雨と迷子と背伸びしなければ届かない距離



 雨の日は好きだ。勿論晴れの日が嫌いなわけじゃないし、雨を鬱陶しいと思うことだってある。

 湿気のせいで髪が纏まらないのは気に入らないし、洗濯物だって中々乾かない。買い物に行くのだって気が進まなければ、服に泥が跳ねるせいで歩くのにだって気を付けないといけない。

 だけどそんなのは、気の持ちようで何とでもなる事だ。

 普段はしない髪型にする丁度良い機会だと思えば良いし、乾燥機だってある。新しい傘を差して歩くのは楽しいし、思い切って泥の中をはしゃぎまわれば良い。

 もっとも、そんな風に思えるのは、やっぱり私が雨の日を好きだからなのだろうけれど。
 現に、通りを歩く人達の足取りは重く、流れる雰囲気は少し暗い。楽しそうなのは、長靴を履いた子供達と、浮かれた足取りで歩く私ぐらいのものだ。

 でもそれも当然。だって今日は塾も何も無いお休みの日で、大人の癖に手間のかかる父さんは出張で家に居なくて、あの人に会える久しぶりの日なのだから。

 何せここの所擦れ違いばかりで一度も顔を合わせていないし、声だって聞いていない。
 折角の夏休みだというのに、向こうはアルバイトで忙しく、私は私で家事と宿題に忙殺される毎日だった。正確に言えば、あの人が構ってくれないのでそれぐらいしかやる事が無かったのだけれど。
 それが一段楽したと思ったら、やれ実家に帰るだのゼミ旅行だの、慌しい事この上ない。普段はのんびりしているくせに、折角の長期休みに予定をぎっしりつめるなんて何を考えているのか。

 しかも、あの人は電話さえほとんどしてはくれない。そもそも、いい年をして今時携帯電話も持ってないのがおかしいのだ。
 百歩譲って「首輪がつけられてるみたいだから嫌だ」なんて、彼の携帯を持たない理由は認めてあげるけれど、そんなのは電話をかけてこない理由にはならない。

 そう、私は怒っているのだ。
 浮かれてしまうのはどうしようもないけれど、今日ぐらいはがつんと言ってやらなければならない。私だけが振り回されているのは気に食わないし、そうやって生きていくと決めたのだから。

 そうして。私はあの日と同じ様な雨の中を、緩む頬を必死に抑えながら歩いていく。


 * * *


 あの頃、まだ私が完成品だと思い込んでいた頃の事。

 私は所謂不幸な生い立ちという奴で、物心付く前に両親を無くしている。母は私を産んで間もなく、父の方もその三年後にあっさりと息を引き取った。
 父には元より身寄りが無く、一人娘だった母の両親も既に亡くなっていた為、血の繋がった家族と言う意味では、私は独りっきりになってしまったのだ。

 幸いな事に、父と母の共通の友人だという義父が引き取ってくれる事になったので、施設に送られる事だけは免れた。
 義父は血も繋がらない娘を育てるのに向いているとはいえなかったが、呆れるくらいに善良な人間だった。不器用に、けれど確かに私を愛してくれた。

 何より問題だったのは、私が幼いながらにその状況を理解してしまっていた事だ。
 早熟だったといえばそうなのだろう。義父が家事等の生活能力に欠けていたせいもあるのかもしれない。血が繋がっていない事を隠そうともしない、義父の真っ直ぐさも大きかった。
 結果として、小学校に上がった頃には全てを理解して、手間の掛からない子供で居ようとする私が出来上がっていた。

 幸か不幸か私にはそれを実行できる程度の賢さが備わっていたし、同年代と比較して成長の遅い身体と裏腹に、精神の方は順調に大人びていたから。
 優秀な成績を収め、器用に家事をこなし、周りに愛想を振り撒いて。私は完璧すぎるほどに、理想的な子供だったと思う。

 だからといって不幸だったわけでは決して無い。周りの人達に賞賛されるのは心地好かったし、周囲の大人達が「良く出来たお子さんですね」と誉めるのを、義父が照れたように笑う度に、誇らしい気持ちになったものだ。

