新玉公民館

新玉地区の歴史紹介


JR松山駅
 昭和2年4月3日、国鉄松山駅は開業した。前日の2日に高松から列車が到着、3日午前5時10分に汽笛一声を上げた。この日は雨天だったためか、乗車客は案外少なかったそうで、当時の新聞は「これでいよいよ本物の都会になると手放しの喜びようだ」と伝えている。

 鉄道省(後の国鉄・現在のJR)が西条―松山間の路線建設にとりかかったのは、大正8年のことである。以来、8年目に松山駅は営業を開始する。工事は西条―松山間(松山線と呼んだ)を7区間に分けて行い、完成するごとに駅を設けて営業を始めた。鉄道省が完成後に作成した「松山線建設概要」によると、菊間―北条間の工事が最もむずかしかったとある。この工事は、十五か所にトンネルを抜き、橋をかけ、石垣を作らなければならなかった。

 北条の開通は大正15年3月28日。松山線建設も最終段階に入り、北条―松山間の工事も急ピッチだった。粟井坂には2つのトンネルを抜いた。ところが、第2トンネルで思わぬ障害が生じた。

 同年5月と7月の2度に渡って豪雨があり、雨のためトンネルに亀裂が入り、つづいてせっかく造ったトンネルは崩れ去った。しかたがないので今度は線路を海側へ付け替えることにした。この事故のため工事は予定より67日遅れた。松山線建設工事費¥9,297,652円10銭1厘。

 開通当時は、時刻表を見ると上り6本、下り7本。戦前を通じて上下14、15本であった。最初に汽笛を高らかに鳴らした機関車は、6760形式。伊予鉄の坊ちゃん列車のかわいらしい汽笛しか聞いたことのない人は、本格的な機関車のあの高らかにほえるような汽笛にすっかり感動した。

 「最初は見物人が構内に入って来たもんです。構内に入ってはいけないことを知らない人を整理するのみ困った」とのこと。

 (6760形式は)動輪が2つで馬力が弱い機関車だった。扱いにくかったと評判はよろしくない。後に8760形式は普通列車や貨物列車に回されてしまう。その他、C11(通称シーコロ)があり、松山以西の駅々が開業するにともない、おもにその方面に使われた。戦前、松山駅にお目見えした機関車といったらそんなところだった。今や松山駅の機関庫も姿を消した。石炭台も48年まで残っていたそうだが、これも消えた。

 この地図の時代である昭和14年前後は、伊予鉄江戸町(今の大手町)駅から国鉄松山駅にかけて、耕地や空き地が非常に多い。まるで西部劇の町のごとくである。早くからこの町に住みついた人たちの話によると、大手町通りができたころは道とはいっても土やバラスを入れただけのもので雨でも降るとぬかるんで歩けたものではなかった。道をいれた土は南江戸町の丸山の方からトロッコで運んだ。戦後の区画整理で松山駅前も大幅に拡張された。松山瓦斯(今の四国ガス)辺りから汽車が走る風景が見られたという話もウソに聞こえるほど建物が耕地を埋めてしまった。

朝日八幡神社
西山のふもと、南江戸にあり、この神社の言い伝えによると、持統天皇(678〜696)の代に建てられ、初めは沼地の上の台地にあったので沼戸明神といわれていました。

 後に山城国(京都と大阪の境)の山崎八幡宮から神様をお迎えして、山崎八幡宮と名が改められました。

 その後、延文6年(1361)に、この八幡宮を守り神として敬っていた伊予守護の河野氏によって、沼台の地から今の場所に移され、社殿が新築されました。

 さらに、応永19年(1312)にも、河野氏により社殿が増築されています。これは、この八幡宮に参拝する人が多くなったからだといわれています。

 慶長8年(1603)、伊予郡松前の地から、松山藩の初代藩主として松山城に入った加藤嘉明は、松山城の守護神(守り神)として、松山城周辺の八社八幡を選び、厚く敬いました。

 山崎八幡宮も、この8つの中の1つに選ばれています。この山崎八幡宮は、明治3年(1870)、朝日八幡神社と改められました。

 昔の人は、この8つの神社にお参りすることを「八社参り」といって、とても楽しみにしていました。 春と秋の社日(春分・秋分の日に最も近い、つちのえの戌の日)にお参りをしていたようです。このお参りの途中では、よその村の麦の成長ぶりがよく分かって、たいへんためになったということです。しかし、この八社参りは乗り物のなかった昔は、たいへんなことだったと思いますが、それだけに御利益もあったのでしょう。

