犬地図



   
  裏庭に繋いでいる飼い犬のケンタが吠えている。それで高山秀子は目が覚めた。眠っていたのかどうか自分でもわからないような浅い眠りだった。目が覚めたから眠っていたのだろうと、彼女は思う。
 この数日、ケンタは真夜中の同じ時刻に吠える。彼のテリトリーを侵したものへの、激しい怒りが炸裂したような吠え方だ。ケンタが短い鎖に繋がれた身の上であることを、裏庭の侵入者は知っているのだ。それはいま、のうのうと犬の鼻先を横切っているに違いない。ケンタの吠え声は、締めつける首輪のために、悲鳴のようになってきた。
 犬好きではない秀子だが、それでもケンタを3年飼っていると、その吠え声で裏庭で何が起きているのか、おおよその見当はついた。裏庭への侵入者は猫だ。春まだ浅いこの時期に恋の季節を迎えて、裏庭の塀の上が、ご近所の猫のデートコースになっているのだ。
 ケンタはまだ吠えている。こんな真夜中では、さぞかしご近所迷惑なことだろうと、布団の中で秀子は思う。明日の朝もまた出会う人ごとに、挨拶と共に一言詫びなければならないと思うと、腹立たしい。
 だから犬を飼うことにはあれほど反対したのに、舌打ちしたくなる思いで、秀子は寝返りを打った。寝室に満ちている冷気が、持ち上がった掛け布団の足元から滑り込む。靴下を二重に重ね履きした足を、彼女はますます縮こまらせた。
 その独り寝の寝室は、人の気配で暖まることはない。夫は二階の自室で寝ている。1つ屋根の下の1階と2階を分け合った形の家庭内別居となって、もう何年になるのだろう。
 夫の煩い鼾や寝具に染みついた体臭を、気にせずともよくなったのは嬉しい。しかし妻として女として、60歳に近いといえども、独り寝に一抹の寂しさを感じる時はある。特に今夜のように冷え込む夜に目覚めてしまうと。
「おお、寒い」、誰に言うでもなく、彼女は声に出してみた。しかし、閉じた目だけは開けたくなかった。目を開けると、見たくない何かを見てしまいそうだった。
「この闇の中で、何を?」と、不安が頭をもたげてくる。
 意地になってケンタの吠え声を無視して目を固く閉じていると、現実の闇となんら変わりのない心の闇が見えてきた。
 その闇にノート1ページを破った白い紙が、仄かに明るく浮かんで見える。そしてその上で、孫の佑太の懐かしい文字が躍っていた。右に左に大きくはみ出た幼く拙い平仮名ばかりの文字。
 その1つ1つは確かに文字だが、全体を見れば、意味不明な記号が並んでいるようにしか見えない。

『    せいやくしょ
 けんたをかうにあたっては、
 おばあちゃんには、ぜったいにめいわくをかけません
                         たかやまゆうた』

 3年前、当時4歳の佑太にこれを書かせるのに、半日がつぶれた。それでも犬が飼える喜びに、佑太は座卓を前に正座して、祖母に従ったのだ。
 当時は長男の信彦たち一家と同居していた。犬の吠え声で目覚め、そして押し潰されるような不安に目を開けられない今と違って、この家の中にも、暖かい人の気配と子どもの声が満ちていた時もあったのだ。
 住宅メーカーでインテリアデザイナーとして働く嫁の智美が、妊娠後も仕事を辞めようとはせず、大きなお腹を突き出して、アパートの階段を上り下りしている姿を、秀子は見かねた。それでこの家を二世帯住宅に改築しての同居を提案したのは、彼女だった。
 信彦と智美はためらいながらも、同居の話に乗ってきた。共稼ぎとはいえ、月々の家賃の支払いは重かったようだし、出産後も仕事を続けたいと考えている智美は、子守りをしてくれる祖父母の手助けを必要としていた。
 しかし意外にも、まっさきに同居に反対したのは、夫の康雄だった。
「おまえの性格で、嫁姑の関係を、うまくやれるはずがない」
 どう言っても口では負けると分かっているので、普段の康雄は妻に対して、はっきりとものを言わない。その康雄がこの時ばかりは、いつものように語尾を曖昧にすることなく、そう言った。
 それは里帰りして顔を合わせればすぐに口喧嘩になる、秀子と彼女の80歳になる実母との仲を、皮肉ったものだったのか。
 それとも仲たがいしたまま10年にもなる、秀子と長女の紗江子との仲を遠回しに言ったものか。大学を中退してまで好きな男のもとに走り、今では3人の子どもの母親になっている紗江子と、その行状をふしだらと決めつけた秀子とは、今でもお互いに顔を合わせることを避けている。
 確かに康雄の言う通りに、実の母とも長女の紗江子とも上手くいっていないが、だからと言って嫁と不仲になって当たり前と、同居もしていない前から言い放つ夫に、秀子は無性に腹が立った。
 康雄の母親は早くに亡くなっていたので、彼女は嫁姑の苦労は知らずにいた。母と紗江子の場合は、遠慮のない身内だからお互いに言葉が過ぎて、仲が拗れたのだ。嫁姑の関係は他人同士だから、案外上手くやっていけるのではないか。
 他人に対して言ってよいことと悪いことの区別がつかないほど、自分は愚かではないと思う。その証拠に、ご近所付き合いも上手くやっているほうだし、通っているカルチャーセンターの『万葉集を読み解く講座』と『アートフラワー教室』、そして『スイミングクラブ』の友人達とも仲良く交際していると思う。
 いや、無理解な夫や頼りがいのない子ども達よりも、友人達との間柄のほうがずっと親密だと、この頃では思う。友人達はいつも、家庭的に恵まれない秀子を気遣い慰めてくれる。時にはもったいないとさえ思える、褒め言葉と励ましの言葉を与えてもくれる。
 これから迎える幸せな老後というものは、面倒ばかりかけてくる家族がいる家庭よりも、友達に囲まれた外の世界にあるのではないだろうか。退職金と年金を夫を半分ずつに分けあって熟年離婚し、老後は老人ホームに入居し、友人達と遊んで暮らすのもいいと、最近の秀子は本気で考えるようになった。
 あの時、長男夫婦との同居を康雄に反対されて、秀子はなお意地になった。
 2階の元々ある2部屋に小さなキッチンを付け足すという工事にあたって、工務店との交渉もお金の工面もすべて、彼女1人でやった。康雄には改築・同居に関して、いっさい関わらせたくなかった。
 カルチャーセンターに行くたびに、友人達を相手に、夫の無理解を嘆き、女1人で引き受けた改築工事の諸々の大変さを嘆く。すると必ず友人達は、康雄の夫としての有り得ない態度を責め、それでも家族のために頑張っている秀子を褒めそやしてくれた。
 その友人達の言葉だけが、彼女の励みだった。
 しかし工事も終わって同居も始まって、佑太も生まれると、康雄は自分が言った言葉を忘れたかのように、孫の顔を見たさに職場からいそいそと帰宅するようになった。


  
 犬を飼いたいと言い出したのは、佑太だった。
 佑太は幼稚園に通い始めていた。誰それちゃんの家には大きくて賢い犬がいて、誰それちゃんは家の中で小さくて可愛い犬を飼っている。その犬がこんなことをしてあんなことをしてと、幼稚園から帰って来て、制服を着替えさせてやっている間、佑太は喋り続ける。
 幼稚園の友達から、飼い犬の話を聞かされるだけの身であることが、4歳であっても悔しくてたまらないのだろう。喋り続ける尖らせた小さな口が可愛らしい。
 しかし可愛い孫のためとはいえ、犬を飼うことはこの家では不可能だ。佑太の両親である信彦もその嫁の智美も働いている。そのために同居してからは、佑太の面倒は秀子が見てきた。出産後は智美の勤務形態もパートになって、佑太の世話や家事のすべてが秀子の肩にのしかかっている訳ではないが、それでもこの上に、犬の世話まで押し付けられてはたまらない。
 康雄は40年努めてきた市役所の定年退職を数年後に控えていたが、若い時から家の中では、縦の物を横にすることさえ面倒がる男だった。彼が朝夕に犬の散歩をするようにはどうしても思えない。それに何よりも、子どもの時に野犬に噛まれてから、秀子は犬が怖かった。
 この1年、高山家では、誰もが佑太の子どもらしい願いを笑いながら聞き流してきた。そのはずだった。
 あの日、職場から帰って来た康雄が、着替えもそこそこに、いつものように佑太を膝の上に乗せると言ったのだ。
「おお、佑太はそんなに犬を飼いたいのか。そんなら、祖父ちゃんが許可してやろう」
「きょかって?」
「犬を飼ってもいいということだ」
 台所で夕餉の支度をしていた秀子にも、夫のその言葉は聞こえていた。
……また、夫が安請け合いをして、自分だけ、いい顔をしようとしている……、怒りで、彼女の目の前が暗くなった。
 お玉杓子を握りしめたまま居間に飛び込んで、夫と佑太の前に立った。血相を変えた婆さんが、髪の毛を逆立てて仁王立ちになっていると、自分でもわかっていたが、このくらいしないと夫には通じないのだ。
「何をいいだすんですか。佑ちゃんが欲しいと言っているのは、おもちゃの縫い包みの犬ではないんですよ。生きている犬なんですよ。物を食べて、煩く吠える口がついた、生きている犬なんです。それをいったい誰が世話をするんですか」
 しかしいつもそうであるように、康雄は妻の言葉を無視した。膝の上に乗せた佑太を揺すりながら、彼は言った。
「佑太。今度の日曜日に、じいちゃんとペットショップに行ってみるか。じいちゃんは柴犬がいいと思う。いま流行りの洋犬は、番犬にはならんからなあ」
「じいちゃん、柴犬って、賢いの?」
「おお、佑太のように賢いぞ。それに飼い主の恩を忘れんところが、何よりもいい」
 佑太の耳にも祖母の抗議の声は届いていないようだった。喜びと尊敬に幼い顔を上気させて、祖父を見上げている。
 佑太の幼稚園の送り迎えからおやつの心配まで、秀子は出来る限りのことはしてきたつもりだ。カルチャーセンターでの楽しみを夫のために取り止めたことはないが、佑太のためになら何度も犠牲にしてきた。こうして佑太も2階から母親が呼び戻しにこないかぎり、まるで我が家の子どものように遊んでいるではないか。
 しかしそこまで尽くしていながら、今のように祖父を見上げる喜びに溢れた眼差しで、秀子は佑太に見つめられたことがあっただろうか。波風立たせたくないから口にしないと決めていたが、信彦と智美から、佑太の世話への感謝の言葉も聞いたことがないと思う。
「あなたも信彦も智美さんも、昼間は仕事で家にはいないでしょう。いったい誰が犬の世話をするのですか。佑太だってすぐに飽きるのに決まっています。私は犬を飼うのには絶対に反対です。絶対に……」
 だが康雄は次の日曜日に佑太とともにペットショップに出かけ、まるで品物を買うように、柴犬の子を1匹買ってきた。そして子犬は佑太の弟になるのだからと言って、ケンタという名前までつけたのだ。
 裏庭に犬小屋まで置かれてしまえば、もう賛成だの反対だのとも秀子も言ってはおられない。
「ケンタなんていう名前の犬よりも、健太という名前の佑太の弟のほうが、よっぽど我が家には必要よ。もう佑太は4歳なんだし。智美さんも仕事が楽しそうなことは、けっこうなことだとは思うけれど、1人っ子になる佑太のことを考えたことがあるのかしら」
 そのくらいの皮肉を言うしかできなかった。そして秀子には、普段は優柔不断なくせに、言いだすと後には引かない頑固な康雄に従ってきた、35年の日々がある。
 そう諦めて、それならと佑太に書かせた誓約書だった。
犬が近所迷惑に煩く吠えれば、昼間家にい彼女が世話をせざるを得ないのだ。しかしいつの間にか、夫も信彦も嫁の智美も、それが秀子の当たり前の仕事と思うようになり、感謝の言葉も忘れてしまうのに決まっている。
 自分の陰日向のない苦労があってこそ、高山家の日々が平穏無事に過ぎていることを、時には家族にも家族にも思い出してもらい、そのことに対する感謝の言葉も欲しいと思う。それには佑太に誓約書を書かせ、彼らにその存在を知らしめるのが一番だ。
 しかしその半日の成果を、パートから戻ってきた智美は露骨に嫌な顔をして一瞥して、その智美に言いなりの信彦は、困惑の表情を浮かべて何も言わなかった。そしてこともあろうか、夫の康雄はそれを読むなり、何も言わず引き裂いたのだ。
 あの日のことを思い出すたびに、家族から受けたいわれのない仕打ちの悔しさに、秀子は身の震える思いがする。