 学校では非の打ち所の無い優等生として、家庭では家事を任される程度には成長して、意味のない無駄な事はしない。義父に心配を掛ける事なんて何一つ無かった。
 唯一益に成らない事をしていたとすれば、近所の公園に住み着いた野良猫に、毎日餌をあげていた事ぐらいだろうか。それだって、動物にも優しい良い子だと、近所では評判だったのだけれど。

 そんな風にして、十三歳の夏を迎えた頃の事。
 普通、夏休みといえば遊ぶのに忙しいものなのだろうけれど、私はといえば暇を持て余してしまっていた。

 勿論、日々宿題や家事に追われてはいたのだけれど、そんな習慣化されたこと以外には何もやる事を見つけられないでいたのだ。
 それこそ友達と遊びでもすれば良かったのだろうけど、この頃の私は同年代の友人と学校外で付き合う事は殆ど無くなっていた。少なからず、子供のままの周りを見下していたんだと思う。


 そんなある日、私はとても不機嫌だった。
 目玉焼きの黄身は潰れるわ、洗濯機を回したところで雨が降り始めるわ、スーパーのタイムセールで熱狂したおばさんに弾き飛ばされるわと。それはもう、朝から散々だったのだ。

 そうして落ち込んだ気持ちを切り替えようと、買い物から帰る途中に、いつものように猫に会いに公園へと足を運ぶ事にした。
 右手に傘を、左手にはわざわざそのために購入したカニカマを持って、人気の無い公園を歩いていく。片隅にある、屋根のあるベンチがあの子の指定席。

 が、やはりその日は運が悪かったのだろう。いつもなら我が物顔でベンチを占領しているあの子の姿は、影も形も見えなかった。

 それは本来なら、ついてないで済まされる程度の事だったのだと思う。たまたま巡り合わせが悪かっただけの事。
 けれど、その日の私は滅入っていて、何だかどうしようもないぐらい寂しくなってしまった。

 力無くベンチに腰掛けて、ただぼんやりと景色を眺める。知らず知らず手に力が入っていて、握り締めたカニカマが潰れるのを他人事のように見ていた。

 降りしきる雨のせいか、人気が無く重苦しい公園の空気のせいか、或いは後ろ向きになっている気持ちのせいか。
 不意に、もうあの子に会える事はないのだと。そんな事を思ってしまった。

 雨は降り続ける。
 煩いぐらいに鳴り響く雨音に沈みながら、ぐるぐると頭の中を駆け巡る「猫は死ぬところを誰にも見せない」なんて、何処かで聞いたような言葉に抗う術も持たず、一人ベンチの上で震えていた。

 名前さえ付けてはいなかったのに、もう会えないと思うと、どうしようもないぐらいに悲しかった。

 それから、どれだけの時間が流れたのだろう。気が付けば、立ち上がる気力も無くぼんやりとしている私を、不思議そうに眺める人影があった。

 年の頃は二十を越えているかどうかといった感じの、どこか気の抜けたような雰囲気の男の人。ずぶ濡れになっている所を見ると、雨宿りにでも来たのだろう。その割には、屋根のあるこちらに来ないのが不思議ではあったけれど。

 誰も居ないと思っていた公園に人が居た事への驚きと、呆けていた所を見られた気恥ずかしさから、思わず男の人を睨んでしまう。
 何をしているのだろうと後悔する間もなく、私と彼の視線が交差する。言い出すべき言葉なんて見つからないで固まってしまった私に、あの人は「そんな所でぼうっとしてると風邪ひくよ」なんて、間の抜けた言葉を口にした。

 ずぶ濡れになっている人に言われたくは無いとか、そもそも見も知らない他人に言われる筋合いは無いとか、そんな事は言われなくてもわかってるとか。
 叩き付けてしまいたい文句が次々と浮かんでは消え、結局どれも口に出せないまま、私は肩を震わせて泣き出してしまった。

 まさか一言言っただけで泣き出してしまうとは思わなかったのだろう。あの人は慌てた風にこちらに駆け寄って、けれど何をするわけでもなく私の傍に立つだけ。
 慰めるわけでもなく、見放すわけでもなく。ただそこに立っていてくれている事が、妙に心地好くて、同じぐらい悔しかったのを覚えている。

 こんなにも流れるものかと不思議になるぐらい涙は溢れ続けて、どうしたら良いのかわからなくなってまた泣いて、泣き止んで言葉を紡ごうとしてまた泣き出して。
 繰り返しの中で。私はずっとこうして泣きたかったのかもしれないなんて、どこか他人事のように考えながら、滲む視界の中にあの人を見ていた。

