琥珀色の記憶

 1ー1
   
 今日は月に一度、大月町公民館二階の調理室で開催される『栄養学級』の日だった。十月の第一木曜日の午前中ということで、『栄養学級』の出席者は、子育ても終わった女性たちばかりが三十人ほどだ。彼女たちの孫に近い栄養士の指導のもとで調理実習に取り組む。今日の献立は初秋にふさわしく、『栗ごはん』『秋野菜の煮物』『松茸の吸い物』そしてデザートは『栗入り蒸し羊羹』と、栗と松茸づくしの豪華な献立だ。
「絹ちゃん、貧乏人の私には、松茸なんてどう切ったらいいのか、わからんわ」
 老眼鏡の奥の目を細めて栗の皮を剥いていた浅井絹江に、芳野和子が話しかけてきた。黒地に赤い花模様という派手なエプロンを身につけた和子に『絹ちゃん』と言われて、絹江も『和ちゃん』と答える。
「高価な松茸なのだから、物差しでちゃんと計って切ってちょうだいね。でないと、和ちゃんとの長い友情も、今日で最後になるわよ。食べ物の恨みは恐ろしいって、昔の人も言っていることだしね」
「おお、責任重大だわ。手が震える、どうしよう」
 和子と絹江の会話は長年コンビを組んできた漫才師の掛け合いのようだ。周りから笑い声が起きる。『栄養学級』の出席者たちは一か月ぶりの再会ということもあって、手を動かしながら口もよく動く。蛇口からほとばしる水の音や食材を刻む包丁の音と重なって、調理室は賑やかだった。栗の皮を剥く絹江の隣の調理台では、金本節子と平田タマミが秋野菜の土を落としながらこちらもお喋りに忙しい。
「本家ではもう一日泊まっていけと引きとめているようやけど、今日の夕方の飛行機で帰りたいと言うとるそうよ。仕事が忙しいと言われれば、引き止めようもないなあ。昼過ぎに出る急行に乗らんと、飛行機には間に合わんと言うたそうな」と、節子が言いタマミが答える。
「それにしても、お葬式には戻ってこんかったのに、法事にはよく戻ってこられたこと」
 そんな二人の会話に急に周りが静かになった。月に一度、栄養の勉強もして新しい料理も覚え、ついでに大月町の新しい噂話も仕入れて帰ろうとは、考えることは皆同じだ。
「義理の父親だった勇造さんに育ててもらったと言っても、所詮は赤の他人だったことだし。まあ大学進学を口実に、ここから出て行ったというか、体よく追い出されたというか……」
「それで、昨日の法事には家族も連れず自分一人で、線香をあげに帰ってきたということかねえ」
「義理とはいえ勇造さんが亡くなって一年、こんな田舎町でも、ふと、懐かしくなったのやろうね」
 金本勇造は昨年の秋、八十を幾つか過ぎた歳で亡くなった。町となる前の大月村の今はダムの底に沈んだ小さな集落で彼は生れ、建設会社を興し、三十代の若さで村会議員になり、その後は県会議員も何期か務めている。しかし十年前に、産業廃棄物の不法投棄の責任をとって金本建設の経営と県会議員の職から同時に身を引いた。その心労が体に出たのだろう。脳梗塞の後遺症で寝付くようになって、三度目の妻に看取られて亡くなった。大月町で彼を知らないものはいない。彼は立身出世の有名人だ。そして半世紀以上に渡っての地元の顔役だった。金本節子は勇造の弟嫁になる。平田タマミの夫は金本建設の下請けで長年働いていた。
 その金本勇造の盛大だった葬式には戻ってこなくて、昨日の一周忌の法要に東京から戻ってきたという彼の身内とは誰のことだろうと、絹江は栗の皮を剥きながら思った。絹江の夫は大月町の役場に勤めていた。そして彼女自身も三十年も昔の一時期には、当時の藤崎繁治村長に請われて、役場に出入りしていたこともある。その小柄な体から常に熱気を発散させて周囲の者を暑苦しくさせていた、活気漲る村会議員時代の金本勇造とは知らぬ仲ではない。
「圭介ちゃんも、もう五十歳が近いはず。東京の大手の建設会社に勤めているとか聞いたけれど」
「そうよ、大きな会社でお偉くなっているそうよ」
「そんな人を、圭介ちゃんなんて気安く言うたらいかんねえ」
 二人の会話に首を突っ込むと碌なことにならない。うっかりと相槌でも打とうものなら、彼女たちの噂話に賛同したとみなされてしまう。下手をすれば、自分たちのことは棚に上げた彼女たちに、噂話を振りまいた張本人とされかねない。それはここにいる誰もが経験し痛い思いをしてきたことだ。しかしあまりにも懐かしい『圭介』という名前に、絹江は栗の皮を剥く手を止めて二人の会話に割り込んだ。
「圭介ちゃんって、あの北村圭介くんのことかしら」
 絹江の突然の質問に節子とタマミは同時に顔をあげた。あのいつもお高く止まってそつのない物の言い方をする浅井絹江が、なぜか珍しく自分たちの会話に首を突っ込んできたのだ。縮緬皺に白粉が浮いた二人の顔が一瞬の勝利に輝いた。
 浅井絹江は彼女たち二人に好かれていない。三十年前に三十代半ばで大月村にやってきた浅井絹江は、都会の風に洗練されたその物腰と言葉で、当時の大月村の村長であった藤崎繁治に取り入ったように見えた。そしていつの間にか大月町図書館の司書となり五十五歳まで勤めた。今では町役場に勤めていた夫と子どものいない悠々自適の年金生活だ。いまだに夫婦で腰をかがめて田畑を耕しているタマミからみれば、浅井絹江の存在そのものが面白いはずがない。また節子にとっても、金本勇造の親族である立場から絹江を好きになれない理由があった。「三十年前は、どこの馬の骨かわからない新参者であったくせに」と、彼女たちは昔から続く恨みをずっと引きずっている。
 絹江は二人の顔を見て、自分の不用意な発言を悔やんだ。しかし『北村圭介』の消息について知りたいという強い思いは抑えきれなかった。「知っているというほどのこともないのだけれど、圭介くんが高校生の時、何度か村役場で顔を合わせたことがあって」
「藤崎さんが村長をしてなさった頃のことねえ。圭介ちゃんは、藤崎さんの遠縁だったから」
 絹江の歯切れの悪い言い訳に、好奇心をむき出しにしたタマミが答える。大月町の縁戚関係にはやたらと詳しい節子もすぐに口を挟んできた。
「圭介ちゃんは、藤崎さんの姪だった淳子さんの連れ子よ。勇造さんの二度目の妻になった淳子さんが若死にしたあと、残された圭介ちゃんのことを藤崎さんは我が子のように心配して。渋る勇造さんを説得して圭介ちゃんを東京の大学に進学させたのも、藤崎さんだったっていう話だし」
「さあ、そんなこともあったかしら。私、何も憶えていなくて。ただあまりにも懐かしい名前だったから」
 これ以上の詮索はお断りだとばかりに、絹江はそっけなく答えた。そして再び栗の皮を剥き始めた。節子とタマミは気分を害したようだ。しかし絹江の二人への態度は腹が立つがいつものことだ。突然口を挟んできたようにまた突然興味を無くしたのだと、二人は解釈した。再び野菜を洗いながらの彼女たちの噂話が続く。
「それで圭介ちゃんは、U市駅から何時の急行に乗ると言うとるの」
「M空港から夕方六時の飛行機に乗るらしいから、そうなるとU市駅は十五時発の急行だろうねえ。本家の誰かが車を出して、U市駅まで送るのだろうけれど」
 絹江は二人の話をもう聞いていなかった。詰襟の学生服を着た高校生の北村圭介の面影が、手だけは栗の皮を剥き続ける彼女の脳裏にありありとその姿を現したからだ。

 1−2
   
 浅井辰雄との結婚生活を始めて、絹江の大月村での暮らしも半年を過ぎようとしていた頃のことだった。当時の藤崎村長は大月村役場二階の狭い空き部屋を利用して私設図書館の開設を計画していた。蔵書家だった亡父の本が蔵の中で朽ちていくのはあまりにも勿体ないと、彼は考えていた。それらを生かせる方法はないものかと模索していて、役場二階の空き部屋を利用して村民に貸し出すことを思いついた。父の血を引いて彼自身も読書家だったので、いつかは大月村に村立図書館を作りたいという政治家としての夢もあった。私設図書室はその足がかりとなるはずでもあった。
 その藤崎村長に請われる形で、絹江は図書室開設とその後の運営に関わることになった。そしてその一時期に「本は、女の人の手には重いだろうから」という理由で、高校生の北村圭介も絹江の手伝いとして図書室に出入りしたのだ。そういう口実で、吝嗇な養父である金本勇造の目を逃れて、藤崎村長は姪の忘れ形見である少年に小遣いを与えたかったのだろう。そういう方法でしか圭介に愛情を示すことのできない彼の苛立ちが、絹江にも感じられたものだ。
 絹江と圭介は春から夏にかけての数か月を図書室開設で苦楽を共にしたが、二人が最後に言葉を交わしたのもその図書室だった。東京の大学に合格して村を離れるにあたって、彼は半年ぶりに図書室に姿を現し絹江に別れの挨拶に来た。山間の村の桜の蕾が綻びるにはまだ早い季節のことだ。
「卒業式の帰りです」と圭介は礼儀正しく言った。努力して微笑みを浮かべた絹江も「大月村を離れても、元気で勉学に励むように」と答えた。それは未来ある少年を送り出すのにもっとも相応しい言葉のように絹江には思えた。
 しかしその言葉に圭介は言葉も返さずに背を向けて図書室から出て行った。あとには礼儀正しかった彼からは想像もつかぬ手荒さで締められたドアの叩きつけられた音が残った。あの時の怒りと緊張にこわばった彼の顔を、その後長く絹江は忘れることが出来なかった。彼の怒りを解くためにすぐにそのあとを追いかけなかったことを、その後、どんなに悔やんだことだろう。村役場の狭い図書室で出会ってそして育まれた二人の感情は、思慕だったのか淡い恋だったのか。しかしその美しい関係にあえて覚悟の上で泥を塗ったのは、誰でもない絹江自身だ。
 北に向って開いた図書室のたった一つの小窓から、遠くには大月村をすり鉢状に囲む低い山々の連なりが見渡せ、近くには低く連なる民家の屋根越しに冬野菜の植えられた田畑が見下ろせた。そして視線を真下に落とせば、役場関係者のための駐輪場がある。その横には桜の老木が一本枝を張っていた。絹江はその窓に駆け寄った。固い蕾をつけた桜の枝越しに、高校生活最後の学生服を着た圭介が自転車を引き出す姿が見える。彼を引き留めるのは当時の絹江だったら可能だったかもしれない。しかしそうすれば二人の未来はどう変わっていたか。あの時彼女を取り囲んでいた図書室の壁面を埋め尽くすたくさんの本を読まなくても、それは明らかなことのように思えた。
 そのようにして絹江は北村圭介に別れを告げた。そして大月村で三十年を過ごしているうちに最後に見た彼の学生服姿もおぼろげになり、少年から青年へと変貌しかけていたその顔も思い出すこともなくなった。しかし忘れた訳ではない。そのことにいま絹江は気づいた。『圭介』という名前を聞いただけでこれほどに動揺する自分がいる。
 栗の皮を剥き続ける絹江の視線の隅に、不安げな表情を浮かべてこちらを窺う芳野和子の顔が見えた。和子が気を使う理由はわかっていた。金本勇造と絹江の醜聞がこの小さな村でまことしやかに囁かれたことがある。当事者以外にその真相は藪の中で、それゆえにその噂を囁くものはただ面白可笑しく自分たちが楽しめさえすればよかった。だからそれは三十年後の今と同じく金本節子と平田タマミの格好の噂話のタネであったのだ。いま再び金本勇造と北村圭介の名前が出たことで、彼女たちがその醜聞まで話を広げるのではないかと、和子は心配しているのだ。しかし三十年も経ってしまえば二人も忘れているようだ。いや寄せる年波に老女たちの記憶力も衰えたのか。しかしそれにしては絹江の心がなぜかここにあらずの状態だと和子は気づいている。
 和ちゃんの目だけは誤魔化せない……、絹江がそう思った時、包丁が滑った。
「絹ちゃん、危ない」
 和子のそう叫んだ声と絹江の背中を走った悪寒とどちらが早かったのか。彼女は左手親指の腹を深く切ってしまった。血が流れ始める。絹江はそれを他人事のように見つめていた。痛みはあとから来た。

