彼と全てに微笑を



 人生というのは自分が主役の本を書く事なんだと、誰かがそう言った。
 誰もがその人だけの物語を紡いでいく、自分の物語の主役なのだと、誰かがそう言ったらしい。けれど、世の中そうそう上手くはいかないものだ。

 事実、ほとんどの人間は平々凡々とした人生を過ごし。そして死んでいく。
 映画のように劇的な出来事に遭遇する人間は稀だし、ドラマみたいな出会いだってその辺に転がっているようなものじゃない。それを理解することが、大人になるということなんだと思う。

 私こと三倉可奈も、ご多分に漏れず平凡の中に溶け込んでしまった人間だ。
 なまじ他の子供に比べて聡い子供だった私は、同年代の誰よりも早く現実という奴を見つめてしまったのだと思う。特別に頭が良いわけでもなく、さりとて運動神経が極めて良いと言うこともなければ、絵や歌などの芸術分野での才能があるわけでもない。平凡な私は、平凡に生きていくしかないと悟ってしまったから。

 或いはドラマのような恋愛にでも憧れていれば、夢見る少女でいられたのかもしれない。だけど私はあまり色恋沙汰に興味を惹かれなかったし、何より男と言うものに対しての幻想を持つことが出来なかったのだ。……目の前でラーメンを啜っている男のせいで

 彼――天城拓也は、所謂幼馴染という奴だ。生まれた病院のベッドが隣同士で、何の因果か学校どころか現在の職場まで同じの腐れ縁。お互いの家が同じ客商売をしていることもあり、家族ぐるみでの付き合いまである。
 周りの人達は「幼馴染なんて言ってるけど、実際は付き合ってるんでしょ?」などと囃し立てて来るけれど、幸か不幸かそんな事は全く無い。

 付き合いが長すぎるせいで、相手を異性として見る事なんて出来ない。大体子供の頃の恥ずかしい思い出や、弱みを全部握られてる相手に恋焦がれるなんてドラマの中だけ。と言ったところだろう――少なくとも、彼の方は。

 そう、実に不本意なことだけれど。……私は拓也の事が好きなのだ。

「おーい、食わないんならその餃子貰うぞ?」

 ぼんやりとそんな事を考えていたせいだろうか、気が付いたら箸を動かす手を止めてしまっていたらしい。
 声につられるように顔を上げれば、拓也が美味しそうに餃子を頬張っているのが見えた。念のために私の分の餃子の皿を確認してみると、何時の間にか半分ほどに減っている。当然、私はひとつも食べてはいない。

「ってもう半分以上食べちゃってるじゃない!? 人の物を勝手に食べるの止めなさいよ、てか返しなさい!」

「んあ? うるせぇなぁ。そんなに言うならほれ、口開けろ」
「食べてる途中のを戻すなっ! しかもそれを口移ししようとするなっ! それ以前に食べながら喋るなっ!」

 口を開けてにじり寄ってくる拓也に一撃を入れてから、一息で文句を言い連ねる。どうでも良いけれど、殴った拍子に彼の口から飛び出た残骸が辺りに散らばって凄く汚い。

「いってーなぁ、殴ることはねえだろ」
「普通殴るわっ! というか。食べ物を粗末にするのは止めなさい」

 かなり力を入れて殴ったはずなのだけれど、彼が怯んだ様子は全く無い。昔から殴り続けたせいで慣れてしまったのか、或いは単純に神経が通っていないのか――恐らくは後者だろう。

「機嫌わりいなぁ。……あー、今日はアレか、女の子だっけか?」
「教育的指導っ!」

 デリカシーの欠片も無い彼に、思わず餃子の皿を投げつけてしまう。この程度で拓也が怪我をするとは思えないが、半分残っていた餃子には悪い事をしてしまった。

「いてっ、そして熱っ! お前言ってることとやってることが違うじゃねーか」
「公衆の面前でっ、しかも根も葉もないことを口走るアンタが悪いんでしょーが!」
「何言ってんだ、お前の生理周期ぐらい長い付き合いだから知ってるって。根も葉もなくは無いぞ」
「なお悪いわっ!」

 叫びながら、渾身の力で拓也の頭に拳を叩き付ける。怒りのせいか殴った手の痛みは感じなかったけれど、怒りと恥ずかしさで火照る頬に周りの視線が冷たい。
 だと言うのに、拓也はまるで何事も無かったかのように平然としている。殴られた痛みも、周りの視線も無いかのようにだ。

「……本気でアンタの神経はどうかしてるわ。いろんな意味で」
「んだよ、ホントに機嫌悪いな。……まさか遅れてるのか? 相手の男はどこの物好きだよ?」
「………………」

 妙に冷静になった頭で、数秒ほど黙って考える。
 こいつ相手に怒っても無駄だ。私はこれまでの二十年近い付き合いでそのことを理解しているはずなのに、毎回毎回つい相手をしまうからいけないのだ。
 こいつの戯言なんて全て聞き流してしまえば平穏に過ごせるのだし、何より私だって惚れてる相手に暴力を振るうなんて本意ではないのだから。

「黙ってるってことはひょっとしてマジなのか? ……そうかぁ、お前もついに結婚か。うん、ちょっと寂しくはなるけど。お前が選んだ相手なら、きっと幸せにしてくれるだろうしな」

 私が黙り続けていたせいで勘違いしたのか、妙に真面目な顔で彼が話し掛けてくる。何だかんだ言っても、やっぱり拓也は良い奴なのだ――少々ピントがずれてはいるけれど。

 私が好きなのは拓也だ。なんて改めて言う勇気は無いけれど、こうして私のことを真剣に考えてくれるのだからきっと大丈夫だ。
 こんな男を好きになるのは私ぐらいのものだろうし、これから先だって私達はずっと一緒にいるに決まっているのだから。

「そんなわけないで――」
「――そっかー、それにしてもお前に子供が出来るとはなぁ。そういえば最近腹が出てきてるとは思ったけど、まさか妊娠とはなぁ」

 ……今、この男は何を言いやがりましたか?

