく言った。頭の中で想像し何を考えるかは自由だ、それを言葉にして言わなければ……。今の自分の笑顔に、頭の中で考えていることは表れていないと多恵は思った。

 4−3
   
 スーパー丸栄のレジの仕事が休みの日は、多恵は修治の運転する車に乗せてもらって、丸栄以外のスーパーに買い物に行く。夫婦でドライブという息抜きも兼ねているのだが、多恵の楽しみは別にある。買い物をしながらそのスーパーの品揃え・客層・店員の接客態度を自分の勤めるスーパーと見比べて店内を歩くのが楽しい。自分も一人の客に過ぎないことを忘れて、他人のセルフ籠の中をまじまじと覗いている時もある。「おいおい、仕事の目をしているぞ」と、修治に冷やかされてしまう。
 修治の言うように他店の市場調査をするほど仕事熱心な訳ではない。食料品とか日用品を買い込む人達の醸し出す雰囲気と、そういう人達で溢れる場所が好きなのだと、多恵は思う。買い物を終えた人達は、それぞれの家に帰り、買った物を冷蔵庫や引き出しの中に収めて、百人百様の生活を営むことだろう。セルフ籠の中身はそこへと繋がっているのだと思うと、彼女は好奇心を抑えることが出来ない。
 その中でも、親元から離れた場所で慣れない子育てに奮闘している長女や、都会での一人暮らしを楽しんでいるであろう次女に年恰好のよく似た若い女のセルフ籠からは、目が離せない。彼女たちがスーパーの通路で立ち止まって、買おうかどうしようかと思案している姿を見ると、最後まで見届けたくなる。彼女たちの母親を気取って話しかけたくすらなる。「おまえのしていることは、お節介婆さんそのものだ。他人の生活に入れ込むのも、ほどほどにしておけよ」そう言って、修治は立ち止まって他人のセルフ籠を覗いている多恵の腕を引っ張る。客とレジ係という立場を越えて、妻が安田さんの家を訪れたということを知ってから、なおさら修治は妻の言動を心配しているようだ。
「おまえは親切心のつもりでも、向こうにとってはおまえは、ただのスーパーのレジ係なんだ。安田さんの買い物籠の中身で、安田さんの生活をあれこれ想像して思い込むのは、新聞の投書にあったような、他人の生活を覗き見して楽しむおばさんと同じだ」
 しかし修治のその言葉の深い意味が、まだこの時の多恵には理解できないでいた。
 慎吾くんの通う幼稚園が夏休みに入っているので以前ほど頻繁ではなくなったが、約束通り安田さん親子はスーパー丸栄松木店に買い物に来てくれて、そして必ず多恵のレジに並んでくれた。
 肩の上で切り揃えていたお洒落気のない髪の毛を、安田さんは夏らしく短く切っていた。そして染めたようで、以前には目立っていた白いものが見えなくなっていた。内臓のどこかが悪いのではないかと想像させた痩せた体に、いつのまにか二の腕を露わに見せた明るい色のシャツや短めのスカートが似合い始めている。今では化粧も遠目でもはっきりとわかるようになった。以前の伏し目勝ちに「すみません」と謝ってばかりいた安田さんの姿が、多恵の記憶の中でどんどん遠いものになる。
「はなおかたえ。また来てやったぞ」
 今日の慎吾くんも元気だ。こんなことは口が裂けても言ってはいけないことだろうが、あの口煩いお祖母さんがいない夏休みを、慎吾くんはのびのびと楽しんでいるのだろうと思う。そしていつものようにレジ台に身を乗り出してきた慎吾くんだったが、珍しいことに彼はその手に菓子袋を持っていなかった。そしてしきりとセルフ籠の中身を気にしている。セルフ籠の中はナスやキュウリやトマトやカボチャなどの新鮮な夏野菜で溢れていた。以前の安田さんの買い物では考えられないことだ。あれから料理のレパートリーも増えたのだろう、菓子袋はそれらの野菜の下に埋まっているのだろうと思っていたら、野菜の下から現れたのは小麦粉と牛乳とバターと胡桃の製菓材料だった。