1−3
   
『栄養学級』で調理した松茸のお吸い物は絹江のお腹に収まったが、あとは味見しただけで密閉容器に詰めて彼女は家に持ち帰った。再びそれらは浅井家の器に移し替えられ食卓に並べられて、夫婦二人の遅い昼食となった。辰雄が退職してより『栄養学級』のある日はそれが習慣になっている。冷蔵庫にある昨夜の残り物を足せば、初老の二人とっては月に一度の豪勢な昼食だ。
「久しぶりの栗飯だなあ」
「今度、家でも作ってみるわね」
 箸をゆっくりと口元に運びながら、辰雄はいつものようにあれやこれやの感想を言っている。『栄養学級』の噂話で北村圭介を懐かしく思い出したこともあり、絹江には目の前の辰雄が老けて見えた。三十年昔に比べると辰雄の体は痩せて小さくなったと思う。薄くなった頭髪も垂れ下った瞼に隠れた目もゆっくりとした動作も、なにもかもがはかなく頼りなげに見える。ただ火事で負ったという腕の火傷のあとは歳とともに目立たなくなってきてはいるが。しかしそのように妻が昨日とは違った目で自分を見ているとは、辰雄は気づいていないようだった。
「『栄養学級』の薄味は、やはり俺には物足りんな」
「血圧が高めのあなたは、このくらいの薄味になれないと」
 そう答えながらも、絹江の目は先ほどから何度も居間の壁にかけてある時計を見上げていた。「M空港から夕方六時の飛行機に乗るらしいから、そうなるとU市駅は十五時発の急行だろうねえ」と言った金本節子の言葉は知りたくて聞いた言葉ではない。あの時は北村圭介という懐かしい名前とその名前が呼び寄せた思い出に、彼女の心は動揺していた。それで北村圭介が大月町に三十年ぶりに帰省していることも、そしてたった二日間の滞在で慌ただしく去っていこうとしていることも、それほど気にはならなかった。しかし『栄養学級』での調理実習を終えて家に戻ってきた途端に、十五時発の急行という言葉が彼女の頭から離れない。
 東京の大学を卒業した圭介は早くに亡くなった彼の父親と同じ建築士という職業につき、大手の建設会社で働いているらしい。それは風の便りで知っていた。当然ながら結婚もして家族もいるようだ。高校生だった頃の面影は消えて、働き盛りの自信に満ちた大人の男の顔になっているに違いない。三十年前は彼の体は痩せて骨ばっていたが、今はその年齢と社会的地位にふさわしく恰幅よくなっていることだろう。三十年前のあの日、大月村役場の二階から見送ったように、列車に乗り込む彼の後ろ姿を再び見送りたい。五十歳になろうとしている彼の顔を冥途の土産に見ておきたい。冥途に旅立つ日はまだ何十年先かも知れず、しかし突然明日ということもあるのだ。そう思うと彼女の心は決まった。いまから支度をすれば、U市駅に十五時前につくバスに間に合う。
「午前中も留守にして申し訳ないのだけど、これからまたU市に出かけてもいいかしら」
「それはまた急な話じゃないか」
 辰雄はそう答えたが、それは一応言っておくだけのいつのも彼の癖だ。
「和ちゃんに誘われていたのだけど、その時は気乗りがしなくて、曖昧な返事をしていたのだけど。でもやっぱり行きたくなったわ」
 大月町からバスで三十分ほどのU市には、映画館も併設した大型ショッピングセンターがある。月に一度か二度、連れだって映画を観たり買い物をしたりすることが、まだ足腰も丈夫な和子と絹江の楽しみでもあった。
「あちらのお姑さんの都合はいいのかね」
「今日は、ケアセンターにお泊りする日だって」
 三十年前についた一つの嘘で絹江は辰雄を苦しめたことがあった。それを彼が咎めることなく許したあの日から、彼女はどのような些細なことでも嘘は二度とつかないと心に決めていた。しかし北村圭介のためになら、再び、嘘がなめらかに口から出てくる。
「おれも、これから家庭菜園の手入れに精を出そうと思っていたところだ。今夜の夕食は遅くてもいい」
「あんまり無理しないでね」
 辰雄は軽い脳梗塞を患っている。しかし栗入り蒸し羊羹の最後の一切れに手を伸ばしながら彼は言った。
「自分のことは自分が一番わかっている」

 鏡の前に立つと、見覚えのない老女が立っていた。
 この季節の外出着にしているベージュ色のブラウスに焦げ茶色のスカートを合わせて、同じ色の上着を絹江は羽織った。もう少し派手な服も探せばあるのだろうがと、身支度を整える時間がないことを悔やんだ。還暦を過ぎた頃から白髪染めもやめている。しかしすぐに鏡に映った老婆は自分だということに彼女は気づいた。鏡の向こうに三十年前の若い自分の姿を見ようとしている愚かな自分がいる。
 魔法の杖でもないかぎり過ぎ去った年月を取り戻すのは不可能だ。五十歳を目の前にした北村圭介に高校生の面影が残っているかどうか不確かなように、自分にも当時の若さはない。そう思うと辰雄に嘘をついた良心の呵責も少しは軽くなる。
 最後の仕上げに、彼女は装飾品を仕舞ってある箪笥の引出しをあけて、ペンダントを入れてある紙箱を取り出した。長い間開けることのなかったその細い紙箱は、その持ち主の容姿と同じく三十年という年月に逆らえないでいた。厚紙は黄色く変色していて箱の四隅は捲れて破れかけている。そして蓋を取ると、高校生の修学旅行の小遣いで買えた安物のペンダントのチェーンが、長い眠りからゆっくりと目覚めて鈍く輝き始めた。それは銅を金色にメッキしたものだろう。所々に緑青が吹いている。しかし切れてはいない。
 絹江はそのペンダントを首に下げた。錆でブラウスの襟元を汚すかもしれないとも思ったが、いまはそんな些細なことを心配してはいられない。三十年前には心もとなく思われたチェーンの軽さが、彼女の削げた胸の上でちょうどよい重さで収まった。ペンダントの先端にぶら下がっているのは、彼女の親指の爪ほどの丸い琥珀だ。
 三十年前の夏のあの日、修学旅行から帰って来た圭介から土産として、アクセサリーの類をプレゼントされるとは考えてもいなかった。それであの時喜びと戸惑いが絹江の心の中で交差した。図書室の外では蝉の鳴き声が煩かった。絹江は土産物店の名前が印刷された粗末な包装紙をそっとはがし、細長い紙箱の蓋をゆっくりと開けた。そして金色のチェーンを指先で摘み、そのチェーンにぶら下がっている透明な茶色の石が目の高さにくるまでペンダントを持ちあげた。土産物店の紙箱も軽かったが、ペンダントも指先にその重さを感じさせないほどの軽さだ。
「まあ、ペンダントなんて嬉しいわ。なんていう石なのかしらね」
「琥珀。大昔の樹液の化石」
「大昔って?」
「恐竜がいた時代のこと」
「まあ、それはほんとに大昔だわ」
「その頃に生えていた木の樹液が固まって、化石になった……」
 琥珀と教えられてもプラスチックと思えなくもない。修学旅行の餞別として渡した少額のお金でこのようなものがはたして買えるものだろうか。持ちあげた石を絹江は今度は窓からの陽射しに透かして見た。茶色く透き通った石の中に、小さな気泡と黒い芥子粒のようなものが見える。
「何か見えるわ。大昔の空気と大昔のゴミが一つ」
「ゴミではなくて、それはその時代に生きていた虫。生きたまま樹液の中に閉じ込められて、一億年の間、そのままの形で残ってしまっているんだ」
 ゴミとしか思えなかったものをまじまじと見つめれば、小さな体から何本かの足が突き出た虫のように見えなくもない。
「私がこれを首にぶら下げるということは、地球の一億年の時間をぶら下げるということになるのね。まるで浦島太郎の玉手箱みたい。ああ、どうしよう。身につけた途端、私は一億歳のお婆ちゃんになってしまうかも」
 しかし圭介は絹江の冗談には乗ってこなかった。
「過ぎ去るしかない時間がこんな形で残ったんだと思うと、すごいなって思う」
 だからこそこのペンダントを土産に選んだのだと、その気持ちが声に表れていた。茶色の石をプラスチックと思い、チェーンの重さを指先で測った自分の行為を彼女は恥じた。圭介がこれを琥珀と言うかぎり、これは一億年の歳月を閉じ込めた化石なのだ。
 メッキ加工されたチェーンは古びたが、三十年前に北村圭介が琥珀だと言った石は当時と変わらぬ輝きを保っていた。あの時に聞いた『一億年の時間』という言葉が、彼の懐かしい言葉とともに絹江の耳に蘇る。引き出しの中に仕舞いこまれていたのは、一億年という気の遠くなるような歳月の中のたった三十年でしかないのだ。
 辰雄は妻が身につけるアクセサリーの細かいことを覚えていて口出ししてくる男ではない。しかし何かのはずみで、「そんなもの、いつ買ったんだ?」とか「もう少しましなものを持っているだろう」とか言われたくなかった。それで絹江は彼に背を向けるようにして急いで家を出た。地震で少々家が揺れても騒ぐことのない絹江だった。こんなふうに慌てる姿は珍しい。怪訝そうな辰雄の視線が妻をずっと追っていた。

2−1
     
 大月町からU市まで、大月川に沿った道を走るバスに揺られて三十分かかる。それでも大月ダムができると同時に道も整備されて、バスの走行時間は以前と比べると半分に短縮された。しかし平日の午後のバスに乗って大月町からU市に出かけるものは少なく、乗客はまばらだ。深い山間の町にはもったいないような二車線の広い道をバスは急ぐことなくのんびりと走る。車窓から見えるのは、大月町を離れるほどに少しずつ低くなっていく山また山という景色。まだ紅葉には早い季節で、山の木々や大月川の護岸壁を覆っている草は青々としていたが、それでも夏の勢いはすでにない。開けたバスの窓から吹き込む風が心地よかった。
 乗客の中に見知った顔がないので絹江はほっとした。U市駅についたら芳野和子に電話して辰雄についた嘘の口裏合わせを頼まなくてはならない。きっと和子は驚くだろうが詮索はしないだろう。ゆっくりと過ぎて行く車窓の景色が、絹江には歯痒くもあり懐かしくもあった。結婚の約束をした辰雄に見送られて、大月村からU市駅行きのバスに乗ったのは、三十年昔の夏真っ盛りのことだった。

 デパートで売り子として働きながらの都会の一人暮らしも、もう十五年になろうとしていた。その日、絹江が仕事を終えてアパートに帰ってきて郵便受けを覗くと、故郷からの手紙が届いていた。四角く大きい封筒だった。開けてみなくてもその中身はわかっていた。見合い相手の写真と簡単な身上書だ。そしてその写真に写っていたのが浅井辰雄だった。
 写真の中の辰雄は緊張で両肩が怒っていた。カメラを睨むように彼は写真の中に収まっていた。それは今までも写真で見てきたたくさんの男たちとなんの変わりもないように絹江には思えた。妻に逃げられたか病死されたか。残された子どもを抱えて、家政婦代わりの新しい妻を探している男たち。そういう形で絹江がまだ幼い時、後妻を迎えた父を彼女はまだ許していない。しかしそういう思いを抱いた義理の娘を継母も許していないのだ。絹江に自分と同じ思いを味あわせようという企みなのか、絹江がいくら無視しても彼女は男たちの写真を送り付けてくる。
 血の通わぬ娘が三十歳半ばになりまだ結婚をしていないということが、継母にとっては耐えられないことであるらしい。父と継母の間に生まれた弟と妹はすでに結婚をして子どももいる。だったらなさぬ子の人生など構わないで欲しいと思う。しかしなぜか絹江が都会で独り気ままに暮らしているということは、継母の気に障ることであるらしい。性懲りもなくあちこちに触れまわって、毎回毎回、後妻を求めている男を探してくる。
 しかし身上書を読むと浅井辰雄には子どもがいない。今回に限って継母の企みが読めない。男がその年齢で独り身でいるということそのものが不自然なのか。彼が住んでいるという大月村は絹江が生まれ育った町の隣県だ。そんな遠くまで継母によって自分のことが言い触らされているのかと思うと、怒りと恥ずかしさで頬に血が上ってくる。男の写真と身上書はすぐに送り返そうと思った。
 しかし数日後、その浅井辰雄から絹江の職場に電話があった。大月村からバスと連絡船と汽車を乗り継いで、彼は一日かけて彼女の住む街までやってきたのだ。
「写真だけの印象では、伝わらないものがあると考えて……」
 電話の向こうの辰雄は言った。押しかけて来たという行為を咎める前に絹江の心が動いたのは、その朴訥な声に表れた彼の性格の良さを感じたせいかもしれない。それとも彼女自身、都会での独り暮らしに疲れを感じ始めていたのだろうか。
 季節はまだ冬だった。しかし絹江が働くデパートの婦人服売り場はすっかり春の装いだった。季節を先取りする職場が若い時は誇らしくもあった。しかし今は売り場に立つのには密かな気合いが必要だ。男の声が続く受話器を持ったまま辺りを見回して、溢れるパステル色に目が疲れた。ふと弱気になった。自分が生まれ育った町に近い空気を体に纏っているであろう男の話を聞いてみたくなった。気がつけば昼休みに入る時間と近くの喫茶店の名前を彼女は彼に告げていた。
「会う気になってくださって、嬉しいです」
「浅井さんだとわかりますでしょうか?」
「店内を見渡して、一番の田舎者を探してください」
 その言葉に彼女の口から笑いが洩れた。職場である大月村役場の窓口で住民の要件に耳を傾け丁寧に答えている彼の姿を、その声の中に絹江は想像した。不愉快な気分で取った電話だったが、受話器を置く時は心が和んでいた。
 浅井辰雄と絹江が顔を合わせたのはその時の一度だけで、それからの半年は手紙のやり取りで過ごした。彼からの手紙で大月村のゆっくりと巡る季節を知った。季節を先取りすることを最優先するデパートの婦人服売り場で、ふと辰雄の手紙の文面を思い出す。一瞬だが大月村を吹き渡る風が彼女の頬を撫でる。
 大月村の四季はバーゲンで売られることはない。女の三十歳はとっくに過ぎて自暴自棄になり、絹江は自分の人生をバーゲンのように売ってしまったことがある。妻子のいる男と深い関係になりその男の子どもを堕した。辰雄が火事という不慮の災難で妻子を亡くし一人生き残ったことも手紙で知った。彼は完璧な女を再婚の相手に望んでいるのではない。寄り添ってお互いの孤独を慰め合おうと言っている。彼が絹江との結婚に望んでいるのは『破れ鍋に綴じ蓋』なのだ。