「確か妊娠してから腹が出てくるのって確か結構かかるんだよな? その腹だと何ヶ月ぐらい――」
「――死ね」

 白く、白く透き通った視界の中。ラーメン丼が宙を舞うのが他人事のように映る。まだ熱を保っている汁を飛び散らせながら、狙い通り拓也の顔に直撃した。


「……なんで俺まで片付けなきゃいけないんだよ」

 ぐちぐちと文句を連ねる拓也と顔を合わさないようにしながら、割れた丼や散らばった麺を片付けていく。ここが彼の親がやっている店だから良いようなものの、他の店でやっていたら迷わず警察を呼ばれているほどの暴れっぷりだ。

「お前がバカな事ばっかり言ってるから悪いんでしょ、黙って片付けなさい」

 拓也の愚痴が聞こえたのだろう。濡れた手をエプロンで拭きながら、拓也のおばさんが店の奥から顔を出してきた。

「お久しぶりですおばさん。……それと、また店の物を壊しちゃって済みません」

 慌てて掃除の手を止めて立ち上がり、謝罪の言葉を口にする。
 私と拓也の喧嘩は学生の頃から日常茶飯事で、こうして店のものに被害が出るのも一度や二度ではない。とはいえ社会人になってからは、今回が初だ。流石にいい年をした人間としてこれは洒落にならない。

「別に気にしなくて良いわよ」
「でもそういうわけには……。来月のお給料が出たら弁償します」

 笑って許してくれるおばさんに、けれど私は頭を下げたまま言葉を続ける。本当なら今すぐにでも弁償したいところだけれど、新しいデジカメを買ったせいで手持ちが心細い。一瞬脳裏に浮かんだ、拓也にもお金を出させるという案は、被害の拡大を防ぐために却下しておいた。

「気にしなくて良いわよ。別に丼の一つや二つ大した事はないし。……それに、今日はおめでたい日だもの」
「おめでたい日?」

 妙ににこにことしているおばさんを不思議に思いながら、鸚鵡返しに問い掛ける私の声をさえぎるように。ガラリと音を立てて店のドアが開いた。
 そこに立っていたのは、まるでテレビの中から抜け出てきたみたいに可愛らしい女の人。男の人なら誰もが好きになるような雰囲気の女性だった。

 閉店時間も過ぎているのに何の用なのだろう。そう疑問に思うよりも早く、拓也とおばさんが歓迎の声をあげる。その声に導かれるように、彼女はこちらへと歩いてきて――卓也の傍に寄り添うように立つ。

 何となく、この先の展開が想像できた。
 だけど私はそれを認めたくなくて。いっそこのまま時間が止まってしまえば良いと、心からそう願って――けれど、現実はいつだって残酷で。

「紹介しておくよ、彼女は雨宮美里。来月、結婚するんだ」

 しっかりと耳に届いた言葉は、私の思いを殺していった。

 それからのことはほとんど覚えてはいない。細切れに映る拓也の幸せそうな笑顔を――美里さんの幸せそうな笑顔を、朧に聞こえる彼の嬉しそうな声を――彼女の声を。一人遠くで聞いていたような気もする。

 幸せに包まれた店内で、私もまた笑って彼らを祝福した――はずだ。ちゃんと、いつものように笑えていたはず。
 少しだけお酒を飲んで、卓也には勿体無い位に可愛い人だなんて軽口を叩いて、買ったばかりのデジカメでたくさんの写真を撮って。そうして、笑いながら卓也の家を後にした。


 家に帰った私は、誰もいない部屋で一人パソコンデスクの前に腰掛けていた。体も心も酷く疲れていたけれど、布団に入る気はまるで起きなくて、ただ機械的にパソコンを操作する。

 目の前のプリンタからは一枚、また一枚と、今日撮った写真が印刷されていく。
 笑っている拓也。幸せそうな美里さん。幸せそうな拓也。笑っている美里さん。――写真の中の誰もが笑っていた。誰もが幸せそうだった。

 プリンタは止まることなく写真を吐き出し続け、、最後の方に撮った主役の二人以外を写したものが印刷され始めた。
 卓也の両親に挟まれ、照れくさそうにはにかむ美里さん。両親にからかわれ、けれど幸せそうに笑う拓也。卓也と美里さんを、祝福するようにからかう私。

 卓也も、美里さんも、おじさんも、おばさんも、誰もが笑っていた。私も、笑っていたのだろうか?
 ――涙で歪んだこの目では、写真を見ることさえ出来はしなかった。



End



戻る  HOME