そして何も無くなった



 目を瞑っていた。
 堪えるように、閉じ込めるように、押さえつけるように。ただ、固く両の瞼を閉じて立ち尽くす。
 そうして尚瞳を焼く、春にしては些かきつめの日差しが、少しだけ心地好く、同じぐらいに苛立たしくく思えた。

 手探りで煙草を取り出し火を点け、ゆったりと紫煙を吐き出しながら、ぼんやりと浮かぶ記憶を少しづつ形にしていく。

 右手には背の高い校舎、左手には少し小さめの体育館があって、その少し奥にはあまり清潔とはいえないプール。そして目の前に広がるのはグラウンド。
 少し曖昧なところはあるにしても、こうして脳裏に映像を浮かべられる程度には覚えている辺り、やはり六年間という時間は長かったのだろう。

 所詮人生の何分の一でしかない六年と言う時間は、けれど今の私を形作るという意味で、掛け替えの無いものだったのだ。
 恐らくは、慣れや妥協で薄めてしまった今よりもきっと、ずっと濃密で大切な時間だったのだと思う。

 ゆっくりと、光に目を慣らしながら瞼を持ち上げる。

 突然の刺激に滲む視界には、やはり――或いは意外な事に。目を閉じて思い起こしていたよりも鮮明に、慣れ親しんだ、懐かしい風景が映し出されている。
 ふと眩しさに落とした視線の先に、何時の間にか根元まで燃え尽きた煙草が映った。何となく苦笑を浮かべて、携帯灰皿に押し付ける。

 ああ、それにしても。本当に懐かしい。

 記憶を蘇らせるには、瞳を閉じて思い返すのが一番だ。なんて話を聞いたことがあるけれど、どうやらそれは間違いだったらしい。
 目を瞑っていた先ほどよりも、こうして目を開いた今の方が鮮やかに、まるで手を伸ばせば届きそうなほど克明に、あの頃の思い出が蘇ってくる。

 何かに押されるように自然に足が動き出し、時折立ち止まりながら、思い出の中を歩き始める。
 急ぐわけでもなく、殊更にのんびりとでもなく、ただ自然にそうするのが当たり前のように。さほど広くは無い敷地内を歩いていく。

 あの頃駆け抜けたグラウンドは、歩幅の大きくなった今の自分には少し狭く思えて、けれどあの頃のように走り抜けることは出来そうに無いと思える程度には広かった。
 競うように、寄り添うように。隣で走っていたあの子は、今何処で何をしているのだろうか。

 背の高かったはずの校舎は、視点が変わったためか、ほんの少し小さくなったように思える。毎日のようにお世話になった玄関の、自分の靴箱がどこだったのかを思い出せないことが、時の流れを感じて少しだけ寂しかった。
 ある日ひっそりと忍ばされていた恋文を見付けた時の高揚感と気恥ずかしさは、妻との生活に慣れきった今の私には、随分と遠いものになってしまった。

 水の張られてないプールはどこか間抜けで、けれどむしろそちらの方が記憶には残っているような気がする。考えてみれば、プールを使用する期間など限られたものなのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
 掃除のはずが何時の間にか遊びに代わってしまった、馬鹿みたいにはしゃいでいたあの頃の気持ちを、何処に置いてきたのだろう。

 いつだって騒がしかった体育館は、けれど今は静寂の中にあった。ゴム底の上靴が床を擦る音も、ボールの弾むリズミカルな振動も、騒ぐ子供達の声も聞こえては来ない。
 あの日無くしてしまったボールは、今でもどこかでひっそりと見つけられるのを待っているのだろうか。

 ゆったりと一周してきたところで、再び煙草に火を点ける。

 どの場所にも刻み込まれた記憶と、懐かしい想い。感傷的になっている自分を意識しながらも、こんなのもたまには悪くないなんて、久しぶりに素直に思えた。

 思えば、巣立った場所を振り返るなんて行為を、今まで一度もしてこなかった。少しだけ、勿体無い事をしていたように思える。
 どうせなら他の場所を回ってみるのも楽しいかもしれないと、ゆっくりと目を瞑りながらそんな事を考える。幸いな事に――と言って良いのかはわからないが、これからは時間を持て余すことになるだろうから。

 夏になったら、祖母の墓参りに行こう。ついでに、昔良く行っていたあの海に足を運ぶのも良い。泳ぐには今更な年になってしまったけれど、のんびりと眺めるのだって悪くは無いはずだ。
 秋になれば、母校の文化祭に顔を出してみるのも良いかもしれない。流石にあの賑やかな雰囲気に馴染めるとは思えないが、それでもきっと楽しめるだろう。
 冬がきたら……。

 次々に浮かんでくる予定に自然と緩む頬を抑える事はせずに、肺の中を満たすように紫煙を吸い込んで、一瞬の間染み込ませるように息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
 吐き出した煙が空気に溶け合って、ゆったりと消えていくのを確認するように目を開ければ――そこにはもう何も無い。

 校舎の影さえなく、広い敷地内にはただ青々と草花が揺れるだけ。辛うじて建設予定地とだけ読み取れる看板は、朽ち果てて最早その用を果たしてはいない。

 再び、噛み締めるように目を瞑る。
 胸の中には、こうなる前に来なかった事への後悔も、変わり果てた風景への寂寥も無く。ただ懐かしさだけがあった。

 ただほんの少し、頬をなでる涼やかさが、想いもよらぬ風通しの良さだけが、静かに。
 胸の奥を、擽り続けていた。



End



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