   
 ケンタは、まだ吠えている。このご近所迷惑な吠え声を、嫁の智美に聞かせたいと思う。
 同居を始めるにあたって、「主婦としてはいたらない身ですので、お義母さんには、いろいろと教えてもらいたいと思っています」と、殊勝なことを言った智美だった。しかし、出産・育児とさんざんに秀子を利用しておきながら、同居を解消してこの家を出て行く時に、彼女は偉そうにも言ったのだ。
「佑太に書かせた誓約書を、お義母さんから見せられた時から、もう一緒には暮らせないと思いました」
 そう言って、信彦達はアパートに越して行った。
 後足で砂をかけるとは、こういうことを言うのだろうと、信彦達が改築した2階から出てアパートに移った時、秀子は思ったものだ。そのうえにアパートでは規則で犬は飼えないので、ケンタはこの家に残していくというではないか。
 それで当然ながら、ケンタの世話のすべては、あの誓約書を引き破った夫に任せることにした。
 家の中では、縦の物を横にもしない、そして35年間、仕事を言い訳に家庭内の面倒なことはすべて、「おまえに任せている」の一言で逃げてきた。そんな康雄のことだから、孫が可愛くて飼い始めた犬であっても、きっとすぐに音をあげることだろう。「すまなかった。やはり、ケンタの世話はおまえに頼む」と、かれは謝ってくるに違いない。
 その時には、今まで腹の中に溜まりに溜まっている、あれこれを吐き出そうと思っていた。きっと康雄は、「おまえには、今までいろいろと苦労をかけてきたが、許して欲しい。おれのこれからの人生には、おまえが必要だ」と、畳に頭を擦りつけんばかりにして言うだろう。
 その日が来るのを、今日か明日かと秀子は待ち続けた。
……意地を張っても、1か月持てばいいところだろう。その時には、あの破った誓約書に始まって、私が結婚以来どんなに我慢し続けたか、言ってやらねばならない。土下座されても気が済まないくらいだが、夫がきちんと謝れば、私だって、情のない女ではないのだから、ケンタの世話くらいしてもいい……
 しかし、秀子の予想は外れて、康雄は1か月経っても、朝夕の散歩を含めたケンタの世話に音をあげなかった。時間が経つほどに、彼は楽しそうにこなしているようにさえ見える。
 そして休日になると、アパートに越した信彦が佑太を車に乗せてやってきた。近くの河川敷で、佑太とケンタを遊ばせるためだ。智美の冷淡な態度は相変わらずだが、さすがに信彦にはケンタを置いて出て行ったことに、少しは申し訳ないと思う気持ちがあるようだ。
 康雄はケンタと共に、信彦と佑太の待つ車にいそいそと乗り込む。そしてボールやフリスビーをしっかり握った佑太の横に座り、見送りに出た秀子の鼻先で、車のドアをバタンと閉めた。さすがに「母さんも、来る?」と、運転席の窓から顔を突き出して、信彦は訊いてくる。
 しかし、後部座席に佑太と並んで座った康雄は、「犬嫌いの婆さんが付いて来た所で、面白いことなんかあるものか?」と、吐き捨てるように言う。そんなことが何回か続いたら、そう言われる前から、「犬一匹に、いい歳をした爺さんがはしゃいで、みっともないこと」と、秀子も負け惜しみを言うしかなかった。
 あの日も、売り言葉に買い言葉でそう言ったら、祖母の言葉に佑太が泣き顔で抗議してきた。
「ケンタは、犬一匹じゃないよ。ケンタは家族の一員なんだ」
 小学校に上がったばかりのこどもが、『家族の一員』などという難しい言葉を知っている訳がない。「お祖母ちゃんが、いつものあの言葉を言ったら、こう言い返せ」と、純真無垢な佑太に教えたに違いない。腸が煮え繰り返るような悔しさに、可愛い孫の前でなければ我を忘れるところだった。
 ケンタはまだ吠えている。徘徊を終えた猫が戻って来たのだろうか。
 秀子はもう1度、寝返りを打った。目を開ける勇気はないが、耳は澄ます。2階で寝ている康雄に、なぜ起きる気配はないのか。そして自分は暗闇の中で何を見ることを恐れて、目を閉じているのだろう。同時にその2つの答えに気づき、彼女は「あっ」と声を上げた。
 信彦達が出て行った生活には慣れたが、3か月前に康雄が逝ってしまった生活にはまだ慣れていない。
 定年退職を目の前に控えた昨年末、康雄はクモ膜下出血であっけなくこの世から去って行ったのだ。たった一言の『ありがとう』という言葉を、35年も連れ添った妻に残すことなく、彼は死んでしまったのだ。
 以前、夫の無理解な態度を秀子が嘆くと、カルチャーセンターの友人達は口々に、「どんな理不尽な夫でも、病に倒れた最期のベッドの上で、妻の手を握りしめ、『ありがとう』の言葉を残して死んでいくものよ」と、慰めてくれた。
「夫婦とはそういうものだ」と、友人達の言葉に秀子は慰められたものだ。そして最期の日を迎えてベッドに横たわる夫が、どういうふうに自分の手を握るのだろうか、どういう声で『ありがとう』と言うのだろうかと、その瞬間を想像することで、彼女は彼との面白くも楽しくもない日々を過ごすのに耐えてきた。それなのに、最期までなんと夫は自分勝手な男だったのだろうと思う。
 しかし康雄が死んでしまったからといって、さすがの秀子もケンタの処分は実行しかねた。
「お寂しいでしょうけれど、ケンタくんがいるだけでも、慰められますわね」
 散歩中に近所の人達と出くわすと、必ずそう声をかけられる。自分は哀れな未亡人だということを思い出させてくれるケンタは、康雄の形見だった。
……そうだ、明日の朝、信彦の会社に電話をしよう……
 どうしようもなく孤独がつのる日には、秀子はケンタを口実に、信彦の会社に電話をかけた。薄情な娘の紗江子と嫁の智美は、独り暮らしの秀子を案じる気もないのか、電話の一本もくれない。しかし頼りないと思っていた信彦だけは、なぜか優しかった。



