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   骨


  
 立石橋の上に立つと、干上がった川特有の生ぐさい臭いが鼻をついた。
 橋の上から見下ろす川底は、6月の終りの蒸し暑い今日1日を照らしていた夕日に向かって、右にゆっくりと蛇行しながら伸びている。それは川底を埋める乾いた小石の色のために、私には白い帯のように見えた。目が眩みそうな白さだった。それでも目が慣れてくると、白い小石にはりついて死んでいる、小さな川魚の白い腹が1つ2つと数えられる。
 昔は、この橋の下を流れる川で溺れて死んだ子どもたちの話を、戒めも含めてよく聞かされたものだった。しかし10年前に上流にダムが出来てより、目に見えて川の水量は減ってきている。 何人もの子どもたちの命を飲み込んだという川も、現在では渇水期ともなると、いとも簡単にその腹の中をさらす。
 干上がった川底を目の前にして、ここまで駆り立てられた不安は不要のものだったと、気の抜ける思いがした。
 私の住むこの町では、今年は春先からほとんど雨が降っていない。そして雨が降らないままに、この6月、空梅雨をむかえていた。立石橋から見下ろす川底のこの有様もそのためで、このままでは今年の夏は異常に雨の少ない暑い夏となるのだろう。
 橋の上に立ち、私は小さな2つの影を探し求めた。
 啓太と美穂がこの春から飼い始めた子犬を連れて遊びに出たまま、約束の時間を過ぎても帰ってこない。


  
 2年前、私の父が死んだ。それから私と母の間に同居の話が持ち上がった。
 意外にすんなりと話がまとまったのは、夫も私の1人娘という立場を、この10年理解していてくれたからだろうと思う。私の生まれ育った古い家を取り壊して、二世帯住宅に立て直した。紹介してくれる人もあって、夫も新しい仕事に就くことも出来た。
 そのために新学期の始ったこの春、啓太と美穂の2人はこちらの小学校に転校してきたばかりだ。
 赤と黒のランドセルを玄関の上り口に投げだしたまま、彼らは母親の私に行き先を告げることもなく、2時間も前に出て行った。それまでの母親としていろいろ心配ごとの多い都会暮らしでは、2人にはどこへ遊びに行くとしても、帰宅時間だけはきちんと守るように私は厳しく言ってきた。
 今日のようなことはこの3か月で初めての出来事だ。
 やっと涼しくなり始めた庭では、母の登美子が水を撒いていた。
 啓太と美穂を見かけなかったかと聞く私に、「本当に、どこまで遊びに行ったんだろうね」と母は答えた。それでも散水する手は休めようとしない。口とは裏腹に、少しばかり帰りの遅い孫たちのことよりも、この春に家を建て直すにあたって植え替えた木が何本か元気に根付いていないらしいことに、母は気をとられている。
 私もそのことには気づいていた。
 ものみな芽吹く新緑の季節に、庭の木の何本かが芽吹いてこない。落葉樹のモミジだと枯葉がついたままの無残な姿なので、庭木に興味のない私にでも、「ああ、枯れてしまった」とわかる。
 しかし常緑樹は昨年からの葉を黄色く変色させて、それでもなんとか木としての姿を保っているのだ。
 植え替えるのに根を切ったから、木が弱ってしまって芽吹くだけの力がないのかもしれない。そのうちに遅まきながら新芽が吹いてくるのかもしれない。
 母もそう考えるから、せっせっと水を撒いているのだろう。
 特に1本のヤブ椿の木があぶない。
 我が家では1番値打のある木だと、母から聞かされている。幹の太さが子どもの腕で一抱えもあった。ヤブ椿がここまで太るには100年は過ぎていると母は言う。
 古い家に住んでいたときは、このヤブ椿は玄関前の北側の塀から見上げるほどの枝を張り出していた。そして冬から春にかけてその花をポタポタと道に落としていた。
 家を離れて10年の街中での暮らしの中で、この家のことを思い出すときは決まってこのヤブ椿の木があった。住んでいるときは、古い造りの家と生い茂った木のある庭の暗いイメージの象徴でしかなかったヤブ椿の木なのに、歩いていてよそ様の庭に椿の木を見つけると、懐かしさを覚えて立ち止まったものだ。しかし我が家のヤブ椿のほどに大きな椿の木をよその家の庭に見たことはまだない。
 そのヤブ椿の木を、二世帯住宅の母の住居部分を建てるのに差し支えるので動かした。そのためにまるで剪定後の棒樫の木のように、枝をほとんど切りはらった姿でヤブ椿の木は立っている。現在、包帯を巻いてやりたくなるような哀れな姿となっていた。
「お舅さんが大切にしていた木なのに、枯れてしまったらどうしよう」
 母があまりにも繰り返すので、私はついつい言ってしまった。
「古くさい木はこのさいに全部始末してしまって、いっそのこと芝生を植えて、ぱっと明るいいまどきの庭にしたらいいのよ。そのほうが子どもたちも喜ぶわ」
 口にしてから、「しまった。母の気持も考えないで、言い過ぎた」と思った。しかしもう遅い。
「お祖父ちゃんっ子で、あんなに可愛がってもらったのに、あなたはもう忘れて……。私の苦労を、自分の娘にさえにもわかってもらえないなんて、こんな情けないこと……」
 母はそう言いながら自分の部屋に引き籠ってしまった。
 最後のほうの言葉が涙声だったのが気にかかる。あのヤブ椿の木は母にとってそんなに大切な木だったのだろうか。
 今日の昼食時にも、そのときと同じ母娘の会話を繰り返したばかりだ。これ以上の会話を続けて藪蛇になっても困る。それで夕食の支度をしていた手を止めて、立石橋まで小走りに駆けてきたのだ。


  
 緩やかな坂道を登りきった場所に立石橋はある。
 坂道の下で人家は途絶えて、橋の上に立てば緑色をした初夏の展望がひらける。不安を抱きながら、しかしそれでもと私は思う。
……行き先も告げず帰宅時間も守らずに遊び呆けている子どもたちのこの変化は、考えようによっては歓迎すべきことなのかもしれない……
 この春より、啓太と美穂の友人関係と行動半径はとても狭くなっていた。
 それは私の母親としての新しい心配ごとの1つだった。子犬を飼い始めたのも、それが子どもたちの慰めになればと思ってのことだ。
 母親の生まれ育った土地で、祖母の家があり何度も帰省している。しかしいざ住むとなると彼らにはまったく別の話であったことだろう。
 橋の上から、私は2人と1匹の姿を探し求めた。この橋の周辺のどこかに子どもたちはいるのだという、母親としての揺るぎない勘があった。
 ちょうど夕日は土手の川向うに見える家並みの屋根の上に沈もうとしていた。それでも川を囲むあたりの景色は、蒸し暑かった日中の明るさをまだ引きずっている。
 その明るさに目が慣れてくると、川底を啓太と美穂が白い小石に足を取られつつこちらに歩いてくるのが見えた。
 「ボス!」
 私は子犬の名前を呼んだ。
 子どもたちにまかせて付けた名前ではあるが、柴犬の血を引いた雑種の子犬には、名前負けしているとしか思えない。いまだに大きな声で呼ぶには気恥ずかしさを感じる。
 突然の母の声に驚いたのだろう。ボスの引き綱を持つ啓太の手が緩んだ。啓太の手から放れた引き綱を引きずって、ボスがこちらに向かって跳ねるように走り始めた。日に2度ご飯をくれる人の声を子犬はもうしっかりと覚えている。それとも慣れない遠出に、子犬が1番不安を感じていたのかもしれない。
 ボスにつられて、子どもたちの足も速くなった。私は慌ててもう1度叫ばなくてはならなかった。
「走っちゃだめよ!」
 母親の声に安心したのか、啓太と美穂は川底の真ん中で立ち止まった。と思うと、美穂がくるりと後ろを振り返って、もと来た方向に向かって手を振り始めた。
 遠く離れた橋の上から見下ろししている私にも、その小さな手は、別れを惜しみそして再開を約束するために振られているのだということがわかる。別の方向に帰っていく友達がいるのだろうか。しきりに振られている美穂の手の先を、私は人影を求めて目で追った。しかし視野に入る川にも土手にも、動く小さな人影は1つもない。
 広い河川敷の1部分に、大人の背丈でも隠せそうなほどに夏草の生い茂っている場所がある。美穂はそちらに向かって別れを惜しむように手を振っている。
 私は目を凝らしてその夏草の1群を見つめた。
 初夏の夕暮れがまるでそこから始まろうとしているかのようだった。そこだけがすでに濃い闇と不気味な静けさに包まれて、それは黒い塊としか見えない。
「啓太!」「美穂!」
 自分たちの名前を呼ぶ母親の声に、今度は子どもたちも苛立ちを感じとったようだ。2人の足取りが再び危なかしく速くなった。


