兄妹の平凡な日常
/または妹は如何にして心配するのを止めて生活を愛するようになったか
北海道の冬は寒い。これは恐らく日本に住んでいる人なら誰もが知っていることだろう。
アラスカとかアイスランドだって寒いだろうし、当然北極も寒いのだろう。ましてや南極に至っては、南の極みを名乗っているくせに寒いという理不尽ぶりだ。
けれど、そんな寒いと言われる場所にだって暖かい場所はあるはずだ。
雪で作ったかまくらの中は暖かいし、暖炉に薪をくべて火を起こしたり、そうじゃなくても単純に暖かい服を着たり。寒い土地で生きていくために、いろいろな工夫が考えられてきた。
つまり、寒い時に寒い場所へ行くなんて人として間違っているわけで、やはり文明社会に生きる一員としてとそれは避けなければいけない。この考えは正しいはずだ。
――そんなわけで、暖かい布団に包まって二度寝に入ろうとする私の行動は至極正しい。
まだ眠気が抜けきらないぼんやりとした頭で、愚にもつかない屁理屈を並べ立てた後、ゆっくりと眠りの中へと落ちていく。
起きなければいけないとわかっていて、けれどそれを無視してもう一度眠りにつくのはとても気持ち良いものだ。しかも、それが今日みたいに酷く寒い日なら尚更に。
やってはいけないことをやると言う快感に加えて、この身を包む無上の暖かさ。これはもう冬の朝の革命と言っても良いだろうし、こんな至福は他の事では味わえないと断言しても良い。
が、いつだって幸せと言うのは奪われてしまうものだ。
「早く起きてよ」だとか、「朝ご飯が片付かないよ」なんてぶつぶつ呟く声と、ばさりと大きな布がはためくような音。同時に光が視界を真っ白に染め上げて――瞬くまに体を包む、身を切るような寒さで意識が遠のきそうになる。
「…………」
「起きた? 起きたら早く着替えてご飯食べちゃってよ。早く食べてくれないと、いつまで経っても後片付けが出来ないんだから」
あまりの寒さに声ひとつ立てれず、ただ震えている私の耳に、気弱そうな男の声が聞こえてくる。声につられるように視線を上げれば、そこには見慣れたひょろ長い男が立っていた。
この身長だけはむやみに高いなよっとした男は、認めたくないことだけれど私の兄だったりする。
見た目だけじゃなく中身も弱々というか、中身のせいで見た目までそう見えるというか、まぁとにかく見たままそのままの貧弱男だ。
外見だけ取ればまぁ背も高いし、顔だって「私と同じ遺伝子で出来ている」と認めてあげても良い程度には整っている。頭は悪くないどころかむしろ優秀だと言ってよいし、運動だって苦手と言うほどじゃない。なのに――
「早く起きてよー」
――これだ。この男らしさの欠片も無い、頼りなげな雰囲気。これが全てを台無しにしているんだと思う。優柔不断そうというか、見知らぬ場所に放り込まれたウサギみたいというか、とにかく弱々しすぎるのだ。
しかも本人はそのことを気にするどころか受け入れている節があって、周りにからかわれても反論することもない。
当然。と言ってしまうのはなんだけれど、そういった性格の人間は往々にしていじめ等の標的になるもので、ご多分に漏れず兄もそうだ。
別にいじめと言ってもそんな対したことではない、と思っているのだろう。少なくともやっている側と――恐らくは兄自身も。
あるいは実際に大した事ではないのかもしれない。数年もして社会に出て、同窓会なんかで話題に上った時に、そんな事もあったなんて笑えるような出来事なのかもしれない。
けれど、私にはとてもじゃないけど許せるようなことだとは思えないのだ。
私が目にした限り、兄へ危害を加える人間は全てろくでもない連中ばかりだった。
他に勝てるものが無いから、暴力で兄を屈服させることで自らの優位を示そうとする者。
勉強しても勉強しても試験で兄より上位に入れなかったから「アイツは絶対に裏で卑怯なことをしてるんだ」なんて言って、陰湿な手段で復讐を果たそうとする者。
そんな事実を知りながらも「本人が嫌がってないんだから」なんて、見てみぬ振りをする人々。
下らない他人も、意義の無い学校も。全部、全部嫌いだ。そして何より、そんなものを認めてしまっている兄を許せない。
「いい加減起きないと、学校に間に合わないよ? 起きなよー」
「……女性の寝込みを襲うなんて最低だと思うけど、兄的にはその辺りはどうなの?」
「え? あ、いや……」
未だにおろおろとした表情でこちらを見下ろしている兄に、冷たい視線と詰めたい言葉を投げつける。
それで萎縮してしまったのか兄は一層おろおろとした様子で、何を言えば良いのかもわからないかのようにあたふたとその場で足踏みを始めてしまった。
全く。起こしに来てくれたのだから謝る必要なんて無いのに、どうしてこうなんだろう。
「乙女の柔肌は厳重に秘匿されるべきものなので、それを強引に白日の下に晒すなんて人として恥ずべき行為だ。と、兄は思ったりしないの?」
