特別な仕事



 焼け付いたアスファルトの上を、重い足取りで歩く。安物のスニーカーのせいか酷く足が痛かった。
 太陽が容赦なく肌を射し、目に映る景色は熱気で歪んで見える。

 北国生まれの俺にとって初めて経験する夏の暑さで、俺は今にも倒れてしまいそうだった。

 人相の悪さのせいで、いくつものバイトの面接に落ちた結果。最終的にたどり着いた警備員職。
 最初の頃こそただ立っているだけの大した事の無いバイトだと思っていたのだが、実際にやってみるとこれが非常に辛い。

 ただでさえ暑さで倒れそうになっているというのに、炎天下で立ちっぱなしなんて耐えられるわけが無い。正直それだけでも最初の頃は無理だと思ったものだ。

 その上労働環境も酷い。
 朝から晩まで、時には丸まる一昼夜働かされたりもする。その癖給料は安い。求人誌に載せられていた「日給一万円以上も可能」なんて文字は、下っ端の俺なんかには縁の無い世界だ。
 バイトなのに残業は当然のようにあるし、残業代なんて缶ジュース代ぐらいにしかならない。
 そんな給料でこき使われた上。現場の人間には文句を言われ、通行人には罵声を浴びせられる。

 全くもってやってられない。けれど他にバイトの当ても無く、仕送りだけでは生活がままならない俺のような苦学生はこうして我慢しつづけるしかないわけだ。救いと言えば給料が日払いな事ぐらいだろう。

 そうやって心の中で悪態を吐きながら、ふらふらする体を抱えて事務所へと戻る。
 無線などの装備は現場が終る毎に返却しなくてはならないため、どんなに疲れていても直接家に帰るわけにはいかないのだ。

「お疲れ様ですー」
「あ、お疲れー」

 心の篭っていない挨拶を交しながら、所長の元へと急ぐ。
 さっさと報告を終らせて、まずはこの汗臭い制服を脱いでしまいたい。そんな思いから、少しだけ乱雑に装備品を返却する。

「今日の現場終了です、特に異常もありませんでした」
「ん、ご苦労さん。ところで北見君、この後の予定は?」

 少し力を込めて報告する俺に、何気なく所長が問い掛けてきた。

 気だるそうなその表情から察するに、恐らくは「自分はまだ仕事があるのに、君は帰れて良いなぁ」とでも愚痴を零す気なのだろう。
 その事に少しうんざりとしてしまいながら、それでも返事をしないわけにはいかないので渋々と口を開く。

「いえ、特に何もありません。帰ってゆっくり休もうかと」
「そっか、んじゃあもうひとつ現場行ってくれる?」

 だが予想に反して、所長の口から出たのは信じ難い台詞だった。

 尋ねているような口調ではあるものの、経験上これは拒否できない命令だ。一度断ったことがあるけれど、その時は一週間ほど仕事をまわして貰えなくて、危うく餓死しかける所だった。

「あの、俺七月からずっと休みが無いんですけど……」
「若いんだから平気だろ? それに今夏休みだし、余裕余裕。それにこの現場おいしいぞ。明日の朝九時までで、なんと一万五千円」

 遠まわしに断ろうとはしてみたものの、当然といった様子で押し通されてしまう。けれど所長の告げた条件はかなり良いもので、少し心が揺れた。

「一万五千って……、本当ですか? 何か裏がありそうで怖いんですけど」
「いや、ちょっと遠い現場でな、山奥だから嫌がる奴が多いだけだ。なぁに、ちゃんと送迎はするから安心しろって」

 どちらにしろ断れる訳もなく、俺は疲れた体を抱えて隊長の運転する車に乗り込んだ。



 * * *



 二時間ほどは車に揺られただろうか、着いたのはかなり寂れた様子の小さな山間の村。疲れのせいでうとうととしていたため道順を覚えてはいないのだが、街中からそう離れてはいない筈だ。

 地元と比べて遥かに都会なこの辺りで、未だにこんなところが残っているというのが少し意外だった。

 車から降りてみても特に工事などをしている様子も無く、警備員が常駐するような建物も見当たらない。

「所長、現場はどこなんです?」
「ん、だからここだって。村の入り口な」
「何でこんなところを?」
「あー、猪とか出るんだよ。まぁ滅多に無いけどな」

 隊長の言葉に思わず辺りを見渡す。周りを取り囲む木々のせいかやけに薄暗く、少し不気味に思える。猪ぐらいならいてもおかしくないと思えるような、そんな景色だった。

「んじゃあ頑張ってな。明日の朝には迎えに来るから」
「えっ、俺一人なんですか?」
「ああ、猪が出るって言ってもそう頻繁に起こる事じゃないしな。念の為でしかないんだ」