  
 川底を歩いていたときは、遠出した不安と約束の時間に帰りつけない反省も、彼らの心の中にはあったに違いない。母親への言い訳も、その2つの幼い頭でいろいろと考えたことだろう。しかし立石橋の上で待つ母親の前に立つと、そういうことは瞬時にして忘れられたようだ。
 ボスを連れた啓太と美穂は、顔を赤く上気させ息を弾ませていた。2人とも汗で短い前髪が額に張りついている。2人の顔は今日の夕陽のように輝いていた。それは、「ねえ、お母さん、聞いて。聞いて……」と話しかけてくる前のいつもの子どもたちの顔だった。今日の遠出は2人にとってはものすごい冒険だったことが、話を聞く前から私には想像できた。
 どこにでも鼻を突っ込みまっすぐ歩こうとしないボスは私の腕の中にいた。半袖ワンピースから出た二の腕を、子犬は舐める。
 何よりも、2人と1匹の空腹を満たしてやらばければならない。
 立石橋からの揺るかな下り坂を啓太と美穂に挟まれて家路を急ぎながら、このときの私はそんな思いのほうが強かった。だから子どもたちのお喋りに相槌を打ちながらも、その話の内容にはそれほど気にとめていなかった。
 啓太と美穂は幼い頭で時間の流れの概念もなく思いつくままに、小鳥のさえずりのように話し続けた。
 河川敷きで出会った犬好きの老人が、ああ言ったとかこう言ったとか……。
 爽やかな初夏の夕暮れの風、子どもたちの息弾ませたお喋り、鼻孔をくすぐるように立ち上ってくる子犬のにおい、見慣れた家並み、緩やかな下り坂、それらの全てが幸福という感情に形を変えて私の胸の中に広がっていく。 以前にもこれと同じ幸福感に包まれたことがある。
 もう何十年も昔のこと、子犬を連れた誰かに手をひかれて、私はこの坂道を家路に急いだことがある。あのときの私の耳に聞こえていた息弾ませた甲高い声は私自身のものだったが……。
 ふと人の視線を感じたように思い、私は後ろを振り返った。まだ立石橋の金属製の手すりが夕暮れの薄い闇の中に見える。しかし橋の上に人影はなかった。
 あの夏草の生い茂った場所の不気味な暗さと静けさが、目に浮かぶ。
 いまゆっくりと広がりつつある夜の闇は、あの場所から始まっているのだと思わずにはいられなかった。


  
「まだ小学生の子どもに向かって、それも今日会ったばかりだというのに、自分は死にそうだなんてことを言う必要があるのかしら。いくら相手はお年寄りだからと言ったって、言葉は相手を選んで話さなくちゃ」
 同じ話を蒸し返すのもこれで2度目だ。1度目は、ちょうど2時間前に夕食をとりながら、母の登美子を相手に私はまくしたてていた。
 繰り返すほどに、私の母親としての怒りはますます大きくなってくる。温め直した夕食の器を夫の前に並べる手が、怒りにまかせて乱暴になっていた。
 夫は妻の怒りにあえて油を注ぐ必要もないと考えたのだろう、乱雑に並べられる食器を黙って並びかえる。彼はすでにひと風呂浴びていてパジャマ姿になっていた。
 夫の濡れた髪の毛から雫が落ちて、パジャマの襟の色が所々変わっていた。そのことに気づいたとき、私は夫の疲れに思いあたった。夫も子どもたちと同じく、不慣れなこの土地で、3か月前から新しい仕事に就いたばかりだ。言葉には言い表せない疲れやわだかまりが、その体に蓄積しているに違いない。
 私は話題を変えた。
「そのお爺さんね、『次に会ったときは、犬の躾について教えてあげよう』って、子どもたちに言ったのですって。ボスのこと、『賢そうな子犬だ』って褒めてくれたそうよ」
 私は夫のためにビールの栓を抜いて、自分の椅子に腰かけた。しかしグラスにビールを受けながら夫は言った。
「その年寄りについて、お母さんはなんと言っている?」
 私たちと違って母の冨美子ならその老人について知っているのではないかと、夫は言いたいのだろう。
「子どもたちの、痩せていて背が高くてものすごく歳をとっているお爺さんなんていう説明では、さすがに母でも見当がつかないみたいよ。そのうちに子どもたちにつきあって、川に行ってみようかとは言っていたけれども」
「年寄りの1番の関心事といえば、まずは自分の体調の良し悪しだろう。死にそうなほど具合が悪いのだったら、たとえ相手がその日初めて会った小学生でも、話題にしたくなるんだろう」
「そうかもしれないけれど……」
 私たちのいるダイニングキッチンと続きになっている居間では、啓太と美穂が思い思いの格好で座り込みテレビを見ていた。父母の会話に自分たちが関係していることを気にとめることもなく、2人は今売出し中のお笑いコンビの演技に笑い興じている。
 立石橋からの帰り道に、今にも死にそうな老人について子どもたちから聞かされたときは、まずは夕闇迫る河川敷きで子どもたちを無事に見つけたという安堵感で、私の怒りはそれほど大きなものではなかった。そしてこのときに母親としてやるべき大切なことは、これからどこへ遊びに行くにしても帰宅時間だけは守ることを、子どもたちに約束させることだった。
 はやる気持ちを抑えきれずに話の筋を追うこともせず、口々に思いついたことを話す啓太と美穂に適当に相槌を打ちながらも、肝心の話の内容については聞き流していた私だった。