   
 高山秀子は、30代半ばから50歳までを、近所のスーパーでレジ係として働いた。出世とは無縁だった康雄の給料では、月々の家のローンに加えて、子ども達の教育費を捻出するには、家計に無理があったからだ。しかし彼女が50歳を過ぎた時、お金に追われる日々も、康雄の退職金で清算すればなんとかなると目途がついた。
 そこで彼女は、スーパーでの仕事をあっさりと辞めた。
 無理解な康雄と頼りない信彦と勝気な紗江子のことを考えると、自分の老後の幸せは自分で築き、自分で守るしかないと考えたからだ。それには夢中になれる趣味と、たくさんの友人(それも付き合っていることを自慢したくなるような教養に溢れた立派な友人)が、必要だ。
 あくせくと微々たる金銭を稼ぐことよりも、健康でボケない老後を迎えるための準備のほうが、ずっと大切なことだと彼女は思った。しかし、モデルとしたいような理想の老後を送っている老人が、彼女の身近には1人もいない。そうであれば自分で探すしかない。
 康雄の母は、40年掛け続けた年金の支給を1度も受け取ることなく、59歳の夏に癌で逝ってしまった。遠く離れた田舎に住む義父は、康雄の兄夫婦に面倒を見てもらっている。農家で未だに田畑に出ている義父の老後は、その元気さは見習いたいと思うものの、町中でサラリーマンの妻として老後を迎える秀子のモデルとはならなかった。
 父はすでに死んでしまって、秀子の実母の克枝は弟夫婦と度居している。弟が建てた、小さな台所とトイレのついた6畳の隠居部屋で、克枝は一日中、テレビを見て過ごしていた。
 康雄の母と比べれば、幸せな老後としか思えないが、そんな克枝の口をついて出てくる言葉は、体の不調と弟夫婦への不平と不満ばかりだ。そして最後には「長生きをしても、つまらない。ああ、死にたい」と、決まって言うのだった。
 克枝は几帳面な性格をしていたので、秀子がいつ訪ねて行っても、部屋はきれいに片づけられていた。
 テレビを真正面に見据える場所に、小さな座卓が置かれている。座卓の上には、数本の鉛筆とボールペンが載った革製のペン皿と、弟嫁が買ってくれたという健康雑誌が数冊。これが物差しで測ったように角を揃えて、並べられていた。ペン皿は秀子の高校の修学旅行の土産物だ。角がめくれ色も褪せたペン皿を見るたびに、「なんと物持ちのよい人」だと、自分の母親ながらいつも感心してしまう。
 若い時から他人に対しては律義なところのあった克枝は、手紙をもらえば、すぐその日に返事を書いていた。秀子が修学旅行の土産にペン皿を選んだのは、そういう理由があったからだ。
 しかしこの何年かは、克枝が手紙を書いているところを、いや、読んでいるところも見たことがない。もう、手紙を遣り取りする友人もいないのだろうと思う。
 健康雑誌も、何年も昔のものだ。それが埃もかぶららず新しいままであるのは、屈折した老人の心の内を覗き見する想いがする。「この歳まで生きて、これ以上、長生きしたいとは思わないよ。健康で長生きしたって、誰が喜ぶものかね」と、克枝は忌々しそうに言う。その言葉には、大学生の子どもを2人抱えて自分達の暮らしに追われ、姑の世話にまで気が配れない嫁への当て擦りが含まれていた。
 しかし、年寄りに「長生きしたくない」と聞かされた者が、どういう言葉を返してくると、克枝は期待しているのだろう。「そうね、早く、あの世からお迎えが来ればいいわね」とでも答えようものなら、その後、克枝をなだめるのは大変だ。
 克枝は1日の大半を、座卓を前にした同じ場所に座り、テレビを観て過ごした。そのうちに彼女が座り続けている座布団に穴が開き、その下の畳が腐って、床が抜けるのではないかと思われた。
 秀子が訪れても、克枝はその場所から動こうとはしない。そして目はテレビを見据えたまま、口だけが何百回と聞かされた昔話と、弟夫婦の悪口を捲し立てるのに忙しい。しかし「その話は、もう聞いた」とでも口を挟めば、火がついたように怒り出す。それでも暇を告げる頃には、秀子もなんとか言いたいことが言える。
「趣味を持ちなさいよ。時間を忘れるほどに夢中になれるものを持たないから、人の嫌なところばかりが目について、口に出てしまう。人間ってね、手を動かしていると、口は自然と閉まるものなんだから」
「目もかすんで、手も震える年寄りに、喋る以外に、いまさら何が出来るものかね」
「お友達とどこかに出かけたら? 家の中でテレビばかり見ていたら、愚痴も溜まるわ」
「こんな体で出かけたら、人様に迷惑をかけるだけなんだよ」
「誘ってくれる友達なんて、本当は、1人もいないんでしょう」
 売り言葉に買い言葉で、そう言ってしまった。縮緬皺のよった克枝の顔に血が上って、真っ赤になった。それを見て、秀子も口が滑ったと思ったが、もう遅い。
 夫に早く先立たれて、克枝は子ども達を女で一つで気丈夫に育てあげた。趣味など持つ余裕はなかっただろうということは、秀子が一番よく知っている。またその働きづめの忙しい日々の中で、几帳面で融通の利かない克枝の性格では、心を許し合った友人を持ち続けるのは難しかったと、容易に想像が出来た。
 しかし、本当のことを言ったまでだと、秀子は開き直る。それで怒るとしたら、それは克枝が悪いのだ。
「あんたみたいに、人としての優しさの欠けらも持たない子を、私は産んだ覚えはない。あんたの顔なんか見たくもない。もう2度と来るんじゃない」
 そう言い返しながら、怒りでぶるぶると震える克枝の口元を見ていて、秀子は気づいた。趣味も持たず友人もいない老後は、生きながら地獄で暮らしているのと同じだ。これから30年は続くであろう自分の老後を考えて、恐怖に足が竦んだ。几帳面さ、空回りする他人への律義さ、そして家族との絶えることのない軋轢、秀子の気性はまったく母親似だったからだ。
「母のようにはなりたくない。母のような老後は絶対に嫌だ。そのためには、心を豊かにする趣味と、たくさんの友人を持つことだ」
 そう決めると、秀子の行動は速かった。スーパーを退職したその足で、地元新聞社が主催するカルチャーセンターの『万葉集を読み解く講座』に、申し込みに行った。
「さて、理想の老後のために趣味を持つと言っても、まずは何をしよか」と考えて、今は遠い昔の学生時代に、本を読むのが好きだったことを思いだした。50歳で短歌を学び始めて、有名な歌人になることは、いくらなんでも有り得ない。しかしその気になれば、これからの30年間で、歌集の一冊くらいは出すことが出来そうに思える。
 だが、それはまだまだ先のことだ。足腰が弱って気儘な外出が出来なくなる日のためにとっておこう。
 まずは、教養豊かな立派な友人たちをたくさん持つことだ。克枝の愚痴が始まったら、「私は、お母さんとは違うのよ」と、自慢したくなるような友人達を。それには、『万葉集を読み解く講座』は、もっとも相応しいように思えた。


   
 隔週木曜日の『万葉集を読み解く講座』は、元高校の国語教師だった講師の話を、2時間ほどテキストに添って拝聴する。宿題もなく、突然質問をぶつけられて答えに窮するということもないのはありがたい。だからずっと続いている。
 そして、講座の終わったあとは、必ず喫茶店に立ち寄り、受講生仲間とお茶になる。カルチャセンターに通えて、その後もお茶を飲みながらお喋りが楽しめるということは、受講生の全員が秀子と同じ50歳から70歳代の専業主婦、そして半数は未亡人という立場だ。
 喫茶店の明るい窓際に、テーブルと椅子を寄せて、7〜8人分の席を作る。メニューを回し、「お先にどぞ」「いえ、あなたからどうぞ」と、お互いに気遣い合いながら飲み物の注文をする。きっと周囲からは、楽しそうでいて上品な中年女性の集まりと見られていることだろう。その中の1人であることが、秀子には嬉しい。
 注文した飲み物がテーブルの上に並び、講座の感想に話の花が咲き、30分も過ぎた頃、「いやあ、熟年女性のパワーには敵いません。話も弾んでいることだし、私はここで失礼させてもらいましょう」と、この席では唯一の男性である講師が席を立つ。
「あら、先生。もうお帰りになられますの」
「先生のお話、面白くて、ためになりますのに」
「もう少し、お話をお伺いしたいですわ」
 女たちは口々にそう言って、講師を引きとめようとするが、それは社交辞令に過ぎない。講師が帰ってから、『女達による女達のための講座』が始まる。
 秀子にとって今や『万葉集を読み解く講座』よりも、このお茶会での友人達との会話のほうが、数倍も大切になっていた。家族のこと、主婦の目から見た社会情勢のこと、そして秀子が一番関心のある老後について、今まで誰からも教えて貰えなかったことを、彼女達からたくさん教えてもらった。
 大学教授の夫を持つ山内鈴子は、講座とお茶会の席で、常にリーダー格だ。中村好美の夫は商社に勤めていたということで、ヨーロッパでの駐在経験がすぐに話題になる。実家が老舗の和菓子店という太田邦子は、いつも素敵な和服を着こなしていた。芳野多恵の夫は銀行の役員であるらしい。
 そんな彼女達からお誘いがあれば、秀子はコンサートや美術館や講演会に出かけるようにしている。彼女達との小旅行も楽しんだ。「ボケないためには、体を鍛える必要もある」と、山内鈴子に言われて、スイミングにも通い始め、「頭を使うだけではなく、手を動かす趣味も大切」と、芳野多恵に言われれば、アートフラワー教室にも通うようになった。
 秀子は望み通りに、趣味とたくさんの友人を得ることができた。次回の講座や教室の打ち合わせなどで、友人からの電話のない日はない。丁寧語と謙譲語を混ぜ合わせた言葉遣いも、初めは何度も舌を噛んだが、今ではなんとか使いこなすことが出来る。今や友人の数を数えるのに、両手でなく両足の指も必要だ。
 立派な肩書のない夫を持ち、生活のためにスーパーで立ち仕事も経験してきた秀子が、彼女達と対等に付き合えるということは、奇跡にも近い。克枝のような老後だけは嫌だと思う、石にもしがみつく一念だった。
 すべて人並み以上の努力の結果だと思う。理想の老後の暮らしのための、自分の努力とその成果に、秀子の鼻が少しばかり高くなっても、それは当然だろう。
「あなたにも、私くらいの向上心と意欲があれば、職場でもう少しは出世できたでしょうに と、夫の康雄に時々言ってやる。初めの頃は康雄も、「男の一生の仕事と、婆さんの遊びを一緒にするな」と、答えていた。
 しかし『婆さん』と言われて、秀子が黙って引き下がる訳がない。
 友人達に比べて自分の人生がこんなにつまらないものになったのは、仲人口に乗せられて、康雄と結婚してしまったせいだと思う。そう思うと、秀子の返す言葉は十倍に膨らむ。
 そのちに秀子が友人達の話を始めると、康雄は返事もしなくなった。今では、聞こえているのかどうかもわからない。
 お茶会で仕入れた老後の家のリフォームについて、康雄に相談を持ちかけたが、彼からは「おまえの気の済むようにしたいい」の一言しか返ってこなかった。
「これからの切実な問題なのに、他人事みたいに言って。あなたがボケても寝たっきりになっても、私は知りませんからね。智美さんがあなたに優しいのは、今はあなたが元気だからってこと、本当にわかっているんですか」
 嫁の智美の名前が秀子の口から出た途端に、康雄は露骨に嫌な顔をした。しかし彼は喉元まで出かかっている言葉を飲み込むと、「もう、寝る」と言い立ちあがった。
 そんな夫の顔を見ながら、次回の講座のあとのお茶会では、このことを友人達に話そうと思う。彼女達が康雄の非を口々に責め、それでも妻として耐えている秀子を気の毒がってくれるのが、目に見えるようだ。
 最近では、秀子が『熟年離婚』の話題を持ち出すと、お茶も冷め話題も出尽くして退屈になり始めた席に、突然、活気が満ちてくるように思える。あまりにも立派な友人達の間で、いつも脇に控えているしかなかった秀子が、この話題では主役になれるのだ。
 康雄の退職と同時に、退職金と年金を半々に分け合って離婚をする。理想の老後に備えて趣味と友人を手に入れた後は、『熟年離婚』しかないと、彼女は考えるようになっていた。


