風の中
――渇いていた。
いつも、どこにいても、誰といても。心の奥底に、胸の隙間に、足りない何かを求める声が響く。
それは例えば喧騒の中、ふと全ての音が遠のくとき。友人も想い人も家族も、誰とも分かり合えない、そんな不安。
あるいは夜の闇の中、包まれて眠る寸前。言葉も想いも伸ばした手も、何にも触れられない、そんな予感。
他の人と比べて何かが欠落していたというわけではない、はずだ。
別に裕福というわけではないが、暖かな家族。下らないことで笑い、泣き、共に時を過ごす友人たち。突出した何かがあるわけではないが、運動も勉強もそれなりにこなせる自分。
足りないものなんて無い、むしろ満たされてると言ってもいい。
――だけど、ずっと渇いていた。
この渇きに気が付いたのはいつのことだったろう、思い出す事はできない。原因となりそうな記憶が私の中には見当たらないから、恐らくは生まれたときからそうなのだろう。
埋まらない胸の隙間を、自分でもわからない何かを、ずっと求めていた。
ずっと、この渇きを抱えて生きてきたと思っていた。
ずっと、ずっと、この渇きを抱えて生きていくんだと思っていた。
――けれど、それは間違いだった。
その勘違いに気付いたのは、大学2年の春のこと。
あの日私はいつものように退屈な講義を受けたあと、サークルの飲み会に顔を出した。
気に入らない教授の悪口や、少し前に参加した合コンの相手に対する愚痴、中身なんてないただの馬鹿騒ぎ。それでもそれに意味があるとすれば、誰かと共にいること。そうすれば足りない何かが満たされるんじゃないかという淡い夢。
信じてるわけじゃない、そんなことで渇きが癒されるなんて思ってはいない。
それでも誰かと一緒に、話して、騒いで、肌を寄せ合って。……きっと私はただ諦めているだけなんだろう。皆がそうするから、それが普通だから、そうしているだけ。
――そして、それはいつだって無駄に終わる。
あの日もそうだった。宴が盛り上がる中、ふっと全ての音がどこか遠のくくような感覚。周りの楽しそうな顔も、声も、全てが虚ろなもののように思える錯覚。
その中で私は曖昧な笑みを浮かべて、ただ時が過ぎていくのを待つ。誰も、何も私を満たしはしない。何もかも、遠く、遠く、遠く。
「ニ次会としてカラオケにでも行こう」そう誘う友人たちに断りを入れて、1人帰路につく。
家に帰っても何があるわけでもないし、皆と遊び続けていても構わないのかもしれない。けれど耐えられなかった、誰かの傍にいることがが辛かった。
何かが足りない自分は、皆と共にはいられないのだと、そう思えてしまうから。
そうして1人部屋の中で蹲る、明かりも点けず、ただじっと何かを求めて。眠ることも、どうすることもできず。ただ焦燥に焼かれながら過ごす。
それが私の日常、変わらない筈だった私の日常。――けれどそれは、不意に終わりを告げる。
それは偶然だった。ひょっとしたら運命だと言えるのかもしれないけれど、それは偶然だった。
ただ蹲ることに耐えきれなくなって、部屋の中を歩き回ったりベッドに倒れ込んだり。不安を紛らわすためだけの、意味の無い足掻き。
そう、意味なんて無かった。ただ所在無く動いていただけ、それだけのこと。窓を開け放ったのもそう、意味なんてあるはずもない行動だった、それなのに。
――風が吹いた。
まだいくらか冬の冷たさを残した、少しだけ心地好い、それだけの風。
そう、それだけ。ほんの少し、ほんの少しだけ心地好かっただけ。
なのに、私は、その瞬間。
満たされていた、私を苛むあの渇きは、癒されていた。
そうして、そのまま風に包まれていた。
渇きも、不安も、焦燥も。
潤いも、喜びも、幸福も。
満たされていた、全てがそこにあった。
それから私に劇的な変化があったかといえばそうでもない。相変わらず私は日々をそれなりに過ごしていったし、ふとあの渇きに襲われることもあった。
変わったことといえば、時折窓を開けて眠るようになったことだけ。
他人から見たら意味の無い行動、私にとっての儀式。満たされないナニカを埋めるための、些細で大切な儀式。
それからは何事も無く、ただ時だけが流れていった。
学生だった私は社会に出て、目立たないけれど優しい彼に出会って、恋をして、結ばれて。
そして、今日も私は窓の傍に立つ。
どうしてだろう、愛し合うことが出来る人と結ばれてなお、私は渇いていた。むしろ乾きは幸せになればなるほど強くなっていくような気がする、彼との結婚式を目前にして、より渇いていくような気がする。
だから、今日も私は窓の傍に立つ。
ひょっとしたらこれがマリッジブルーというものなのかもしれない、不安が渇きを呼んでいるのかもしれない。幸せに近付けば近付くほど、遠くへ行ってしまうのでは無いかという不安。
何でもそれなりにこなせた私は、だからこそ何も出来ないのではないかと、そう恐れていたのかもしれない。
……こうして昔のことに思いを馳せるのは、私が歳をとった証拠なんだろうか、風の中でそんな風に考える。
今まで生きてきた年月を惜しむこと、それが生きている証なのかもしれない、そんなことを思う。
――ふと、風が止んだ。
そして気付いた、思い至った、確信した。違う、と。そうではないと。
生きていくということは、満たされないということなんだ。足りないものを求めて、悩み、さまよい、足掻き。
そうして死によって満たされる。
嗚呼、それなら私はもう何度も死んでしまっているのだろう。この風に包まれて、満たされるとき、私は死んでいるんだ。
そして風に見放されて、私は生き返らされてしまう。
何かを求める生に、渇きを抱えて産み落とされる。生命に縛られて、ただ足掻くためだけに。
――また、風が吹く。
満たされる、何もかも、全てはここにある。
そうだ、満たされる、生きている。
逆なんだ、満たされないことが生きていることだ何てそんなはずはない。ならばそう……、私はずっと死んでいたんだ。風の中にいるこの瞬間に生まれて、人生という死の中に落とされる。
生命が美しいものだというのならば、満たされているこの瞬間だけが。
――風が止んだ。
もう迷いはなかった、何故なら私は今死んだのだから。
――そして私は風の中に。
最初に感じたのは浮遊感、そして私を包む風。
永劫のような刹那、一瞬の永遠。
恐怖は無い、不安も、焦燥も無い。
違う、そうじゃない。
恐怖も、不安も、焦燥も。
安堵も、喜びも、幸福も。
ここにある、満たされている。
そして、衝撃。
最後に、始まりに、見えるはずの無いものを見た。赤を散らす私の体、ずっと渇きを訴えていた私の体。
それなのに――渇いていたはずなのに。
赤に、紅に、朱に、濡れた体は渇きなんて感じてないように思えた。
……それが、ほんの少しだけ可笑しかった
End