  
 老人の話を子どもたちから2度目に聞いたのは、2時間ほどまえの母と私と子どもたち4人の夕食の時間のことだ。食卓を真ん中にして、母は日に日に弱りつつある植え木の話を、私は子どもたちの帰宅時間について、そして子どもたちはボスのことを、それぞれ勝手に賑やかに話していた。
 犬嫌いの母は孫たちのボスがどうしたこうしたの話には乗ってこない。
 母は昔々野犬に噛まれたことがある。ボスを飼う話が子どもたちから出たとき、母は孫たちにふくらはぎの後ろに残っているはずの傷跡を見せようとした。しかし半世紀も昔の傷跡は薄れてしまったのか、記憶違いなのか、その場所になくて説得力に欠けてしまった。
 突然、「あのお爺さん、なんの病気なの?」と美穂が言った。その言葉をきっかけに、ばらばらだった4人の関心が同じ方向を向いた。啓太が舌足らずな妹の言葉をおぎなった。
「あのお爺さんはもうすぐ死んでしまうんだ。今年の夏はものすごく暑くなって雨も降らないから病気がどんどん悪くなって死んでしまうんだと、言っていたよ。暑くて雨も降らなかったらしんでしまう病気って、どんな病気?」
 啓太と美穂はボスを連れて干上がった川底を冒険中に、その老人と出会った。痩せて背が高くてものすごく歳をとったその老人は「山崎さんとことのお孫さんたち」と、2人に声をかけたそうだ。ということは、啓太と美穂のことを知っていたということだろう。
 その老人はボスを抱き上げて、「これは賢いよい犬だ」と褒めてくれた。そして「また会ったときは、犬の躾かたについて教えてあげよう」と言って別れた。
 肝心の老人の名前について、子どもたちは聞き忘れて聞き忘れている。しかし「暑くて雨が降らないから、病気になって死んでしまう」という彼の不思議な言葉は覚えていた。
 幸せであるべき夕食の最中に、子どもたちのくちから『死』という言葉が出てきて、私は抑えきれない怒りがこみ上げてきた。
「こんな小さな子どもを相手に、自分は今にも死にそうだなんて……。いくらなんでも、言っていい言葉とそうでない言葉というものがあるでしょうに」
 私の父が死んだのは2年前のことだ。正月に帰省したとき、少々太り気味だった父の腹が一段とせり出し、父はけだるそうだった。「運動不足じゃないの?」と、のんきな会話を交わしたのに、腹水が溜まった肝臓癌末期症状だとわかったのは、私たちが引き揚げた数日後だった。そしてその日から3か月の命だった。
 そのときの悲しみが、まだ私の心のすぐ表面にある。思いがけない言葉や行動がその悲しみに触れると、私は抑えきれない感情に支配される。
 突然の父の死、理不尽としか思えない不幸、そしてまだ癒されない悲嘆、それらが混じり合うと怒りになった。
 自分の死期について躊躇うこともなく口にする老人の話を聞いたこのときも、私は怒りの感情に支配された。
 母が言った。
「年寄りの子ども相手に言った言葉ぐらいで、そんなに目くじら立てることもないと思うけれどねえ」
 私の怒りは啓太や美穂や母には理解されなかったようだ。
 子どもたちはその老人にまた会える日の話に夢中になり、母は山崎家のことに詳しいその男の名前に関心をしめした。結局、夕食時の4人の会話は、母がいつか子どもたちと連れ立って立石橋に行きその老人と会ってみようということで終わった。
 夫が風呂上がりのビールを飲み終え食事に手をつけ始めたのを見計らって、私は立ち上がった。
「啓太、美穂。寝る時間はもうとっくに過ぎているでしょう。啓太くんと美穂ちゃんが今夜はまだ来ないって、お祖母ちゃんが待ちくたびれているわよ」
 連れ合いに先立たれた母の楽しみの1つは、夜の眠りに就く前に、孫たちと並んで仏壇にむかって手を合わせることだった。
 2人の背中を押すようにして、私は子どもたちを母の部屋に連れていく。やはり母はいまかいまかと私たちが来るのを待っていた。
 仏壇の前に立てられたロウソクに火がともされ、線香の煙が立ち上る。仏壇の中には3つの位牌と写真立てがあった。私の父と、子どもたちはこの写真でしかその顔を知らない私の祖父母の顔。
 祖母は60歳で死んだ。私自身にもあまり記憶にない。こして写真をみると、「ああ、こういう顔をしていたんだなあ」と思いだす。明治生まれの祖父の写真は紋付き袴の正装で、これは私の結婚式に出席したときの姿だ。啓太が生まれる前に死んだ。「ひ孫が男の子だったら、花火を打ち上げて祝ってやろう」と言っていた。
 そして父……。40年勤めた職場を退職した翌年、この世を去ってしまった。母親と同じ年齢で同じ病気で……。
 あの世で再開した父に祖母はなんと言ったのだろう。私も母親になってそんなことを考えるようになった。
「今日も、啓太と美穂はとてもいい子でしたよ、お祖父さん。明日も天国から見守っていてくださいね」と、信心深い母が手を合わせ、「お祖父ちゃん、おやすみなさい」と、子どもたちも教えられた通りに手を合わせる。
 今夜はそのあとに美穂が言葉を続けた。
「今年の夏はそんなに暑くなりませんように。雨がたくさん降りますように。そしてあのお爺さんさんの病気が早く治りますように」
 この美穂の祈りは、とても母を喜ばせた。


  
 老人の予言があったのか、美穂の祈りが天まで届かなかったのか、異常気象という言葉がふさわしい今年の夏となった。
 梅雨明け宣言は平年よりも2週間早く、肝心の降水量にいたっては平年の30%にも満たなかった。頼みの夏台風は、これはなぜだか数だけはやってくる。だが、生暖かい風を吹かせるばかりで雨はお湿り程度だ。
 ボスを連れた子どもたちと一緒に、あれから何度か立石橋の上に立ったが、橋の上から見下ろす川底は乾いたままだった。小石の白さはますます増し、小魚の屍はなぜか消えてなくなり、生臭いにおいも立ち上ってこなくなった。
 その立石橋の上流にあるダムの貯水量が、毎朝の新聞に載る。それも異常だが、新聞をひらくと真先にそのパーセンテージに目がいく生活も異常といえた。そしてその新聞では、ダムの底水という言葉が賑々しい。この後も雨が降らなければ、私たちは底水を飲むことになるらしい。
 母が夜の暗闇にまぎれて、庭木に水を撒いている。散水用に井戸は掘っていたが、この時期に庭に水を撒く姿は誰にも見られたくないものだ。本格的な暑さをともなう夏本番はこれからだというのに、断水が始まるという噂だった。
 断水という言葉を聞くだけでうんざりと疲れ果てた気分に陥るというのに、噂は1人歩きをし始め、まことしやかな嘘が流布される。ダムの水には人体に有害なほどの消毒剤が入れられている。ダムの底から一家心中の死体を乗せた乗用車が発見された。それらの事実をなぜかテレビ新聞のマスコミは隠している……。
 節水を呼びかける市の広報車が、家の前の道を日に3度は通った。
 家を建て替えるという気苦労の多いことをなしとげたばかりだ。そのために私たちは転居し、子どもたちと母親の私は慣れ親しんだ学校と友人を失い、夫は転職までした。
 この年の夏は、暑さといい雨の少なさといい、もろもろの出来事で忘れられない夏となりそうだった。


  
 子どもたちの小学校の夏休みが、明日から始まるという日だった。
 早朝からコンクリートドリルの音が家中に響き渡っていた。暑さと苛立ちに拍車をかける騒がしい音だ。庭の東隅にある古い物置を取り壊して、車庫に建て替える計画でいた。そのための工事だ。
 家が建ったときに、車庫も庭もやりなおす予定でいた。しかし春から雨が降らず、梅雨に入っても雨はやはり降らない。植え替える木に可哀そうだという母の意見で、工事はのびのびになっていた。しかし人手の関係で、車庫の工事だけは早めに取りかかりたいという業者におされて、今朝の騒音となったのだ。
 エクステリア工事も手掛ける松本造園から男が3人来て、物置の木造部分はあっというまに壊された。いまは床のコンクリートをはがそうとしている。庭から、母の声と松本造園の男の声がする。
 家の裏側に張り出した庇の下で、私は洗濯物を干していた。
 私の足元にはボスが繋がれている。通りに面した犬小屋のある場所では、工事関係者が出入りするたびに吠えるからだ。
 ボスはまたひとまわり大きくなった。柴犬の血をひいたころころした体つきと顔つきにはそぐわぬ不細工な大きな耳をしている。しばらくはそれをぴんと立てて、家の表の騒がしい気配に敏感になっていたが、人間の子どもと同じですぐに飽きてしまったようだ。私の足元にうずくまると、いま1番お気に入りの小さな白い陶器で遊び始めた。
  この小さい陶器は、先日、ボスが庭から掘り出してきたものだった。散歩のあとしばらく庭で自由に遊ばせて呼び戻そうとした。私がその名前を呼ぶと、食べ物にいやしいボスは何をおいても走ってくるのだが、このときは何度名前を読んでも来ない。庭の隅にうずくまってしきりと何かと戯れている。
「何を持っているの? 見せなさい」
 私が近づくと、ボスはそれを取り上げられるのを恐れてか、隠す素振りさえ見せた。可愛がられてなにごとにも鷹揚にふるまってきた子犬の、初めて見せる行動だ。そうなると私も飼い主としての意地を示さなければならない。
 飛びつく子犬から身を守りながら、それを取り上げた。
 それは私の掌に乗るほどの大きさの白い陶器の入れ物だった。ボスが掘り出したときは泥にまみれていたのだろうが、さんざんに舐められてきれいになっている。厚ぼったい陶器の表面は細かいひびがたくさん入っていたが、どこも欠けていなかった。
「ボス、犬がここ掘れワンワンっていうときは、大判や小判を見つけるものと、昔から決まっているのよ。もっといいものを見つけてくれなくちゃ。それにしても、これはいったい何かしらねえ」
 私はそれを掌に乗せて見つめた。細かいひびの中には泥汚れがしみ込んでいて、模様のように見えなくもない。これではいくらボスが舐めてもまたは水洗いしてもきれいにはならないだろう。長い間、土中にあったものにちがいない。
 家を建て替えるためにあちらこちら掘り返した庭だ。しかし我が家の敷地に由緒ある骨董品の類が埋まっている可能性などないと言い切れた。
 掌に乗せた楕円形の陶器の縁をなでてみる。思い出が懐かしさとともによみがえる。
 これは小鳥の水入れだ。私が啓太や美穂の年齢のときに飼っていた文鳥の水入れだ。文鳥はつがいで飼っていたが、雌のほうはすぐに死んでしまい、雄の1匹だけをしばらく飼っていたが、これもそんなに長く生きていなかったように思う。
  雄の文鳥の名前はピーコだったかピピだったか、どうしても思い出せない。20年前の1年にも満たない間の出来事だったからだろう。
 飼っていたときの小鳥の可愛いしぐさよりも、ある日死んでしまって鳥籠の下に落ちていたときのことのほうが印象深い。文鳥の小さな体は冷たくてつっぱったように硬かった。
 あのとき『死後硬直』というむつかしい言葉を教えてくれたのは、誰だったのだろう。父だったのか、祖父だったのか。母は今も昔も、そういうことを口にする人ではない。
 文鳥の死は幼い頭の中では理解しにくいことだったが、『死後硬直』は目で見て触れて確かめられた。
 その後祖父が死んで、父も2年前に他界した。私は『死後硬直』という言葉で、それぞれの死を理解した。
 文鳥の体を薄紙で包み、用済みとなった水入れの中に入れて埋葬した。それがボスによって掘り返されて出てきたのだ。もちろんあのときの小鳥の遺骸もそれを包んでいた薄紙も、もう土に戻っている。
 私はその水入れに鼻を近づけてにおいを嗅いでみた。もちろん20年経てば死臭が残っているはずはない。
 その日からこの水入れはボスのお気に入りとなった。
 洗濯物を干している私の足元で、人間の子どものように1人遊びしている子犬のようすはなかなかに愛らしいものだった。