 そうして、私は私になって初めて。何を憚ることなく、声を出して泣き続けた。

 暫くして。ようやく泣き止んだ私は、「恥ずかしい所をお見せしちゃって、すみませんでした」なんて、優等生じみた言葉を口にする。
 今更取り繕っても仕方ないとも思うのだけれど、たかだか数年といっても、積み重ねたものはそう簡単に変えられるものでもない。

 あの人はそんな私を、笑うでもなく、慰めるわけでもなく。ただ優しげに「どうしたの?」って問い掛けてくる。
 そんな彼の在り方が、私にはとても暖かいものに思えた。

 そのせいだろうか。「何でもないんです」と答える筈の口は、「何時もいる猫が見つからなくて。もう会えないんじゃないかと思って、不安で」なんて、たどたどしい説明を始めてしまう。
 要領を得ない私の説明を、それでもあの人はしっかりと聞いてくれて。話し終えた私の手を取って、「じゃあ探しに行こうか」と、何でもない事のように雨の中を歩き始めた。

 戸惑う私に、「大丈夫」って言って。
 見つからないかもと不安がる私に、「見つかるまで探せばいい」と笑う。
 傘を差し出そうとする私に、「気持ち良いよ」って言って。
 これ以上迷惑を掛けるわけにはいかないと謝る私に、「楽しいから」と笑う。

 冷たい雨の中を駆け回りながら、当たり前のように笑うあの人を。まるで陽だまりのようだと思ったと言ったら、笑われるだろうか。
 普通の人は「馬鹿じゃない」なんて蔑むのだろう。義父さんはきっと、何も言わずに複雑な顔をするのだろう。あの人は多分、「そんないいものじゃないと思うよ」なんて、照れたように笑うに違いない。

 それでも構わない。誰が何を思おうが、そんな事は気にしない。
 思い込みでしかなくても私にはそう思えたのだし。何より、あの時の私は間違いなく、陽だまりの中ではしゃぐ子供のように笑っていたから。

 そうして、二人笑いながら町中を駆けずり回って、結局猫を見つけられないまま時間だけが過ぎていく。
 気が付けば辺りはすっかり暗くなっていて、少し残念な気持ちはあったけれど、「今日はもう遅いから、また明日探してみます」と私から告げて、その日の捜索は諦める事にした。流石に、こんな時間になっても戻らないと義父さんも心配するだろう。

 そんな私に、あの人は少しだけ申し訳なさそうな顔をして「明日も暇だから、手伝うよと」言った後。「せめて公園ぐらいまでは送るよ」と、当然のように私の手を引いて歩き出す。
 私の家へ帰るには公園を経由せずに直接向かった方が早かったのだけれど、口には出さずあの人の後を付いて歩き始める。交わす言葉は少なかったけれど、ただ傍に居てくれる事が心地好かった。

 正直に言えば、猫を探す事よりもあの人と一緒に居る事の方が、私の中で大事な事になっていたのだと思う。

 公園までの道程はあっと言う間に過ぎて、直ぐに別れの時間がやってくる。出会ったベンチに背を向けて、「また明日」と手を振り合う。
 別れる寸前、「ガサリ」とビニールの擦れるような音が聞こえた。導かれるように目をやれば、そこには暗闇に光る目と、咽を鳴らすような鳴き声。

 探していた猫が、カニカマの包装を器用に破きながらそ知らぬ顔で食事を楽しんでいた。手を引かれ歩きだした時に落としたのだろう、私がこの子に上げる為に買っていたカニカマ。

 思わずあの人と顔を見合わせて、もう一度猫の方に目をやって。それから二人で馬鹿みたいに笑い合う。間が抜けた私達を、猫だけが不思議そうに眺めていた。

 「青い鳥の話みたいです」私はそう言いながら笑い転げる。「無駄足、踏ませちゃったね」と、あの人が笑いながら謝って来た。
 立ち上がって、抱き付いて。「でも、楽しかったです」なんて言いながら、また笑う。可笑しくて仕方がなかったから、子供みたいに笑い続けた。

