空に踊る
ふわり、と。体が浮いているような感覚。
目が覚めて、最初に感じたものはそれだった。例えるならば水の中で体の力を抜いた時のような、そんな心地好い浮遊感。
見上げれば遠く、どこまでも続きそうな青。包み込むような、けれどどれだけ足掻いても手の届きそうに無い。
そんな、青。
……しかし、これは一体どうしたことだろう。
まず、目を開けて空が見えるというのが納得いかない。普通は眠る時には室内に居るもので、だから目を覚ました時には天井とかが見えるのが普通なのではないだろうか。
となると私は屋外で寝てしまった可能性が高い、それならば目の前に広がる景色も納得できる。
未だぼうっとする頭でそこまで考えたところで、もうひとつ納得できない点に気が付いた。
「……んー、じゃあこのふわふわした感じは何なのかなぁ?」
そもそも、私は何でこんなところにいるのだろう。今更ながらにそんな疑問が浮かんでくる。
辺りを見渡せば、打ちっぱなしのコンクリートの地面に、周囲を囲む柵。どうやらここは、私の通っている学校の屋上らしい。普段昼ご飯を食べる時に利用しているから、見慣れた景色だ。恐らくは間違い無い。
場所はわかっても、どうして私がここに居るかの理由はわからない。こういう時は筋道を立てて思い出すのが良い、テレビでそんなことを言っていた気もするし。
えーっと……
………………
……何も思い出せない。
ここが学校の屋上なのはわかる。私が通っている学校なのは間違い無い、……と思うんだけど。
問題は、だ。
……私、誰だっけ?
これは困った。不思議なことに自分の名前が思い出せない、というか何も思い出せない。
――つまり。
「……記憶喪失? うわぁ、すっごいレア。やったね、初体験だ! これで私も大人への階段を1歩づつ。むしろ3段飛ばしで駆けてくシンデレラっ!?」
とりあえずはしゃいでみる、あまりの衝撃にどうしたら良いのかわからなくなってしまったのだ。
「って違う、喜んでどうするっ!」
誰からも突っ込みが来る様子が無かったので、一応自分で突っ込んでみた。この場には私しかいないのだから仕方が無い。
「はぁ……」
ひとしきり騒いでみて、後に残ったのは絶望感だけだった。
何せこれからどうすれば良いのかがわからない。どれだけ考え込んでも、思い出せるのは「私はこの学校に通う生徒……のはず」という、頼りない一点だけ。
そりゃあ絶望にも打ちひしがれるというものだ。どうすれば良いのか、目処さえ立たない。
ここの学生だってわかったところで、名前もわからないんじゃあどうしようも……。
ん? 学生だってわかってるなら……。
「そっか。学校の中には、私が誰か知ってる人もいるよね」
そうだ、きっとそうに違いない。そうと決まれば善は急げ、校内に全力ダッシュで駆け込むとしよう。
立ち上がり、ドアに向かって走り出――そうとしたところで。
「ぷぎゃっ!」
慌てすぎたせいか、足がもつれてしまった。
けれど勢いだけは止まらなくて。結果、倒れ込む私の頭は、閉じられたドアへとぶつかり――すり抜けた。
「……あれ?」
覚悟していた強烈な痛みが無かった驚きにに、間の抜けた表情で立ち尽くす。
さて、これは一体どういうことだろう?