「クッキーを焼くんだ」
 と言った慎吾くんの声が誇らしげだ。時には手に負えないほどの腕白ぶりを見せる慎吾くんから「クッキーを焼く」という言葉を聞いたのが、多恵には楽しくもあり心が躍るほど嬉しくもあった。安田さんも言った。
「オーブンを買ったんですよ。さっそく頂いた本のレシピで、クッキーを焼いてみようと思います」
「新しいオーブンだと、焼き加減に慣れるまでが難しいけれど、そのうちにきっと慣れるわ」
 慎吾くんは大人の会話など少しも聞いていなくて、製菓材料に印刷されたバーコードをレジ機に読ませる多恵の手元ばかり見ていた。じっと見つめていないとそれらがマジックのように消えてしまうのではないかと、不安そうな目の色だ。片時もじっとしていない落ち着きのない男の子だったのに。そんな真剣な眼差しの慎吾くんに多恵も答えてやりたいものだと思う。
「お母さん、お料理上手になってよかったわね。それに最近のお母さん、お化粧もしてお洒落もして、とてもきれいになったよね、慎吾くん」
 そう言ったあとですぐに、多恵は自分の言ってしまった言葉に胸騒ぎを覚えた。アサさんが仲野川で行方不明になってまだ二か月にもなっていない。川の下流の厚く堆積した土砂に埋まっているのか、海の底深くでその体を何かに絡ませて浮きあがれないでいるのか、それとももしかしたらあの庭の生い茂った草の下に……と、想像することは自由に出来ても、絶対に言葉にしてはならないことというものがある。不謹慎にも多恵はいまそれを口にしてしまったのだ。
 多恵の不用意な言葉に、安田さんの顔色が変わった。大人二人の間に流れた気まずい雰囲気を、慎吾くんが気づかなかったことだけが幸いだった。慎吾くんは清算する短い時間も待ちきれなくて、自分一人でサッカー台に運んで行こうとしてセルフ籠を乱暴に引っ張った。しかし安田さんはいつもの「すみません」は言わない。
 その日が、多恵が安田さん親子を見かけた最後となった。
 数日して、春から閉店して改装していた隣町のスーパーの工事も無事に終わり、半年ぶりに営業を再開したことを、多恵の家でも取っている新聞に挟まれていたオープンセールの特大折り込み広告で知った。それで安田さんがスーパー丸栄に買い物にこなくなったのだと考えることにした。不用意な自分の言葉に安田さんが顔色を変わったと思ったのは思い過ごしで、安田さん親子は慎吾くんの幼稚園に近い新しくて便利なスーパーで買い物をしているに違いない。

 新しいスーパーの開店のために、当然ながらこちらの来客数は落ち込み、吉村さんの手には、またまた値引きシールが握られるようになった。仕事を終えてタイムレコーダーの前に立つ多恵の背中を、いつものように吉村さんは値引きシールの束でぽんと叩いて言った。
「花岡ちゃん、今夜は、鯵の塩焼きで決まりよ。今日も、鮮魚の売り上げに貢献してから、帰るのよ」
 その明るい言葉に釣られて、多恵も吉村さんの口癖を真似て言い返した。
「会社で頑張っているお父ちゃんのために、美味しい夕飯を作らんといかんからねえ」
 吉村さんの弾けるような笑い声を聞きながら、修治の退職の日まではスーパーのレジ係として働こうと多恵は思った。同僚との軋轢、客とのトラブルといろいろと嫌なこともあるが、嫌いな仕事でないことだけは確かだ。修治が定年退職した後の二人暮らしというのはどんなものだろう。老いて行くだけのこれからの人生に不安の種は尽きない。しかしそういうことも、ここでレジ係として、お客さんのセルフ籠を覗いている間は忘れていられる。

(了)