  
 表の庭から、松本造園の男の声と母の声がする。そのたびにボスの耳が立った。
 ここからでは松本造園の男の姿も母の姿も見えない。しかし私は過去にタイムスリップしたような不思議な感覚に襲われていた。
  この不思議な感覚にこの最近しばしば襲われる。子どもたちとボスを立石橋に向かえに行ったときの帰りの坂道でもそうだったし、小鳥の水入れを見つけたときも、そして今もだ。
 10年前に私は結婚してこの地を離れた。この10年でもちろん私も年齢を重ね、家族構成も変化し、立場も変わった。そして生まれ育った家も取り壊された。しかし過去に繋がる場所に立つと、私をとりまく陽射しの具合が、風のにおいが、なぜか昔を思い出させる。
  体が新しい生活に馴染み始めると、頭の中では昔の記憶が鮮明に次々とよみがえってくる。それとも昔を懐かしむ年齢に私も1歩足を踏み入れたのだろうか。
 松本造園の男の声に、私は聞き覚えがある。祖父母の代から庭が広く、また植え木の手入れには手間を惜しまなかったので、松本造園とは長い付き合いだった。
 あの声は松本造園の若い息子の声だ。若いと言ってももう40に手が届こうかという歳だが……。私が子どもの頃に出入りしていた父親のほうは、この10年の間にときおりしか顔を見せなくなっていた。もう現場からは引退したようだ。 
 私たちとの同居にも、もとの家を二世帯住宅に立て直すことにも、母はすすんで賛成した。しかし母の頭の中では、娘夫婦と仲良く暮らすことと、大切にしていた庭木が枯れそうなことは、それぞれまったく別の出来事なのだ。
 家を建て直すにあたってかなりの数の庭木を植えなおした。この暑さ厳しく雨の降らない状態で、仮植え状態のままという木もたくさんある。夕闇に身を隠すように散水しても、これは枯れてしまうだろうと思える木も何本かある。
「あの木が危ない。この木が枯れそうだ」と、母は松本造園の息子に言っているにちがいない。ついでに散水の苦労なども。
 母の言っている言葉の1つ1つの意味は聞き取れなくても、その語調にどうしようもない愚痴が混じっていることは、洗濯物を干している私にも聞き取れた。そして、「お気持ちはよくわかるけれど、どうしようもないことだ」と言いたげな、松本造園のの息子の口調も伝わってくる。
 昔々から母は、松本造園から人が来るとわかると、数日前から目に見えていそいそし始めた。そして当日は朝から庭に出ずっぱりで、今日のような会話がときおり庭から聞こえてくる。私のおぼえている限りのずっと昔からだ。私はそれが嫌で、その日はいろいろな理由をつけて庭には近づかなかった。
 山崎家に嫁いでからすぐ、病弱だった姑に代わって、母は庭の植え木の管理も任された。もともと草花を育てることが好きだった母には、私の目から見ても、その仕事を苦にしていたとは思えない。庭木にかこつけてこぼす愚痴は、嫁という立場の愚痴だった。先代の松本造園の父親には、母のそういう気持ちがよくわかっていたようだ。聞き上手だったのかもしれない。
 母の言葉にこもっている気持は、住みなれた家を壊した結果の気苦労の多い娘夫婦との同居への愚痴だった。しかし松本造園のの若い息子にそれを理解しろというのは無理な話で、彼の戸惑いがここにいても感じられる。いつものように近づかないほうが得策といものだろう。
 それにしても庭から聞こえてくる母のゆっくりと話す声と、それにぼそぼそと答える松本造園の男の声。ここに立ってそれを首をすくめたくなる思いで聞いているのは、35歳のいまの私なのか、それとも何十年昔の私なのか、ふとそんな気さえしてくる。
 そのとき母の声が一段と大きくなった。なんということだ、母が私を呼んでいる。
「早く来てみなさいよ。松本さんが、珍しいものを見つけてくれたから」


