桜花
――What is existence which there is
桜――。
知らない人はまず居ないだろう、日本の国花でもある桜。その散り際の儚さからか、この花には幻想的な逸話がある。
曰く、桜の樹の下には死体が埋まっている。
この話はただの噂話でしかない、そのはずだ。だが――、本当にそうだろうか?
本当に――ただの噂話だと笑い飛ばす事が出来るだろうか。
風に攫われて舞い散る桜の花弁を、見詰めて涙したことがある。――何故あんなにも切なくなるのだろう。
月だけが僅かに照らす夜の闇の中で、桜を見上げた事がある。――理由もも無く、不安で胸を掻き毟った。
あの悲しみは、不安は、どこから来るのだろう。
桜があまりにも美しいから、儚く散り行くから。――本当にそれだけ?
桜の樹の下には死体なんて埋まっていない、はずだ。
ならば桜の樹の下には、桜にはナニがあるのだろうか――ね。
さて、これより語られる物語は、一人の少年の桜に纏わるお話。
彼はその花に何を見たのか、物語はある春の日に始まる。
* * *
三月も瞬く間に過ぎ去り、町には暖かな春の日差しが降り注ぐ。土手沿いの桜並木は満開の様相を呈していて、そこかしこに宴会を繰り広げる花見客の姿が伺える。
たくさんの桜が並ぶ並木道から少し離れた、宴の喧騒も届かない場所に一本だけ、ひっそりと桜の樹が植えられていた。
土手の影に植えられているためか、その木の周りには影が差していて、静かで――どこか寂しげな印象を受ける。
その一本だけ離れて咲く桜の下、一人の男の子が幹に寄りかかって座っている。
年の頃は多く見積もっても中に満たないだろうか、少年特有のあどけなさが残る姿は可愛いらしいと表現しても差し支えないだろう。
彼はその年齢には似つかわしくないハードカバーの本を広げて、時折「ほぅ」等と感嘆の声を漏らしながら物語の世界に没入している。
それからしばらくの間、平穏な時間が流れる。
気が付けばいつのまにか、彼はうとうとと舟をこぎ始めていた。遠くに喧騒を聞きながら、降り注ぐ木漏れ日に包まれて、少年は物語の夢を見る。
やがて日も沈み、空が蒼く染まる頃、静寂の中少年が目を覚ます。
彼は呆けたような目で辺りを見廻して、暫しの困惑。やがて彼の目に光が戻り――そして不安の色に染められていく。
「あれ……? あ……」
自らの置かれた状況に不安になったのか、言葉にならない声を漏らしながら辺りを見廻す。月明かりだけを頼りに夜闇を見渡しても、少年の他には誰の姿も無い。
彼は心細げにうろうろと歩き回っていたが、やがて桜の根元に蹲り膝を抱えて泣き出してしまった。
彼の年齢を考えれば仕方の無い事だろう。目を覚ましてみれば辺りは真っ暗で人の気配も無い、年端も行かぬ少年が夜の静寂に脅えるのは無理からぬことだ。
そうして少年が泣きじゃくり続けて、幾許かの時が過ぎる。もっとも彼にとってそれは、永遠とも思えるほどの長さに感じられただろうが。
気が付けばいつのまにか、蹲る少年の傍らにひとりの女性が佇んでいた。
年齢は10代の半ばを過ぎた辺りだろうか、少女と大人の丁度中間と言った感じの、整ってはいるがどこか幼さを感じる顔付き。腰の辺りまで届きそうな艶やかな黒髪と、どこか憂いを帯びた表情からか、見た目の年齢には似つかわしくない程の落ち着きが感じられる。
透けるように白い肌に良く映える桜色のワンピースを着た彼女の姿は、月明かりだけが頼りの闇夜とは思えないほどに鮮明に浮かび上がって見えた。
彼女は何をするでもなく、ただじっと泣きじゃくる少年を眺めていた。同情も苛立ちも無く、眺めているはずなのに――見てもいないような、そんな態度。
それは傍から見るといささか奇妙な光景だった。お互いに手を伸ばせば触れられるほどの距離にいるのに、遠くにいるかのようなふたり。
いつまでも続くかと思われたその状況に、ついに変化が訪れる。
少年が傍に立つ女性の姿に気付き、縋るような視線を向ける――が、少女は何の反応も示さない。
そして、また沈黙。微動だにせず、ただ少年の方を見詰める彼女の表情からは、何の感情も見受けられない。
彼は不安や困惑の入り混じった表情を浮かべて、戸惑うように少女を見詰めていた。
泣いているところを見られた恥ずかしさ、夜闇の中でようやく誰かに会えたことからの安堵、動こうとしない少女への戸惑いと不安。胸の中で渦巻く様々な感情に翻弄されながら、少年はただ少女を見ていた。