 そう言って、所長は車で走り去ってしまった。

 まぁ、一人で現場を任されるのが初めてと言う訳ではない。本当は拙いのかもしれないが、そんなのは良くある事だ。
 それに、実際そうそう何かが起こるような現場でもないのだろう。気楽に構えていても構わないのかもしれない。

 そうと決まればまずは腹ごしらえでも、と思い立ち。ここに来る途中で購入した、コンビニ袋に手を伸ば――そうとしたところで、車内に置き忘れた事に気が付いた。

 途端に焦りが込み上げてくるが、今更どうする事もできない。所長がこの事に気付いて、戻ってきてくれる可能性も薄いだろう。
 財布の中身はそれなりに入ってはいるものの、この辺りにコンビニがあるとは思えないし、見当たらない。来る途中で見かけた食べ物屋まで戻ろうにも、歩いてでは一時間近く掛かるだろうし、何より現場を放棄していくわけにはいかない。

「どうしようもない、よなぁ」
「……どうかしましたかえ?」

 行き着いた結論が余りにも救い様が無い。その事実に打ちひしがれていると、突然背後からしわがれた声が聞こえてきた。
 驚いて振り返ってみると、そこには一人の老婆が立っている。

 ぱっと見たところ、身長は俺の腰よりかは少し上ぐらい。、まぁ、腰が曲がっているせいで、そう見えるというのもあるだろう。
 表情は皺に覆われているせいで良くわからないが、顔立ちはどこか優しそうな印象を受ける。
 こちらを興味深げに見詰める、優しそうな眼が印象的なお婆さんだった。

「あ、こちらの村の方ですかね?」
「そうですよ、お兄さんは何をしてるんですかね?」

 大分歳を取ってはいるようだが耳は遠くないらしく、こちらの質問にもお婆さんはしっかりと答えてきた。腹が減っているせいで大声を出すのが少し辛い今の俺にとってはありがたい。

 「いや、仕事でここの警備をする事になったんですが……弁当を忘れてしまいましてね」
「あれまぁ、そうかえ。それは大変ですねぇ」
「ええ、まぁ一食ぐらい抜いても死にはしないですからね。我慢するとします」

 少し強がるように笑おうとした所で、俺の腹が大きな音を立てた。
 羞恥で顔を紅く染める俺に、しかしお婆さんは優しげに笑いながら口を開いた。

「大きな音だねぇ。家でご飯食べて行くかえ?」
「……いえ、今日はここの現場は俺一人ですから。持ち場を離れるわけにはいけませんし」

 かなり心惹かれる提案ではあったし、好意に甘え様かとも思ったのだが、仕事を放棄するわけにもいかない。そう思い申し出を断る。

 気を悪くさせてしまったかもしれない。そう思いお婆さんの方に目をやると、とても悲しげな様子でこちらを見ていて、何だか居たたまれなくなってしまう。

「あ、あの……」
「そうかえ、それじゃあ仕方ないねぇ」

 言い訳をしようと口を開いた所で、お婆さんが突然声を上げて歩き去ってしまう。その矍鑠とした動きに口を挟む事が出来なくて、俺はとぼとぼと仕事に戻ることにした。



 空腹と戦いながら仕事を続ける。仕事とは言っても特にやる事があるわけでもなく、ただ村の入り口で立ち続けるだけ。
 何もする事がない分、空腹をごまかせないのが辛い。二十分も過ぎる頃には、余りの空腹に眩暈がするほどになっていた。

 素直にご馳走になっておけばよかった。そう思いはするものの後の祭り。
 その内意識さえおぼろげになってきて――。

「お兄さん、お兄さん」

 よっぽど断ったことを後悔していたのか、先ほどのお婆さんの声が聞こえてきたような気さえする。それどころかソースの香ばしい匂いまで――。

「お兄さん、いらないのかえ?」
「――え?」

 どうやら幻覚ではなかったらしく、お婆さんが俺の手を引っ張っていた。傍らに置かれているお盆の上に目をやれば、数個のお握りとジャガイモの炒め物が載せられていた。

「これならここで食べられるじゃろ? たんとお食べ」
「あ、ありがとうございます。いただきます」

 御礼の言葉もそこそこに、貪るように食べ始める。少し震える覚束ない箸でジャガイモを口に運び、もうひとつの手でお握りを頬張っていく。

「――むぐっ!」

 焦ったせいかご飯が喉に詰りそうになってしまう俺に、お茶を渡しながらお婆さんが笑う。

「そんなに焦らんでも、誰も取らんからゆっくりお食べ」
「は、はい」

 受け取ったお茶を一息で飲み干して、再び食事に取りかかる。ただし今度はゆっくりと味わうように。

 塩で握っただけの簡素なお握りに、味付けはソースだけのジャガイモの炒め物。安っぽく簡素なそれらは、けれどとても美味しく思えた。
 お腹が空いていた事もあるのだろう。けれどそれ以上に何だかとても懐かしい味がして、ひとつひとつ味わいながら食べ続ける。