  
 その日の夕方、私と子どもたちとボスは立石橋の上に立っていた。道すがら、私は子どもたちに、松本造園の男が見つけた珍しいものについて話していた。
 車庫を作るために、以前から庭にあった物置小屋を取り壊した。そして床のコンクリートをドリルで粉砕し、そこを掘ったら骨が出てきた。
 母に呼ばれて駆けつけると、3人いた男のうちの1人が、その骨を私の足元に投げてよこした。なにも知らない私を驚かせて、笑いをとるつもりだったのだろう。しかし咄嗟に事情の飲み込めない私は驚きもせず突っ立ったままだったので、その男のもくろみは残念ながら外れてしまった。
 このときまで骨というものは晒されたように真っ白なものだとばかり思っていた。私の足元に投げ出されたものは茶色く朽ちた棒きれだった。真っ白な陶器で出来た小鳥の水入れが土の中で茶色く変色したように、骨も土の中では土色に染まるらしい。説明してもらってやっとそれは骨だとわかった。
 それにしても掘り出したときに大騒ぎとならなかったのは、掘り出した男がすぐに「こりゃ、犬の骨だ」と言ったからだ。
 そう言われて母もすぐに、何十年昔に祖父が飼っていた犬のことを思い出した。
 白い毛の色をした紀州犬だった。私が小学校に上がる頃まで家にいた。体は大きかったが、穏やかな性格をした犬だった。しかしそれでも母の犬嫌いは変わらなかった。餌入れを長い棒で押しやっていた母のしぐさをいまでも覚えている。 その毛の色から名付けたのだろう、シロという名前だった。
 犬好きの祖父が飼った最後の犬だ。シロは犬としては17歳の長寿を全うした。シロのあと、母に遠慮した祖父は犬を飼うことはなかた。あの日から数十年後、孫に押される形で母が折れて、我が家に再び犬の買える日が来たと知って、あの世の祖父も手を叩いて喜んだことだろう。
「シロの骨はね、庭の別の場所に埋めなおしたのよ。ボスも掘り返せないような深い穴を掘ってね」
 立石橋の上に立った私は、そこまで話したところで言葉を切った。
 あの日から何度、私はこの橋の上に立ったことだろう。ボスの散歩のために、そして今日こそはあの老人に会ってみたいものだという期待を込めて……。
 子どもたちはもう何度も会ったという。しかし私はまだ出会っていない。母も何度か来てみたようだが、やはりその姿を見ることは出来ていない。母は町内の老人会まで出かけていって、それとなく聞いて回ったようだが、それらしい老人の消息を知ることは出来なかった。
 子どもたちにも老人の名前を聞いておくようには言ってあったが、忘れるのか聞きにくい雰囲気なのか、いつまでも『あの病気のお爺さん』だった。
 言葉を切ったのは、ここから老人の姿が見えないかと思ったからだ。雨が降らないことは河川敷きに生い茂る夏草の生育にはまだ影響していないように見えた。以前見た黒い夏草の塊はますます背が高くなっている。
 立石橋を渡りきったところで右に折れて、川つたいに土手道を歩く。
  歩いているのは私たちだけだと確かめてから、ボスの引き綱を外して自由にしてやった。しかしボスは散歩の何たるかを心得ているようで、私たちのそばから離れようとはしない。あの老人が言った賢い犬というのはこういうところに表れているのかもしれないと思ったりした。
「シロって、ボスよりも大きかった?」
 美穂が聞いてきた。
「紀州犬だったからねえ、ボスよりもずっと大きかった。毛の色が白かったからシロという名前だったのだろうけれど、お母さんが生まれる前から家にいた犬だったから、死んだときはものすごく歳をとっていたわ。
「シロの顎の骨には、歯がついていたんだ」
 先ほど聞かせたばかりのを、啓太が繰り返す。
「そうよ。それからもう1つは腰の骨らしいって、おじさんたちが言っていたけれど」
「お母さんも見た?」
 まるで秘密の話をするかのように、美穂が声をひそめて言う。子どもたちの骨対する思いには、大人の想像を超えるものがあるのだろう。そういえば父が死んだとき、まだ幼いということを配慮して火葬場まで連れていかなかった。
「見たわよ。長い時間が経つと骨だって溶けて土になってしまうのだって。でも物置小屋を作ったので、土がずっと乾いた状態だったのがよかったらしいのよね。そのために大きな骨は残ったのでしょうね」
 私の話のほとんどは、骨を見つけた松本造園の男たちの受け売りだった。
「誰がシロをそこに埋めたの?」
「お母さんのお祖父さんよ。お母さんが学校から帰ってきたときは、もう埋められていた。あのときは悲しくてたくさん泣いたはずなのに、いまはシロがいたことも忘れていたわ。シロが死んだあと、どんなにお願いしても犬は飼ってもらえなかった。あのとおりお祖母ちゃんは犬が嫌いだから」
「ボスがじゃれても、お祖母ちゃんは、怖い怖いっていうよねえ」
「やっと小鳥ならいいと許しが出て…。それで文鳥を飼ったのよ」
「ボスが見つけた水入れがそうなんだ」
 私は子どもたちに小鳥の水入れの話はしていた。
「シロの骨は深く埋めたから、あの水入れみたいに、ボスが掘り出すこともないでしょう。こら、ボス、待ちなさい。どこへ行くつもりなの?」
 ずっと離れずにいたボスが、突然、走りだした。
 私たちは立石橋とその向こうに見える橋の中ほどまで来ていた。暗黙のうちにあの老人と子どもたちとの待ち合わせ場所になっている、夏草の生い茂ったすぐそばだ。
 土手を駆け降りたボスは草むらの中に飛び込んでいく。期待と喜びに小さな茶色の体を弾ませて。しかし啓太が言った。
「お爺さんは、今日は来ていないみたいだよ」
 草むらから再びボスが姿を現した。それでも私たちの所へは戻ってこようとしない。夏草の繁みに出たり入ったりを繰り返しながら、しきりににおいを嗅いでいる。
 美穂も言った。
「ボスも悲しがっている」
 しかし美穂の言葉に安堵の気配を感じたように思えたのは、私の思いすごしだろうか。年端もいかない子どもたちに、病気の話や今にも死にそうな話をするものではない言った私の言葉を、美穂はまだ覚えていることだろう。大好きなお爺さんに、母親がそのことで抗議する場面に立ち会いたくなかったようだ。
 ボスの様子と美穂の言葉に、私は子犬と子どもたちの心を捉えているまだ見ぬ老人を羨ましくも思った。
 子どもたちの話では、その老人は相変わらず体の不調を訴えているらしい。
 しかしこの暑さと断水のストレスでは元気な若者でも体調を崩しかねない、まして持病のある年寄りならなおさらのことだろうと、初めのころ感じていた私の怒りはいまでは小さくなっていた。老人の「今年の夏は雨が降らないから、自分は死ぬかもしれない」という予言めいた言葉も、長く生きてきたものの知恵となのかもしれなかった。
「お母さんも、会えなくてほんとうに残念に思っているのよ」
 私は素直な気持ちでそう言ったが、子どもたちとボスに私の気持は伝わっただろうか。
 それから3人と1匹はいつものように乾いた川底を歩いた。乾きすぎた川底からは生臭いにおいは消えている。石に張りついていた川魚の屍も消えている。干からびて蒸発してしまったのか、野鳥の餌食になってしまったのか。
 このときも私は人の見つめる目を背中に感じたように思い振り返ったが、誰もいなかった。


  
 その夜、仏壇に向かって啓太と美穂は小さな手を合わせていた。
「雨がたくさん降りますように。そして病気のお爺さんも元気になりますように。そして今度こそは、お祖母ちゃんとお母さんがお爺さんとお話できますように」
 美穂が願い事を仏壇に向かって言う。そのとき、手を合わせたまま仏壇を見つめていた啓太が、妹の祈りを遮って言った。
「病気のお爺さん、あの写真によく似ている」
 母が立ちあがって、啓太が指示した写真立てを仏壇の中から取り出した。私の結婚式当日の紋付き袴で盛装した祖父の写真だ。
「似ていない。病気のお爺さんはもっと痩せているもの。それに着ているものだってぜんぜん違う」
 お祈りを邪魔された美穂が不満に頬をふくらませて、兄に抗議する。啓太も負けてはいない。
「馬鹿だなあ。着ているものが違うのは当たり前じゃないか。これは写真だぞ」
 寝る前に兄妹喧嘩をされて美穂の機嫌を損ねては大変と、私はとっさに妹の肩を持った。この家にきてやっと美穂は1人寝の習慣がついたところだ。
「お爺さんやお婆さんの顔なんて、子どもには皆同じように見えるものなのよ。ほらね、頭は禿げているし顔には皺がいっぱいでしょう」
 兄妹親子の賑やかな言い争いのそばで、珍しく押し黙ったまま母は祖父の写真を見つめていた。老眼のせいで、写真立てを持った腕を伸ばして……。それでも見づらいのか左右に頭を何度も振った。そして独り言のように言った。
「これはまだ元気なころの写真だからね。半年ほど寝付いて枯れるように亡くなる前は、啓太の言うように痩せていたんだよ」
「いやだわ、お祖母ちゃんまでもが何を言い出すのよ」
 慌てて私は言ったがもう遅い。
「やっぱり、あの病気のお爺さんは、ひいお祖父ちゃんの幽霊だ」
母の言葉に勢いを借りて啓太が言う。そのうえに妹の顔の前で両手をぶらんとさせて幽霊の真似をしたものだから、怖がりの美穂は泣きだした。
「啓太、意地悪はやめなさい。お祖母ちゃんも啓太も変なことを言い出して」
 これでは私の気配りも水の泡だ。しかし私の声は母には聞こえていない。母は独り語のようにまた呟いた。
「物わかりのよいよく出来た舅だと他人様は言ってくださっていたけれど、言い出したらひかない気難しいところもあって。あの時だってあんなことを言い出して。どうしたらよいものかと私は1人で悩んでしまった……」
 そこまで言って母は周りの騒ぎに気づいたようだ。
「ごめんなさいね、美穂ちゃんを泣かせてしまったわね。そうだわ、美穂ちゃん、今夜はお祖母ちゃんといっしょに寝ましょうね。そうと決まったら、美穂ちゃんのお蒲団をこのお部屋に持って来なくちゃ」
 有無を言わせぬ母の決定に急かされて、私は立ち上がった。
 母の不思議な言葉が気になったが、このときはその真意を確かめる時間の余裕もなかった。しかし母の言葉は謎を秘めたまま心の奥底のどこかにひっかかった。