 この朝日八幡神社は、氏子は南江戸はもとより近くの町にも多く、人々の信仰を集めています。

 宝物には、古鏡一面、神鏡三面、太刀二振があります。

大宝寺
大宝寺は奈良時代に大宝元年(701)に、国司(今の県知事にあたる)の越智玉興が創立したと伝えられています。本堂は、建てられた年代を知る資料はありませんが、形式から平安末期と考えられ、県下では現存する最も古い和様の建築物です。

 桁行五間(10、65m)、梁間四間(8、85m)の寄棟造、柱は全部円柱で四隅柱の上に舟肘木が用いられています。屋根は緩やかに曲がり、軒が二重になっているため、つり合いがよくとれていて、簡単ではあるが美しい建物です。

 その後、貞享2年(1685)に修理されましたが、修理棟札は本堂とともに国宝に指定されています。

 大宝寺には阿弥陀如来坐像2体と釈迦如来坐像1体があり、3体とも重要文化財に指定されています。

 なお、境内には、角乃木長者の伝説で知られ、小泉八雲の「怪談」にも載っている乳母桜があります。

大宝寺の乳母桜
昔、西山の近くに角乃木長者といわれる人が住んでいました。

 長者というのは金持ちのことで、なんの不自由もない暮らしをしていましたが、年を取っても子どもには恵まれませんでした。

 そこで、子どもが授かりますようにと大宝寺の薬師如来にお祈りしました。やがて、願いが叶えられて、かわいい女の子が生まれました。長者は「るり姫」という名を付け、乳の出ない母親に代わって、お袖という乳母に世話を頼みました。

 乳母は、るり姫(露ともいわれている)をわが子のように、かわいがって育て、美しい娘に成長しました。

 ところが、るり姫が15歳になった時、たいへん重い病気にかかってしまい、ついには医者にも見放され、今は死を待つばかりになってしまいました。

 長者夫婦はもちろん、乳母の悲しみようはたいへんでした。

 乳母は、37日間の断食をし、毎日のように薬師如来にお祈りをしました。

「自分の命とひきかえになってもかまいません。どうぞ姫の病気を治してください」

 やがて、5日、6日と日がたつにつれ、るり姫は少しずつ元気を取り戻し、反対に、乳母の体はやせ細っていきました。断食を始めて37日たった満願の日、るり姫の病気はうそのように治って、すっかり元気になりました。長者夫婦はたいへん喜び、親戚や知り合いの人を呼んで、にぎやかなお祝いをしました。

 ところが、その夜、乳母が急に倒れてしまいました。乳母は、薬も、好きな食べ物も一切口にしませんでした。

長者が「せっかく姫がよくなったのに、お前にもしものことがあったら大事じゃ。はよ薬を飲んで、元気になっておくれ」と言うと、乳母は、「ご主人様、わたしはお嬢様の身代わりになるために薬師様にお祈りしたのでございます。もうわたくしの願いは届きました。喜んで死んでいきます」

乳母はそう言って、出された薬を飲もうとはしませんでした。

「ただひとつ、お薬師様へのお礼にお堂の前の桜を植えたいと思っていました。それができなくなったことだけが心残りでございます」

 これを聞いて長者は、すぐに立派な桜の木を薬師様のお堂の前に植えました。乳母は、長者夫婦の思いやりをありがたく思い、安心したように、「桜の花が咲くようになれば、この木に不思議なことが起こるでしょう」と言い残し死んでしまいました。

 お袖の命日にあたる翌年の3月28日、桜が美しい花を咲かせました。不思議なことに、その桜の幹からも、乳母の乳房のような紅色のみごとな花が咲いていました。

 この花は毎年咲き続け、土地の人たちは、いつのころからか「乳母桜」と呼ぶようになりました。

 この桜の木は、美しい枝振りと乳母の伝説により、松山市の天然記念物に指定されています。郷土の俳人、村上霽月が次のような句を残しています。

 「花吹雪畑の中の上り坂」

山内神社
江戸時代の享保17年(1732)に、西日本一帯では水害や農作物の病虫害のために作物がほとんど取れませんでした。

 そのために食べ物がなくて飢え死にした人は、全国でおよそ1万2千人、松山藩では3千4百89人もいました。これを享保の大飢饉といいます。

 松山地方ではその年の5月の終わり頃から天候が不順となり、長雨が続きました。

 そのため、重信川をはじめ、各地の川が増水し、はんらんしました。この雨は7月頃まで続き、稲はほとんど腐り、枯れていました。

 また、この水害の上に、稲の害虫であるうんかが発生して、稲ばかりか雑草まで食い尽くし、最も被害がひどかったのは伊予郡筒井村(今の松前町)付近では、野原に一本の草も生えていなかったということです。