 子供の頃、母が居ない日曜日に父がこれと同じ物を作ってくれたことがあった。どこか不恰好なお握りと、少し焦げてしまったジャガイモの炒め物。
 目の前に並べられた料理は、あの時の物と比べれば格段に上手な出来ではあったけれど、どこか父が作ってくれてた料理を思い出させた。

「ご馳走様でした」

 出された料理を全て食べ終えて、一息ついてからお婆さんにお礼を告げる。
 そんな俺に、お婆さんは皺だらけの顔をくしゃくしゃに歪めて笑いながら、空になった湯呑にお茶を注いでくれる。

「ありがとうございます」

 もう一度御礼の言葉を口にしてから、手渡された湯呑に口をつける。使い込まれた薬缶から注がれたお茶は、温くなってはいたけれど心地好く喉を潤してくれた。

「若い者は、美味しそうに食べるから良いねぇ。婆は最近じゃあめっきり食べられんようになってなぁ」

 近くの木陰に腰掛けた状態で、お婆さんがゆっくりと話しかけてきた。こんな村では若い人は出て行ってしまうだろうから人恋しいのかもしれない。
 もともと人の話を聞くのは好きな方だし、何より美味しい物を食べさせてもらった恩もある。幸い仕事中とは言え特に気を払う必要も無く、俺は次第にお婆さんと話し込む事にした。



 お婆さんはあまり話すのが得意ではないらしく、ところどころ詰ったり同じ話を繰り返したりしながら、けれどとても幸せそうにいろいろなことを語った。俺はと言えば時折職場や学校での失敗談を話す事はあったけれど、ほとんどはお婆さんの話に相槌を返すだけ。

 昔はこの村にもたくさんの人が居て賑やかだったのだと、懐かしむようにお婆さんが語る。
 故郷を出てこっちの学校に通っている俺は何だか居心地が悪くて、ぼそりと「時代の流れって奴ですかね」なんて知った風な事しか言えなかった。

 俺の言葉を受けて「けれど今は食べ物に困ったりはしないから、良い時代になったね」と、お婆さんが嬉しそうに呟く。
 「俺みたいな例外もありますけどね」なんて冗談混じりに答えて、二人で笑いあった。

 他愛も無い会話ではあったけれど、何だかとても楽しくて、どこか暖かかった。
 町の明かりは遠く、月と星だけが優しく照らす夜がゆっくりと更けていく。耳に届くのは静かに響く虫の音と、柔らかなお婆さんの声。

 そんなどこか現実感の無い光景の中で、いつしか俺は眠りへと落ちていった。



 * * *



「――見君、北見君」

 体を揺すられているような感覚と、あまり心地好くは無い野太い声。それに苛まれるようにして目覚めると、突き刺すような日差しが目に痛い。

「……あれ、所長?」
「やっと起きたか。ほら、こんなとこで寝てないでさっさと事務所に帰るよ」

 ああ、そうか。俺は仕事でここに来て――って。

「うわ、済みません。あ、いや別にサボってたわけじゃないんですけど、ついウトウトとしてしまったみたいで」
「あー、良いから良いから。ここはそういとこだからね、それより帰るよ」

 クビにでもされたら生活もままならない。そう思い、必死で謝罪の言葉を並べ立てる。けれど所長は特に気に留めた様子も無かった。

 理由は良くわからなかったけれど、所長は別に咎める気は無いらしい。その事実にほっと一息ついた所で、ようやくお婆さんをほったらかしで寝てしまった事に思い至った。

「あ、所長。ちょっと時間良いですかね? 実は昨日ここのお婆さんにお世話になったので、帰る前に一言言っておきたいんですが」

 申し訳ないとは思うのだけど、このまま帰のもすっきりしない。そう思い口にした俺の言葉を受けて、所長が何故か楽しそうに笑いながら口を開く。

「あ、それも必要無いよ。ここ誰も住んでないから」
「――へ?」

 訳のわからない所長の言葉に、思わず間抜けな声が洩れる。
 そんなことがあるはずは無い。俺は昨日確かにお婆さんと話したし、ご飯までご馳走になったのだ。こうして振り向けば――

 そこにあったのは、打ち捨てられ廃墟と化した村の姿。
 人影どころか、誰かが生活している痕跡さえない。一目見ただけでわかる。ここには誰も住んではいないのだと。

「え、あれ? だって昨日……」
「ほら、誰も住んでないだろう?」

 わけがわからず呆然とする俺に、笑みを崩さないまま所長が話しかけてくる。

 夢でもみていたのだろうか、けれどそうは思えない。
 お婆さんの姿も声も鮮明に思い出せるし、何よりあの味をしっかりと覚えているのだ。あれが夢だったなんて思えはしない。