2−2
   
 八月になり、夏季休暇を利用して大月村を見てみたいと絹江が手紙に書くと、前日よりビジネスホテルに一泊した辰雄が迎えに来てくれた。朝早く連れだってアパートを出て、一日かけて汽車に揺られ連絡船に乗り換えまた汽車に揺られた。「ここからはバスになる」と教えられたU市駅についた時はすでに夕闇が迫っていた。山々を縫うようにして走るバスが闇に飲み込まれるのも時間の問題だろう。あまりにも遠くへ来てしまったという彼女の不安は、針で一突きすれば破裂する風船のように膨らんでいた。あの日から三十年経った今でも笑い話のように茶化して絹江は辰雄に言う。
「あの日に初めて乗ったバスは、どんどん山の中に入って行って、道沿いにぽつんぽつんとあった人家も、そのうちに一つも見えなくなって」
「ああ、窓の外ばかり睨んでいた」
「あのときばかりは、『ああ、どうしよう。とんでもない所に来てしまった』と、不安になったわ」
「たぶん、そんなことを考えているのだろうと思った」
「あの時にもし私が『バスを飛び降りて引き返す』って言っていたら、引き止めてくれていた?」
 しかしその問いへの答えは辰雄の口から出たことはない。いつもはぐらかされる。それは男の照れというものでもなく、いまさらと答えるのを面倒に思っているのでもない。その答えを胸に秘めたまま彼はあの世に持っていくつもりなのだ。あの日から三十年を過ごした二人の生活は子どもに恵まれなかったこともあって世間の夫婦に比べれば波風の立たないものだった。しかしそれは夫婦であっても所詮は他人、心の奥底までは分かり合えないというお互いの納得があったからだ。あの世からのお迎えが来ればやはり辰雄は焼死した妻子のもとに戻るのだろうと、絹江は思う 次の停留所でバスを降りて引き返そう、絹江がそんな思いに捉われた時、闇の色に染まって空と山の稜線の境が曖昧になっている車窓の風景が突然開けた。山々に囲まれた大きな擂り鉢の底に明かりが灯り始めた人家が見える。それは救われるような静かで美しい光景だった。絹江の口から安堵の溜息が洩れた。
 浅井辰雄の住まいは終戦直後の引揚者のために建てられた二軒続きの長屋が十棟ほどの村営住宅の中にあった。玄関に足を踏み入れると、狭い土間の向こうは四畳半と六畳の部屋が続いている。そこを通り過ぎるとぽたぽた水漏れしている蛇口とガスコンロ一つの台所となっており、その横には廊下とも部屋とも区別のつかない板の間があった。風呂は隣と共有だ。荷物をおくと辰雄はすぐに雨戸を開け放なった。街中のアパートでは想像出来ないような涼しい夜気が賑やかな虫の音とともに流れ込んできた。ぶら下がった蛍光灯が揺れながら浮かびあがらせたのは、妻子に同時に先立たれた男の寂しくも殺風景な光景だった。その夜、二人は抱き合った。男と女が一つ屋根の下で眠ることになれば当然そうなることに、絹江はもう躊躇う年齢でもなくまた恥じらうほどの高潔な生活をしてきた訳でもない。
 辰雄の目的の曖昧なまま絹江の体に触れる手はぎこちないものだった。遊びで女を抱いたことはないのだろうと思われた。彼の手の動きにもどかしさを覚えながらも、ふと彼の手紙と同じだと彼女は思った。歯の浮くようなお世辞もそれどころか社交辞令の一つも書かれていない。しかし読み返すほどに温かいものが心の中に溢れて来る。彼と大月村で暮らして夫婦として何度も体を重ねているうちに、男と女のめくるめくような激情は遠い日のこととなってしまうのだろう。そのうちに彼の腕の中が自分にとって一番の安らぎの場所となるに違いない。
 辰雄の妻子の位牌を祭る仏壇は、二人が体を重ねた隣の部屋にあった。二つの位牌が質素な仏具に囲まれて肩を寄せ合っている。翌朝、線香をくゆらせて手を合わせる辰雄の後ろで、絹江もその習慣に素直に従った。あの世で再会する日を待っている家族が辰雄にはいるが、絹江にもいた。迷っているうち日が過ぎてしまい、堕した子どもは男の子だとわかった。その子に絹江は『けいすけ』と名づけた。その『けいすけ』が彼女を待っている。大月村はそれぞれの理由で家族を失った者同士が暮らすのに相応しく、小さな仏壇はそんな彼らをあの世で待っている者を祭るのに相応しいと思えた。辰雄の妻と子どもの位牌はその横に『けいすけ』も迎えてくれるだろう。
「せめてU市駅まで見送りたい」という辰雄の申し出を断って、絹江は帰路のバスに一人で乗った。その上流にダムが建設された今と比べれば、三十年前の大月川は水量も少なく川幅も狭かった。山と山の間を縫うように流れていた。その川沿いの細い道を走るバスは対向車が来るたびに停車し、時には擦れ違えるほどに道幅の広がった場所を求めては後退した。山肌には木や草が生い茂りその枝がばさばさと車体の横腹を打つ。むせ返りそうなほどの緑色をした夏の風が開け放した窓から吹き込んでくる。
 大月村から帰ってくると、絹江は退職願を提出し、それからアパートの部屋の荷物の整理に取りかかった。誰かに新しく始まる生活を知らせて祝福して欲しいと思うことはなかった。

2−3
   
 秋も深まって虫音も途絶え、二人きりの正月も迎えた。そして冷たかった陽射しの中にも春めいた輝きが感じられるようになっていた。絹江の大月村での生活も半年が経った。今までの生活と違って買えないものは自分で作るしかない彼女の一日は、ゆったりとそして忙しく過ぎていく。その朝、役場に出勤した辰雄が一時間もしないうちに戻ってきた。
「藤崎村長から、あんたに話があるんだと」
「まあ、どうして。なんのことかしら?」
「村長宛に手紙を書いたとか言っていただろう」
 藤崎村長の名前で、年末に清酒が二本届けられた。それには辰雄と絹江の結婚を祝う直筆の手紙も添えられていた。大月村役場ではそのような習慣があったのだろう。そのために絹江は藤崎村長宛に礼状をしたためた。
「手紙といっても、簡単なお礼の言葉を書いただけよ」
「絹江さんはきれいな字でしっかりした文章を書く人だねと、藤崎村長から言われたよ。よくはわからんが、直々に頼みたいことがあるそうだ」
 当時の大月村役場は西洋建築を模したモダンな木造二階建てだった。戦前の大月村は植林と養蚕で得る豊かな財政を誇っていた。通りを睥睨している役場の建物はその良き時代の遺物でもある。壁板は薄水色で窓枠は緑色のペンキで塗られていた。しかし羽振りの良かった昔日の面影は今ではなく、目を凝らさなくてもペンキがまだらにはげ落ちているのが見てとれた。洒落た形に尖った三角屋根の天辺にはこれも元は赤色であったらしい風見鶏が立っている。村営住宅を建て直す財源に事欠くように、大月村は役場の建物の修理にも手が回りかねているのだ。
 三月初めの大霜の朝のことで、すでに靄は晴れ渡って役場の上には壁板のペンキよりも青い春の空が広がっていた。なんといったこともない寂れた村の空の色だったが、しかし仰ぎ見た絹江の目には春を待ちあぐねた歓喜の色に見えた。
 三期目の村長職に就いたばかりの藤崎繁治は、二階の村長室で絹江を立って迎えてくれた。彼は七十歳を過ぎていると辰雄に聞かされていた。小柄で痩身だが白髪が豊かな風貌は政治家というよりも学者にふさわしい。そう見えるのは雑然としていてそれでいて居心地のよさそうな村長室の設えも関係しているのかも知れない。大きな執務机の後ろは飾り棚を兼ねた本棚になっていたが、そこに並べられているたくさんの本は飾りのもではないように思えた。
 勧められるままに、執務机に向かい合って置かれている革張りのソファーに絹江は腰をおろした。藤崎村長は微笑みを浮かべて言った。
「丁寧な礼状をもらって、返って迷惑をかけたような……」
「いえ、こちらこそ、お祝いの品をありがとうございました」
「達筆の美しい筆跡だったので、てっきり、浅井君は年上の奥さんを貰ったのだろうと思いましたよ」
「お褒め頂いて恥ずかしいかぎりです」「忙しいところをこちらの都合で呼びつけて申し訳ないが、さっそく本題に入らせてもらうよ。絹江さんを見込んで、ぜひお願いしたいことがある」
「私に出来ますことでしたら、なんでもおっしゃってください」
「私からの頼みごとというのは、父が残した蔵書と資料のことです。私の父は田舎にありながら文化人を気取っていて、そのために我が家の蔵は、生前の父が買い漁った本と友人知人達と交わした手紙や資料の類で、手のつけられない状態となっている。本といっても、父が自分で読みたい本を書店で求めたり、仲間内で出版したものを贈呈しあったものばかりだから、古本として値打のあるものはありません。それもあって整理したいものだと気にかけながら、手つかずのままで今日に至っていてね。それでも父が大切にしていたものだと思うと、私としても処分する気にはなれないもので」
 藤崎家は大月村にあって代々の素封家だ。戦前のある時期までは、隣のU市まで出かけるのに自分の土地を歩けたとまで言われた。しかし林業と養蚕の衰退と農地解放でそのほとんどを失った。そして時代の流れは藤崎家から土地と資産を奪ったがまた人も奪った。繁治の子どもたちは大月村から遠く離れた地で、一人は開業医として一人は会社役員として、再び大月村には戻って来ることはない生活をしている。
「よくわかります。すべてお父様の思い出に繋がる大切なご本なのでしょうから」
 そう言って、絹江は藤崎村長の背後の本棚に目を移した。本棚に無造作に並べられている本が飾りではないとの彼女の印象は当たっていたのだ。藤崎は亡くなった父親が無類の本好きだったと言っているが、その血は息子である彼自身にも濃く流れている。
「そうなのですよ。それでこの役場の二階にある物置部屋が開くと聞いて、そこを利用した小さな私設図書室を思いついたという次第なのです。明治から昭和の初期にかけての本ばかりで、古本としての値打はないに等しいが、それでも興味のある者は手にとってみたいかもしれないと考えてね」
「図書室開設は、よいお考えだと思います。大月村に村立の図書館がないことをとても残念に思っていました」
「聞いているとは思うが、大月村は長年の財政難が続いていましてね。しかし村民の文化意識向上のためにも、村立図書館建設は私の夢でもあるわけだが」
「今回の私設図書室が、その足掛かりとなる訳ですね」
「あなたに賛同してもらえたら、ますますやってみようという気になります。それでということで、図書室の貸出し係をあなたに引き受けてもらいたいと思っているのだが、どうだろうか。そしてその間にぼちぼちと古い手紙と資料の整理もしてもらいたい。もちろん謝礼も差し上げるつもりです」
 半年が過ぎようとしている大月村での生活に倦んでいるというのではなかった。質素だが手間のかかる毎日に体を独楽鼠のように動かしていると、これまでの街中での生活はいかに地に足がついていなかったかがよくわかる。しかし藤崎村長の申し出に絹江の心は動いた。今の充足した生活の上に本に囲まれて働ける時間も持てるとは、もったいないような幸せな日々になるに違いない。遅い結婚に子どもを持てることは期待していなかった。そのためにこのまま辰雄との生活を守るだけで人生を終えるのかと、ふと思う時はある。すぐにでもその仕事を引き受けたいという言葉が彼女の喉元まで出かかった。しかし新妻らしく答えなければならない。
「まずは夫に相談したく思います」
 藤崎村長の表情が緩んだ。
「浅井くんの説得は任せてくれたまえ。彼がどういう考えの持ち主であるかは、私のほうがよく知っている。異存のあるはずがない。さっそくあなたにはこれから我が家に来てもらって、蔵を占領している本を見てもらいたいのだが……。しかしその前にもう一人、この仕事を手伝わせようと思っている者がいましてね。その彼をあなたに引き合わせようと思う。そろそろ顔を見せにきてもよい頃なのだが」
 少々熱弁を奮い過ぎたようだと藤崎村長は椅子にその体を深く沈めた。ふと見せた疲れた顔だった。この時は絹江も彼自身も気づいていなかったが、彼の体の奥深くを病魔が蝕み始めていた。数年後に彼は四期目の村長選に出馬することなく、惜しまれながら政界から身を引くことになる。その時、村長室のドアがノックされ開かれた。
「おじさん、遅くなりました」
 藤崎村長が待っていたのは詰襟学生服を着た背の高い少年だった。村役場への出入りには慣れているようすだ。彼は後ろ手にドアを閉めると落ち着いた足取りで入ってきた。
「待ちかねたよ。金本がここに寄越すのを渋っているのではないかと、顔を見るまでは不安だったがね」
「よろしく伝えて欲しいとの父からの伝言です」
 藤崎村長の言葉を受けて少年が答える。その声に利発さが感じられる。
「わかっているよ。あの男がそんなしおらしいことを言うはずがない」
 口では苦々しい言葉を吐きながら、藤崎はその顔に表れた機嫌のよさを隠そうとはしなかった。物事が思った方向に動き始めた安堵がその顔から読み取れる。彼は視線を少年から絹江に移すと言葉を続けた。
「この子が、あなたの手伝いをさせようと考えている者で、私の姪の忘れ形見だ。本は重いからね、我が家の蔵からここの二階まで運ぶのは、女の人の手にあまるだろう。圭介くん、紹介するよ。この人が浅井絹江さんだ」
 少年がその顔を初めて絹江に向けた。色白で端正な顔立ちだった。
「北村圭介です。古い本のことは何もわかりませんが、力仕事には自信があります」
 絹江は立ち上がろうとして足が震えソファーに腰を落とした。突然聞かされた『けいすけ』という少年の名前に、自分の体がこれほど激しく動揺するとは思っていなかった。
「狭い村のことだから、きっと圭介のことではいろんな噂が絹江さんの耳に入ってくることだろうと思う。私の姪の淳子は夫に先立たれたあとこの子を連れて、私を頼ってこの村に戻ってきた。しかし淳子は金本に口説かれて、彼の二番目の妻になってしまった。そして不幸な結婚生活のまま数年前に病死してしまってね。圭介の苗字が金本でないのは、金本がこの子を養子にしなかったからだ。しかしそれは結果的にはよかったことだと思っている。私は二人の結婚には反対だった。金本は淳子を苦しめた当時の愛人を三番目の妻にしている。その上にこともあろうか、彼はいまだに圭介の大学進学は不要とばかりに首を縦に振っていない。金本は村会議員として器はともかくとして、そういう男だ。」
 過ぎ去った過去をいまさら思い出したくもないが、それでも誤解が生じることだけは避けておかねばならないと、それは藤崎村長の少年への精一杯の思いやりだった。しかし絹江の耳には藤崎の言葉は右から左に流れているにすぎなかった。産みたくても産めなかった『けいすけ』という名前の少年が目の前にいる。『けいすけ』が生まれていればいま三歳だが、十数年経てば背も高くなり、そしてこうして自己紹介の出来る少年になっていたことだろう。
「北村圭介くんっていうのね。浅井絹江です、よろしくね。それで『けいすけ』って、どういう漢字を書くのかしら」
 彼女は何よりもそのことが知りたかった。少年はその長い右手の人差し指で、空中に『圭介』と自分の名前を書いてみせた。
「ああ、いい字だわ。これからは私もあなたのことを圭介くんと呼んでもいいかしら」
 目の前の少年は屈託のない笑顔で頷いた。「さっそくだが、二人には我が家に来てもらって、蔵の中をみてもらおう。本の搬入は、圭介の春休みが始まってからということでいいかな」
 老獪な政治家でもあったはずの藤崎繁治だったが、彼は気づいていなかった。『けいすけ』という名前の少年を求める女と、『圭介』と自分の名前を母親のように呼ぶ女を求めていた少年が、今、彼の目の前で出会っていた。その後、圭介と絹江は二週間を藤崎家の蔵と村役場の二階の図書室になる予定の狭い部屋で過ごした。二週間という時間と常に顔を突き合わせる空間があれば、二人が長年お互いの胸に秘めたそれぞれの感情に気づくのには充分だった。