 あまりの被害のひどさに驚いた松山藩主松平定英は、享保17年12月に、江戸目付役の山内与右衛門を松山に返し、その被害の調査をさせました。

 ところが、翌年の5月に藩主定英が病死し、その後、藩の重役たちは、与右衛門の調査に誤りがあったとして与右衛門に切腹を命じました。

 享保18年12月5日、与右衛門が49歳の時です。

 伝説によると、切腹の命令に納得がいかなかった与右衛門は、切腹の場所である味酒の長久寺(今の高砂町)にかごで送られる途中、かごを踏み抜いたり、また、切腹した時の短刀の血を拭う紙を投げ捨てたりしたそうです。その投げ捨てた紙は庭石に当たって離れず、いつまでも残っていたといわれています。

 8年後になって、与右衛門は無実の罪であり、かえって忠臣であったことが藩に認められ、与右衛門を神様として祭る社が朝日八幡神社のふもとに建てられました。

 これが山内神社です。山内神社は昭和20年7月26日の戦災で焼けてしまい、小さな社があるだけでしたが、その後有志の寄付をあおぎ、昭和3年4月社殿が新築されました。

 この社の石段の下には俳人正岡子規の

「西山に桜一木のあるじ哉」

という句碑が建っています。

 この「桜一木のあるじ」というのは忠臣山内与右衛門のことをいっているのです。

 昔は、朝日小学校(後に、第五尋常小学校に合併される)と味生小学校の子どもたちは、4月23日の山内神社の祭礼の日には先生に連れられて参拝し、山内与右衛門をたたえる歌を歌っていたそうです。

祇園社
明治維新前のこと、この辺りは松山藩家老服部玄藩の下屋敷であり、当祇園社は、家老が素戔鳴尊を祭神として武運長久と一族の安泰を祈願していたところということでした。

 その後、明治か大正の頃、生島という伊予絣の作業場の一角にお社があったとのことです。

 お祭りは、年1回、7月13日から3日間催され、阿沼美神社の神主を迎え祝詞をあげ、町民はお祓いを受け御神酒をいただきます。

 古い当時は、お祭りの飾りとしてシジミの身を除いて殻を開いて数個を糸でつなぎ、房とし、葉は紙で作ったものを家の軒につるしたとも聞きました。

 後になって、藺草に紙の花びらを通して町内につるし、木枠のボンボリに障子紙を貼ってスイカ、カボチャなどの絵を描いて灯火を入れ軒先につるしていました。

 お祭りの賑わいは、古くは屋台がたくさん並び子供相撲も盛んで映画や浪曲などもあったようです。また、屋台や子供相撲も盛んで大勢の参拝人で賑やかでした。太平洋戦争になってからは、年々少なくなり、戦後は祭日も7月14・15の2日となり、以前のような賑わいはなく、神主を迎えた祈願だけの簡素なお祭りになりました。

 祭神の素戔嗚尊は、平和と住民を守って下さる神様であると、神主に聞きましたが、大正10年前後に悪病が各町内に発生したとき、江戸町の町民は社殿前にムシロを敷き熱心に祈願し、町内からは死者は出なかったそうです。

 戦時中、町民は毎朝5時に祈願参拝をし、おかげで出征兵士に戦死者はなく、松山空襲でも死傷者はなかったそうです。

新玉地区秋祭り
10月5日、6日、7日の3日間は、松山地方の秋祭りです。

 この秋祭りは、神様に豊年を感謝して行われる祭りです。

4日の日にのぼりを立てます。5日の「よい祭り」に、家々では、門にちょうちんをつるします。

 子どもたちは、中張ちょうちんを持って家回りをし、最後に、大きな子だけで朝日八幡神社で「お神楽」が催されます。各町は、おみこしを午前中に朝日八幡神社に宮入させます。この夜に、神官が、神様の御霊(みたま)をおみこしに移すのです。

 昔、本村の中張と古照の中張との間でけんかが起こり、中張の柄でたたき合うというようなことが2年程続いたことがありました。

 その後、両方の組を1つにした青年会を作ったり、祭りには、本村のおみこしで両方の町回りをしたりしているうちに、仲良くなっていきました。

 また、この夜は、子供みこしの「取締」は1ヶ所に寝て、翌朝の「宮出し」前に町内を回って、みんなを起こしていました。

 10月7日は本祭りです。「宮出し」は午前3時より始まり、山西が一番早く、続いて衣山という順で、本村、古照、辻沢などは、5時頃から6時頃の「宮出し」でした。

 おみこしは、初めは8体ほどでていましたが、その後、各町が分かれたり、新しい町ができ、その数も増えてきています。

 本村のおみこしは、最初本村と古照と合同で造っていましたが、ずいぶん大きく、米俵で4俵、約60貫(250kg)で、その形といい、金具、胴締といい、りっぱなもので、国宝にしてもいいといわれるぐらい、素晴らしいものでした。