「おーい、時間無いんだからそろそろ行くよ。急がないと会議に間に合わないんだよ」
「でも、だって。俺は確かに……」
「はいはい、わかってるって。ちゃんと説明してあげるから、とりあえず車乗って」

 尚も呆然と呟いていると、所長の手で強引に助手席へと押し込まれる。
 所長は何事も無かったかのように運転席に乗り込み、慣れた手付きでで車を発進させながら、相変わらずの笑みを浮かべたまま問い掛けてきた。

「そんな慌てなくても良いから、まずは『何故誰も居ない村に警備が行くのか』から考えたらどう?」
「――え?」

 宥めるように喋る所長の言葉に、またしても間抜けな声を上げてしまった。

 確かに言われてみればおかしい。警備の仕事があるということは、当然報酬を払う人間が居るはずだ。そうでないと仕事としては成り立たないし、ましてやこの仕事の報酬は大きいのだ。

「あ、じゃあやっぱりあそこには人が住んでるんじゃないですか、猪がでると困る人が」
「外れ。というか猪が出るってのは嘘な、出るかもしれないけど見た事は無いし」

 考えた末に出た仮説は、しかし直ぐに否定された。その身も蓋も無い言い様に、瞬間かっとなってしまう。

「嘘ってどういうことですか!?」
「そんな怒るなって、嘘って言ってももちゃんと給料は出るから」
「そう言う問題じゃないでしょう!」
「あーもう、大きな声で喚くな。あんま寝てないから辛いんだって」

 問い詰める俺に、けれど所長は平然とした態度を崩さない。それが無償に苛立たしくて、思わず睨みつけてしまう。

「そんな怖い顔するなって、ちゃんと説明してやるから」

そう言って、所長は胸ポケットから取り出した煙草に火を点ける。

「話自体は単純なんだよ。あそこには誰も住んでいないのに、警備の仕事がある理由はな」
「単純?」
「そう、あそこの警備を依頼したのは、他でもない俺なんだよ」
「――へ?」

 美味そうに煙を吐き出しながら、所長が訳のわからない事を言い出した。
 思わず間抜けな声を上げる俺に、どこかからかうような笑みを浮かべて所長が言葉を続ける。

「普通、どこの警備会社も他の企業から依頼を受けて人員を派遣するだろ?」
「はぁ……、まぁ詳しい事は知りませんけど、そう言うのならそうなんでしょうね」
「あの村の仕事は、俺が個人として会社に依頼した。って事だよ、自腹でな」

 そこまで言って、所長は半分ほどまで燃え尽きた煙草を灰皿に押しつけた。

 所長の言ってる事自体はまぁわかるのだけれど、それでは何の説明にもなっていない。そう思い文句を言おうとしたところで、所長がニヤニヤとした表情で口を開くy。

「どうした? まだ何か不満そうな顔だな」
「不満も何も、説明になってないじゃないですか。そもそも所長は何であの村の警備を依頼してるんですか。それも破格の報酬まで出して」

 ――ましてや幽霊が出るようなところ。とは口に出さなかった。

 別に幽霊の存在を信じるとか信じないとかではなく、ただあのお婆さんを悪く言っているような気がしてイヤだっただけだ。

 別に俺は今回の仕事について文句をつけたいとか、ましてや訴えようなどと思っているわけではない、まぁそれ以前に誰も信じてはくれないだろうが。
 ただ単純に、どうして所長がそんな事をしているのかが知りたかっただけなのだ。

「そんなの決まってるだろ、美味かったからだ」
「美味しかったって……」

 所長の口から発せられたのは、驚くほど単純な理由。
 どんな複雑な事情があったのだろうか。等と考えていた俺は、そのあまりに単純な理由に思わず呆れてしまう。

「北見君も食べたんならわかるだろ?」

 そんな俺に、所長は当然とでも言いたそうに問い掛けてくる。
 その所長の、どこか優しげな笑みと、何だか遠くを見ているような表情が、昨日のお婆さんと少しだけ重なって見えた。

「そう、ですね。……美味しかったです、とても」
「だろ? ――理由なんて、それだけで十分だ」

 そう言って、所長はミラー越しに今はもう見えなくなったあの村の方向に目を向ける。その表情はとても優しいものに思えた。

 俺も振りかえってあの村の方を見て、それからそっと目を閉じる。
 相変わらず肌を焼く日差しを浴びながらでも、目を瞑ればお婆さんの姿が浮かぶ。

 閉じた目に映るのは、優しげに笑うその姿。
 耳を澄ませば、しわがれた笑い声。
 蘇るのは、懐かしくて優しいお握りとジャガイモの味。

 茹だるような熱気の中、がたがたと車に揺られながら。
 休みが取れたら実家に帰ってみるのも良いかもしれない、なんて。そんな事を考えていた。



End



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