3−1
   
 北村圭介の通う高校の春休みが始まった翌日から、二人は図書室への本の運びこみを開始した。藤崎家の黴臭く埃の舞う蔵の中で、とりあえずは自分たちにも理解出来そうな内容であることを目安にして、図書室に並べる本を選んだ。明治・大正・昭和初期とそれぞれの時代から、小説・随筆・専門書をまんべんなく選び出し、そしてお互いの自転車の荷台にそれらを乗せられるだけ乗せて運ぶ。
 しかし予想していた以上にそれは手間のかかる作業だった。戦後の教育を受けている二人にとって、旧仮名遣いで書かれたそれらの本の内容を、手に取ってぱらぱらとページを捲ったくらいで理解するのは難しい。そして凝った細工のように美しい本の装丁を手にすると、感嘆し見せ合うためにも作業が中断された。藤崎村長は「急ぐことはない」と言ったが、二人はその言葉に甘えるしかなかった。蔵の中で村役場の小部屋で二人の会話は弾み肩が触れ合う。
 図書室に当てられた部屋は、村役場の階段脇の北向きの小さな部屋だ。長い間、物置部屋として使われていた。薄鼠色に変色した壁紙、軋む床板、そして過去には雨漏りもあったのだろう、天井は染みだらけだ。しかしよく見れば腰板には繊細な彫刻が施され、部屋の隅には飾り暖炉もある。この部屋はその昔、村長に面会に来た名士たちに付き従った者たちの控えの部屋だったのだろか。そう想像すると、自分たちの気配を消してひっそりと待ち続けるしかなかった者たちの息遣いが、未だに部屋のあちこちに潜んでいるようにも思われる。古い本ばかりを並べる小さな図書室としていかにも相応しい部屋だ。本棚の代用品としてスチール製の書類棚を並べた。村役場で使われなくなった備品だ。その書類棚四つを壁面に沿って並べ、飾り暖炉の前に貸出し作業用の小さな机と椅子を置くと、それでその部屋は一杯になった。五人も立てば満員御礼の札を下げなくてはならない。
 その年の大月村の春は例年になく冷え込んだ。それでも四月になるとやっと春めいてきた。村営住宅の窓から見渡す山々の裾が少しずつ花の色に染まってくる。絹江が自転車を走らせる畦道も日増しに緑の色が濃くなっている。都会生活に慣れた絹江の目から見ると、冬の間は惰眠を貪っているような山里の風景だった。田畑の中にぽつりぽつりと民家が点在する景色の中で、どこに人影があるのだろうと思っていた。しかし今は農作業に励む人の姿があちこちに見られる。田の土が耕運機で掘り起こされ黒々と盛り上がっている。そこに色も大きさも様々な鳥たちが空から群れ舞い降りて、眠りを妨げられた地中の虫をついばんでいる。日を追うごとに暖かな土の匂いを含んだ風が、自転車のペダルを踏む絹江の頬を撫でた。
 圭介の春休み最後の日、絹江はまだ暗いうちから起きだして、辰雄と自分と圭介の三人分の弁当を作った。
「明日は、お弁当を作ってくるから、お昼は食べないで来てね。図書室でささやかなお花見をしましょう」
 昨日、圭介の後ろ姿にそう声をかけた。振り返った彼の顔からはいつも見せていた大人びた表情が消えていた。期待と戸惑いが交互に表れる目の前の少年の顔に、絹江は自分が与えた喜びの大きさを思った。
「そのくらいしか、感謝の気持ちを表す方法を思いつかなくて」
「今夜から、もう何も食べません」
 圭介が珍しく冗談を言った。その返事に今度は絹江の顔が輝く。思わず目を伏せて「味のほうは期待しないでね」と答えた
 翌日、片付けた机の上に二人分の弁当を広げながら絹江は言った。
「窓からお花見というのも味気ないけれど、私からの心からの感謝の気持ちよ」
 図書室から見下ろす駐輪場の桜の木は、建物に囲まれて日当たりが悪く、その開花は遅い。満開にはまだ早かったが、形だけのお花見は楽しめた。
「感謝だなんて。僕も本に囲まれて楽しかった」
「そう言ってくれると嬉しいわ。でもやっぱり二人だけのお花見って寂しいわね」
「お花見って、久しぶりです……」
 その圭介の呟きは両親ともに健在だった幸せな日々への想い出に繋がっていた。彼の父親は建築士として独立して事務所を構えたところで病魔に倒れた。彼の命と夢は同時に終わり、残された彼の妻子は藤崎繁治を頼って大月村にやってきた。圭介はその父親に性格もそして体格も似ているとのことだ。痩せてはいたが長身だ。
「そんな大きな体をしていては、こんな小さなお弁当では足りなかったかしら」
 子どものいない絹江にはこの年頃の少年の好物もわからなかったが、旺盛な食欲というものも見当がつかなかった。同じ大きさの弁当箱を広げてやっとそのことに思い至った。自分の弁当箱から甘い玉子焼きや生姜で味付けした唐揚を、絹江は圭介の弁当箱に移してやる。弁当の中身がピラミッドのように盛り上がった。幸福という物に形があるとしたら目の前のこの状態を言うのだろう。ソースやマヨネーズの小袋の封を開け、その上に掛けながら彼女はそんなことを考えた。
「いいんですか。絹江さんのが少なくなって」
「私は作っている時に、嫌になるほど味見をしているから」
「だったら、遠慮なく頂きます」「この二週間、手伝ってもらって本当に助かったわ。この後、私一人でもなんとかやっていけそうよ。これからは圭介くんも勉強で大変でしょうけれど、頑張ってね。すべてがうまく収まるように祈っているから……」絹江の言葉にそれまで陽気に受け答えしていた圭介が沈黙した。触れてはならない話題に触れてしまったのだと絹江はその沈黙にうろたえた。「……、藤崎村長さんを信じていれば大丈夫よ。お義父さんの金本議員もきっとわかってくれるはず。ごめんなさいね、立ち入ったことを言ってしまって。盗み聞きしようと思った訳ではないのだけれど」
 言葉を重ねるほどに、部外者の絹江が立ち入ることではない事柄が、彼女の思いとは裏腹に口から出てしまう。圭介と養父の金本勇造と藤崎村長の関係について、そして圭介の宙に浮いた進学問題について、他人の彼女がとやかく言うことではないのだ。絹江のしどろもどろな弁解の言葉を遮って、圭介が躊躇いながら口を開いた。
「この後もまたここへ来てもいいですか、迷惑でなければ。本を並べるくらいの手伝いだったら出来ます」
「まあ、迷惑だなんて」 これからもこの部屋で圭介と会えるのだ。天にも舞い上がる嬉しさとはこういうことをいうのだろうかと絹江は思った。そしてその喜びは彼女の顔に表れてそれは圭介にも伝わったことだろう。