そうして数分の時が流れて、ようやく少年は落ちつきを取り戻し始める。
やがて意を決したように、彼は少女に話しかけた。
「……えっと、お姉さん?」
まるでその呼び掛けで始めてその存在に気付いたかのような態度で、少女が彼の言葉に反応を返す。
「……何?」
どこか感情の篭っていない感じはするが、耳障りの良い声。この奇妙な状況が何でもない事のように思えるほどに、落ちついた声音で彼女は問い返してきた。
そんな事を訊かれても少年に答えられるはずも無い、何かの意図があって呼びかけたわけではないのだから。気圧されたように「あの……えっと」等と口の中で呟いて、彼は再び黙り込んでしまう。
そしてまた、沈黙がその場を支配する。
けれど先ほどまでの沈黙とは違い少女は彼の方を見ていたし、彼の表情から不安の色は無くなっている。彼はは多少の居心地悪さを感じてはいたが、それ以上に安らぎと言うか――何だか先程まで一人で泣いていた事が馬鹿らしく思えるような、そんな感覚に包まれていた。
「君は何をしてるの?」
答えがないことを不思議に思ったのか、少女がもう一度問い掛ける。
「あ――えっと、その……。ずっと本を読んでたんだけど……」
少し慌てながら答える彼に、少女は辺りを見まわしながら「こんなに暗いのに?」と少し可笑しそうに言葉を紡ぐ。
「あ、その……寝ちゃってたみたいです」
悪戯を見咎めらた時のように、少し恥ずかしそうに少年が答える。
「えと、お姉さんは何をしてるんですか?」
怒られるとでも思ったのだろう、少し慌てた様子で少年が問い掛ける。
「別に、何もしてないよ」
「えっと……」
あっさりと「何もしてない」なんて言われてしまい、彼は何も言えなくなってしまう。少しうろたえながら、それでもどうにか言葉を続けようとする彼に。
「うん、もう悲しくなさそうだね」
にっこりと微笑んで、彼女はそう言った。
泣いていた事を面と向かって告げられた気恥ずかしさと、何よりも向けられた笑顔の眩しさで、彼は顔を真っ赤に染めてしまう。しばらくの間うろたえた様子でおろおろとしていたが、やがて意を決したように。
「その……ありがとう」
と、耳まで真っ赤に染めながら呟いた。
それからふたりは寄り添うように桜の樹に背を預けて、いろいろな話をした。
ぽつりぽつりと問い掛けてくる少女に、懸命に彼が答える。会話というには少し拙い、ほとんど少年が一方的に喋っているようなものではあったが、彼にとってそれはとても楽しい時間だった。
ひとりきりだった状況から抜け出せた安心感もあったし――何よりも彼は自分よりもいくらか年上の少女に、恋に近いような憧れの感情を抱き始めていた。
この年頃の男の子が、構ってくれる年上の女性に好意を寄せるのは珍しい事ではないし、夜の桜の下でふたりで話をしているという状況は、少年の心を高揚させるのに十分過ぎるほどだった。
月明かりに照らされた桜の下で交わされる他愛も無い会話は、一時間ほど続いたが、やがて話題も尽きてしまう。
口にする言葉が見つからず、少年は何とはなしに空を見上げる。
――そこに広がっていたのは美しくも幻想的な光景。
夜の桜の下から見上げる空は、昼間のそれと同じものとは思えない姿で、彼は身動きすら出来ずただ空を見上げていた。
数分ほどもそうしていただろうか、ふと視線を感じて目を向けると、少女が彼の方をじっと見詰めていた。
「あ、ごめんなさい……ぼうっとしてたみたいです」
取り繕うように話しかける少年の言葉を、聞いているのかいないのか表情一つ変えずに彼女は口を開く。
「桜、……好き?」
「え? あ、うん。綺麗ですよね」
「それだけ?」
突然の問い掛けに質問の意図を図りかねながら答える少年に、彼女は言い募るように問い掛ける。少年は少しだけ考え込むように桜を見上げ、確かめるように言葉を紡ぐ。
「その、凄く綺麗で――少し怖い、です」
「怖い?」
「何て言えば良いんだろ……、見てると何だか遠くに行っちゃいそうな感じがして――」
「そっか、そうなんだ」
彼自身も理解できていないのだろう、ぎこちなく紡がれる言葉。しかし少女にはそれで十分だったのか、どこか遠くを見るような表情で納得の頷きを返す。
それっきり彼女は黙り込んでしまい、彼もまた彼女の反応に困惑してしまい何も言えなくなる。
そんな沈黙が数分ほど続いただろうか、その場の雰囲気に少年が耐えられなくなった頃、彼の方を見るでもなく少女が口を開いた。