ぶつかるはずの物がぶつからなかった。というか落ち着いて見てみれば、私の頭だけがドアをすり抜けて室内に入っている。見えないけれど、体の方はドアを挟んで屋上に横たわっているのだろう。
「お? お、を、お?」
試しに何度か頭を上下させてみると、まるでそこには何の抵抗も存在しないかのように自由に動く。
ふむ、つまりこれはあれだろうか……。
恐る恐る体を起こし、視線を足元へと下ろす。
……予想通りというかなんというか、そこにはあるはずの物が無かった。
そう、私の体には――足が無かった。
「あー、そりゃあ足が無かったらダッシュも出来ないよねぇ。納得」
別に私がドジだったわけではなく、足が無かったからダッシュが出来ずに転んでしまったわけだ。
……ってそうじゃなくて。
「きゃー、オバケー!」
とりあえず叫んでみた。やはり年頃の女の子としては、幽霊を見たからにはこれぐらい慌てるべきだと思うし。
……いや、こうでもない。
「うーん、私ってば。……何時の間に幽霊になっちゃったんだろうねぇ」
ぼそぼそと1人呟く、これ以上は自分を誤魔化せそうに無い。
「つまり……死んじゃったんだねぇ、私」
口にした言葉の重さに、思わず押し潰されそうになる。
まだまだやりたいこともあったし、未来への夢も満ち溢れていたのに、死んでしまうというのはかなり辛い。……いや、あんまり覚えてないから、多分なんだけど。
そうやってしばらくぼうっとして、混乱しそうな自分をどうにか落ち着かせる。
まぁ死んじゃったものは仕方が無い。問題は、なぜ幽霊になってるのかだ。
「確かこの世に未練があると幽霊になるとか、そんなのを聞いたことあるけど」
未練も何も記憶が無い、これではどうしたら良いのかまったくわからない。
必死になって思い出そうと努力しても、自分の名前さえ思い出せなかった。けれど3つだけ、3つだけ私の中に残っていたものがある。
赤い空。
浮遊感。
そして――私を殺した誰か。
それだけが、私の中にあるもの。
それだけを胸に、私は町をさ迷い始めた。
* * *
どうやら足が無くても移動には不自由しないものらしく、私はふわふわと浮かびながら、いろいろな場所を歩いて周った。
学校、商店街、海、山。記憶には無いけれど、私が生きていた頃に歩いたのだろう場所を全て。
驚いたのは、結構どこにでも幽霊が居るのだという事実。
生きている人には私達の姿は見えないらしく、当然話をすることも出来ない。必然的に私が話せるのは幽霊だけで、道々で何人かの幽霊と話をした。
最初に出会ったのは、お爺さんの幽霊。
病気で死んだというお爺さんは、骨と皮だけしか残っていないほどに痩せこけていて、ぼそぼそと話す姿が印象的だった。
お爺さんも何故自分が幽霊になってしまったのかはわからないらしいのだけれど、折角だからと可愛い子供の成長を見守っているらしい。
「いやぁ、歳をとってから生まれた子供じゃてなぁ、可愛くて仕方ないんじゃよ。そんなわけで、ずぅっと見守っておるよ」
「そうですかぁ、ちょっとお子さんが羨ましいですよ。そんなに愛してくれる人がいることが」
「……なぁに、嬢ちゃんの親御さんだって、そう思ってたじゃろうよ」
「そう、ですね。私が死んでしまって、きっと、悲しませてしまったんじゃないかと思います。……こんなことなら、私なんて生まれなければ――」
「――嬢ちゃん、それは違う。例え死んでしまったとしても、嬢ちゃんが生まれたときの喜びは、きっと親御さんの中で大切なものとして残っとるはずじゃ」
「……そういう、ものですか、ね?」
「そういうものじゃよ。その証拠にほれ、わしなんて死んでも親馬鹿が治っておらん。……死んだってな、親が子を愛する気持ちは変わりはせんよ。例え子が先に死んだとしても、な」
「はいっ」
そんな会話を交して、お爺さんとは別れた。
お爺さんは「もうすぐ孫が生まれるんだ」と幸せそうに笑っていた。
次に出会ったのは、交通事故で死んだという若い男の人の幽霊。
最初に出会った時、血塗れの姿に驚いてしまったことを覚えている。
彼はバイクが好きで堪らなかったらしく、死んだ時もスピードの出し過ぎで事故ってしまったらしい。それでも彼は、走り屋達が集まる峠にずっと立っている。
「バイクは良いよ。こう……何ていうのかな、風が気持ち良くてね」
「……でも、貴方はバイクのせいで死んでしまったんでしょう? バイクを見るのは、辛くないですか?」