   
 康雄との結婚生活35年の間に、秀子はじわりじわりと体重を20キロ近くも増やした。
 結婚前の彼女は痩せていて、色が黒かった。見合いの席でそんな秀子を見て、「まるでゴボウのようだ。女らしさを感じない」と康雄は言い、仲人に断りを入れた。見合いの席で、目の前の女に融通の利かない性格を読みとったのだろう。優柔不断な自分の性格では、制御しきれない女の気の強さを、薄々感じたのかもしれない。
 彼はそのことを「外見に女らしさを感じない」と言う言葉で、間に立った仲人に婉曲に伝える方法を選んだ。
 しかし、そんな若い男の躊躇いは、「結婚したら、見かけなんて気にならなくなる。あんたのような大人しい男には、しっかりした嫁さんが必要だ」という、仲人の強い勧めに引っ込めるしかなかった。
 話も纏まって、結婚式を控えた日に、秀子は母の克枝から自分の結婚についての経由を聞かされた。今だったら、そういう話を娘の耳に入れても、結婚式は滞りなく行われるだろという、克枝の抜かりない計算だ。
 それは、家族の誰かに幸せが訪れて、そのたびに自分だけが置いてきぼりになるのではないかと不安を感じる時に、何か1つその幸せにケチをつけたいと思う、克枝の生まれながらの性分だ。そしてそれは秀子にも引き継がれている。
「どこの夫婦の慣れ染めも、そんなものよ。公務員の康雄さんには長生きしてもろて、一生安泰に養のうてもろたらいい」
 克枝はそう言った。
 しかしその日から、康雄の自分への評価である「女らしくない」という言葉は、秀子の頭の隅に巣くってしまった。「痩せたい、痩せたい」と口にはしてきたが、じわじわと太り続ける自分に甘くいられたのは、あの時の母親の言葉のせいだ。
 太った秀子とは対照的に、康雄は35年間、同じ体型を保っていた。
 その歳月で2度ほど、彼はズボンのウエストがきつくなったと騒いだことがある。しかし体重計に乗せても、その数字にさほどの変化はない。体の筋肉が少しずつ溶けて脂肪となり、腹周りについたのだろう だが、数年で服がきつくなって着られなくなる秀子と違い、康雄の筋肉の無くなった皮膚の弛みは、服の下に隠せた。遠目から見る彼の体型に変化はない。
 康雄は若い時と同じ体型を維持していたが、頭髪も禿げてはいなかった。ごわごわした若白髪に悩まされた頭は、歳を取るほどに、真っ白なカツラを被ったようになっていた。
 夫の体型が若い時と変わらない、そのことまでもが、秀子には腹立たしい。それはこの35年の間少しも変わらなかった、彼の妻への無関心・無神経にも繋がっているように思える。
 信彦達が出て行った後、康雄は孫の佑太を恋しがり、「自分は、これまでなんのために働いてきたのか」とまで言った。秀子が同居を提案した時、なんと言って反対したのか彼はもう覚えていないというのか。その上に、増改築の工事中、我関せずの態度を撮り続けたではないか。
 定年退職の日が近い康雄はほとんど残業をすることがなくなっていたが、信彦達が出て行った後、急に残業を言い訳に帰宅が遅くなる日が増えている。「夕食は外で済ませて来た」と言う日も日もある。
 きっと信彦のマンションに立ち寄って、佑太を膝の上に乗せ、智美の手作りの夕食を食べているに違いないと、秀子は想像した。自分だけを除け者にしたこのような屈辱的な日々がいつまでも続くのであれば、康雄に熟年離婚を言い渡す日を、彼の退職の日まで待つ必要もないだろう。
 『万葉集を読み解く講座』の後のお茶会の席で、いつものように夫の理不尽で思いやりの欠けらもない態度をこぼすと、友人達は「35年間、ご主人に仕えて我慢されてきたのだから、退職金と年金を半分もらって、新しい人生を踏み出すのはよいことよ。離婚調停でも、長年の慰謝料として住んでいる家と土地も、きっと秀子さんのものになるわ。ご家族のために苦労された秀子さんだからこそ、老後を楽しく暮らす権利があるのよ」と、口々に言ってくれた。
 山内鈴子のように夫の職業で尊敬されることもなく、中村好美のように人の興味を惹くような海外生活の経験もなく、また太田邦子の和服やいつも高そうなスーツを着こなしている芳野多恵のようにも、どう足掻いても秀子はなれそうになかった。
 しかし今日もお茶会の席では、そんな友人達を差し置いて秀子が話題の中心だ。立派な友人達が自分の勇気ある決断に賛同し、そのうえに彼女達は内心では自由を手に入れようとしている秀子を羨ましがっていろようにさえも思われる。
 その高揚感を引きずったまま、『万葉集を読み解く講座』の帰り道に、秀子は夫の働く役所の窓口に寄った。そして離婚届の用紙を1枚手に入れた。家に帰って、気の変わらぬうちに署名捺印し、夕食も終えた時間に康雄にその用紙を突き付けた。
「あとは、あなたが名前を書いて判子を押したらいいだけですからね。あなたのように妻に無理解な態度を取り続けることは、充分な離婚の原因として認められているって、私の教養豊かな立派なお友達も、みんなそう言ってくれているんですから」
 いつもは妻と向き合うことを避けていた康雄が、その時ばかりは珍しく怒りの感情を露わにした。
「おまえには、家族と仲良く暮らすよりも、友人の言葉のほうがそんなに大事なのか」
「私がこんなに自分を犠牲にして、家族のために尽くしても、あなたも信彦達も紗江子もまるでそれが当然みたいな顔をして、感謝の言葉の1つもない。私の友人達はちょっと物を取ってあげただけで、ありがとうって何度も言うわよ」
「他人のその場限りの感謝の言葉と、1つ屋根の下に住んで暮らす家族の思いを、おまえは区別出来ないのか。おまえがいつも言っている立派だという友人達は、他人の家庭の諍いを面白がって、退屈しのぎに焚きつけているだけだ。そんなこともわからないほど、おまえは馬鹿なのか」
 離婚届の用紙を握りしめた康雄の手が、怒りで震えていた。
 突然の妻からの離婚要求に、夫は困惑して言葉を失うだろうと思っていたので、秀子は彼の剥き出しの怒りに内心戸惑った。「離婚を考えるほどに、おまえは思い詰めていたのか。夫として申し訳ない」と言われても、馬鹿呼ばわりされるとは考えてもいなかった。
……夫の勤め先に行ったのは、さすがにまずかったかも知れない。窓口に座っていた職員が、私が高山康雄の妻だと気づいて、言い触らされることを恐れているのか。私が真剣に離婚を考えていることよりも、同僚の口さがない噂の種になることのほうが、夫にはきっと耐えられないのだ……
 そう思って秀子がひるんだのも一瞬で、康雄が口火を切れば、言い返したいことはその百倍いや千倍だってある。この35年間に溜まりに溜まった夫への不満は、山より高く海より深い。突き付けた離婚届は、この35年間の妻への理不尽な行為を反省してもらうきっかけなのだ。
 康雄の出方次第では、自分だって今更本心で離婚したい訳ではない。そんなことは、康雄の言うところの、一つ屋根の下に長く暮らしてきた夫婦なら、わかって当然だ。
 しかし、あれも言おうこれも言わなければと身構えた妻を見て、康雄は急に怒りが萎えたようだった。怒りで膨れあがったその体が、風船の空気が抜けるように萎んだ。握りしめた紙切れに目を落として立ちあがると、彼は言った。
「今夜から、俺は信彦達が使っていた2階の部屋で寝る。おまえが信彦達を追い出したおかげで、どうせ空き部屋なんだから」
 そう言って、彼はくるりと背中を見せた。
「私が信彦達を追い出したとは、どういう意味ですか? 今までにあなたが私の言い分を聞いてくれたことがありますか? また、夫婦の話し合いから、そうやってあなたは逃げるのでしょう。あなたはこの35年間いつもそうやって逃げてばかり。どうして世間の夫婦のように、夫婦らしい会話をしようとしないのですか?」
 彼女は2階の階段を上って行く夫の背中に向かって、喚くしかなかった。
「あなたが2階を寝室にするのは勝手ですけれど、私は部屋の掃除はいっさいしませんからね」
 あの夜から高山家では、夫は2階で妻は1階で寝起きするという、家庭内別居の生活が始まった。おかげで秀子は夫の煩い鼾と、部屋に籠る康雄の老人臭から、解放された。
 そしてこの歳になれば、夜の夫婦生活も滅多にない。思い出したような男の欲望に、秀子はお義理で付き合っているだけだ。しかし、それをあの夜にこともあろか、康雄の方から拒絶したのだ。「幾つになっても、男とは浅ましい生きものだ」と思いながらも、「まだまだ、自分は、夫に女として必要とされているのだ」という思いは満更でもなかったのだと、その後しばらくして彼女は気がついた。