「いや、その……それでも?」
尚も言い募る私に、兄は幾分遠慮がちに私の方へと指先を向ける。正確には私の着ている服――もっと正しい言い方をすれば、私の着ている「猫の着ぐるみ型パジャマ」に。……昨晩の寒さに耐えかねて押入れから引っ張り出してきたもので、断じて普段から愛用しているわけではない。
「黙れ兄」
「う、うん……」
何となく浮かんだ気恥ずかしさを誤魔化すように、いくらか語気を強めて口にする。兄はいつものように曖昧な笑みを浮かべて頷くだけ。……正しいのは兄の方なのに。
いつものように何も言い返してこない兄を無視するように、布団から這い出して居間へと足を運ぶ。ぽつんと置かれたこたつの上には今日もきちんと料理が並べられていた。
「あ、今日のご飯は美味しく出来たんだよ。トマト好きだったでしょ?」
私の視線が料理の上で止まっているのを見て、少し嬉しそうな声音で兄が口を開く。確かに私はトマトが好きだし、兄の料理が美味しいのも知っている。けれど、今日はそれさえも気に入らなかった。
「いらない」
「え? でも食べないと体が持たないよ?」
「良い、今日は学校も休むの」
不思議そうに問い掛けてくる兄にそっけなく答えて、こたつの中へと潜り込む。先客である家の猫をひと撫でして、慌てた様子の兄の声から逃げるように目をつぶった。
「え? どうしたの、体調でも悪いの?」
「熱もないし、どこも痛くない。学校に行きたくないの」
けれど薄いこたつ布団は兄の声を遮ることはなく、余りに不安そうなその声につい返事を返してしまう。掻き毟りたくなるような胸の痛みをこらえるために、そっと猫を抱きしめながら。
「何で学校に行きたくないの? 何か嫌なことでも……」
「学校に行かなきゃいけない理由なんて無いもの」
「行かなきゃいけないって、義務教育なんだし……」
「行ってどうなるの? 勉強なんて学校に行かなくても出来るし、行く必要が無いからいかない」
「え、あ……ほら。学校に行けば友達もいるし、いろんな人に会えるよ?」
――これ以上言ってはいけないと、頭の中ではひっきりなしに警報が鳴り響いている。けれど零れ出した言葉を止めることは出来なくて。
「お兄ちゃんは楽しいの? いろんな人って言ったって下らない人しかいないのに、それでも良いの?」
今までずっと知らない振りをしてきたのに、その一言で台無しにしてしまった。
兄は愚鈍なわけではないから、きっと私が兄へのいじめを知っていることに気づいてしまっただろう。……多分、ずっと前から気付いてはいたのだろうけど。
私が兄を可愛そうだと――見下しているのだと思われてしまったら。いじめられている兄を嫌って――馬鹿にしているのだと思われてしまったら。お兄ちゃんが私を嫌いになってしまったら。
怒涛のように押し寄せてくる嫌な想像に、取り返しのつかないことをしてしまったと、今更のように怖くなってきて――ただぎゅっと猫を抱きしめていた。
再び兄が口を開くまでの数秒の静寂が、まるで永遠のように思えて。暖かいはずのこたつの中は、私を責めるように冷たく感じる。
けれど聞こえてきた兄の声は、まるで何も無かったかのようにいつも通りで。
「良いよー、楽しいこともあるし。だから、学校行こ?」
相変わらず柔らかな声音で、何にも心配することなんて無いんだと告げていた。
そんなぽややんとした兄の言葉に、私は反論する気力も――泣き出してしまいそうな悲しささえも奪われてしまう。
「……ご飯、食べる」
「うん。あ、遅刻しちゃうから早くね?」
気まずさをこらえながらごそごそとこたつを抜け出して、ぶっきらぼうに食事を要求する。相変わらず、兄の作るご飯は美味しかった。
結局、私が溜まった不安をぶちまけたところで何が変わるわけでもない。
私は相変わらず兄の気弱なところを不安に思ったままだし、兄へのいじめがなくなることも無い。が、それでも兄は楽しそうなのだ。
……そして悔しいことに、私はそんな兄が嫌いではないから始末が悪い。
とはいえこの時間が楽しいのだから、まぁ構いはしないのだろう。兄に言わせればそうだし、兄の言う事はほとんどの場合正しいのだから。
それに、兄のことで私が気を使うだけ無駄なのだ。この教訓はこれからの生活に平穏をもたらしてくれるはずだ。……そう思うのも、これでもう四回目だったりはするのだけれど。
日々は続いていく。
こんな大切なような、どうにもならないような出来事を繰り返しながら、答えも見つからないままに。
だけど大丈夫だ。先も見えない毎日の中でも、笑ってくれる兄がいるのなら、私は大丈夫。
いつか、置いていかれる日は来るのだろう。生まれてから死ぬまでずっと一緒にいられるわけじゃない。
それでも、今はまだ傍にいられるから、いたいから。優しい兄の手を取って、我侭を言って、困らせて――二人で迷子になりに行こう。
素直じゃない私は、素直すぎる兄に憎まれ口を叩きながら毎日を歩いていく。そんな日々の欠片。
End