3−2
   
  藤崎村長が村役場の空き部屋に自宅から本を持ち込んでいる。空き部屋は私設図書室となり、そのうちに本の貸出しも始まるらしい。狭い山村のことだ、噂の広がるのは速い。
 図書室の本棚に絹江と北村圭介の二人で本を並べていると、好奇心を露わにした顔をして入ってくる者たちがいる。ノックもなく部屋のドアは開けられ、そして挨拶もなく彼らは無遠慮に絹江と圭介の並べられた本を眺めまわしていく。彼らは一度覗いてしまえば満足して再びその顔を見せることはなかった。その中に圭介の義父である金本勇造もいた。彼もノックすることなく図書室のドアを開けた。
 本棚に並べたばかりの本を適当に引き抜き金本はぱらぱらとページを捲った。しかしその内容に心惹かれた様子はみられない。村会議員という立場で役場内で起きていることは一応知っておこうと考えているのだろう。その抜け目のなさと行動力が彼の議員活動の原動力でもある。そしてまた彼は『金本建設』の経営者でもある。この私設図書室は藤崎村長の政治家としての夢をかけた村立図書館の足懸かりであることは、彼も承知していた。建設業を生業としている金本としてはそのことにも無関心ではいられなかっただろう。
 姻戚関係にありながら、藤崎繁治に蛇蝎の如く嫌われていた金本勇造は当時五十歳を過ぎたばかりだった。痩身で白髪の藤崎が政治家というよりもどこか学者然とした風貌であったのに対して、金本の小太りな体格と赤ら顔と濁声はいかにも村の顔役という感じがした。この頃の彼は村会議員から県会議員の鞍替えを図っていたところで、身も心も自信と精力で溢れていた。
「今の時代は、学問も大切なんでしょうなあ」
 棚に並べた本の整理に余念のない義理の息子の背中を見つめながら、金本は絹江に話しかけてきた。藤崎村長の頼みで図書室の運営を手伝うことになった絹江の経歴など、金本はすでに調べていたのだろう。彼の絹江への態度は初めから馴れ馴れしいものがあった。
 絹江は小さなテーブルの上で、貸出しカードを作っていた。厚紙を切って作ったカードに本の題名や著者の名前を記入する。この貸出しカード作成は圭介の提案でもあった。本の提供は藤崎村長の好意であっても、これらの貴重な本を何の記録も残さずに貸し出すわけにはいかない。それには貸出しカードが必要である。また本を借りに来る者には、まず会員となってもらってその身元を確かにする名簿も作成しなければならない。図書室開設と聞いて本を並べることしか思いつかなかった絹江にとって、学校の図書館を使い慣れた圭介の提案はどれもありがたかった。
 絹江の返事がないことに焦れた金本が言葉を続ける。
「このことについて、絹江さんはどう考えておられるのか、参考までにお伺いしたいのだが」
 戦前の尋常小学校だけを卒業して裸一貫で伸し上がってきた男が、その返事に何を期待しているのか。その視線が義理の息子の背中に注がれたままでいることが、何よりもその心の中を表している。この傲慢な物の言い方をする男が少年の大学進学という未来に立ちはだかっているのか、そう思うと不愉快な気持ちが顔に出そうで、絹江はテーブルに目を落とし作業を続けながら答えた。
「確かに、そういう時代になってきていると思います」
 その答えに金本はここぞとばかりに喋り始めた。
「しかしですな、わしは小学校しか出ていない。あの頃は家で勉強などしておったら、畑家仕事を手伝えと、親が教科書を窓から放り出した時代でな。まして本を読むなどとは、金持ちの家の子がすることだと言われとったものです。そんな時代に育ったわしですから、ここに並べてある本の一冊も読んだことはない。男は体さえ動かしておれば、自ずと道は開ける。なまじ本の中の知識を頭に詰め込んだら、体を動かすことを馬鹿にするようになる」
 彼は議会で演説を打つような調子でそう言った。彼は自分の言葉がどのように相手に重くのしかかり窮地に追い詰めるかを知っている。
「どんな時代にあっても、知識は荷物にはならないと私は思っています」
 圭介の背中を見つめていた金本の視線が絹江に移った。義理の息子の背中よりも興味を引くものが現れたと、彼の視線は露骨だ。
「さすがに都会で暮らしていた人は、洒落たことを言う」絹江に興味を示してきた金本は話題を変えてきた。「ところで絹江さん、大月村での暮らしにはもう馴染めたかな?」
「お陰様で、毎日を新鮮に楽しんでいます」
 その返事の中には、人を不愉快にさせる金本との出会いも含まれているのだという皮肉は、果たして通じたのだろうか。
「模範解答ですな」
 金本はそう言うと今度は馴れ馴れしく絹江の肩に触れてきた。軽く叩くというよりは撫で回す様なゆっくりとしたその動きは、それ以上言わなくてもわかっていると語っていた。いま出会ったばかりの彼に絹江の何がわかるというのか。芽生えたばかりの圭介への想いか。それとも大月村に来るまでの孤独に蝕まれて荒んだ生活のことか。肩に置かれたその手が心の奥にまで侵入し、そして何かを探し当てそれを撫で回しているように絹江には感じられた。
 金本は入って来た時と同じ足取りで部屋を出て行った。廊下に響くその足音が少しずつ小さくなり村長室に消えたとわかったところで、絹江は溜めていた息を吐き出した。金本の女癖の悪さは噂で聞いていた。一度目の結婚と離婚、圭介の母親との馴れ初めと結婚、そして三度目の結婚とそれでも常に存在する愛人達、想像するほどにおぞましい。しかし浅井辰雄と出会うまで、絹江自身も金本を一方的に責められるような清らかな生活を送ってきた訳ではない。肩に置かれた彼の手はそのことを思い出させた。それで彼女は彼の手を邪険に振り払うことが出来なかったのだ。金本の馴れ馴れしさは彼が絹江を同類と認めた証しでもあったのだ。
 その時、図書室のドアが勢いよく開いて、鮮やかなピンク色をした丸いものが飛び込んできた。それは金本のせいで息苦しくなっていた図書室に、新鮮な空気をもたらした。図書室にそのようなものが現れるとは考えたこともなかったので、その可愛らしいものがピンクのセーターを着た女の子だとはっきり理解するのに、絹江はしばらく時間がかかった。毛足が長くそのためにもこもこと膨らんだセーターに青色のスカート。髪は二つに束ねて丁寧に三つ編みされていてその先の黄色いリボンが勢いよく揺れていた。冷たい外気に長く触れていたのだろう、色白な顔の頬がセーターと同じ色だ。二つの大きな黒い目が好奇心で輝いている。
 女の子に続いて、両手が紙袋で塞がっている女が姿を現した。彼女の年齢は絹江と同じくらいだ。好奇心で明るく輝く黒い目が先に飛び込んできた女の子にそっくりなので、母親に違いないと絹江は思った。女は図書室を見回すと大きな声で言った。
「そこで金本議員と出会ったわ。あの女好きは、私を見ると早足になって逃げて行くのよ。私だって女の端くれなのに、本当に失礼だと思わない?」地獄に堕ちても閻魔大王ですら恫喝しそうな金本にも苦手なものがあったのだ。女の皮肉を込めた言葉は続いた。「私、彼の背中に向かって言ってやったわ。こんな所で油を売っていていいんですか? あなたへの毎月の報酬には、私たち村民の大切な税金が使われているのですよ。村会議員として、時間は有効に使っていただきたいものですって。あんな嫌なやつ、いつでも追い払ってあげるから、困った時は私に言ってね」
 芳野和子と絹江の初めての出会いだった。笑みを浮かべた目が優しい。絹江は彼女に同性として好感を持った。
 親しくなった後に、「結婚前は、小学校の教師だった」と聞かされて、「ああ、それで」と絹江は和子のはきはきとした物の言い方の訳を見つけたような気がした。彼女はいつも本音を口にする。その言葉に表裏がない。声からも体からも金本勇造とは違った種類のエネルギーを発散させていた。絹江より二つ年上の和子は、三人の子どもに恵まれていた。ピンクのセーターを着た女の子は、二人の男の子に続いてやっと誕生した彼女が待ち望んだ子だ。狭い図書室の真ん中に立った芳野和子は、その手を腰に当ててゆっくりと部屋の中を見回した。
「長い付き合いだというのに、藤崎村長も水臭いこと。こんな計画があるのだったら、真っ先に私に相談してくれるのが、筋だと思わない?」
 その口調はいかにも悔しそうだ。しかし藤崎村長と目の前に立っている初対面の彼女との関係について、絹江は何も知らないので答える言葉がなかった。
「あなたが浅井絹江さんね。あの嫌な男のせいで自己紹介が遅れてしまったけれど、私は芳野和子。よろしく」
 突然始まった自己紹介に絹江は慌てて立ち上がった。女としては背の高い絹江が立ち上がると、和子の顔は見下ろす位置にあった。口を開こうとした絹江を制して和子は言葉を続けた。
「まあ硬い挨拶は抜きにして、これからはお互いに、和ちゃんと絹ちゃんで行きましょうね、きっと長いお付き合いになると思うから。さてと、私がここに来たということは、今日からこの部屋は『大月村に村立図書館を作る会』の事務所も兼ねるということになるのよ。まあ大月村に来てまだ日の浅い絹ちゃんには、その辺りの難しい事情は少しずつ話していくとして、私がそう言うのだからそういう事なのよね」
 馴れ馴れしく繰り返される『絹ちゃん』という自分の名前が、なぜか絹江には不愉快に感じられなかった。この女性を自分も『和ちゃん』と呼んでみたいと思う。
 しかし芳野和子はそんな絹江の心の内には気づかなかったようで、その視線をピンク色のセーターを着た我が子へと移した。小さな女の子は本棚の前の圭介の足元に座り込んでいた。そして本棚の中から本を抜き始める遊びに夢中になった。和子の声が今度は母親のそれに変わった。
「美樹ちゃん、ここには絵本はないのよ。圭介お兄ちゃんがきれいに並べている本に触っちゃだめなのよ」
 その言葉に絹江は立ち上がった椅子から歩みを進めて、小さなピンク色の塊に近づいた。女の子は絹江に気づいてその手を止め絹江を仰ぎ見た。邪気がないとはこういう目の色のことを言うのだろう。絹江の思いがそのままに目に映っている。
「美樹ちゃんっていうのね。ここは図書室なのだから、子どもの絵本も置かなくてはね。美樹ちゃんにも読めるような本も置いてくださいって、村長さんにお願いするわ」
 そして同意を求めるように、絹江は和子に振り返った。返事の代わりに彼女は笑顔を見せた。この日より、芳野和子は三十年に渡って絹江に惜しみない友情を与えてくれた上に、子どもに恵まれなかった絹江に子育ての真似ごとも楽しませてくれたのだ。

4−1
   
 開設したものの、果たして明治から昭和初期の古い本を借りに来る物好きがいるのだろうかとは、絹江と圭介そして藤崎村長も口には出さなかったが、不安に感じていたことだ。
 興味本位に覗きに来た者達の一時的な波が去ると、村役場の職員が村長への義理立てで本を借りにきた。絹江の夫の辰雄もその一人だ。それまで読書の習慣のなかった彼が、眠りにつくまでの短い時間で本を読むようになった。それは藤崎村長への気遣いから生まれた習慣だったが、退職した今でも読書は彼の楽しみとなっている。
 大月村は貧しい小さな村だったが、金本勇造のように物語の世界を楽しむことを時間の無駄とばかりに嫌う人間ばかりが住んでいるのでもなかった。旧漢字や旧仮名遣いの本に慣れ親しんでいた人たちが、この村にもいた。昔を懐かしむように一人二人と図書室に彼らは姿を見せるようになった。そういう人達が何人か集まると、狭い図書室はサロンの雰囲気となった。藤崎村長を囲んでの彼らの文学談義に、絹江も図書カード作成の手を休めて聞き入ることもあった。
 元小学校の教師で三人の子どもたちの教育にも熱心な芳野和子を中心とした『大月村に村立図書館を作る会』のメンバー達も、この小さな図書室によく姿を見せた。それまでは和子の家の座敷が『子どもたちに絵本を読み聞かせる会』として開放されていて、そこが『大月村に村立図書館を作る会』の事務所も兼ねていた。しかし「お役に立てるのであれば」と、絹江は会の簡単な事務と連絡係を引き受けたので、『大月村に村立図書館を作る会』は実質的にここに引っ越してきたのだ。そして和子の娘の美紀に約束した通りに、小さな子どもにも手の届きやすい場所に絵本のコーナーを設けた。絵本は『大月村に村立図書館を作る会』のメンバー達の好意で、一冊二冊と持ち寄られたものだ。
 誘蛾灯に虫が集まるように図書室に本好きな人達が集まり始めた頃、地元新聞に『村役場の一室に、戦前のロマンを秘めた図書室がオープン』という記事が掲載された。大月村の藤崎繁治村長が村役場の空き部屋に亡父の形見の蔵書を並べていること、その本の貸出しは自由であることなど、新聞記事の内容は好意的だった。今の時代であれば公私混同として非難されることだろうが、その時代の山深い村ではまだそういうことに大らかだったのだろう。
 圭介と絹江が本の搬入の手を休めて見下ろしその花を愛でた村役場駐輪場の桜は、瑞々しい青葉を繁らせている。初夏の涼風にその青葉は輝く濃淡を繰り返し見せていた。それはいつまでも見ていたいと思わせる美しい光景だった。「この後も、来ていいですか」と訊いた圭介は時々図書室にその姿を見せては、藤崎家からの本の搬入や書棚に並べたりすることを嫌な顔をすることなく手伝ってくれた。そして夏休みが近くなった今では学校帰りにふらっと立ち寄ることも多くなった。
 学業優秀な圭介が特進クラスに編入されていると聞くと、絹江は我がことのように嬉しく思った。正規の授業以外にも補習もあることだろう。きっと自宅でも勉学に追われているに違いない、春休みの二週間のアルバイトで、彼は藤崎村長から参考書を買うには充分な小遣いを得たようだ。しかし時折りみせる藤崎村長の憂鬱そうな顔色から、この時期になってもまだ彼の進学問題ははっきりと定まっていないことが想像出来た。
 北村圭介の勉学の妨げにならなければよいがと思いながら、絹江は図書室を閉める時刻が近づくと彼の来訪が待ち遠しく落ち着かなくなる。彼がその姿を見せない夕刻はぐずぐずと閉室を遅らせることもある。そういう時に小窓の下で人の気配がすれば、彼が自転車を停めているのかと駆け寄って見下ろした。四方を山に囲まれてどこよりも早く夜の帳が下りてくる大月村だが、さすがにこの季節は暮れるのを忘れたかと思うほどに外はいつまでも明るい。夕暮れ時になるとペンキの剥げた壁面を伝って生暖かい風が外の音を含んで這いあがってくる。しかしながらそれは帰宅を急ぐ役場の職員であることが多い。彼らはバイクや自転車を慌ただしく引き出して家路へと急ぐ。その中に辰雄の姿が混じっている時もある。絹江は窓の縁に身を乗り出して手を振りながら、「私もすぐに帰るから」と心にもない嘘を口にした。
 絹江の失望が諦めと変わる一歩手前をまるで見計らったように、圭介はやってきた。だからと言って、高校生活を送る少年と主婦の間に共通の話題がある訳でもない。絹江が学校の様子を訊ね、本棚の本を眺めていた圭介が振り返って相変わらず礼儀正しい口調でそれに答えるだけだ。
「来週からは夏休みです。なんでも手伝いますから、絹江さんも遠慮なく言ってください。力仕事だったら出来ます。あっ、これはもう言ったかなあ」
 そう言って彼は学校で経験した他愛ない話を一つ二つ披露した、「ではまた来ます」と最後に言った言葉は、彼ののびやかな体と同じように明るい。しかし圭介の倍の人生を生きてきた絹江には彼に芽生えつつある感情が恋に近いものだとは経験済みだった。そしてまたこれほどに彼の訪れを待ち望む自分の胸のうちにあるものも、今となっては母が子を思う感情ではなく、恋に近いのではないかと思う時もある。
 金本勇造もよく図書室にその姿を見せた。苦手な芳野和子に遠慮はしていたが彼はあきらかに男として絹江を誘っていた。女に懲りるということを知らぬどうしようもない男だ。そのように男と女の関係に飽くことのない興味を持ち続けられる金本だから、同じ屋根の下で暮らす義理の息子の心の中を見抜くことは簡単だったに違いない。少年の年上の女性に対する憧れにも似た恋心に彼は気づいていたはずだ。この日から一か月後、すえた臭いのするモーテルの一室のシーツの上に金本と絹江は居た。その時「父親と息子を手玉にとった女」と、まるでそれが褒め言葉であるかのように彼は満足そうに言い、そして笑ったのだ。