「だって好きだしさぁ。それに俺が死んだのはバイクのせいじゃないよ、俺が下手だっただけ」
「じゃあ幽霊になったのは、バイクへの恨みとかじゃないんですか?」
「いや、人が走ってるのを見るのが楽しいから、それだけ」
「そうなんですぁ。……今、楽しいですか?」
「楽しいよ。どうやらバイク馬鹿ってのは、死んでも治らないみたい」
通り過ぎるバイクを幸せそうに眺めている彼を、少しだけ羨ましいと思いながら、私はまた歩き出した。
最後に出会ったのは、男に騙されて死んだという若い女の人。
同性の私から見てもすごく綺麗な人で、特に艶やかな長い髪はとても素敵だった。
「あらあら、若いのに幽霊だなんて、君も大変ねぇ」
「お姉さんだって若いじゃないですかぁ。……お姉さんは何で幽霊なんてやってるんですか? その……、やっぱりその男の人を恨んでたり?」
「違うわよ、ただ……」
「ただ?」
「彼が心配だったから、かな」
「心配? 自分を騙した男の人なのに?」
「そうなんだけどね。……惚れた弱みってやつよ」
「そういう、ものですか?」
「そうよ、君も好きな人が出来ればわかるわよ。人を好きになるとね、自分が馬鹿になっても良いと思うの」
「私には、わかりません……」
「人それぞれよ。私は他の人より馬鹿になっちゃったみたいで、死んでも治らなかった。それだけ」
悲しそうに、けれど幸せそうに笑う彼女とは、そこで別れた。
たくさんの人と話をしたしたけれど、私みたいに記憶を無くしてしまっている人には出会わなかった。
私が得たものは、幽霊といっても皆が皆辛そうにしているわけじゃないという、その発見だけだった。
* * *
そうして、私は再び学校へと足を運んだ。
日はもうすぐ沈もうとしていて、人気の無くなった校舎はどこか寂しげに見える。
そんな夕暮れの校舎を、ひとり、何かに縋るようにしてふらふらと歩く。
教室、廊下、階段。
薄らと赤く染まる校舎は、私の記憶を呼び覚ましてはくれない。
何も思い出せない、なのにこの世にしがみ付いている中途半端な私。それは、ふわふわと浮かぶだけの、幽霊という身には相応しいことなのかもしれなかった。
それでも、幸せそうに笑う、幽霊になってから出会った人々を羨ましいと思う気持ちも確かにあって――。
考え込んでいる間に、階段の終わりが近付いてきた。ふと上を見上げれば、屋上へと続くドアから夕日が差し込んでいる。
「あれ、屋上のドアが開いてる。……誰かいるのかな」
ほんの少しだけ急いで、屋上へと踊り出る。
そこにいたのは、柵に寄りかかり、景色を見下ろしながら、肩を震わせて泣く1人の女生徒。
良く見てみれば、その女生徒の手にはひとつの写真が握られて――
「――え?」
その写真は、見慣れた、飽きるほどに見慣れた――私の、写真。
赤い空。
浮遊感。
そして、私を殺した誰か。
その時、私の頭に浮かんだのは。
彼女が。
私を。
殺したのだろう、という発想。
「あぁぁぁぁっっっっ!!」
そうして、無駄だとは悟りつつも、私は彼女へと飛びかかった。
届かないはずの声、触れるはずの無い手。だが予想に反して、彼女はこちらへと振り返り。
「亜矢ちゃんっ!? ……そっか、寂しいんだ」
恐らくは私のものであろう名前を呼び、私を見て。何かを理解したような笑みで彼女は頷いた。
私はといえば、思わぬ反応に呆気に取られてしまって、声すらも出せなかった。
「大丈夫、私も……。そっちにいくよ」
「え?」
私が動けないでいる間に、彼女は微笑みを浮かべたまま柵を乗り越え――赤い空へと、その身を投じた。
どこかで見たような光景、私はこの光景をどこで見たのか。
そう、あれは――私が死んだあの日。
些細なすれ違いで、友達に裏切られたと信じ込んでしまい、彼女の目の前で飛び降りた私。
今、目の前で繰り広げられている光景は、その光景と同じだ。私と彼女の立場だけが違う、同じ光景。
――ああ、何てことだろう。
きっと私が幽霊になってしまったのは、彼女に謝りたかったから。
それなのに、それなのに私のせいで。彼女は、赤い空の中で浮かんでいる。
赤い空。夕暮れの校舎。
浮遊感。私は飛び降りて、幽霊で。彼女は、飛び降りて。
そして、私を――彼女を、殺した私。
――本当に、馬鹿は死んでも治らないらしい。
夕暮れの校舎、赤い空に身を躍らせる彼女を見ながら。
私は、自分を嘲る様に笑っていた。
End