 この朝日八幡神社の氏子は、遠くは大可賀、清住から、山西、衣山、北辻、辻、沢、本村、古照、生石、萱町1丁目、幸町、大手町、宮西町などたくさんありますが、この中で「獅子舞」のあったのは本村と生石だけでした。

 本村の「獅子舞」は、「雌獅子」で、その動作はとても優雅で、大太鼓、小太鼓に打ち出されて始まります。

 前曲と奥曲に分かれ、「獅子おどし」「芋堀り」「山荒し」「悪魔はらい」「獅子おこし」「山さがし」などの曲がありました。


大峰ケ台
大正の末ごろ、朝日尋常小学校の先生で大峰ケ台はもちろん、松山市周辺の古墳について調査されていた柳原多美雄先生(後に松山市教育委員、松山市文化財専門委員となる。故人)が、大峰ケ台で発掘された古墳を調べた時のようすを次のように話されています。

 「大峰ケ台の尾根を西へ下ると、7号目辺りに石棺のふたが露出しかかった古墳がみつかりました。青く、うすくて、平らな板石(緑泥片石)の蓋でした。

 まず、蓋の上にかぶさっている土を手で取りのけて、蓋を開けました。

 縦2m、横60cm、深さ50cmほどの石棺で、石の部分は赤く朱が塗られ、底には小さな石が敷き詰められてありました。そして、中には頭部を東にし、両足を西に伸ばした整然とした人骨が横たわっていました。

 左肩の辺りには55cmぐらいの両刃の剣が置いてあり、右肩のところには35cmぐらいの矛がありました。

 また、首の辺りには珍しい平たくて、つるつるした石で作られたまが玉1個と同じような小さな石の玉がたくさん置かれてありました。

 翌日、再びふたを開けると、昨日はあれほで整然としていた人骨は、地面に叩きつけられた灰のようにくずれ落ちて、変わり果てた姿になっていました。ただ、歯だけが大きく残っていたのが、印象的でした。(これは千数百年もの長い間閉じ込められていた人骨が、急に外の空気にふれて崩れ落ちた風化作用だと考えられる)

 その後詳しい調査で、副葬品(いっしょにうめられているいろいろなもの)や、まが玉からみて古墳時代前期の古墳であると考えられ、たいへん珍しいものだということが分かりました」

 大峰ケ台周辺では、これまでに多くの遺跡や古墳が発掘されています。

 大峰ケ台の9合目付近には弥生中期の円形縦穴住居跡が3つ、朝日八幡神社裏には前方後円墳と思われる古墳が1つ、その他の古墳としては、大峰ケ台の北の屋根に2つ、同じく大峰ケ台の上の方に1つ、また、西の山の南側ふもとのみかん畑には4つというように、たくさんの古墳が発掘されています。

 大峰ケ台はこのようなたくさんの遺跡や古墳が発掘されたことから、松山市の埋蔵文化財の宝庫といわれています。

 しかし、これらの遺跡や古墳も今は跡形もなく取り壊されたり、埋められたりしています。

 今でも大峰ケ台のふもとの宮前川より北の住宅地や畑などは、どこを掘っても土器のかけらなどが出てきます。

 このことから、この付近の地下には住居跡があったのではないかと想像されます。

 昭和25年5月に国の文化財保護法が制定されました。

 この法律は古くから残されている建物や遺物などの文化財や、土地の下にうずもれている遺跡や古墳などの埋蔵文化財を大切に保存しようというものです。また、文化財を傷めたり埋蔵文化財をむやみに発掘したりすることを法律で禁じています。

 私たちは、郷土の文化財を後の世の人に残す財産として大切にするとともに、これらの文化財について学習することは、大事なことだと思います。そして、遠い昔の人々の暮らし方や、歴史の移り変わりの様子を知り、これからの私たちの生き方についても深く考えるようにしたいものです。

古照遺跡
古照遺跡は、松山市南江戸四丁目の松山市下水道終末処理場内で発見されました。

 遺跡付近は、発掘前は、また一面の水田でした。古照と呼ばれる辺りのすぐ北には、宮前川を隔てて大峰ケ台(133.2m 土地の人は西山と呼んでいる)があり、北西には丸山や岩子山の低い兵陵が連なっています。