   
 まだ幼かった信彦と紗江子を連れてデパートに出かけると、男の子でありながら大人しくて臆病な所のあった信彦は、母親の秀子と繋いだ手を、自分からは決して離そうとはしなかった。買って欲しい玩具があっても、彼は遠慮がちにねだる。
 そんな兄に似ることもなく、紗江子は秀子の手を自分から振りほどくと、興味をひいた売り場めがけて突進した。
「迷子になったら、どうするの?」
 という母親の言葉に、なぜそんなことを訊くのかと、不思議そうな顔をして紗江子は答えた。
「デパートの服を着ているお姉ちゃんの顔をじっと見ていたら、『迷子さん?』って言ってくれる。それで、そのお姉ちゃんが、お母さんを探してくれる」
 迷子の子どもに、どうして、親の方が捜し出さなければならないのか。しかし秀子は腹が立つ前に、紗江子のその幼い理屈に感心してしまい、悪びれることなくそう言ってのける娘に、頼もしさすら覚えた。
 夫に見合いの席で『ゴボウ』と言われた母親に似ず、紗江子は色白で可愛らしい顔立ちをしていた。連れて歩いていると、「可愛らしいお嬢ちゃんですね」と、声をかけられる。
 自分の恵まれた容姿を、紗江子はわがままに利用していた。欲しい物があると、それを手に入れるまで、ひっくり返って泣き喚く。しかし、手のかからない信彦よりも、秀子はそんな紗江子のほうが可愛い。
 小学校に通うようになると、友達に苛められた信彦は、めそめそ泣きながら家に帰って来るようになった。泣いている信彦を見ていると、可哀想だと思う前に、秀子は苛立ってくる。優しく抱き締める代わりに、「叩かれたのだったら、叩き返しておやり」と、泣き止まない信彦を外に追い出したこともある。
 そんな泣き虫信彦に、人生への夢や希望はあったのだろか。夫の康雄がそういうものを語らなかったように、彼も顔を輝かせて母親に語ることはなかった。彼は良いことでも悪いことでも目立つことなく18歳になり、地元の二流私立大学に進学した。長男としての自覚を口煩く説いた訳でもないのに、そのまま地元に残り、二流の印刷会社に就職して今はそこの営業マンだ。
『万葉集を読み解く講座』や『アートフラワー教室』や『スイミングクラブ』で、友人達から信彦の勤め先をそれとなく聞かれるたびに、肩身の狭い思いを味わってきた。友人達の御子息は、医者であったり建築家であったりした。サラリーマンであっても、その会社の名前はテレビのCMで流れている。
 高校の同窓会での再会がきっかけとなって、智美と付き合い始めたと信彦から聞かされた時も、実社会の落ちこぼれ同士が同窓会で再会してくっついたように、秀子には思われたものだ。
 そんな兄に似ることなく、友達にでも先生にでも気にいらないことを言われようものなら、紗江子には倍にして言い返す気の強さがあった。そんな紗江子に苛められたと噂が立って、菓子折りを手にご近所の子どもの家にまで謝りに行ったこともある。しかし秀子にはその気の強さが頼もしい。
 母の克枝と仲人口に騙されて高山康雄と結婚したところから、自分の不幸は始まったと、秀子は信じている。自分の行きたい学校に行って、遣り甲斐のある仕事に就いて、夫となる男も自分で選んでいたら、今のように家族の世話だけに明け暮れるつまらない主婦などになっていなかったと思う。
 だからこそ母親として、紗江子には自分のような人生は送らせたくなかった。
 そんな秀子の願いが、紗江子にも伝わっていたのだろう。将来に夢も希望も抱いていないようにしか見えない信彦と違って、紗江子は教師になりたいという明確な夢を持っていた。そして紗江子が受験勉強に励みだした頃から、秀子は娘の夢に自分の夢を重ねるようになった。
 信彦と違って他県の国立大学を目指している紗江子は、卒業後には教員資格を取得して、生まれ育ったこの町に戻ってくるだろう。紗江子なら教職を天職とするに違いない。そして数年後には、きっと、同僚と職場結婚することだろう。2人の間に子どもが生まれたら、彼女は惜しみなく手伝ってやるつもりでいた。
 それで、紗江子の大学の合格発表を聞いた時は、まるで自分がその大学を受験したかのように嬉しかった。信彦は夫の康雄に似たが、紗江子は自分に似たのだ。


   
 紗江子が大学に通い始めて2年目の夏、「アルバイトが忙しい」という理由で帰って来なかった。いっしょに受験戦争を闘った母親がどんなに娘の帰省を楽しみにしているか、そして自分は行くことの叶わなかった大学のキャンパスでのあれこれの話を聞くことを、どんなに楽しみにしているか、彼女にはわからないのだろうか。
 連絡することなく、秀子のほうから、紗江子の住むアパートを訪ねた。事前に連絡をしなかったのは、紗江子を驚かせたかったからというのもある。電話口の向こうから聞こえてくるかも知れない、不機嫌な声を、恐れたのかも知れない。しかし突然であれ、母親の来訪を喜ばない娘がいる訳がない。
 紗江子の顔を見れば言いたい小言もあるにはあるが、それは早々に切り上げようと思う。母子2人でどこに出かけようか、何を買ってやろうか。その前に、勉強とアルバイトに追われた日々を過ごしているはずだから、腕を奮って美味しいものを作って食べさせてやらなくては…。
 夜行バスで、紗江子の通う大学のある街に着き、始発の市内電車に揺られて学生アパートの前に立ち、紗江子はドアチャイムを鳴らした。足元に置いた旅行バッグの中には、エプロンと食材と調味料まで入っている。バッグははち切れんばかりに膨らんで、その重さに腕も抜けそうだったが、それももうすぐ喜びとなるはずだった。
 狭い廊下に、アルミ製のドアが同じ顔をして並んでいた。
 その1つのドアチャイムを何度も鳴らしたが、目の前のドアは開かない。それで秀子はバッグから取り出した合鍵を使った。しかしドアは開いたが、内側からチェーンが掛っている。「まだ寝ているのだろう」と思いながら、視線を狭い玄関に落とすと、見覚えのある紗江子の履物の横に、男物の大きな靴が並んでいた。
 夏の朝日が彼女の背中を炙り、どっと汗が噴き出した。
「紗江子、いるんでしょう?」
 芽生えた不安を打ち消すように、彼女は今度はドアを叩いた。
 寝呆けた顔の紗江子が、下着も見えそうなTシャツ1枚の姿で現れた。母親の突然の来訪への驚愕を、それでもなんとか怒りの表情の中へ塗り込めようとしているのが、狭いドアの隙間からでも見てとれる。
「朝から、煩くドアを叩かないでよ。近所迷惑だということが、お母さんにはわからないの?」
「それが、久しぶりに会う母親に言う言葉なの?」
「連絡もせず、突然、どうして来たりするのよ?」
「なぜって、親子でしょう。それよりも親に突然来られて、何か不都合でもあるの?」
「私には私の生活があるの」
 問い詰められて、紗江子は意味のわからない返事をする。
 その時、アパートの狭い玄関での、母子の声高な言い合いに、いつまでも隠れてはいられないと覚悟をした男が、紗江子の後ろにその姿を現した。こちらは紗江子と違って、すでに着替えている。後で知ったことだが、男は紗江子のアルバイト先の飲食店経営者の息子だった。
 紗江子が後ろを振り返って言った。
「たっちゃんには関係のないことよ。これは、私とお母さんの問題なんだから」
「じゃあ、俺は遠慮させてもらうよ」
 男は靴を履くと、車の鍵をじゃらつかせながら秀子の横をすり抜けた。紗江子が慌ててその後を追って行く。男の背中に追いすがるような紗江子の声が、アパートの廊下に響く。
「たっちゃん、後で電話するから。絶対に電話するから。たっちゃん、こんなことになってごめんね、ごめんね」
 男をちゃん付けで呼ぶ紗江子の声には、あからさまな媚が含まれていた。男勝りだとばかり思っていた娘の女の部分を見せつけられて、秀子は吐き気を覚えた。
 男と紗江子が出て行った部屋に、倒れこむようにして入った。TDKの部屋では、嫌でも寝乱れたままのベッドが目に入る。男と女の狎れ合った匂いがそこから立ち上っていた。
 窓に飛びついて、乱暴にカーテンを開け、ガラス戸を引いた。朝だというのに、むっとするような熱気が入ってきたが、それでもこの部屋に籠っている淫らな空気よりましだと思える。
 サンダルを引きずる音がして、紗江子が戻ってきた。
「挨拶も出来ない男なんて」
 背中を見せたままで秀子がそう言うと、紗江子は泣きそうな声で言い返してきた。
「お母さんはいつも人の話を聞かずに、喚くだけなんだから」
「私がいつ、喚いたと言うのよ。盛りがついた犬じゃないでしょうに。こんな狭いアパートに男を引き込んで」
『ふしだら』という言葉を使えば、すべて解決すると秀子は思った。親からの仕送りがないと生活出来ない学生の身で、学生の1人住まいを前提としたこんな狭いアパートで、親にも紹介していない男を引きずり込むなんて、『ふしだら』以外の何物でもない。
 しかしなぜか、秀子が紗江子のためを思って、『ふしだら』という言葉を使うほどに、娘の心は母親から離れて頑なになっていく。もう母子連れだって買い物という気分にもなれず、秀子はその夜のバスに乗って家に戻った。
 その後の、娘の将来を心配する彼女の電話は、着信拒否された。それで毎日のように『ふしだら』という言葉を連ねた手紙を書いた。返事は1度も来なかった。もう1度訪ねた時は、アパートの部屋に入れてもらえず、追い返された。
 ストレスから秀子が寝込んで、それまで傍観していた康雄がやっと重い腰をあげた。
 康雄は紗江子をどう言って説得したのか。母親の看病ということで、休学届を出した紗江子が戻って来た。半年の冷却期間があれば、男との間は切れるはずだった。しかし復学した翌年に、性懲りもなく紗江子はその男の子どもを孕み、教師になりたい夢など元々からなかったかのように、大学を中退する。
 向こうの親のたっての希望で、お腹の膨らみが目立ち始めた紗江子にウエディングドレスを着せて、結婚式をあげた。
「私は、この結婚には、絶対に反対ですから」
「今更、そんなことを言っても、どうしようもないじゃないか」
「私は、もう、何もしません。あなたと紗江子で勝手に、結婚式でもなんでもしたらいいんです」
「わかった。おまえは何もしなくていいから、その代わりに、口も一切出すな」
 男の家との細かな打ち合わせは、すべて康雄がした。秀子は自分の着る留め袖の心配だけをして、式と披露宴の間、ただ黙って座っていた。男の家が商売をしているせいか、招待客の多い派手な結婚式だった。それまでもが秀子を苛立たせた。
 下腹部の膨らみが目立ち始めた紗江子のウエディングドレス姿は、母親の目から見ても、狸の仮装のように見えた。花嫁の妊娠を知らされていないらしい隣のテーブルの招待客が、「ここのホテルの着付けは、上手じゃないわね」と言っている。秀子は恥ずかしさのあまり穴に入りたかった。横に座っている康雄を盗み見したら、そんな囁きは耳に入っていないようで、花嫁の父らしく涙を拭っていた。
 甘やかして育てた紗江子に商売人の家の嫁が務まる訳がない、そのうちに子連れで戻ってくるだろうと、さすがに口には出さなかったが、秀子はそう信じていた。しかし紗江子は次々と生まれた3人の子ども達の母親となり、家業の手伝いの為に店に立つこともあるらしい。
 自分を抜きにして結婚式が滞りなく終わるのも予想外だったが、その後の妊娠出産も紗江子は男の実家に頼り、この家には戻って来ようとしなかった。
「大切に育てた恩を仇で返したのだから、あちらで面倒をみてもらって、当然」とは思ってみたものの、釈然としない秀子の気分が晴れることはない。
 秀子も子ども達を出産した時は、里帰りして、母の克枝の手を借りたものだ。その間も毎日、些細なことでの口喧嘩は絶えなかったが、「あんたも人の子の親になって、やっと親の苦労とその有難さがわかったやろう。これで親の老後は知らんなんて言うたら、罰が当たるに決まっとる」、最後にはいつも克枝からそう言われた。そう言われれば、いくら勝気な秀子でも返す言葉はない。今度は彼女が紗江子に同じセリフを言うはずだった。
 しかし、紗江子は、盆にも正月にも帰って来なかった。秀子も今更、孫の顔を見せに帰って来いとも言えない。
 ふしだらな行いに対する詫びを入れさせてからでなければ、娘達一家に、この家の敷居を跨がせる訳にはいかないのだ。苦労をかけその上に恥を掻かせた親に、夫婦揃ってきちんと手をついて、「ご迷惑をおかけしました」と詫びるのが、人の道だ。この家で、彼女だけが、人としての行いの正しい道を教えようとしているのだ。
 秀子の考えている正しい行いというものは、きっといつかは、愚かな康雄や紗江子にも通じるはずだと思った。自分が産んで育てた娘を憎む母親がどこにいるだろうか。そしてその孫達が可愛くない訳がない。
 しかし何事にも甘くけじめをつけようとしない康雄は、妻の意見に耳を傾けようとはしなかった。それどころか、出張のたびに足を延ばし、娘の嫁ぎ先に立ち寄っているようだ。 
 あの日、押入れの中に仕舞いこんでいるあれこれを引っ張り出して、陰干しした。その中に、康雄が使う黒い旅行用のバッグもあった。
 縁側に立ち、バッグのファスナーを全開にして、中の埃を払うためにバタバタと振った。旅行先で買い物をしたらしい丸めたレシートや、ふわふわした糸屑が、庭に舞うように落ちて行く。それが面白くて乱暴に振り続けていたら、厚紙で出来たバッグの底板が外れた。
 その底板と共に、折り畳んだ白い紙が、これは舞うことなく秀子の足元にストンと落ちて来た。まさかバッグの底板の下まで妻が見ることになるとは、康雄も考えなかったのだろう。
 白い紙は4つ切り画用紙で、それを広げると、クレヨンで乱雑に人の顔が書かれていた。線描きの丸い顔が異様に大きく、首と胴体はなく、その顔の下から直接に手足が生えている。幼い子どもが描いた絵だ。『おじいちゃん』と、顔の上に書いてある。左下隅には、『みなみ』とあった。紗江子の長女の名前だ。
 ライオンの縦髪のように、白いクレヨンで髪の毛が描き足されていたので、絵のモデルは康雄だとすぐにわかった。
 その絵を引き破りたい衝動をかろうじて抑えられたのは、今までの自分の言動に誤りはないと、その時も信じていられたからだ。


