部屋



 薄汚れたテトラポットに腰掛けて、ただ暗い海を眺めていた。

 耳に届くものと言えば波音ぐらいで、それが何故だかとても寂しいと思える。
 ふと時計に目をやれば既に零時を過ぎていて、一日――夏の終わりを告げていた。、――・

 呆気ない、本当に呆気ない夏の終り。

 頬を撫でる風は温く、未だ夏の名残を残している。
 それなのにもう夏は終りだと、何かに急かされるように秋を押しつけられる。

 僕はまだ、この夏に何も残せてはいないのに。

 過ぎ去りし日々に思いを馳せて、そっとため息をひとつ。
 考えてみれば、こんな終りは僕の夏には相応しいのかもしれない。

 始まりさえもあやふやだった日々なのだから、終りもまた同じだ。

 それは例えるならば、冬の終わりに降る雪。
 触れることさえ出来ずに溶け行くように、何も残さず消え行く定め。
 透けるように流れ行く、意味も残らない虚ろな日々。

 まるで、虚ろな僕の生命そのままに。

 何も残らない、何も残せない、下らない生き様。
 紡ぐ言葉は宙に融け、祈りを捧げる宛は無く、延ばしたこの手は届かない。

 死んでいないというだけの、何にもならないこの命。

 何も変わらない、何も終らない、何も――始まらない。
 ぽかりと空いた胸の穴を塞ぐように、煙草を咥え火を点ける。
 最近ちょっと吸い過ぎかな、なんて考えた自分に思わず苦笑が浮かんだ。

 毒を飲みながら健康に気を使う、矛盾に満ちた自分の姿。

 何もかもが馬鹿らしくて、誤魔化すように見上げた夜空。
 朧に浮かんだ月の赤さと、遠く輝く小さな星が、浮かんだ涙で滲んで見えた。
 意味も無く理由も無く、何故だかとても綺麗に見えた。

 何時の間にか止まった風と、遠くに響く虫の声。

 背中を押されるように立ちあがり、ゆっくりと家路を辿る。
 季節が移り行く事を止めないように、僕もまた立ち止まってはいられない。

 けれどせめて、終りに何かを残していこう。

 夏がこの海に、花火と恋の名残を残したように。
 僕は思いを、死にたがっていた自分を置いて。

 そしてまた、日常へと帰って行く。



 こんな文章を目にしたのは、久しぶりに立ち寄った実家の、弟の部屋でだった。
 私と弟は歳が離れているせいか余り仲が良いとは言えず、ほとんど話もしないような関係だったから、弟にこんな物を書く趣味があるとはまるで知らなかった。

 そもそも私がこの文章を見付けたのは、全くの偶然からだ。
 時期はずれな帰省で暇を持て余した私は、何となく弟の部屋へと足を運ぶ事にした。ただそれだけの気紛れが、私にこれを見付けさせたのだ。

 初めて入った弟の部屋には、ほとんどと言って良いほど無駄な物がなくて、どこか寂しげな印象を受けた。
 そんな殺風景な部屋の片隅で、一際存在を主張する学習机。その上にぽつんと置かれたノートに、これは書かれていた。

 何故にこんなにポエムちっくなのかとか、そもそも中学生なのに煙草はどうなんだとか。言いたい事はたくさんある、あるのだが……。



 一番の問題は、このノートの表紙に書かれている『日記』という文字だ。



 さて、これは一体どう言う事だろうか。

 まず考えられる可能性としては、これは弟が仕掛けたドッキリだというもの。
 だがそれにしてはおかしい。それなら自分の部屋に置くよりかは居間にでも置く方が効率が良いし、何より普通は人の日記を読んだりはしない。
 なのでこの可能性はないだろう。

 それではこの日記が、実は日記じゃないと言うのはどうだろうか。初めは日記として使おうと思っていたのだが、途中で飽きて創作ノートとして再利用しているという可能性だ。
 そう思いノートのページを捲ってはみたものの、他のページに書かれていたのは普通の日記だけだった。
 どうやらこのパターンでも無いようだ。

 そこまで考えたところで、ひょっとしたらこれは本当に弟の日記なのかもしれないと、少しだけ不安になってきた。
 胸に湧いた不安を掻き消すように、他の可能性が無いのかを考える。

 そう、例えば……。
 たまたまこの日だけ、こんな文章を書きたくなったとかはどうだろうか。少し苦しい可能性ではあるけれど、有り得ないとは言い切れない。
 けれどその思い付きは、またしても直ぐに否定された。

 ノートに書かれた日記には、ご丁寧にページ毎に日付が書かれていて。問題の文章の上にも、当然のように日付が記されていたのだ。間違い無くこの日の日記であると主張するかのように。

 そこに、何か違和感があった。

 弾かれるようにカレンダーに目を向けて、今日の日付が九月の八日である事を確認する。
 問題の日記は、今日から六日前の九月二日――弟が、自ら命を経ったその日。こんな時期外れの帰省の理由。

 母に聞いた話では、学校の屋上から飛び降りたらしい。
 遺書は無かったけれど、フェンスを自分で乗り越えて転落する所を目撃した人がいるので、まず間違い無く自殺だろう。

 この日記は、本来なら書ける筈の無い日のものだ。
 自ら命を絶ってしまった弟の、どこか遺書めいた日記。



 弟は本当に死にたかったのだろうか。それとも、この日記に書かれているように生きることを選びたかったのだろうか。
 事実だけを見るのならば死にたかったのだろう。けれど、それならばこの日記は何だというのか。

「……どうして、死んじゃったのよ」

 俯き零れた問い掛けに、答えられる弟は既にいない。
 主を失い、ただ静かに在り続ける部屋の中。言葉を失った私と、物言わぬノートだけがじっと佇んでいた。



END



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