 石手川が上流から土砂を運び続け、長い間に古照辺りの土地をつくっていったわけです。

 昭和47年11月9日、松山市下水道終末処理場の建設工事中に、地下5〜6mのところで丸太材(自然の木)の一部が出ているのが発見されました。

「松山市南江戸の工事現場で、弥生時代のうずもれた住居跡を発見」

このニュースは、全国の人々を驚かせました。弥生時代の住居がそのままの形で見つかったとすれば、たいへんな発見ということになります。

 空気にさらすと痛みが激しいので、11月11日に再び埋め戻されました。

 発掘は、翌年の7月2日から始まりましたが、作業は丁寧に進められ、1つ1つ粘土や土を取り除いていきました。

 その後の大掛かりな調査の結果、これは住居跡ではなく。4世紀(1600年ほど前)に造られた、しがらみ(水をせき止める堰)であることが分かりました。

 土にうずもれた住居ではなかったのですが、古代のこのような大掛かりな水利工事の跡が見つかったのは全国でもめずらしく、当時の農業技術の発達や松山平野での米作りの様子を調べる上で、たいへんな資料になると考えられました。

 2回目の発掘調査では、3つの堰がみつかりました。

第1の堰は、長さ13m、幅は最も大きい部分が2.8m、高さ1mありました。

 第2の堰は、長さ24m、第3の堰は、6mありました。


生石阿弥陀如来
今から約340〜50年前に、今の生石町のあるお百姓さんが田を耕していたところ、くわの先にカチンと当たったものがありました。いったい何であろうかと掘り起こしてみると、それは幅24センチ、高さ約48センチ、厚さ約20センチぐらいの仏像を刻んだ石でありました。

 お百姓さんは驚いて宝積寺(南斉院町)のおしょうさんに見てもらったところが、おしょうさんは、「これはもったいない阿弥陀如来様のお像である。ていねいにお祭りしなければいけない」と言われました。

 そこで村人たちは集まって相談して、小さなお寺を建てお祭りをすることにしました。そして、このお寺を信常寺と名付けました。その後、このお寺を庵寺と呼ぶようになりました。

 この村の名は古来、伊櫛と呼んでいたが、それからは「石を生む」と言うようになったと伝えられています。

 そして、この阿弥陀様の生れ出た田地を阿弥陀地と呼ぶようになりました。

 村人たちはみんなこの阿弥陀如来を、お阿弥陀様といって深く信仰するようになりました。

 今から90年ほど前に、村の65歳になるおばあさんが精神病にかかりました。

 家族の人たちは、もう治らないとあきらめていましたが、この阿弥陀様にお願いをして、毎日お参りをしていたところ、もう治らないとあきらめていましたが、この阿弥陀様にお願いをして、毎日お参りをしていたところ、病気が治ったそうです。

 また、生石ではこの阿弥陀様のおかげで昔から伝染病は流行したことがないといわれ、また、ボヤはあっても、大火事はないといわれています。

 ところが、これほど村人たちにとってはありがたい阿弥陀様でありますが、これといって決まったお祭りの日はありませんでした。毎年、春と秋のお彼岸の中日に、村の若者たちが子どもを集め、大数珠で直径2m30cmぐらいの円座を造って「南無阿弥陀仏」と唱えながら数珠をぐるぐる回して阿弥陀様を拝んでいました。

 その後、大正12年になって、8月27日を阿弥陀様の大祭日にすることを決めました。この第1回の大祭日は、朝から快晴に恵まれ、生石の人たちはもちろん、近くの土地からもたくさんの参拝者が集まり、青年の芝居や花火の打ち上げなどもあって大変にぎわいました。

 昭和20年7月26日の戦災で、この庵寺も焼失しましたが、その後、今の生石集会所に移し替えてお祭りすることになり、今でも8月27日のお祭りの日には、生石の人たちが集まり、にぎわっています。


幸金さん
幸金は、1920年当時に萱町の町内を流れる小川の中から堀り出されました。高さ50センチの赤い石の柱がご神体です。

もともと、昔このあたりは「かや」が生い茂った所で、町名も萱町と言われていたように川筋に当たっていました。松山藩主・加藤嘉明が石手側を整備するまでは、たびたび川が氾濫していました。この洪水の時に上流から折れた石の柱が流れてきて、そのまま砂の中に埋まってしまったものでしょう。

この石に彫りこまれた「幸金」という名前が良かったのか、この付近の住民は「幸せを呼ぶ神様」としてお祭りしました。現在、毎年7月下旬に朝日八幡神社の神主さんをお迎えして、町の人たちがお参りをしています。戦争前までは、たくさんの人が集り、子ども相撲や映画の上映など賑やかなお祭りだったようです。