   
 康雄の葬儀に、紗江子達一家も帰って来た。
 喪主として葬儀の段取りに忙しい信彦や嫁の智美より、この突然の不幸を慰め合うには、やはり母親にとっては実の娘以上のものはない。しかし紗江子は人目も憚らず泣きじゃくるばかりで、久しぶりの母子の会話もままならなかった。
 そんな紗江子とやっと親子らしい会話が出来ると思えたのは、現実に起きていることとは思えないような葬儀もなんとか終えた、3日後の朝だった。遅い朝食を済ませ、紗江子の夫は3人の子どもを連れて、近くの公園に行っている。
 秀子と紗江子は台所の流しに向かって立っていた。娘が汚れた皿を洗い、母がそれを布巾で清めていく。母と娘の10年ぶりの2人きりの時間だ。
 夫を亡くした後の慌ただしさも悲しさも、津波のようにどっと押し寄せて、そして引いていった。これからはそういうものが小さな波となって、数えきれないほどに押し寄せて来るのだろう。そしてその波はどんな寂寥を運んで来るというのか。そんな思いを娘に話すなら、今しかない。
 拭き終えた客用の皿を重ねながら、秀子は言った。
「紗江ちゃん、お父さんの急な死には、あなたにも責任があるっていことくらいわかっているでしょうね。あなたの勝手な結婚に、お父さんも私もどんなに心を痛めたことか。これからはお盆とお正月に帰省して、お墓参りをするのは当たり前のことだけれども、お父さんの住んでいたこの家のことも、お母さんの立場も、少しは考えなさいね」
「責任って、それはどういうこと?」
 母子の滑らかな共同作業の手が止まった。
「えっ、どういうことって?」
「お父さんの死に、私も責任があるとか、ないとか?」
 予期しなかった紗江子の返事に秀子のほうが驚いた。こんな答えが返ってくるはずではなかった。「お母さん、今まで迷惑をかけて、ごめんなさい」、そういう言葉を耳にするはずだった。
「どうしてわからないの? あんなふしだらで恥ずかしいことをして、お父さんにどんな心労をかけたのか。あなたの歳になれば、少し考えただけでもわかりそうなものを」
 自分の耳に自分の声が聞こえてくる。自分の声であって自分の声でないようだ。こんなことを言うはずではなかった。夫を亡くした妻と父を亡くした娘とは、この朝、長年の誤解もわだかまりも氷解して、手に手を取り合うはずだった。
「美波も大輝も美咲も……」
 紗江子は3人の孫達の名前を言った。秀子の混乱した頭では、紗江子の言おうとしていることが理解できない。
「いまさら、あなたに孫孫達の名前を教えてもらおうとは思っていません。この10年間、あなたはこの家に帰って来ようとはしなかったけれど、この私は可愛い孫達の名前を忘れた日なんて、1度もないのだから。あなた達と死んだお父さんが、私に隠れて、こそこそ会っていたと知った時だって」
「美波も大輝も美咲も、お父さんがいたから生まれてきたのよ。美波を妊娠しているとわかった時、お母さんは堕せって言ったでしょう。『ふしだら、ふしだら』って、自分の世間体ばかり気にして喚くだけで、私の幸せや生まれて来る子どものことなんか、考えようともしなかった。元気な孫を産んでくれただけで、紗江子は充分に親孝行をしてくれたと、お父さんは言ってくれたのよ」
「子どもを堕せと言ったのは、あんな状況では、どこの母親だって心配のあまりに言うことよ。今更、そんな10年も昔の話を持ち出して。お母さんはあなたと、これからのことを真剣に話し合いたいと思っているの」
「昔の話を持ち出したのは、お母さんのほうでしょう。でもお母さんがそう言うのなら、私もこれからのことを言わせてもらうわ。お母さん、おめでとう。憧れの未亡人にやっとなることが出来て」
「まあ、なんてことを言うの。私がいつ、未亡人に憧れたというの?」
「お父さんと離婚したいって、言っていたそうね。この家をもらって、退職金と年金を半分に分けるのだとかどうだとか、お友達とそんな計算ばかりしていたのでしょう。でもよかったわね、面倒なことはしなくてもよくなって。今では全部、お母さんのものよ。『家族なんて当てにならない、老後は趣味とたくさんの立派なお友達』というのが、お母さんの考えなのでしょう。お父さんが死んで、これでやっと理想の老後を手に入れた訳ね」
 夫と娘は隠れてこそこそ会っていただけではない。夫婦の間の話もしていたのか。離婚届けの用紙を突き付けたあの夜のことも、どういうふうに面白可笑しく脚色して康雄は紗江子に話したのだろう。
 秀子は洗って伏せていた、アルミ製の片手鍋の柄を握りしめていた。
「あなたに、35年も共に暮らしてきた、夫婦のことが分かるはずがない。この35年、私がどんな思いで過ごしてきたか、あなたに分かるはずがない」
 両手で頭を覆うようにして紗江子が流し台を背に蹲ったのと、秀子が片手鍋で紗江子の体を打ち据えたのと、どちらが早かったのか。秀子の時間が止まった。娘を鍋で殴っているという感覚は彼女にはなかった。
 紗江子の教師になりたいという夢に託した、自分の希望はどこに消えてしまったのだろう。康雄の反対を押し切ってまでして、家を改築して一緒に住んだ信彦夫婦だったのに、どうして出て行ってしまったのか。最近では、可愛い孫の顔を見ることすらままならない。
 そして夫の康雄は、「ありがとう」の一言もなく、さっさとあの世に旅立ってしまった。今、秀子が鍋で殴っているものは、娘の紗江子ではなく、彼女の頭に浮かんでは消えるそういった思いだった。
 古びていた鍋の取っ手が外れて、鍋が大きな音を立てて台所の床を転がっていく。その音で、秀子の頭の中で止まっていた時間が再び流れ始めた。紗江子の声が聞こえてきた。
「気の済むまで殴ったらいいわよ。これで親子の縁が切れるなら、私も言うことはないわ」
 その翌日、一言も口を利くことなく、紗江子達は帰って行った。そして今日まで電話の1本もない。