「……それでも、君は桜が好きなんだよね?」
どこか寂しげな少女の言葉に、彼は一瞬言葉に詰まりはしたものの、それでも本心から「好きです」と頷いた。
「そっか、そうなんだ……」
「おねえさんは好きじゃないんですか? 桜」
重くなった雰囲気を変えようと発した少年の問いに、しかし彼女は酷く辛そうに桜の方を見詰めるだけ。
何かまずいことを訊いてしまったかとうろたえる少年を見るでもなく、ただ何かを考え込むようにじっと、じっと佇んでいた。
そしてまた、夜に融けるような沈黙がふたりを包む。
いつまでも続くかのように思われた静けさは、またしても少女によって破られる。
「……好きとか、嫌いとか。そう言うのじゃなくて――」
「え?」
「――これしか、ここしかなかったから、ね」
その言葉の意味は少年には理解出来なかったけれど、それでも呟く彼女の姿が酷く寂しげに思えて。
「……あ、えと」
「あはは、ごめんね。つまらない話しちゃった」
何かを言おうと口を開いた少年を、彼女は笑顔で遮る。――けれどその笑顔は、今にも泣き出してしまいそうなほどに儚くて。
「そう言えばさ」
結局何も言えないまま立ち尽くす少年に、思い出したように少女が声を掛ける。
「え? あ、何ですか?」
「そろそろ家に帰らないといけないんじゃない? もうこんな時間だよ」
その言葉にふと辺りを見渡せば、いつのまにか少しづつ空は明るさを取り戻し始めていた。
「あ――、そっか。……帰らなきゃ」
もうここまでの時間になってしまえば大差は無いという思いもあったが、それ以上に家族が心配しているだろうという思いの方が強かった。
だが帰らなければという思いとは裏腹に、少年の体を強烈な睡魔が襲う。それは抗う事を許さないほどの強い快楽で、成す術も無く彼の意識は眠りの淵へと落ちていった。
眠りに落ちる寸前、少年は夢現の狭間で――
「帰るところがあるんだから、帰さなきゃ、ね」
――寂しげな少女の呟きを聞いたような気がした。
次に少年が目を覚ましたときに見たものは、赤く染まった世界と呆れた様子で彼の方を覗き込む母親の顔。
いつのまにか夕方になっていたらしい、未だぼうっとする頭を軽く振って辺りを見まわすと走り回っている飼い犬の姿が目に入る。
「こんなとこで寝たら風邪ひくよ、ほら起きなさい」
「え、あ――」
少し怒ったような母親の声に、彼は少しだけ身を竦ませて。
「――ごめんなさい」
素直に、謝罪の言葉を口にした。
「何を謝ってるの、そんな真剣な顔しちゃって」
呆気に取られたように、謝る理由がまるでわからない様子で母親が言葉を返す。彼は母親が怒っていないことを少し不思議に思いながらも、謝った理由を口にする。
「だって昨日はここで眠っちゃって、家に帰らなかったから――」
「何言ってるの、昨日はちゃんと家にいたでしょ?」
「――え?」
そんなはずは無い、昨夜はここで転寝をしてしまって、そしてあのお姉さんとずっと話をしていたはずなのに。
「そんな、だって――」
「寝ぼけてるの? 取り合えず帰るよ、夕飯の支度もしないといけないんだから」
尚も言い募ろうとする彼の言葉を遮って、母親は少年の手を引いて立ちあがらせる。
混乱したまま手を引かれて家に帰った少年が見たのは、昨日の日付のまま捲られていない日捲りカレンダー。テレビを点けても、両親に尋ねても、今日は昨日だったはずの日だと告げられるばかり。
――そんなはずはない、彼は確かにあの少女との時間を過ごした……はず。けれど彼以外の誰もがそんなはずは無いと告げる、転寝している間に夢でも見たんだろうと、そう少年に告げる。
そうして幾許かの時が流れて、やがて少年だった彼も少しづつ大人へと成長していく。日々の生活の中で思い出は次第に色褪せ、記憶は朧に消え行く。
桜の季節になると微かに浮かぶ、悲しみにも似た胸の疼きだけを残して――
これは、桜に纏わる少しだけ不思議な物語。
あの少女は確かに居たのか、それとも桜の季節が見せたただの幻なのかは、誰にも――当の彼にさえわからない。
ただの夢なのかもしれないし、ひょっとしたら孤独に咲く桜が共に居る誰かを望んだのかも知れない。
恐らくは夢幻。それが常識的な。当然の考えだろう。けれど散り行く花弁を、夜に佇む桜を見ていると、そんな不思議な出来事も起こり得るんじゃないかと思えるのだ。
桜の樹の下には埋まっているナ何か、それは死体? それとも――想い?
貴方の瞳には、ナニが映るのだろうか、ね。
End