庚申さん
南江戸本村地区は、明治初期30戸内外の村落で南・中・北の三組に分かれていた。その南組に属した村の南西の一角に境内(83u)に間口3・6m、奥行4・6mのお堂が建立された。子どもたちの格好の遊び場でもあり、大人たちも農作業の合い間の憩いや社交場ともなっていた。お堂には三体の石仏が鎮座している。(庚申さん、お地蔵さん、大日如来像)それらを庚申さんと呼んでいる。庚申像の横には享保14年と刻まれ、また前にある手洗には天保14年とある。3体は出土したものを合祀したものと思われる。当時飢饉が続き荒廃した農民の心のよりどころとして建立し、五穀豊穣と家内安全を祈ったものと思われる。庚申さんは(庚申)の日が縁日で、8月24日は縁日として組内の老若男女が相寄り大きな数珠を回し念仏講を行っている。

大手町
大手町は昭和13年ごろから戦争が激しくなるにつれて、たくさんの兵隊がこの町を通り、松山駅から汽車に乗って戦地へ出発して行きました。
兵隊たちが戦地へ出発したり、戦地から帰って来たりするたびに、人々はこの町筋に並んで見送りや出迎えをしていました。

袋町
出淵町通りを突き当たったところに松山市の公会堂が昭和の始めまであった。今でいうなら市民会館である。明治二十四年に建てられたもので、この場所で様々会合が開かれていた。県会や市会にも利用された。松山高等学校の仮校舎にも使われたことがある。ところが昭和になって売り出され、跡地も分譲される。

 建物は青年会館として東雲学園の北側に持っていた。建物は古くなっていたが、木組みは丈夫なものだったという。今の常識で考えたら公共施設である公会堂を処分した以上は、別のところにそれに代わるものを建設しそうなものだが、売りっぱなしで何の処置もしていない。市議会も青年会館を借りて開く始末であった。よほど財政事情が悪い時代だったのであろう。


木村屋敷
出淵町の通りと萱町筋の交差する南側に一軒のものものしく大きな家がそびえ立っていた。昭和の時代にはすでに内部を改造して旅館や商店などに使われていたが、壁や屋根などに昔ながらの風格があふれていた。

 この家は木村屋敷とも呼ばれ、藩政時代からの富豪だった木村家が建築したものである。

屋号を布屋といい、町役人として最高の地位である大年寄にもたびたび選任されている。大年寄は士分に準じた扱いを受け、名字帯刀を許される特権もある代わりに、その財政力に目をつけられて、藩へ御用金を納入させられもしていた。こんなことから町の人は「藩へ金を貸ていたそうな」と言い、単に木村と呼ばず「大木村」尊称していた。

 また木村屋敷は、海南新聞が発足したところでもある。

稲荷町
萱町三丁目の満行寺辺りから松山税務署がある三丁目の端までは、しもたやが並んでこれといった特徴もなかった。町の人に聞いても「三丁目は何もないさみしいところだった」と、さしておもしろみもなかったことを強調する。

 三丁目で生まれ育った小泉与市さんによると、昔は大野という古いタンス屋「火よけ稲荷」が祭られていたが、後に南江戸町の朝日八幡神宮境内へ移した。町内には稲荷講があって、毎年日を決めてお祭りした。


生石町の昔の待筋
生石町は、江戸時代より南江戸村に含まれていたが、明治22年(1889年)町村制により合併発足した朝美町へ編入された。

 大正15年(1926年)朝美村が松山市に編入され、生石町として発足した。

 生石町は、一般に生石土堤と言って、土地が高く、生石街道(旧道)に沿い、道に面した家より北側が新玉校区、道路に面していない南側が雄郡校区(現在は、たちばな校区を含む)になっている。

本村分館
昭和36年4月、松山市南江戸ニ丁目(現在のサクラメント通り)にサクラメント市とのシンボルとして誕生した、ゴールドマイナー像設置場所に木造平屋建てで公民館が建設されていた。

そのころは公民館事業として子供会、女性会、青年団活動も活発に行われ、町民運動会、ソフトボール大会、盆踊り大会を開催し、町民住民との親睦を図っていました。

また、地方祭の時は青年団獅子の会メンバーが子どもみこしと町内を巡り、獅子舞を披露していました。旧公民館の敷地内には滑り台、ぶらんこ、鉄棒などの遊戯施設があり、子ども達の遊び場として利用されていました。

その後、町の人口も増加して公民館も手狭になり、また、都市計画道路建設により移転することとなり、昭和63年3月20日、現在の南江戸1丁目に新玉公民館本村分館が、鉄筋コンクリート造2階建て(268.52u)で建設され、地域のコミュニティ活動施設として町民の方々に広く利用されています。

新玉分館
昭和50年3月松山市三番町六丁目4の21に松山市が建設した。

 建設に至る経緯については、町内にも小さな集会所はあったが、大集会の時は児童館を利用していた。しかし、何かと支障があり、集会所の計画時期に松山市急患医療センター建設にあたり市との折衝により分館が建設された。