   
 信彦に綱を引かれて、ケンタガ散歩から戻って来た。荒くも規則正しい犬の息遣いが、秀子の立っている台所まで聞こえて来る 彼女は壁時計を見上げた。信彦とケンタは、30分近くも、散歩をしていたことになる。
温め直していた煮物の火を止めて、秀子はエプロンで手を拭きながら、勝手口から裏庭に出た。冷たい夜気に微かに春の匂いがする。ご近所の梅の花がほころび始めているのだろか。
 今夜初めて気づいた季節の移り変わりに、夫に先立たれたこの3か月、自分がいかに出口のない狭い世界に閉じ籠っていたかに気づかされた。ケンタの舌を打つ音と、首輪の金具と水入れの触れ合う音が、裏庭で響いていた。その犬に寄りそうように蹲っている信彦のシルエットが、家の窓から漏れる灯りに、ぼんやりと浮かんでいる。
 整髪料でも押え切れない若白髪の目立つ頭髪、肩から背中にかけての小柄で貧弱な体の線、信彦はますます生前の康雄に似て来たと思う。電話をかければ今夜のように家に来てくれて、ケンタを散歩に連れ出してくれる。そして母親の手料理を「うまい、うまい」と言いながら食べる。溜まっている愚痴も聞いてくれる。
 しかしそれだけだ。時間が来れば「また、来るよ」の一言を残して、智美と佑太の待つマンションに帰って行く。心優しいのか、優柔不断なのか計りしれない、そういう性格も父親似だ。
「ケンタ、すっかり満足して。やっぱりお婆ちゃんとののろのろ散歩では、物足りないのね」
「そんなことはないよな、ケンタ。美味しい物を、毎日、食べさせてもらっているんだろう?」
「お婆ちゃんの1人暮らしで、美味しい物なんか食べている訳がないでしょう」
「ケンタ、お婆ちゃんに感謝、感謝。感謝の気持ちがあるのなら、ワンと吠えてみろ」
 信彦との何気ない会話が身に沁みる。ほんの数か月前の彼女だったら、康雄に似てその息子の信彦も、なんと役にも立たない馬鹿話をする男だと思ったことだろう。人恋しさが募って、秀子は自分から会話を打ち切ることが出来ない。
「ねえ、ケンタを毎日散歩させていて気づいたのだけど、犬にも道がわかるのかしら。曲がり角では、私より先に決まった方向にケンタが曲がるのよ。最近はね、ケンタの行く通りについていったら、ご近所をぐるっと回って、ちゃんと家に帰って来るのだから。まるでケンタが主人で、綱に引かれた私が散歩させてもらっているみたい」
 なんとくだらない思いつきを口にしているのだろうとは思ったが、秀子は自分の言葉に自分で声をあげて笑った。信彦が後ろ姿を見せたままで言った。
「犬地図だよ」
「まあ、犬地図って」
「犬にも、犬独特の地図があるってことさ。人なら、あの店の角を曲がって、あの信号のある4つ角はまっすぐにとかで道を覚えるのだろうけれど、店とか信号に興味のない犬は、犬なりの道の覚え方があるんだろうっていう話だよ。それは匂いかも知れなし、人間なら気づくこともない道端の小さな目印なのかも知れない。それでもさ、結局、最後は人も犬も同じ道を歩いて同じ目的地の我が家に辿り着くのだから、考えれば面白い話だろう?」
「犬地図ねえ。ケンタの地図ってどんな物なのかしら? 見られるものなら見てみたいものだわねえ」
 秀子の言葉に今度は信彦が笑った。
「俺さ、この頃思うのだけど、人もそれぞれに地図を持っているのじゃないかと。地図といっても、こちらは生き方というか、人生の地図だけど。あの店の角を曲がって信号のある通りはまっすぐにとか、人生の道を相手に教えたつもりでも、それはこちらの地図であって、相手はそれとは別の自分に分かりやすい目印で作った人生の地図を持っているのじゃないかってね。佑太を育てていると、最近、そう思うことが多いんだよ。佑太には佑太の地図がある。親として煩いことを言わなくても、目的地が同じだったら、佑太の歩き方に任せて、親はそれを見守っているだけでいいんじゃないかなあ。おっと、俺も歳相応のことを言うおじさんになったものだ」
「当たり前でしょう。あなただって、もう30はとっくに越しているのだから」
 信彦は立ちあがって、ケンタの餌入れをドッグフードで満たした。
「人間様も腹ペコだ。智美には夕飯はいらないと言ってあるから、久しぶりに母さんの手料理を食べさせてもらうよ」
「智美さんのように、洒落た若い人向きの料理じゃないけれど」
「いいよ、時々は、カレーやハンバーグじゃない飯が食いたくなるんだ」


   
 テーブルでの信彦の席は、康雄が座っていた場所になっている。初めの頃は、「父さんがいつも座っていた場所だから」と遠慮していたが、今では母親に勧められなくても、当然のようにそこに座るようになっていた。そして台所で煮物を皿に盛り付ける秀子の背中に、父親とよく似た声で話しかけて来た。
「母さん、頑張っているじゃないか」
 部屋の隅に一纏めにして積み重ねられたアートフラワーの教材を見て、彼は言ったのだ。
「まあ、いつまでも出しっぱなしで。あなたが来るから、片づけようと思っていたのに」
「死んでしまった父さんには申し訳ないけどさ、こんな時の為に、母さんには楽しめる趣味があってよかったと思うよ」
 信彦はやはり気づいていないのだと、秀子は思った。アートフラワーの本や材料は、この3か月、まったく同じ形で積み重ねられている。夫に先立たれた時こそ、彼女の孤独を慰めるはずだった趣味が、今なんの役にも立っていない。それどころか、綺麗な布地に手を触れるのも辛くて、片づけることさえ彼女は出来なくなっている。
「でもね、私は手先が不器用だから、本当は、こんな細かな造花作りは向いていないのよ。実を言うと、お父さんの葬儀の後、習い事もスイミングも全部休んでいて、これからどうしようかと、悩んでいる所なの」
「そんな気弱なことを言って、母さんらしくもない。こんなことになって、しばらくは大変だろうけれども、そのうちに、今の生活にも慣れるようになるさ。もう少しすれば、趣味と友達を大切にしていた、以前の母さんの生活に戻れるよ」
「そうだといいんだけどね」
 そう言いながら、秀子はテレビの横の壁にぶら下がっているカレンダーを見た。信彦はアートフラワーの教材が手つかずのまま積み重ねられていることにも気づいていないが、居間の壁に掛けてある月捲りカレンダーの行事予定欄に、何も書き込まれていないことにも気づいていない。そして康雄の葬儀後、カルチャーセンターには1度も行っていないと言った、母親の小さな嘘にも、彼は気づいていない様子だった。
 そのことを口に出して咎めたいと思う衝動に秀子は駆られたが、信彦もあの日の『万葉集を読み解く講座』の友人達のように、「あれほど離婚を望んでいて、今更、そんな話をするのか」と、言うのだろうか。
 棘を含んだ友人達の言葉から受けた彼女の心の傷は、まだ開いている。あの日のことを思い出すと、未だに足が竦むような、奈落の底に落ちて行くような怖さを覚える。
 康雄が生きていた時は、『万葉集を読み解く講座』に通い、呆け防止のためにアートフラワー教室に通い、健康の為にスイミングスクールにも彼女は通っていた。そしてそこで得た友人達に誘われるままに、美術館や講演会にも出かけた。そのような誘いに小まめに付き合っていると、夫が家にいる休日以外は、カレンダーの行事予定欄は、秀子の几帳面な角ばった字で黒く塗り潰されることになる。
 秀子は母親の克枝に似て、几帳面で融通の訊かない性格であったから、外で友人達との付き合いが忙しくなっても、家事の手は抜けない。そうするとアートフラワー教室の宿題を抱え込んで、夜、テレビを付けたまま舟を漕ぐことになる。
 彼女はこれまた克枝に似て、手先も器用ではなかった。アートフラワー教室は早まったかも知れないと思うこともある。しかし、「指先も使っていないと、呆ける」という芳野多恵からの、直々のお誘いだったから、断る訳にはいかなかった。『万葉集を読み解く講座』の友人達のほとんどが、アートフラワー教室とスイミングクラブに流れているという事情もあった。
「どうせ、テレビは見ていないのだろう」
 真夜中に目を覚ました康雄が居間に姿を現して、そう言った。そして切り刻んだ布地を広げたテーブルの上に突っ伏している妻を横目で見て、テレビを消そうとする。
「頼んだことはしない人が、頼んでもいないことはする。今、起きるつもりだったのよ」
 秀子の口は動いたが、体は動かなかった。そんな妻の寝姿を見降ろしながら、康雄はまだ何か言いたげに立っている。しかししばらくすると、何も言い返すことなく彼は寝室にしている2階へと引き上げて行った。以前、そんな妻の寝姿に思わず「だらしない」と言ってしまい、想像を超えた猛反撃を食らったことがある。それ以来彼は何も言わない。
 夢現の世界を彷徨っている秀子の耳に、付け放したテレビの音に混じって、再び寝入った康雄の大きな鼾が、途切れ途切れに聞こえて来る。家中の空気を震わせるような、耳障りな鼾だ。やらねばならないことが山のようにあるというのに、無理の利かなくなった自分の体を嘆き、そして耳を塞ぎたくなるような夫の鼾を、彼女は呪った。
 なぜ夫は、あのように単純に眠れるのだろうか。自分にとって睡眠とは、家事と趣味の時間をどんどん奪っていく厄介なものでしかないのに、夫の鼾には、向上心もまして品格すらも感じられないではないか。
 しかし今になれば、あの大きな鼾は、夫の体の不調を暗示していたのではと思える。康雄は職場の健康診断で、いつも高血圧の項目に引っかかっていたが、「このくらいの数値では、治療すこともない』と、病院に行こうとはしなかった。彼の鼾が途切れ途切れに聞こえるのは、『睡眠時無呼吸症候群』だったとは、後から知ったことだ。
 妻として夫の健康にもう少し心配りをしていれば、病院嫌いではあったにせよ、それでもあんなふうに慌ただしくあの世に旅立つこともなかったのではないかと、今更ながらに悔やまれる。そして夫の鼾が聞こえてきたということは、付け放したテレビの音も夫の耳元まで届き、彼の安眠を妨げていたのだろう。
 そこまで考え始めると、あの時は皮肉としか聞くことの出来なかった、「どうせ、テレビは見ていないのだろう」という言葉も、「ちゃんと寝ないと、体を壊すぞ」という思いやりの言葉であったのかも知れないと、今なら思える。
 そういう話を、優しいが母親の心の奥まで覗こうとしない信彦や、嫁姑の関係が拗れてしまった智美や、母親が1人暮らしになっていることを知っていながら、電話もかけてよこさない紗江子と分かち合えないのであれば、友人達に聞いて欲しいと思うのは当然ではないだろうか。
 康雄の死後、友人達は良く電話をかけてきてくれた。そして秀子の愚痴を気長に聞いてくれて、慰め励ましてくれる。最後には、「いつまでも家の中に籠っていてはだめよ。お教室に出ていらっしゃってね。皆で秀子さんを待っているのだから」とまで、言ってくれた。
 夫は亡くしてしまったが、背伸びという精一杯の努力をして得た友情は不変だと、あの日まで彼女は信じて疑わなかった。