 猫さえ呆れて何処かへ行ってしまうほどの長い時間を、私たちは笑い続けた後。「そろそろ帰らなくちゃね」と、思い出したようにあの人が口に出した。
 別れる事への寂しさは確かにあったけれど、きっとあの猫のようにまた会えると信じていたから。「今日はありがとうございました」とお礼を告げる私は、文句の付けようのない笑顔を浮かべていられたと思う。

 そうして。どちらからとなく「また」と再開の約束を交わして、それぞれの家路を急いだのだった。


 家に帰った私は、案の定心配して待っていた義父に酷く叱られた。入れ違いになってはいけないからと探しにいくことも出来なかった分、余計に不安を募らせていたのだろう。
 ずぶ濡れになって帰ってきた私を、義父はまず何も言わずお風呂に入らせて、落ち着いたところでどうしてこんなに帰りが遅くなったのかの説明を求めて、それから延々とお説教を開始した。

 疲れのせいで時折うとうととしてしまう私を、その度に起こしながら義父のお説教は続く。口下手なためかお説教し慣れていないためか、言いたい事が行ったり来たりする話は、けれど私を心配する暖かさを確かに伝えてくれていた。

 最後に、もう半ば以上寝ているような状態の中で。「お前は手の掛からない子だから、こうして怒る事なんて今までなかったけれど。……心配するのも、悪くはない」なんて、照れくさそうに呟いた。

 そんな義父の優しさが嬉しくて、「ありがとう、父さん」と口にした言葉は声に出せてはいたのか、それとも夢の中での事だったのか。
 朝になって義父に問い掛けても、答えてはくれないんだろうななんてぼんやりと思いながら。暖かな眠りの中に沈んでいった。


 * * *


 あれから一年以上の時間が流れて、私は変わったといえば変わったのだろうし、変わってないといえば変わってないと思う。

 相変わらず優等生をやっているけれど、クラスメイトと他愛もないおしゃべりをする事が増えたし、数人ではあるけれど学校外でも遊ぶような友人も出来た。

 義父に心配を掛けるようなことはあれ以来ほとんど無いが、ほんの少しわがままを言う事は増えたかもしれない。もっとも、それは例えば買ってきてくる服に注文を付けるようになった程度の事で、「女の子の服といえばフリフリのスカート」しか思い付かない義父の方が悪いと思う。

 そして。日課だった猫に餌を上げに行く事に、あの人に会う事が加わった。
 義父が心配したのか後を着けてきた事もあったけれど、あの人の事を気に入ったのか、今では家で一緒に夕食を取ることもあるぐらいだ。

 あの日以来、私の中でも生活でも、少しづつ小さな変化が起き続けている。それはひょっとしたら別にあの人に会わなくてもありえたことかもしれないし、当たり前の事なのかもしれない。
 完成していたはずの私は、あの日に壊れてしまったのだろう。或いは、完成していたと思い込んでいただけの、唯の幻想でしかなかったのか。

 それでも、私はあの日の出来事を大切に思っている。
 今私が幸せに笑っていられるのは、あの日の事があったからだと、あの人に出会えたからだと、そう信じている。

 あの日から、私の世界に色が付いた。光を、音を、温度を。あの人が私にくれた。なんて、それこそ幻想だと笑われるのだろうけれど。
 構いはしない。笑われても間違っていても、今のこの気持ち以上に欲しいものなんて無いから。


 降りしきる雨の中。屋根のあるベンチで、猫と楽しそうに戯れているあの人の姿が見えてきた。

 私に気付いて手を振るあの人の傍へ、雨に濡れる事なんて気にせずに駆け出す。
 いつでも追いかけられるように、置いていかれないように。買い揃えたスニーカーとカプリパンツ。走り出す準備はオーケー。この幸せな世界で、愛しいあの人を追い続けよう。

 体当たりをするような勢いで飛びついて、「久しぶり」って口にする。
 会えなかった間の愚痴はとりあえず置いておこう。今はただ、一緒にいることを楽しめば良い。頭を撫でられる感触を楽しみながら、これ異常ないぐらいの微笑を浮かべて。

 年齢差を、近所の親しい女の子――良くて妹みたいなものだとしか思われていない気持ちの格差を、物理的な距離を。時間を掛けて、認めさせて、走って埋めてしまおう。

 だからまずは、陽だまりのように笑うあの人に。見上げるぐらいの身長差を背伸びで埋めて、触れるような口付けを。



End



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