  
 浅い眠りの中で、私は夢を見ていた。
 夏草の生い茂る土手を私は歩いていた。汗ばむ熱気と草いきれ、そしてときおり頬をなでる夕暮れの涼風、今日の夕方とまったく同じ光景だった。違うのは静寂で……とても静寂で、それはその光景の中に啓太と美穂がいないからだ。彼らの声もまったく聞こえてはこなくて、気配さえも感じられなかった。しかし私の心の中に寂寥感は少しもない。それどころか満ち足りた幸福に溢れている。
 私の数歩先を、白い靴下を履いた4本の短い足で、ボスが跳ねるように歩いている。右に巻いた尻尾の白い裏側も、その歩みに合わせて揺れている。
 突然、その尻尾を見つめていた私の目線が低くなって、ボスの尻尾の白さが目の前に見えた。それはシロだった。 前を歩いていた犬はボスだとばかり思っていたのに、それは見覚えのあるシロの後ろ姿だった。
 記憶の中にあるシロの体の大きさに、犬は変わっていた。そして私も子どもの姿に戻っていた。
 この満ち足りた幸福感と軽やかな足取りはそのためだったのだ。夢の中の私はしごくあたりまえのように後ろを振り返って言った。
「お祖父ちゃん、はやく、はやく」
 祖父の懐かしい顔が笑っていた。


  
 この年の9月の降水量はたった30ミリだった。1度だけやってきた台風が霧のような雨を降らせた。
 そして10月になると1日5時間しかでなかった上水道が8時間に延長された。夜間9時までしか出なかった水が10時まで使えるようになって、主婦の私は夜の家事の慌ただしさから少しは解放された。当り前のように蛇口から出るものだと思っていた水のありがたさを、痛感した夏が終わろうとしている。
 子どもたちの通う学校では、この夏、とうとうプールは使えなかった。パンと牛乳だけという学校給食はまだ続いている。秋の運動会は天候次第の無期延期となった。夫も残業の日は水風呂を覚悟していなければならない。
 母の世話の甲斐なく、何本か枯れてしまった。ツツジとモミジとあのヤブ椿の木……。
 しかし活きついた木と枯れてしまった木がはっきりしてしまうと、母のこぼす愚痴が減った。娘夫婦との同居の日々に慣れてきたのだろう。どうなるのだろうかと気をもむ間が、何事につけ1番辛く感じるのかもしれないと、この半年の母を見ていて思う。
 ご近所の目を気にしながら隠れるようにして散水していた井戸の水と、天の恵みの雨とでは、木の命にも少なからずその違いが表われた。それは人の命にも言えることだ。
 9月になってしばらくすると、病気のお爺さんは子どもたちの前に姿を現さなくなった。「啓太くんと美穂ちゃんの顔が見られるのも、今日で最後かもしれない」と、彼は言ってはいたらしい。そのせいもあって子どもたちは「お爺さんは、きっと死んじゃったんだよ」と軽く言う。私は母親として子どもたちをたしなめた。
「夏の暑さというものは、涼しくなってくる頃に体に堪えるものなのよ。疲れて寝込んでいるのかもしれないけれど、そのうちにまた会えるでしょう」
 子どもたちがボスを連れて出かけた日は、まるで待ってでもいたかのようにその姿を現した老人だった。しかし母や私が連れ立ったときはなぜか現れようとしない。偶然にしては出来過ぎた話のように思えるし、故意にしては少々無理のあることのようにも思えた。
 今にも死にそうだと自ら言う病気の老人が、この暑い夏に戸外で人を待ち伏せ出来るものだろうか。たったひと夏のこととはいえ、子どもたちの友人となってくれた人の顔も見ず言葉を交わすことなく終わってしまうことは、やはり残念だった。啓太が言うように祖父に似ていると思えば、なおさらにその思いは大きくなる。
 子どもたちにはそのうちに会えるだろうと言いながら、「もしお葬式でもあれば、ご近所のことだ、最後まで聞きそびれた名前を知ることもできるだろう」と考えていた。母もそう考えていたようだ。しかし老人会を通してもたらされたのは、隣町の87歳のお婆さんの死だけだった。
 葬式といえば、この夏、啓太と美穂の間でちょっとした遊びが流行った。それは生き物のお墓を作ることだ。
 商店街の夜市で買ってきたカブトムシにミドリガメ、夏祭りの神社の境内で掬った金魚、友達にもらったザリガニに小さな川魚。飼い方が悪かったのかもともとの寿命だったのか、それぞれに申し合わせたように短命だった。
 それら小動物たちの死を知ると、子どもたちは庭に穴を掘って死骸を埋めた。そしてその上にそれらの名前を書いた石を置き板きれを立てた。即席の墓標のつもりなのだろう。母にねだって仏壇の線香を分けてもらい、それを立て手を合わせることもした。それはどう見ても、お葬式ごっこだった。
「生き物たちに餌をやりなさい」「毎日、水槽の水を替えてやりなさい」と、母親に口やかましく言われても動かない子どもたちが、このお葬式ごっこには申し合わせたようにいそいそととりかかる。そのために、子どもたちが小さな生き物の死を待っていたかのように、私の目には見えた。
 文鳥の死骸を水入れを棺代わりにして庭に埋めた話をしたのがいけなかったのだろうか。それとも庭からシロの骨が出てきたことが、2人の幼い心に影を落としたのだろうか。しかし夫は、「それは、母親の取り越し苦労というものだ」と一蹴して、私の不安に取り合おうとはしなかった。
 以前に住んでいたアパートの5階でも、小さな生き物は何度か飼った。そしてその死骸は、ゴミといっしょにナイロン袋に入れて捨てていた。そのときの暮らしではそうするしかなかった。そのときのことを考えれば夫の言葉は正しい。
 母は毎晩仏壇に手を合わせているから、子どもたちに信仰心が芽生えたのだと喜んでさえいる。
 庭のあちらこちらに名前の書かれた石や板きれが転がっていた。真夏の陽に晒されて字の消えてしまったもののある。 ボスに掘り起こされないように、死骸は土中に深く埋めるようにと注意だけはしていた。小さな死骸ばかりだから土に戻るのも速いことだろう。
 家の中が小さい生き物たちの生臭いにおいに満ちていたような、子どもたちの夏休みだった。しかし小さな命は再びボスだけとなった。