4−2
   
 貸出していない本が十冊ほど本棚から抜けて行方不明になっていると絹江が気づいたのは、大月村の学校が夏休みに入り、それにつれて図書室への人の出入りも増えたと思われる頃だった。一人でも多くの人に本を読んでもらいたいという藤崎村長の考えで、貸出しには厳しい約束事は設けていなかった。貸出しから一か月も過ぎればそれとなく返却を催促する。そうすれば長閑な山村のことだ、本は畑で採れた野菜を添えて戻ってきた。
 貸出しノートに記載がないのに所在が不明な本は、本棚のあちらこちらからまんべんなく抜き取られていた。そのために出来た空きスペースを目立たなくする為の作為もされている。本を持ち帰った人間の悪意が感じられた。「そのうちに返却されることもあるかもしれません」と、藤崎村長に報告はしたが、本は戻ることなく一か月が経ち、圭介の夏休みも半ばが過ぎ時、絹江は村長室に呼ばれた。昨日より圭介は高校三年の夏休みを利用した修学旅行に出発している。
 お盆も過ぎて長く暑かった夏も終わりに近づいていた。日中の暑さに変わりはなかったが、ヒグラシがカナカナカナと切なげに鳴き、山の向こうに赤く燃えた夕日がすとんと落ちると、突然、夜になった。葉蔭で秋の虫たちの合唱が始まる。絹江が大月村を始めて訪れ、浅井辰雄の家に滞在して結婚を決意した日より、季節は巡りはや一年が過ぎた。その時の彼女には山村での埋もれたような静かな日々しか想像できなかった。しかしこんな村でも人々は日々を生きている。そしてそのことは絹江が望んでいるいないに関係なく、昔々、紙に蜜柑の果汁で絵を描き火鉢の炭火であぶって遊んだあぶり絵のように、人間模様という絵模様をじわじわと浮かび上がらせていた。
 呼ばれて村長室のドアを開けると、金本勇造が執務机の前のソファーに我が物顔で座っていた。彼はだらしなく広げた開襟シャツの胸元に向かって扇子で風を送っていた。絹江の入室に驚くこともなくその手を休めなかったところを見ると、これから藤崎村長と絹江との間で始まろうとしている話の内容を彼はすでに承知している様子だ。いやもしかしたら彼は一枚噛んでいるのだろうさえ、咄嗟に絹江は想像した。その金本の向いの席に座るように絹江に指示して藤崎村長は言った。
「昨日、M市の古書専門店の店主から電話がありましてね。あなたから話のあった本が出てきました」
「えつ、売り払われていたのですか」
 当時は大月村からU市までバスで一時間、そしてU市から県庁所在地のM市まで急行で二時間かかっていた。往復するだけで一日が潰れる。
「戦前の父の収集癖はM市にまで及んでいたので、そのことを今でも憶えてくれている古書店があって幸いだった。本には父の蔵書印が押してあったのですよ。しかしたいした額では売れなかったようだ。M市まで出かけて古書店に持ち込んだ者は、往復の旅費にもならなくてさぞがっかりしたことだろう」
「私の不注意でした。申し訳ありません」
「あなたにはなんの落ち度もない。図書室を開設すると決めた時から、こういうことは起きるだろうと思ってはいたことだ。世の中の人間はすべて善人と思いたいが、現実は理想論だけでは片付かない。しかし図書室開設は私の道楽で始めたことだから、犯人探しを始めようとは考えていない」
「私が本の管理をしっかりしておけば、こんなことにはならなったと思います」
「今回の出来事で、図書室の本にそれほどの価値はないと知らしめることが出来て、それはそれでよかった」
「いえ、やはり……」
 藤崎村長と絹江の会話に苛立った金本が口を挟んできた。「村長、話の腰を折るようですまんが、あの話を切り出してもらえると、時間に追われているこちらとしては有難いのですな」
 しかし藤崎村長は金本の抗議を無視した。
「古書店の店主からは、買い取った本を送り返してもよいと言ってもらったが、こちらが一方的にかけた迷惑なので、その好意に甘えるのも申し訳ない気がしてね。絹江さん、手筈は私が整えておくので、M市まで出かけて買い戻して来てもらえないだろうか?」
 そう言い終わってから、藤崎村長はやっと金本に視線を移した。
「今回のことは何と言っても私の落ち度ですから、そのためでしたらなんでもします」
「近日中に金本議員がM市に出かける用事があるとのことなので、どうだろうか、絹江さん。彼の車に便乗してM市までご足労願いたいが。本といえども十冊ともなれば、女の人の手に余る重さとなるから、あなた一人で公共の乗り物を使って行くには無理があると、金本議員がそういうものね」
「いやあ、こんな無学な私でも必要とされるのは、嬉しい限りです、藤崎村長」
 無視しされたことへの皮肉を金本はまず口にした。それからやっと自分の出番が来たとばかりに、彼は扇子を使うのを止めて体をソファーから乗り出した。「ええと、さっそくだが……」と思わせぶりに呟き、胸元のポケットから手帳を取り出して捲り始める。
「さて絹江さん。M市に行く日だが、わしにちょっと藪用のある来週ということでどうでしょうかな?男一人の退屈な運転を考えて正直言ってうんざりしていたんだが、あなたとご一緒できるとは光悦至極です」
 金本が下世話に落としてしまった会話を、わざとらしい咳払いで藤崎村長は止めた。
「絹江さんに行ってもらいたいM市の古書店『瓢箪堂』は、その名前と看板の由来がちょっと面白いのです。瓢箪とナマズの絵です。『瓢箪でナマズを押さえる』という中国の故事から取っている。今の世の中、のらりくらりと押さえどころのないことが多いが、のらりくらりとしたナマズのような人間もまた羽振りを利かせる時代になっている」

4−3
   
 図書室の本が十冊ほど所在不明だとは夫の辰雄にも話していた。それでM市の古書店からそれらが出てきたことを言うと、彼は我がことのように喜んだ。それもあって金本とのM市行きも、彼はなんの躊躇いもなく賛成した。
「朝少しのんびりして、それでも夕方には大月村に帰って来られるだろう。有難い申出じゃないか」
「金本議員さんは県庁で大切な用事があるらしいのよ。私もどこかで時間を潰さなくちゃ」
「M市にはデパートもあるし美術館もある。時間の潰し方など心配することもない。金本さんが県会議員選に打って出るという噂は、やっぱり本当なんだな」
 出かける当日の朝も、絹江は自分の企みに念を入れた。「金本議員さんの用事が長引くと帰宅が遅くなるかも知れないから、夕食は冷蔵庫の中に用意したわ」と、出勤の支度に余念のない辰雄の背中に声をかけた。妻の帰りが遅くなっても心配しないようにとそれとなく匂わせたのだ。企てていることがおくびにも出ないようにと平静な声を装った。それで辰雄は振り返ることもなく「遅くなるようだったら、先に食べておくよ」と言葉を返した。
 いつものように排気音の煩いバイクに乗り、バッタのように跳ねて畦道を下って行く辰雄の背中を見送りながら、一度決めてしまうと後には引かない自分の激しい気性を絹江は思った。
 ゆったりと流れる大月村での時間、そして詮索を避ける辰雄との生活の中で、彼女は自分が何者であったかを忘れかけていた。鏡に向かって化粧をしていると、父によく似た形をした目が自分を見据えている。後妻に頭の上がらなかった父を恨んで過ごした昔を思い出す。この歳になってやっと父と継母だけを責められないと思った。思慮深く見える外見の下に皮一枚で隠している彼女の気性の激しさを、大月村で見破ったのは金本勇造一人だ。だから彼は絹江の顔を見るたびに「あんたも同じ穴の狢だ」と誘っているのだ。今日、車中での絹江からの誘いに彼は驚かないだろう。自分の読みは当たっていたと無邪気に喜ぶに違いない。