   
 葬儀の後始末も一段落したあの日、秀子は久しぶりに『万葉集を読み解く講座』に出かけた。
 休講していた間の授業の遅れが気になった訳ではない。講師には悪いが、そのようなことが気になるほど難しい講座内容ではなかった。励ましの電話をくれて、落ち着いたらいつでも戻って来るように誘ってくれる、友人達の顔が見たかった。そして彼女達に取り囲まれて、心が晴れるまでお喋りがしたかった。 
 夫を突然亡くした悲しみと孤独と将来への漠然とした不安を、年齢の近い友人達であれば、家族よりも理解してくれるに違いない。その為の友人達であったはずだ。
 久しぶりの外出だったせいもあって、2時間の講座はやはり疲れた。
 講師の言葉は耳に入ってこない。講師も友人達も、未亡人となったばかりの秀子にどう接してよいものか、腫れ物に触っているような感じを受けた。それもあって講座が終わった後、いつもだったら仲良く連れだって行く化粧室に、誰にも声をかけずに彼女は1人で行った。誰かに優しい言葉をかけられたら、人目も憚らず泣きだしてしまいそうだった。
 化粧室の狭いブースの中に1人で閉じ籠っていると、カルチャーセンターの講座くらいでは癒せない孤独をひしひしと感じて来る。
 しかし、毎晩の電話であのように心配してくれた友人達に、もうすぐ囲まれるのだ。まずはあの話をしようか、いやこの話を聞いてもらわねばと考えていると、未亡人となった自分の身を嘆く涙か、それともこれから一生の付き合いとなる友人を持ったことを喜ぶ涙か、自分でもどちらかわからない涙が溢れてきた。それでブースから出るのが遅れた。
 外のドアの開く音がして、何人かの人の気配と共に聞き覚えのある声がする。
「あんなに離婚したいとか、未亡人が羨ましいだとか、散々言っていて。今度は、夫に先立たれた可哀想な女でございますとばかりの顔が、よく出来ること」
「そんな風に言わなくても。秀子さんも、キットお寂しいのでしょう」 
 憤懣やるかたなしと言った様子で喋っているのは、いつも和服姿が清楚な太田邦子だった。それを取り成すように相槌を打っているのは、『万葉集を読み解く講座』の一番の年長者である山内鈴子だ。しかし、鈴子の言葉は邦子の憤懣に油を注いだだけのようだ。
「だから、秀子さんは空気の読めない人って、陰で言われているのよ」
 邦子が言葉を続けて、次は中村好美が言った。
「鈴子さんはお優しいからそう言われるのでしょうけれど。でも、邦子さんのお気持ちはよくわかるわ。今までご主人様の悪口を言いたい放題言って、ご主人が亡くなられたら、今度は涙ながらに懐かしい思い出話なんて、聞かされる身にもなって欲しいとは、私だって思ってしまうわ」
「秀子さんは、もう帰られたようだから、今日のお茶会では、そういう話を聞かされなくてもよいと思うと、ほっとするわ。まさか、ご主人様が亡くなられてよかったですわねとは、いくらなんでも言えないわ」
 邦子の言葉に笑い声が起きる。
「あら、先ほどから、こちらは使用中ね。どなたが入っていらっしゃるのかしら」
 山内鈴子が言った。その声で、彼女達のお喋りと笑い声が途切れた。誰もが秀子の存在を思い出したようだ。そして入って来た時とは打って変わって、静かに化粧直しを終えると彼女達は出て行った。 
 その後、秀子はその場所に30分も閉じ籠っていた。しばらくは1人で歩けそうにもなかったからだ。悲しみも度を超すと恐怖と似た感情になると初めて知った。
 あれから1か月、彼女はすべての習い事を休んでいる。以前は頻繁にかかって来ていた友人達からの電話も、途絶えてしまっていた。


   
 信彦は1時間ほどいて、それから智美と佑太の待つマンションへと帰って行った。秀子は彼の運転する車が見えなくなるまで、手を振って見送った。犬小屋の奥で丸まっていたケンタは、薄情にも出てこようともしなかった。
家に戻ると、今までになく家の中が暖かいことに、彼女は気づいた。この冬の間、冷え冷えとしていた家の中は、どんなに暖房を効かせても、こんなふうに暖まることはなかったと思う。それが立った1時間、家族と言う名前の2人が向かい合って、食卓を囲んでお喋りをしただけで、家というものはこんなふうに暖かくなるものなのか。
 戸締りを念入りにして、玄関から続く廊下を通り過ぎようとして、生前の康雄が自室にしていた2階に続く階段の上が、薄明るいことに気がついた。
 康雄が死んだ直後は、その遺品の片付けに、何度も上がったり下りたりした階段だが、この1か月は1度も使っていない。夫を思い出せば、悲しみよりも恨みがましい思いに捉われそうな気がする。それで、用事もなく2階に上がることを、秀子は避けていた。
 信彦が家を出る前に、そこでの生活を懐かしく思い出して、2階に上がったのに違いなかった。下りる時に、部屋の電灯の豆球を消し忘れたのだろう。呑気な信彦らしいと思い、そしてその明りがなぜか秀子を手招いているように思えた。
 階段をゆっくりと一歩一歩踏みしめるように上がる秀子の頭の中で、「犬地図、犬地図、……」と、信彦に教えてもらった言葉が不意に甦った。信彦の言葉を思い出す。
「母さん、人も犬も、それぞれの地図を持っているんだよ。目印にするものは違っていても、目的地は同じなんだ」
 2階に上がり、信彦達が住みその後は康雄の寝室となった、北向き6畳の部屋に足を踏み入れると、畳の冷たさが足裏に凍みた。
 押入れの中には康雄が使っていた一組の寝具が残っており、信彦達が置いて行った洋服箪笥には、彼の服がまだ詰め込んである。部屋の中に、夫の懐かしい体臭がまだ微かに漂っているように思われるのは、35年も連れ添った妻の嗅覚のせいだろうか。
 寒々とした何もない部屋の隅には、1人寝を慰める為に康雄が秀子に無断で買ったテレビと、生前の彼の唯一の楽しみであった将棋盤が置かれている。将棋盤の上には、駒の入った箱と詰め将棋の本が数冊重ねられていた。 
 信彦が消し忘れていた電灯の豆球を消して、改めて明りをつけ直すと、明るくなった部屋に、康雄の思い出が1度に溢れて来た。
 押入れを開けてみる。折り目も角も揃えた寝具が、最後に見た時と同じように重ねられている。洋服箪笥を開けてみた。ハンガーにぶら下がっている洋服に重なって、それらを身に纏っていた康雄の顔をありありと思い出した。
 テレビの上にはうっすらと埃が積もっている。その横に、佑太が置き忘れた赤いミニカーが飾られていた。秀子はそれを手にとって、指先で埃を払った。 
「犬地図、犬地図、目印は違っていても、目的地は同じ……」
 頭の中でエンドレステープのように繰り返して響いている信彦の言葉を、秀子は口に出して呟いてみた。
 信彦も智美も佑太もそして紗江子と生前の康雄もそして自分だって、家族仲良く暮らしたいという思いはずっと同じはずだった。それが上手くいかなかったのは、その方法が各自でばらばらだったからではないだろか。信彦の言葉を借りれば、目的地は同じでも目印として見ていた物が、それぞれに違っていたのだ。
 しかし、今、自分は辛い代償を払った結果、そのことに気づいた。1度はばらばらになった家族だが、夫が居なくなったこの家で、再びやり直せるのではという気がしてくる。今からだったらきっと上手くいく。理想の老後を追い求めることばかりに目を奪われて、ささやかなしかし切実な幸せが足元にあったことに気づかなかった。
 今度は階下を若い人達に譲って、足腰の丈夫な間は、自分が夫の思い出の詰まったこの部屋で暮らしてもいい。そんな思いが、秀子の胸の中にふつふつと湧いて来た。「明日の朝、紗江子にこちらから電話をしてみよう」、ふいにそう思う。血肉を分けた実の母と娘ではないか。今までのわだかまりを水に流せない訳がない。
 赤いミニカーを元に戻して、将棋盤の前に座ってみる。生前の康雄がパチリパチリと駒を鳴らして、詰め将棋を楽しんでいた姿が目に浮かぶ。
「再び同居することになれば、『万葉集を読み解く講座』もアートフラワー教室もスイミングクラブも1度すっぱりと止めて、新しく佑太と将棋を習おう。智美さんは仕事が忙しいことを口実に、テレビゲームに佑太の子守りをさせているんだから」
 そう思いながら、将棋盤の上に積み重ねられた詰め将棋の本を1冊、手に取ってみた。本を開けてみたものの、将棋をしたことのない秀子には、意味不明の盤図と文字が並んでいるだけだった。
 それを戻して、次の1冊に手を伸ばす。本の中に意味の分かる言葉でも見つければ、生前の夫の楽しみが理解出来るのではと、もどかしい思いが込み上げてきた。康雄を理解出来れば、信彦夫婦や紗江子とやり直せそうな気がする。そういう思いに捉われ始めると、秀子の悪い癖で少々意地になってきた。
 手にした2冊目の本にも、彼女が理解出来そうなことは何も書かれていない。しかし諦めるのはまだ早い。3冊目の本を手にした。それは彼女の手の中で、まるで意思を持った生き物のように、捲るということもなく、真ん中のページがぱらりと開いた。まるで本が口を開けたように思えた。
 折り畳んだ紙切れが挟んであった。
 葬儀の後、この部屋には何度も出入りし、片付けもしたり掃除もしたが、将棋盤の上の本の中まで見てはいなかった。といことは、この紙切れは、秀子の知らない康雄の遺品ということになる。
 紙切れは小さく畳んであったので、それを広げるのには、冷えてかじかんだ手では時間と手間がかかった。家族とやり直そうという決意と、康雄の秘密を覗き見ることになるのではという思いに、気持ちが昂ぶって、手が震えたせいかも知れない。
 それをやっと広げると、高山秀子という自分の名前が目の中に飛び込んできた。几帳面で角ばった筆跡は、確かに見慣れた自分の物だ。その横に、男にしては細く優しい感じの丸みを帯びた康雄の字体で、彼の名前が書かれている。
 その用紙には見覚えがあった。
 あの夜に手渡した離婚届けの用紙に、康雄は署名捺印してここに隠していたのだ。蛍光灯の明りの下で、2つの押印の朱肉が、赤い血の染みのように滲んでいる。
 裏庭で、ケンタが吠え始めた。また今夜も、猫が裏庭に入って来たのだろうか。散歩を共にした信彦を犬小屋から出て見送ろうとしなかった薄情なケンタだが、猫だけは見て見ぬ振りは出来ないらしい。その煩く単調に続く吠え声に、「犬地図、犬地図、……」という言葉が重なって、秀子の頭の中は割れそうなほど一杯になった。
  犬地図という言葉の本当の意味を、今、秀子は理解した。「目印は違っていても、目的地は同じ」、しかし信彦の言う「目的地」とは、なんと遥か遠くにあることだろう。自分はそこに辿り着けぬまま、孤独に死んでいくような気がする。
 見えない手が伸びて来て、秀子の心臓を掴んだ。



                                             ・・・・・了・・・・・