  
 朝夕しのげる涼しさになってきたとき、松本造園の息子がやってきた。家を建て直してより延び延びになっていた造園にやっと取りかかる、その準備のためだった。今日は立ち枯れてしまった木を持ち帰るのだと言った。
 小型トラックを玄関脇に停めると、彼は荷台から電動のこぎりを取り出して持って庭に立った。
 枯れたヤブ椿の木を運びやすくするために、電動のこぎりでその幹をいくつかに切り分けるのだ。
 もう命の果てた木だとわかっていても、それを切り刻むとなると自分の体を切られるような痛みと辛さを覚える。私の生まれる前からあった木であり、この地を離れている10年間、それは私とこの家を結びつける木でもあったからだ。そしてそれは何よりも大好きだった祖父の思い出そのものであった。
 3日前に松本造園の息子はやってきた。半袖のワイシャツにネクタイというサラリーマンのような彼の姿を見たのは初めてだ。
 事務所に導入したパソコンで描いたという造園の設計図を持参していた。口にこそ出さなかったが、時代の移り変わりに母が驚いたのがわかった。
「秋になったからといってもねえ、雨が降るとはかぎらないことだし……。ダムの貯水量もまだ1桁のパーセントだと言っているようだしねえ。こんなときに庭を造作したりしたら、ご近所の口が煩いのではないかしら。井戸水を使っての散水だって、隠れてこそこそやっているというのに……」
 なんだかんだと理由をつけて渋る母に、松本造園の息子も退いてはいなかった。
「空があるかぎり、雨は必ず降るものと決まっています」
 それに来年になれば、この雨不足のために枯れてしまった公共施設の植え木の植え替え工事で、造園業者は忙しくなるのが目に見えている。その頃だときっと植え木も値上がりしているに違いない……。そう言葉巧みに言われれば、気持はほとんど動いていた母のことだから、あとひと押しだ。母の背中を押す一言を期待して、息子は私のほうをちらちらと窺っている。それに気づいた母が言った。
「だめよ、この子は。この家の丹精込めた庭も植え木の値打ちもぜんぜんわかっていないのだから。腹の中では、いっそのことこの家にある木が全部枯れてくれたらいいのにと、考えているにちがいないわ」
 やはり母は覚えていた、芝生を植えた庭がいいと言った私の言葉を。松本造園の息子も母の言葉の真意を察して言った。
「若い人たちは芝生を植えた庭がお好きですから。いまの流行りですので。そうだ、枯れたヤブ椿の代わりに花水木の木を植えられたらどうでしょう? 春にピンクの花が咲いてきれいですよ。あれほどの椿の木と同じものとなると、いますぐに入手するのはむつかしいです」
「あっ、もういいのよ、椿の木のことは。枯れてしまった木にいつまでも執着していてもねえ。そうそう、あなたが小さいとき、あの椿の木を怖がって、お祖父さんを困らせたのを覚えている?」
 母が私を振り返ると言った。突然の心変わりとしか思えない母の言葉にも驚いたが、私があの椿の木を怖がっていたとは、昔の話でも記憶にない。
「毎年、冬になると咲き始めるヤブ椿の赤い花が、あなたには人の目のように見えるって言って怖がっていたわ。筒咲きの赤い花弁の奥の黄色の花芯が人の目のようで、それがじっとこちらを見ているって。子どもらしい発想だと初めは思っていたけれど、そう言われればそうかなと……」
 この家と祖父を思い出す懐かしい木だとばかり思っていたのに、母に言われて、忘れていた暗い部分を思い出した。 筒型の花弁やこちらを窺うような黄色い花芯の見かけの問題だけではなく、玄関脇に植わっていたヤブ椿の木は、人の出入りをいちも見張っているようにも感じられたものだ。
  木は冬から春にかけてたくさんの花を咲かせたから、そのうちのどれか1つはこちらを見つめているように見えたことだろう。それが子ども心に恐ろしく感じられたのかしれない。しかしそれはこの夏の啓太と美穂のお葬式ごっこと同じ幼い子どもが考えつく一過性のもので、私は母に言われるまですっかり忘れていた。
 母の思い出話は続く。
「あなたが怖い恐いって言うのを、お祖父さんは面白がってね。『ほら、椿の花が見ているよ』って言ってあなたがますます怖がるのを楽しんでいた。お祖父さんはそういうところのあった人だから。あなたは忘れていたようだけど、お祖父さんはずっと覚えていたのよ。あなたが結婚してこの家を離れても、何かにつけてその思い出話を懐かしそうに繰り返していたわ。そのうちに『自分もこの木になりたいものだ。そうすれば死んでからの後も、この家の出来事をずっと見つめていられる』、そんなことまで言い出すようになってしまって。そんな大切な木だから、枯れてしまうのじゃないかと心配していたときは気が気じゃなくて……。でもこうして完全に枯れてしまうと諦めがつくものね。古い家も取り壊したことだし、これからは孫たち中心の明るい家にしなくてならないのだから、それにふさわしい木を植えるのもいいと思うわ。お祖父さんもきっとわかってくれることでしょう」
 そしていま、母と私はヤブ椿の前に立っている。
 高さ3メートルほどのヤブ椿はその枝を切りはらわれて丸太のようだった。最後までしがみついていた葉も夏の終りにすべて散った。
 松本造園の息子は椿の木の幹に両手をかけて根元から揺さぶった。周りの土に亀裂が走り、幹が大きく揺れるたびに広がっていく。そうやって何度目かに力を込めて引き倒した。木はゆっくりと倒れ、赤土が母と私の足に飛び散った。
 植え替えたときから根は少しも張っていないように見えた。木の大きさには不釣り合いなぼそぼそした短い根が明るい陽の下にその姿を現した。
 私はめまいを覚えた。その根に絡みつく何かを見たために……、いや見なかったために……。
 電動のこぎりでヤブ椿の幹は3つに切り分けられた。その切り口の乾いた様を見れば、すでに枯死していることが素人の目にもわかる。そして他の枯れた木とともにトラックの荷台に放り込まれた。
 母と私はどちらが言い出したのでもないが、松本造園のトラックが通りの角を曲がって見えなくなるまで立ちつくして見送っていた。
 母には母のそして私には私の言い出せぬ思いを、お互いの心のうちに秘めたままで。



「あのときのあなたは食い入るようにヤブ椿の根元を見つめていたわねえ。何か出てくると思った? ヤブ椿の根に人の骨でも絡みついているんじゃないかなんて、想像たくましくしていたのじゃなくて?」
 濡れ縁に腰かけて、新しい庭の出来栄えを満足そうに眺めながら母は言った。
 私は母の後ろに立っていた。日常の緩慢に流れる時間の方向を少し変えたように思われる新しい庭の光景、それを眺める母の後ろ姿、それらを目にしていると突然で突拍子もない母の言葉に、私は少しも驚きを覚えなかった。
 今朝も朝早くから母は庭に出ずっぱりだった。私の目から見れば、造作されたばかりの庭のどこに手を入れる場所があるのだろうと思うけれど、母に言わせればそれは怠け者のの台詞だそうだ。
 新しい庭はとにかく明るい。まだ下草が生えそろっていないから、むき出しの赤土の色ばかりが目立つ。庭には四季折々の花も楽しめるようにと花壇も設けた。啓太と美穂が遊べるようにとあえて何も植えていない場所もある。以前の欝蒼として暗い庭のイメージはたった1ヵ月で私の記憶から消えてしまった。
「でもよく考えれば、そんなことが起きるはずはないでしょう。あの木はね、昨年、新しいこの家を建てるときに動かしたのだから。あなたが考えていたようなことがあれば、そのときに大騒ぎになっていたはずよ。そうでしょう?」
 娘は何もかも承知していて当然と言った口調で、背中を見せたまま、母の言葉は続く。私も動揺することなく答えた。
「そこまで気持の悪くなるような光景は想像していなかったけれど、何か埋まっているとは思っていた。死んだお祖父さんに関係する何かが……。何もなかったことにかえって驚いてしまったくらいよ、あのときは」
「あなたはお父さんに似て、そんなことを考えつく子ではないと思っていたけれど、やっぱり母と娘ね、いつまでも隠しことはできないわ。いつかはあなたにもきちんと話しておこうと、ずっと気になっていたのだけれど、やっとその日が来たみたいね。
 もう何年前のことになるかしら、お祖父さんのお葬式の日のこと、覚えている?」
 小春日和の秋の陽射しは、分け隔てすることなくあらゆるものの上に優しく降りそそいでいる。母と私の一見異様な会話もこの陽射しの中では許されるような気がした。