5−1
   
 M市の古書専門店『瓢箪堂』は、繁華街から一筋裏通りに入った飲食店街の中にあった。瓢箪とナマズの絵のある看板を目印にと藤崎村長に教えられていた。つるつると滑る瓢箪でぬるぬるとしたナマズを押さえつける行為を絵にしたものだ。そして手書きの地図ももらっていた。しかし遠目でも店の前に古雑誌が積まれているのが見えて、それを読みふけっている少年たちの姿も見えたので、すぐにわかった。
 両側から崩れてきそうな古本の通路を奥に進んだ。薄暗さに目が慣れると、天井まで届く棚に古めかしい表紙の古書が整然と並んでいる。そこだけが古書店のプライドを保っている。
「えらい災難でしたな。こちらで荷作りして送ってもよかったのですが、藤崎さんが固く辞退されるものだから、ご足労をかけてしもたようで。お返しする本はそこに置いてあります。持って帰ってください」
 そして床に直置きされた紙袋を指差した。本の重さで底が抜けないように紙袋は二重になっている。その配慮がこれからそれを持ち帰ろうとしている絹江にはありがたい。絹江は藤崎村長から預かっていた封筒を店主に渡した。店主は中身を確かめようとしなかったので、村長の「古書としての値打ちはない」という言葉は本当だったのだろうと思った。店主の好意に何度も頭を下げて、そして絹江はどうしても聞いておきたかったことを口にした。
「どんな人が、この本を持ち込んできました?」
 犯人探しは村長からきつく止められている。騒ぎが膨らんでそれが図書室の閉鎖に繋がることを恐れているからだ。しかしどうしても絹江は知りたかった。店主の言葉を自分一人の胸に仕舞い込めば、誰に迷惑をかけることもないだろう。
「そうですなあ。若い二人連れのお兄さんたちでしたよ。着ているものから見て学生ではなかったような。そうそう古本を売るということがどういうことかもお兄さんたちにはわかっていない様子でしたなあ。こんな本が金になるのかと驚いた様子でした」
 店主の最後のほうの言葉はもう聞いていなかった。彼のいう人相に心当たりがなかったからだ。図書室に出入りする大月村の住人にそのように若い男は圭介以外にいない。絹江は何よりもほっとした。もう一度礼を言って頭を下げる。
 本を入れた紙袋は古書店を出るまでは軽く思われた。しかし商店街の外れの駐車場に停めてある金本の車に着く頃には、その重さに肩から腕が抜けそうになった。手が塞がって日傘が差せず、アスファルトのうだるような残暑の照り返しに全身に汗が噴く。その汗で白いブラウスは体に張り付いて、下着の線が露わになっているだろう。しかしそれはこれから絹江の企てに有利に働くことに違いない。
 車の中で待っていた金本は絹江の姿を見るとすぐに降りてきた。県庁に大切な用事があると言っていた彼は、「あの件はいつでもいい」とこともなげに言い、絹江を待っていたのだ。
「本を買い戻したら、あんた一人で汽車で帰ってしまうこともあると、少々不安だった」
 金本は正直な言葉を口にした。それで絹江も正直に答えた。
「約束は守ります」
「そんな怖い顔をせんでも。せっかくのドライブや、楽しまんとなあ」
 あとは言葉にせず、彼は助手席に座った絹江の太腿にその手を伸ばしてきた。そしてその手が振り払われないことを確かめると、それはスカートの裾に忍び込む。
「暑くてたまりません。早く車を出してもらえます」
 絹江の言葉に金本は来た道とは反対方向に三十分ほど車を走らせて、突然ハンドルを切り、国道から逸れた山道に入った。目の前の竹藪に隠れていたモーテルの高い塀が迫ってくる。迷うことなく空き部屋の駐車場に車を入れる様子から見て、何度か利用したことがあるのだろう。
「こうなることがわかっていたら、もうちょっと気の利いた場所に出来たんだが」
 背中を押されて入った小部屋に立つと、今までにこの部屋を利用したたくさんの男女の汗の臭いが微かに鼻をついた。部屋の真ん中に大きな円形のベッドがあり、その向こうにガラス張りの浴室が透けて見える。
「すまんけど、湯を張ってきてきてや」
 その言葉を信じて浴室に向かって歩き出した途端に、後ろから金本の太く強い手で絡め捕られてそのまま押し倒された。絹江の脳裏に『瓢箪堂』の看板が浮かんだ。瓢箪に押さえつけられそうになって体をくねらしたナマズの顔は苦しそうでありながらどこかふてぶてしく、状況を楽しんでいるようでもある。今の自分はあのナマズと同じ顔をしていると絹江は思う……。
「次はいつがええか? あんたの都合はどうなっとる?」
 関係を持った直後の男の馴れ馴れしさがその声に表れている。バスタオル一枚を腰に巻いた姿で胡坐をかき、金本は脱ぎ捨てていたシャツのポケットを探っていた。シャワーを浴びたばかりで、拭い切れていない水滴と新しく噴き出した汗が玉のように彼の背中に浮かんでいる。それがすでに着替えを済ませ化粧も直し、部屋の隅の椅子に座っている絹江にも見える。金本は指に唾をつけては、先日、藤崎村長の前でも広げて見せた手帳のページを捲り始めた。そして絹江から期待した返事がないので、彼は顔を上げると彼女のほうを見た。その無言を女らしい後悔と彼は思ったようだ。
「あんたもわしも、山の中の小さな村に閉じ込められているんや。このくらいの息抜きをしたくらいでは罰はあたらん。神さんもこんなことでいちいち目くじらを立てるほど暇じゃなかろう。この世の中はもっと悪いことが満ちている。わしが言うのだから間違いはない」
 そして自分で言った最後の言葉が気に入ったのだろう、上機嫌な笑い声をたてた。神を嘲るその笑い声に、彼ほどの男でもまだ自分の企みに気づいていないのかと絹江は思う。しかしモーテルの座り心地の悪い小さな椅子から立ち上がることは出来ない。立ち上がれば、震える足元から無謀としか言えない勇気が逃げて行くように思われた。
「次って、なんのことでしょう? 私を無理やりこんな所に連れ込んで」
 村長室で今日のM市行きが決まった日から、何度も考えそして何度も頭の中で呟いた言葉が、声になって出た。
「連れ込んだ? 何を言うとるんや? そうか、なんぞ欲しなったんか。あんたもやっぱり女やな。宝石か、バッグか、服か、遠慮せずに言うたらええ」
「欲しい物だなんて、何を勘違いされているのですか。あなたが私にしたことは、暴行という犯罪だと私は申し上げているのです、金本議員さん」
「いったい、何を思いついた? 言いたいことは、はよ言うてしまえ。わしは気が短い」
 金本勇造の見事な豹変だった。若い時から海千山千で生きてきた男のしたたかさがその声に出ていた。その声で絹江は気づいた。瓢箪に押さえつけられているナマズは自分ではない。無謀な企てに酔った愚かな自分が瓢箪で、したたかなナマズが金本だ。瓢箪でナマズを捕えようとはなんと愚かなことだろう。絹江は胸に下げた琥珀のペンダントを握りしめた。圭介が修学旅行の土産として彼女にプレゼントしてくれたものだ。今の彼女に勇気を与えてくれる物があるとしたら、このペンダントしかない。
「レイプなどという噂を立てられたくないのでしたら、圭介くんを希望の大学に進学させてあげてください」
「ああ、そうか。そんな玩具みたいな首飾り一つで、あれはあんたにそんなことを頼んだのか」
 彼の細めた目は、自分の知らないことはないと語っている。その目に見据えられると美しい物がすべて薄汚れるような気がする。
「圭介くんは何も知らないことです」
 なんとも面白い体験をさせてもらったと言いたげに、彼は笑った。
「あんな子どもを手玉に取って、あんたもたいした女や。確かに今は、今度の選挙の公認がもらえるかどうか、わしも瀬戸際に立っておる。危なかしい噂は困る。しかしあれの進学は家庭の問題でなあ。他人にとやかく言われることではない」
「圭介くんは学業優秀な少年です。なんとか彼に大学進学という将来への選択肢を増やしてあげてください」
「生意気なことをぬかしおって」
「圭介くんを進学させることで、あなたは教育熱心なよい父親だと、有権者に思われるのではありませんか」
「わしはあんたに選挙参謀を頼んだ覚えはない。ごちゃごちゃと小煩いことをぬかすな。せっかくのお楽しみが興醒めになってしもたやないか」
 そう言いながら彼はベッドから立ち上がると、すたすたと歩いて絹江に近づいて来た。その体型からは想像出来ない機敏な動きだ。恐怖に駆られた絹江も立ち上がり身をかわそうとしたが遅かった。全裸の彼は絹江の前に立ちはだかった。そして身を沈めた彼の顔が目の前にあると思った瞬間、突き出された拳で彼女は腹を殴られた。殴られて床に転がった絹江をさらに数度足蹴にして、金本は言った。
「心配せんでもええ。顔は傷つけていないよってにな。しばらくは息をするのも不自由するやろうが、言い訳を考える時間は十分にある。絹江さん、あんたの度胸をわしは嫌いではない。しかし世の中は、女の浅知恵で事は運ばんのや。それだけは肝に銘じときや」

5−2
   
 九月になって大月村の田は黄金色に染まった。その上をアキアカネが飛び交う。村営住宅から役場までの細い畦道を絹江が自転車で走り抜けると、赤い塊が二つに分かれて道を開く。図書室から見下ろす桜の木の葉が色褪せて見えるのは、季節の変化のせいであって絹江の沈んだ心模様のせいではないだろう。
『大月村に村立図書館を作る会』のメンバーとその子どもたちも、二学期が始まって幼稚園や学校の行事に追われているようで姿を見せなくなった。北村圭介の顔も見ていない。高校生活最後の体育祭や文化祭といろいろあるのだろう。あの夏の日、絹江が文字通り体を張って企てたことがどういう結果をもたらすのか、知りたくてもその術が彼女にはなかった。噂として耳に入ってくるのをただ待つしかないのだ。
「絹江さん、あなたに伝えたいことがあります」
 久しぶりに図書室に顔を見せた藤崎村長はそう言った。絹江は閉室の準備に取り掛かっていた。戸の開閉以外に窓際に立つのは自分に戒めている。夕暮れ時の駐輪場に圭介の姿を求めることはもう諦めていた。そして未だに金本に殴られ足蹴にされた脇腹と背中が痛む。藤崎村長の入室に、絹江は整理していた貸出しカードからゆっくりと目を上げた。
「いいえ、もう帰り支度をしているところです。お話って、どんなことでしょう?」
 藤崎村長の声が明るく聞こえたのは、今にも切れそうな一本の細い糸のような願望のせいなのだろうか。
「圭介からあなたに伝言があります。『勉学のほうが忙しくなり、図書室の手伝いが出来なくなりました』とのことだ。このくらいのことなら、顔を見せて自分の口から言ってもよさそうなものだが」
 その言葉通りに申し訳なさそうな藤崎村長の口調だが、しかしやはりその裏に何かよい便りを隠していると絹江は思った。
「いいえ、お気遣いなく。勉強で忙しいという言葉は、私にとって何よりのいい知らせです。もしかすると、圭介くんの大学進学がよい方向に解決したということでしょうか。差しでがましい質問だとは思うのですが、私もずっと気になっていました」
 絹江からの誘い水に藤崎村長の顔がほころんだ。
「そうそう、そのことです。内輪の揉め事であなたにも心配をかけたようで、恥ずかしい話ではあるが。二学期初日にあの金本自らが学校に出かけて担任と話し合い、圭介の大学進学を決めたと聞きました。金本建設の経営も順調のようで、彼も選挙に打って出る前に家庭内の問題は片付けておこうと考えたのだろう。やっと許された進学だから、圭介なりの決意というものがあるようです」
 絹江は立ち上がろうとして止めた。喜びに大きく息を吸い込んでそして脇腹に走った痛みに思わず顔を歪めた。
「どうかしましたか?」
「先日、棚の上の物を取ろうとして、踏み台から足を踏み外して落ちてしまいました。あちこちぶつけてしまい、いまだに痛むのです。あっ、大学受験を話題にしている時に、外したとか落ちたとかは言っていけない言葉でした」
「それは、それは……。そういうことでしたら、遠慮なく休むといい」
「いいえ、心配して頂くほどのことでもありません」
 喜んでいいのか悲しむことなのか、笑ったほうがいいのかそれとも泣いたほうがいいのか、彼女自身にもわからない。嘘に嘘を重ねる良心の疾しさを金本は絹江に背負わせた。それは自分を罠にかけた女への彼なりの計算された腹癒せでもある。
 金本に殴られ足蹴にされて負った怪我のことを、M市から帰って来たその夜に、踏み台から足を踏み外したと辰雄に言う訳にはいかなかった。いみじくも金本は「言い訳を考える時間は充分にある」と言った。それで「久しぶりにヒールの高い靴を履いたら、M市の陸橋の階段で足がもつれて。大月村で一年も暮らすと、お洒落も出来ない体になってしまったのかと、ショックだったわ」と、無理な笑顔さえ装って言った。疑うことを知らない辰雄は病院に行くことを勧めた。絹江は「病院に行くと、M市に本を買い戻しに行ったことが、たちまち知れ渡ってしまうわ。大丈夫よ、ただの打ち身だから、市販の湿布薬でそのうちに治るわ」と答えた。
 図書室で絹江が体を庇うようにして歩いていると、誰彼が心配して訊いてくる。そのたびに彼女はその状況に合わせた嘘をつき続けた。芳野和子にもやはり踏み台から足を踏み外したと答えた。和子を安心させ納得させるためにまことしやかに嘘を重ねる。
「押入れの奥に仕舞っていた箱を取り出そうとして……」
「まあ、絹ちゃん。もしかしたらその落ち着いた性格は見かけ倒しで、本当は意外にもそそっかしいのね」
 そう答えながらも、大切な友人を気遣う和子の眼差しが突き刺さるようで、絹江は目を逸らした。体も汚れたが心はもっと汚れた。だがこの体と心の痛みと引き換えに、自分のもっとも欲しい物を手に入れようとしていると思うことで、絹江は耐えることが出来た。そのうちにこの痛みが和らぎ青痣も薄くなる頃には、待ち望んでいたよい便りを聞くことが出来るだろう。その日が来たら、これからの大月村での生活の中で、辰雄と和子にはどんな些細な嘘も決してつかない、そう心に決めていた。そして今日、その良い便りを藤崎村長から聞くことができたのだ。
 しかし、物事はそんなに都合よく単純には運ばない。金本勇造の最後のセリフ「世の中は、女の浅知恵でことは運ばん。それだけは肝に銘じときや」の意味の持つ本当の怖さを知ったのは、それからしばらくしてのことだ。
 大月役場に出勤していつものように図書室に入ろうとすると、ドアの向こうから人の声がする。本を盗まれるという事件が起きても、藤崎村長は部屋に鍵をかけることを拒んでいた。女たちの声が賑やかに響いている。今日は『大月村に村立図書館を作る会』の委員たちが集まっての、久しぶりの会合があるのだった。明るく挨拶しながら図書室に入ろうと絹江がドアノブに手をかけた時、聞き慣れているはずの芳野和子の声が、押し殺した怒りで別人のそれのように聞こえてきた。
「そんな根も葉もない話を聞く耳は持っていないからね」
「でも、火のない所に煙は立たないっていうじゃないの」
 平田タマミの声もする。タマミの噂好きには気をつけるようにと和子に言われていた。タマミは人を持ち上げて話を聞きだすのが上手い。そうして知ったことを、今度は捻じ曲げた話に仕立て上げることを得意とする金本節子に伝える。その金本節子の声もした。
「よりもよって、勇造さんと圭介ちゃんの親子二人を手玉にとったなんて……。でも、絹江さんだったらそんなことだってしそうよ」
「金本議員のほうは時々そういう噂のある人だけど、圭介ちゃんはまだ高校生でしょう」
「圭介ちゃんが絹江さんにペンダントをプレゼントしたそうよ。そしてそれを絹江さんがいつも身につけているんだって」
 タマミと節子の話の中に、再び和子の声が割り込んだ。
「それがどうしたっていうの? ただの修学旅行のお土産でしょう。いったい誰がそんな性質の悪い噂話を振り撒き始めたの?」名前を上げれば、その誰かの家に押しかけて行きその人物を捕えて詰問しそうな剣幕だ。「あなた達がそんな根拠のない噂話を面白可笑しく言い広めるつもりなら、私は『大月村に村立図書館を作る会』から降りるからね」
 部屋に沈黙が戻ったのを確かめて、絹江は手をかけたままだったドアノブを回した。平田タマミと金本節子の好奇に満ちた視線よりも、たぶん聞こえてしまったに違いないと心配する和子の眼差しのほうが辛かった。その和子の目の色に、後先も考えずに突っ走ってしまったことで傷ついたのは自分だけではないことに絹江は気づいた。
 男である金本勇造にとって男女の醜聞は噂である限り、『男の勲章』とばかりに笑っておれば済むことだ。あの日の出来事を彼自身には害の及ばない話に脚色し直してあちこちにばら撒いておけば、それに尾鰭胸鰭がついて大月村を自由に泳ぎまわることだろう。絹江が沈黙を貫くしかないことは彼が一番よく知っている。圭介の耳にも入っているに違いない。少年が聞くには耐えがたい表現で、金本は絹江をおとしめてあの時の屈辱を晴らしたことだろう。そう考えて、何よりもそれを恐れている自分に気づいた。圭介の心の傷を思い、そして夫の辰雄のことを思う。いずれは夫も知ることとなるだろう。その時には絹江は『ケイスケ』と共に大月村を去るしかない。たった一年の大月村での生活で得た物が大きかったぶん、失う物もまた余りにも大きい。