 その後、土地企画整理により百五十軒の住居を新築した三番町ハイツに移転。新玉分館も平成3年1月三番町ハイツ西側1階に移転した。現在新玉分館は、青年活動、小学生の学習の場として使用されている。また、町内会、老人会等に大いに活用されている。

古照分館
新玉公民館古照分館設立の経緯

 古照分館、敗戦後焼失を免れた民家を借りて分館活動を行っておりましたが、一時離散していた被災者たちも復興が進むに従って漸次復帰し、また移住者の転入などの要因も加わり規模的、機能的要件を備えた施設の設置が必要となり、住民総意の陳情を行うに至った。十輪院敷地70坪を借り受け、昭和32年1月12日待望の古照分館が竣工した。落成式には松山市長他来賓22名、町側関係者35名が出席して同日挙行され、餅まきなどして盛大に竣工を祝った。

 当時の古照町の規模は、戸数120戸、住民数357名であった。分館は、木造平屋建、建坪24.5坪、工費70万円であった。その後戦後のめざましい経済成長の進展に伴う開発により急速に市街化が促進され、戸数665戸、住民数2100名と町勢も拡大され、併せて旧館の老朽化などの要因から新たな施設の対応に迫られ、新館建設の用地も当時の大宝寺より敷地150坪を借り受け、昭和53年3月31日、現在の古照分館が竣工した。

新古照分館の規模

 鉄筋コンクリート2階建、建坪1F107.25u、2F107.25u、計214.5u、工費16、634、000円、地元負担2、546、500円である。

 新館は、設備も近代化され、備品も充実しており地域活動の拠点として、各種サークル活動、研修会、講演会、情報発信等々、地域におけるコミュニティセンターとして広く住民に利用されている。

西部分館
昭和16年10月頃松山市吉田浜に海軍航空隊飛行場(現松山空港)が建設されていた。建設に伴い学校の校舎の取り壊しがあった。そのころ「町内に集会所を造っては」との話から校舎の一部資材をゆずり受け、2人1組で荷車や牛車を連ねて現富久町を通り持ち帰った。

 建設地は、町の中心地(現在の分館位置)に決まり、レンコン畑のため北西部山の斜面裾部を削り取った土をモッコに入れ2人で担ぎ運搬し、何日もかけ造成したそうです。集会所も建設され、いろいろと活用されていた。入口左側に農機具倉庫があり(町農家所有有籾摺機)が保管されていた。終戦後、戦災により新玉小学校校舎も焼失し、分校として使用されていた時期もあった。

 昭和21年頃青年団活動も盛んになり、小学生の学習の場としても使い、またピンポン台も作りスポーツの場とし、町民の話合いの場としても大いに活用されました。

 昭和54年4月4日現在の西部分館がコンクリート造りで建設され、現在の西部分館が生まれ、あらゆる分野で活動を続けている。

生石分館
生石481番地の阿弥陀庵は信仰の場であることはもちろんであるが、現在の公民館活動と同様、集会、娯楽、教養の場として使用されていた。徳川時代には俳句会なども開かれていたと推測される。空襲で枯死した、庭の白躑躅を詠んだ40〜50句位を集めた木の大額が存在したことによって知られる。

 朝美村の時代には青年の夜学に長く使われていた。

 昭和元年ころ阿弥陀地を当時の国鉄松山駅のために買収され、その資金をもって481番地の2に立派な集会所を建設、公民館活動を行っていた。卓球、料理などに盛んに利用された。

 昭和20年の空襲で庵寺も新集会所も焼失。昭和21年頃庵寺再建の儀が起こり、協議の結果再建となる。当時は預金の引き出しも自由にできない時で寄付金も思うように集まらず、材木は古材、山持ちの寄付材の切り出し、運搬、大工工事の手伝い、左官の手伝いなど労力奉仕で仕上げたが、資金不足で町で処分得る大きな木を全部売却して補った。

 昭和38年8月19日落成の集会所は、昭和22年落成した庵寺を取り去って市によって第1次処理場関係のために建築された集会所であったが、公民館活動に使われていた。

 昭和62年4月20日、生石町514−2に建設された集会所は、第2次処理場関係のため市によって建設された分館として活動中である。


城西中学校
城西中学校は、昭和62年4月、雄新中学校・勝山中学校の分離新設校、松山市26番目の中学校として竹原の地に誕生した。敷地は約27,000uで、グラウンドは縦・横いずれにも100mの走路が取れ、市内の中学校では最大の大きさである。また、校舎の屋上にテニスコートを設けたり、体育館(2階)と柔剣道場(1階)を1つの建物におさめたりするなど、市内の中学校では初めての試みも取り入れられている。建設費は約14億円、用地取得を含めた総事業費は約40億円である。
 開校当時、生徒数は、1,007名(24学級)で、2・3年生の生徒については、6割が雄新中から、4割が勝山中から移った。