  
 祖父は若いころから心臓を病んでいた。薬を手放すことのできない生活だった。しかし『一病息災』という言葉の通り、80歳まで生きた。最期は風邪をこじらせて寝込むようになり、枯れるようにして死んでいった。
 それもあって葬式の雰囲気は暗いものではなかった。めったに顔を合わせる機会のない親戚一同の親睦会のような和やかさがあった。その当時、啓太を妊娠していた私に対して、「きっと、お祖父さんの生まれ変わりで、男の子にちがいない」と、集まった伯父や叔母は談笑しながら言ったものだ。
「あの日、従兄の智ちゃんが、お隣の家のブロック塀に車をぶつけたでしょう? 覚えている?」母は自分の問いに自分で答えてみせた。それから後ろを振り向いて私を見上げて言った。「あなたもお座りなさいな。話は長くなるから」
 祖父の葬儀当日のことを覚えているかと聞かれて、あの葬式とは思えなかった和やかな雰囲気、しめやかな読経、そんなことばかりを私は思いだしていた。そのために母の言いだしたことはまたまた意外だった。しかし言葉を続ける母の声に、話しておかなければという決意がみえる。
 母の言った智ちゃんとは智彦という名前だ。叔母の子で、卒業を控えていた大学生だった。有名私立大学に通いその名前をよく知られている企業に就職も内定しているということで、叔母の自慢の息子だった。車の免許取立てで新車も買ってもらっていて、その日は黒くぴかぴか光る若者向けのかっこいい車に乗ってきていた。
 叔母はそういうことも親戚中に自慢したいらしくて、その日一日、何かしら使い走りの用事ができると「智彦、ちょっと車でひと走りしていらっしゃい」と、声をかけていた。智ちゃんも手に持ったこれもぴかぴか光る真新しいキーをぶらぶらさせて、いそいそと車のほうに駆けていく。誰の目から見ても、あのときの智ちゃんの恋人はあの黒い車だったに違いない。
 何度目の使い走りだっただろうか。そうやって智ちゃんが出て行ってすぐにドーンという大きな音がした。何人かがすぐに家を飛び出して、何が起きたか知れわたると、家の中にいたものたちも全員外に出て、智ちゃんの車を取り囲んだ。
 バックで角を回り損ねて、お隣の塀に車のお尻をぶつけた。しかし音と車の損傷が派手だったわりには、事故そのものはたいしたものではなかった。
 青い顔をしてしょげかえっていた智ちゃんと、騒ぎ立てていた叔母さんを思い出す。しかしそのことがあの葬儀の中で、母にとっていまさら私に言っておかなければならないほど大切なことだったのか。
「あの事故のとき、ちょうどお祖父さんの遺骨が火葬場から戻ってきたところで、法事の用意をしている最中だった。だけどあの騒ぎでみんな外に飛び出してしまって、家の中にいるのは私1人になってしまってねえ。生前のお祖父さんに否応なく頼まれたことがあって、しかたなく約束していたことがあったのだけど、あのときまでそんな約束を果たすのは絶対無理だと思っていた。まさか智ちゃんが事故を起こして、家の中には私1人だけになるとは考えもしなかったことだもの。あのときばかりは足が震えたわ。『ほら、いま、やるんだよ』、そう言うお祖父さんの声が聞こえたような気がした。それで私は祭壇に飾られた白木の箱を開けて、中の骨壷を取り出し、お祖父さんの骨をひと掴み取りだしたのよ。その後の出来事は、あなたの想像通りじゃないかしら」
「お祖父さんが、お母さんに頼んだことだったの?」
「血を分けた実の息子に頼まないで、嫁の私なんかに……。お祖父さんはね、『自分が死んだあと、骨をあのヤブ椿の根元に埋めてくれ』と、何度も言って私に約束させた。あなたが小さいときに、『椿の花の形が、人の目に似ている。まるでこちらを見ているようだ』と言っていたことを、お祖父さんはずっと忘れないでいたのね。あのヤブ椿の目を借りて、これから生まれてくるひ孫や、この家の移り変わりを見ていたかったのでしょう。でもそう言い残したお祖父さんだけど、本人もどこまで本気だったのか。私も内心ではそんなこと出来るわけがないと思っていたから、病人を安心させるために、はいはいと返事ばかりしていた。だから1人きりになった家の中で骨壷を前にしたときは、お祖父さんの意思というものを感じてしまったわ。この私にあんなことをする勇気があったなんて、あとで自分でも驚きだったけれど。この家を建て直すことになってあのヤブ椿を掘り起こすときは、胸が潰れそうなほどに心配してしまって。たったひと掴みの骨だったけれど、松本造園の人たちに気づかれるのじゃないかしらと、不安で不安でたまらなかったわ。きっと私はあの日のあなたのような顔をしていたことでしょうね。でも砕けた骨は10年経てば何も残っていなかった。しかし今度はお祖父さんの魂はほんとうにヤブ椿になったのだと思われるようになって、そうなると木を枯らしては大変だと、心配の種がまた一つ増えてしまってねえ……」
  異常渇水の続いたこの夏に思いを巡らしているのだろう、母の言葉が途切れた。
 私も母のように誰かに話したくて話せない思いが、胸の中にある。母はその思いを10年の間1人の胸に秘めていたが、私の思いはたったひと夏のことではあるけれども。しかし母ならわかってくれるだろう。私はその思いを初めて口にした。
「子どもたちがボスの散歩の途中で出会ったというお爺さんは、啓太が言うように、死んだお祖父さんの幽霊だったのかしら?」
 今まで背中を見せたまま話をしていた母が振り返った。
「啓太や美穂ばかりに会いに来なくても、私やあなたにも顔を見せてくれてもよかったのにねえ。私やあなたよりも、ひ孫が可愛いのだろうけれど」
 母の10年の思いが娘の私に通じたように、私の思いも母に通じた。お互いに余分な言葉は不必要だった。
「顔を覚えている私やお母さんを、驚かせたくなかったじゃないかしら?」
「そうかねえ。私が毎日、ヤブ椿の木を枯らしてはいけないとあんなに頑張っていることを知っているのだったら、ねぎらいの言葉くらい直接言ってくれてもよかっただろうに。『雨が降らないから、病気になって死ぬ』、なんて意味ありげな物の言い方ねえ……。でもね、孫たちから、病気のお爺さんがああ言ったこう言ったという話を聞かされているうちに、お祖父さんはヤブ椿の木が枯れかかっていることに、文句を言いに幽霊になって現れたのではないような気がしてきてね。ただ私たちにお別れがしたかっただけなのだろうと思えるようになってきた。そうしたら木が枯れるということに罪悪感を感じなくなったのよ。お祖父さんのたっての頼みで、遺骨をヤブ椿の根元に埋めたということで、誰にも言えない不安を10年も抱え込んでしまったけれど、お祖父さんはそんな私に最後にきちんと挨拶にきてくれたのだなと思えるようになった……。この家もこの庭も、あなたと秀隆さんのそして啓太と美穂のもの。そのことはお祖父さんもよくわかってくれていると思う。さあ、あと少しだから頑張らなくちゃ。美穂ちゃんが学校から帰ってきたら、いっしょにチューリップの球根を植えようって約束しているのよ。その準備をしておかなくては。あなたもそろそろ夕飯の買い物の時間じゃないの? はやく行ってらっしゃいな」
 そう言って母は立ち上がった。
 母はいつもまっ白い割烹着を身につけている。普通の家事をするときでも、今のように庭仕事をするときでも。母は昔から言っていた。まっ白い割烹着は主婦の作業着ではない、主婦の心意気だと。
 今日の後ろ姿のその白さが、母の決意を表しているように感じられた。「この家もこの庭も、あなたと秀隆さんとそして啓太と美穂のもの」、その言葉を祖父の言葉として母は言ったが、それはこの1年間いろいろ考えた末の母自身の言葉だったにちがいない。


  
 買い物に出かけようと私が庭に出ると、遊んでもらえると思ったのかボスが尻尾を振ってじゃれてきた。その頭をちょっと撫でてやって、庭仕事に余念のない母の横をすり抜け、門扉を開けて外に出る。
 母はさきほどの私との会話などなかったかのように、門扉横に植わっている槙の木の枯葉を落としていた。この槙の木は、あのヤブ椿が枯れてしまったいまでは我が家の庭では1番古く値打のある木だと、母に教えてもらっていた。これは植え替えなくてもよかった木で、そのうえにその横に新しく門扉を作り直した。
 槙の木は少し傾いていてそれが門扉の上に重なり、庭木などに詳しくない私の目から見ても、ほんとうに格好よくおさまっている。『捨てる神あれば、拾う神あり』のよい見本だろう。母はこの木の枯葉を手の届くかぎり丁寧に落としている。
 家の外に出て初めの通りの角を曲がろうとして、私は我が家を振り返った。
「あなたの家、あなたの庭」と言われてこうして少し離れた場所から我が家を見ると、感慨深いものがあり気の引き締まる思いがする。
 そのとき、塀の上から頭ひとつのぞかせていた母と目が合った。私に気づいた母は、「そんなところで立ち止まっていないで、はやく買い物に行きなさい」というふうに、手をかけていた槙の木の枝を揺すってみせた。槙の木の枝がまるで人の手のように、私に向かって振られている。それは母のなにげない動作だった。しかし私今まで思いつきもしなかったあることに思い当った。
 あの槙の木の根元に、父の骨も埋められているのではないだろうか。
 さきほどの話の中では、母はそのようなことはちらっとも言い出さなかったが、これは実の娘としての直感だ。母の性格であればありえない話ではない。
 祖父と違って、父はそういうことを言い残す人ではない。 10年の歳月のなかで、母の心の中に変化が起きたのか。祖父のときには感じたしてはならないことをしてしまったという心の重荷も、10年経つうちに薄れてしまったのか。死んだあとも家族を見守れる場所にその骨のひと掴みを埋めておきたい、そういう喜びのほうが大きくなったのか。
 初めからそういう計画を持ってして臨めば、父のときは、祖父の葬儀のときのように偶然の機会に賭けるということもなかっただろう。
 私は母に手を振り返して、足早に四つ角を曲がった。
 道幅も広がり舗装もされて、周りに立ち並ぶ家々もすっかり様変わりしてしまった。しかしこの道は私が祖父母とそして父母歩いた道であり、これから夫と子どもたちと歩く道でもある。何かが変わり、そしていつまでも何かが変わらない。
 何十年か経ったある日、自分の死期を悟った母は私をその枕元に座らせて言うことだろう。
「どうしてもあなたに聞いて欲しい、最後の頼みがあるの」
 そのとき私は答える。
「わかっているわ。あの花水木の根元ね」