5−3
   
 秋も深まり、絹江の住む村営住宅の裏庭の家庭菜園では、夏野菜がその実をもぎ取るのも哀れに思えるほどに小さくそして固くなっていた。金本に殴られた痛みもあって、久しく菜園の手入れをしていない。しかしこの家を去る前までにはきれいにしておきたいと思う。夜が更け始めると、その菜園でコオロギが長く細くその音を奏でる。
 来年の秋にはもうこの家で虫の音を聞くこともないだろうと思いながら、絹江は大月村を去ることをどのように辰雄に切りだそうかと考えていた。醜聞はすでに彼の耳に入っているはずだ。辰雄も絹江からの言葉を待っているに違いない。いやその前に詫びるのが先だ。あの日から眠れない夜が続いている。この夜も何度目かの寝返りを打つと、隣で寝ていたと思っていた辰雄が口を開いた。
「眠れないのか?」
「ごめんなさい。起こしてしまったようで……」
 そう言いながら、絹江はこの一か月抱え込んでいた問題を切り出すのは今だと思った。しかし何から話せばよいのだろう。しばしの沈黙の後、辰雄が言った。
「起きているのだったら、これから言うことを、黙って聞いて欲しい。しかし一度しか言わない。そして返事もいらない。ただ聞いてくれるだけでいい。絹江、何があっても心配することなく、大月村にいて欲しい。誰が何と言おうとここはあんたの家だ」
言い終わると、夜の深い闇の中で辰雄は絹江に背を向けた。

6−1
   
 体調が優れなかった藤崎繁治は四期目の村長選には出馬しなかった。それと同時に彼の私設図書室も閉鎖された。そこでの絹江の仕事は藤崎村長の最後の任期とほぼ同じ四年続いたことになる。圭介が大月村を離れた後も、彼女は大月村役場二階の狭い部屋で古い本に囲まれて過ごした。毎年春になると、駐輪場の桜の老木が満開になる姿を窓から見下ろして、彼女は一人で楽しんだ。
圭介が懐かしくないと言えばそれは嘘になる。真夜中に胸を掻きむしり叫びたいほどの衝動にかられて目が覚めたものだ。金本勇造と自分の間に本当は何があったのか、明日の朝一番のU市駅行きのバスに飛び乗って彼に真実を告げに行こう。そう考えながら明け方までまんじりともせず、辰雄の寝息を窺いながら過ごした夜が何度もあった。しかし絹江は大月村に踏み留まった。彼女を踏み留まらせた理由は、安住の地を約束してくれた辰雄への申し訳なさでもあったし、どこまでも信じて庇ってくれた芳野和子の友情も大きかった。
 金本勇造は噂通りに県会議員選挙に打って出て当選し、それを境にそれまでは頻繁だった大月村役場への出入りもなくなった。選挙カーの窓から身を乗り出して声を枯らして手を振る姿しか見かけなくなった。道端に絹江を見かけると彼は車を降りて駆け寄ってきて、包むように彼女の手を握り「今回もよろしく頼むで。ご主人にもそう伝えとってなあ」と言う。言葉の最後のほうで握手をすべき次の選挙民を探して目が泳いでいる。彼にとって絹江は一度関係を持った女でしかなかった。三十年経った今思い出す金本の顔といえば悠然と微笑むポスターの中のそれだ。そして彼も八十歳となり昨年ついに鬼籍に入った。
 藤崎繁治は妻と共に大月村を引き払い、東京で医師をしている長男の家でその余生を過ごした。彼は村立図書館建設の道筋をつけてから村長職を退いた。村民ホールと図書館を併せ持った建物が建ったのは、藤崎村長が大月村を出て数年後のことだった。父親から引き継いだ藤崎の夢は叶えられ、芳野和子の『大月村に村立図書館を作る会』は解散し、通信教育で司書の資格を得た絹江は再び図書館での仕事に就いた。絹江と本の関わりはその後の彼女の生活の糧となりそして生き甲斐となった。図書館の正面に据えられた石碑の字は藤崎村長の手になるものだ。出勤してその石碑を眺めると、北村圭介のいないこの村でも心豊かな日々が送れるという思いにおおいに慰められた。
 その頃に大月川ダム建設工事も具体化して、大月村は変貌した。高度成長の波がついに大月村にも到達して、やっと村はその長い眠りから覚めたと絹江には見えたものだ。村民ホールと図書館が建つと、次々と古い建物は壊されて小さいながらも鉄筋コンクリートのビルに建て直された。
 大正時代の趣のままに朽ちかけていた村役場は茶色のタイル張りの三階建てとなった。同時に役場の裏にあった駐輪場は広げられて駐車場となった。そしてあの桜の老木は邪魔だという理由で切り倒された。駐車場という利便性の追求のためなら、その花で目を楽しませその木陰で涼を感じさえてくれる老木を排除することに、誰もためらわない時代になっていた。無残に切り倒されたから思うのでもないが、あのように心に沁みる花を咲かせる桜の木とは、その後、絹江は出会っていない。
 浅井辰雄と絹江が新婚生活をスタートさせた村営住宅も取り壊された。二軒続きの長屋、薪で沸かす共同風呂、節穴から陽が射す雨戸、ささやかな家庭菜園、そして板塀。時間が止まったかのように思えたその場所だったが、たった数日ですべてが壊されそして跡形もなくなった。その跡地に建ったのは、これもまた四角い箱のようなコンクリートの新しい村営アパートだった。工事を請け負ったのは金本建設だった。北村圭介と絹江を繋いでいた懐かしい光景は、すべて金本建設の重機によって破壊され、新しい時代に相応しい顔に変貌した。しかし辰雄と絹江は建て直された村営アパートには住まなかった。古い村営住宅の取り壊しと同時に一軒屋を構えそこを退去した。小さな家だったが、帰省する子どもを迎える必要もない夫婦二人暮らしには不自由はない。二人の日々の生活の場所と、二つの位牌と『けいすけ』の魂が宿る仏壇を飾る場所があればそれで充分だ。
 絹江がいつまでも『けいすけ』が忘れられないように、辰雄の心の中には焼死した妻と子どもが居続けている。三十年前、絹江の継母が誰彼構わずに配り廻った見合い写真の中に、彼は心の中まで立ち入らない女だと見てとったに違いない。夫としての辰雄の優しさには、今も昔も文句のつけようもない。金本勇造と妻の醜聞は彼も耳にしていたはずだ。しかし彼はあの夜に言ったように、その後一度も妻に真実を問いただすこともなく、責める言葉も皮肉もその口からは出なかった。何事も失うのは簡単でしかし取り戻すのは難しく、そしてまたそのことで負った心の痛みを癒すのには気の遠くなるような時間がかかると、彼ほど諦観した男も珍しいだろう。
 北村圭介が通っていた高校の学生服を着た子ども達を見かけることがある。学生鞄を荷台に括り付けた自転車を走らせている彼らの姿を見つけると、その中に圭介の面影を求めて目で追っていた。しかしそうやって圭介を思い出していたのも、指を折って数えるのも億劫なほど遠い昔のこととなった。三十年前の絹江が六十五歳になった自分を想像出来なかったように、すべては歳月という坩堝の中で溶け合いそして元の姿を失くした。しかし忘れてしまった訳ではない。思い出せなくなっていただけだ。

6−2
   
 三十年昔の夏に辰雄に連れられて長旅の果てに汽車を降りたU市駅は、今はその姿を変えている。当時は素朴な城下町にふさわしい木造平屋建ての小さな駅舎だった。初めてU市に降り立ったあの日、大月村に行くにはこれからまだバスに揺られるのだと辰雄に教えられて、ずいぶんと遠くに来たものだと不安に足が重くなった。駅舎を出ると正面に小高い城山が見えた。背の低い建物ばかりが広がる鄙びた城下町だ。口には出せない不安がその町並みに救われるような気がした。
現在の駅舎は白い壁をした二階建てだ。駅舎がその背を高くしたぶん、U市全体の建物もより空に近くなった。今では駅舎から城山は見えない。円形ロータリーの中心には花壇がある。勢いの衰えたベゴニアの花の色にまだ夏が残っていた。ロータリーでは乗客待ちのタクシーが何台も鼻を突っ込むような形で駐車している。絹江を乗せたバスはそれらの車の間を縫うようにしてロータリーを半周して、最終停留所に止まった。
絹江は駅前の公衆電話ボックスに入り芳野和子の自宅に電話をかけた。ガラス張りの狭いボックスに入り西日を背中に受けると、バスの中では忘れていた汗が噴いた。電話での長話を好まず勧められても携帯電話を持とうとも思わなかった絹江だが、それでも指は和子の家の電話番号を覚えている。一度押した番号だったが慌てて受話器を置いた。市外局番をつけるのを忘れていた。もう一度ゆっくりとボタンを押す。数度の呼び出しで「芳野です」と名乗る和子の声がした。
「和ちゃん、私だけど」
「まあ。怪我は大丈夫?」
 開口一番にそう言われて、絹江は今朝『栄養学級』で切った指のことを思い出した。知りあって三十年の間、和子はずっと絹江のかけがえのない友達であり続けてくれた。果たして自分は彼女の友情に見合う人間だったのだろうかと絹江は思った。
「いま、U市にいるのだけど」
「あら、私に内緒で出かけるなんてずるいわ。誘ってくれたらよかったのに」
「そろそろ、お姑さんがデイケアから帰って来る時間でしょう」
 絹江にそう言われて和子も口ごもる。九十歳の彼女の姑はデイケアから帰って来る頃だろうし、同居している長男夫婦の子どもたちも小学校から帰って来る時間だ。ばたばたと家事に追われていることだろう。受話器を持たない濡れた片手をあの派手なエプロンで拭う姿が見えるようだった。
「そうね、今日は無理だったわ。でも言ってくれないなんて、水臭いじゃないの」
「秋柄の服が欲しいって、急に思い立ったものだから。どうして我慢できなくて。あんまり急に思いついたものだから、辰雄さんにいろいろ聞かれるのも面倒だなって思って、和ちゃんと連れだって買い物に行くって言ってしまって」
「まあ、絹ちゃんったら」
 バスに乗る前に辰雄相手についた嘘が、今度は和子に対して淀みなく口をついて出てくる。和子も何かがおかしいと気づいたのだろう、言葉が途中で切れた。嘘に嘘を重ねる申し訳なさで絹江も早口になる。
「申し訳ないのだけれど、口裏を合わせてくれない。ほんとにごめんなさいね」
「わかった。もし聞かれることがあったら、そういうことにしておくから」
 三十年前に金本勇造と絹江の醜聞が大月村に広まったとき、和子は最後まで絹江を信じて味方をしてくれた。絹江を大月村に引き止めたのは辰雄の夫としての愛と和子の友情だったと思う。絹江を信じようとするあまりに、和子は時折りその大きくて丸い目の色を曇らすことがあった。今の和子の目の色もあの時と同じように曇ったことだろう。
 初秋の午後三時前の陽射しはすでに西のビルの屋根の上に傾いていた。ロータリーの半分がすでに日影の中にある。公衆電話ボックスを出てその日影に足を踏み入れたと同時に目の前が暗くなった。軽い眩暈に襲われた。三十年の月日をたった半日で遡るのは、彼女の体に思った以上の負担をかけていたのだ。
 ゆっくりと足を運んで駅舎に入る。そして奥まった場所に正面入り口に向かって置かれているベンチを見つけて腰をかける。固い木のベンチには薄い座布団が敷かれていて、それが疲れた腰に優しいのがありがたい。猫背になった体をベンチに沈め人待ち顔に座っていると、里帰りの子ども夫婦を迎えに来ている老女に、他人の目には見えるのだろうと絹江は思った。しかし正面入り口から吐き出されまた吸い込まれていく人の流れを見ていると、自分がどのように見えているかなどと考えるのはそれはいらぬ心配だと気づく。鞄を下げた学生、幼い子どもの手を引いて時刻表を見上げる若い女、スーツを着込んだ男は出張帰りか。平日の昼下がりのU市駅は思いのほか混雑していたが、誰も彼女に注意を向けるものはいなかった。
 改札口の上に掛けられている丸い大時計を見上げる。そろそろ十五時発の急行に乗るという北村圭介がその姿を現してもよい時刻だ。絹江の右手が胸元の琥珀のペンダントに触れた。バスの中でも気づけば無意識にペンダントに触れていた。琥珀色をした冷たい小さな石は指に触れるとすぐに人肌の温かさになる。一億年の時間に触れていると人の一生など短いと思えた。石を弄ぶ手に心臓の鼓動も伝わってくる。そのうちにこの鼓動も止まるのだと思えば、三十年前の出来事もいま一目圭介を見たいと思う気持ちも、すべて許されるような気がした。

(了)