新玉小学校の移り変わり
学校の始まり

 私たちの学校は、明治44年4月、松山市新玉町(今の千舟町)に、松山市では5番目の小学校として建てられました。

 これが今の新玉小学校の始まりです。

松山第五尋常小学校

 松山市では、年ごとに小学校が建てられました。そのために、学校の名前も第5尋常小学校と呼ばれるようになりました。

 そのころ、今の新玉地区は、松山市と温泉郡朝美村とに分かれていたので、子どもたちは松山市の第1尋常小学校や第2尋常小学校と、朝美村の朝日尋常小学校へ通っていました。

 朝日尋常小学校は明治7年12月、愛媛県が文部省に報告した公私立小学校表によると、江戸村(昔の朝美村の一部、今の南江戸)にあって、明治7年にお寺を学校として設立しています。

 その当時は先生が2人で、児童は61人(男子42人、女子19人)で、通学していたのは朝美村の辻・味酒・南江戸・生石・衣山・沢の子どもたちでしたが、第5尋常小学校に入ることになったのです。

 この時の第5尋常小学校の児童数は603人、先生は13人でありました。

 

松山新玉尋常小学校

 昭和4年に、それまで第1・第2というような番号で呼ばれていた松山市の小学校の名前を、その土地の名をとって呼ぶように改められました。

 このため、今まで第5尋常小学校といわれていたのが、新玉町という土地の名からとって、新玉尋常小学校と改められました。

 この昭和4年に朝日尋常小学校の校舎は廃止されて、それまでここで勉強していた南江戸・生石の子どもたちは、新玉尋常小学校に入ることとなりました。

 この年の新玉尋常小学校の児童数は1510人で、先生は20人でした。

校舎の新築移転

 昭和の初めころから、新玉尋常小学校では、児童数も増え、千人を超すようになり、また校舎も古くなってきたので、昭和11年2月5日、父兄大会(今のPTA総会)が開かれ、現在地に新築することに決まりました。

 ところが、同年2月8日火災のため、中校舎と北校舎が全焼してしまいました。これがきっかけになって、新しい校舎は別の土地に建てられることに変更されました。

 こうして、昭和13年10月、新玉尋常小学校は今の千舟町8丁目に新築落成したのです。

 この校地が今の場所に変わった時、もとの校地にあった第5尋常小学校のレンガで築いた校門の一部が移され、新玉小遺跡として、今も交通公園の入り口に残されています。

松山市新玉国民学校

 昭和16年4月1日に、校名が松山市新玉国民学校へ改められました。

 この年の12月8日には、昭和12年7月に始まった日中戦争に続いて太平洋戦争が起こり、やがて戦争はますます激しさを増してきました。

 昭和20年7月26日の夜、松山市はB29(アメリカ軍の爆撃機)の大空襲にあい、市の中心部のほとんどが焼野原になってしまいました。

 新玉国民学校も、校舎などがすべて焼けてしまいました。

 昭和20年8月15日に戦争が終わりましたが、校舎ができるまで児童たちは、運動場に建てられた仮校舎や分教場(南江戸の西部や古照の集会所を借りていた)で勉強していました。

 

松山市新玉小学校

 昭和22年4月、校名が松山市新玉小学校と改められました。

 昭和23年の初めころから始められた校舎建築は着々と進み、まず、その年の11月に南校舎が建ち、昭和25年3月には北校舎が建って、全児童がそろって、学校で勉強ができるようになりました。

 昭和20年には、1400人もいた児童も戦災で家を焼かれて各地に疎開していったために、昭和22年4月には626人に減っていました。

 ところが、その後、焼け跡に次々と家が建てられるにつれて、児童数も昭和30年4月には、1038人に増えていきました。

 昭和29年8月には、今の交通公園の所に、縦20m、横10mぐらいの小さなプールが造られました。

 このプールは、松山市の小学校の中でも早く造られたものです。

今の学校

 これまでの、木造2階建校舎は戦後間もなく建てられたもので、古くなったため、施設教育の重要性の認識から、PTAや地域からの強力な要請で昭和49年鉄筋4階建のりっぱな本館校舎(西校舎)が新築されました。

 その翌年には残りの木造校舎に代わって本館校舎に接続して鉄筋校舎が増築されました。これで学校の教室はすべて鉄筋校舎になりました。

 校舎の新築と共に運動場には新しく樹木や芝生も植えられ、学級園も整って、年中花と緑につつまれた明るい学校になりました。