私が服を選ぶ理由



 カリカリと、紙の上を硬質な何かが擦る音だけが響いている。本当はそれだけではなく、時折唸るような呟き声なんかの雑音も混じっていたりはするのだけれど、適度に集中している私の耳に届く事は無い。
 目の前には使い慣れたシャーペンと、これまで積み重ねてきたものが印刷された用紙が数枚並んでいて、周りには同じような格好の男女がずらりと並んでいる。

 この張り詰めた空間が私は嫌いではない。その証拠に期末試験真っ只中のこの時間において尚、私はこうしてこの時間を楽しんでいた。
 「試験が好きだ」と言ったら友人に笑われた事もあるけれど、やはり私はこの試験というものが嫌いにはなれない。それは私が学校で教えられる勉強というものに苦手意識を持っていないからかもしれないし、こうした大勢の中に1人でいる事を好む性質だというのもあるのだろう。

 そんなことを考えながらも用紙に書かれた問題を目で追い、自動筆記の様にすらすらと回答を記入していく。全ての解答欄を埋め、念の為に幾度かの見直し。
 全てを終えて時計に目をやると、試験時間の終りまで後10分程度の時間を指していた。

 その10分間の待ち時間の間、私はのんびりと周りの様子を伺う事にした。とはいえ別段視線をどこかに向けるでわけではない。リズムを刻む様に紙を擦る音を聞きながら、ただこの空気の中に身を置くだけの事だ。

 普通の人が試験の終りに感じる開放感を、私はこの数分間の中に感じているのだ。騒がしくは無く、けれど完全な無音でもない、どこか日常から剥離しているこの瞬間。
 音のある静寂、とでも言うのだろうか。時折洩れ聞こえる誰かの声などの雑音さえも、この空間を作り上げる音符のひとつなんだと思う。

 そんな心地好い時間を味わい尽くそうと、私はそっと目を閉じた。
 シャーペンが用紙の上を走る小気味良いリズム、生徒達の緊張感を煽るかのようにことさらゆっくちと響く先生の靴音、すやすやと優しく響く寝息。
 その全てが私には心地好い――寝息?

 聞こえるはずの無い音に、思わず辺りを見渡す。そうして目に入ったのは、当たり前の様に机に突っ伏して眠る男子生徒の姿だった。
 神聖なる期末試験の最中に堂々と睡眠を採る馬鹿が1人、この教室に紛れ込んでいる。それだけでも十分に腹の立つ事ではあったのだが、それ以上に最悪なのはこの馬鹿が私の友人だという事実だ。

 豪徳寺醍醐などという、大仰でどこかふざけた雰囲気の名前を持つこの男は、私こと綾瀬刹那の古くからの友人だ。
 名前とは裏腹に軽薄な性格で、いつでも騒ぎの中心に居るトラブルメーカー。女癖が悪い上に女運が悪く、その上懲りる事を知らない大馬鹿者。一言でいえば騒動屋、それが醍醐という男だ。

 古くからの友人といっても別に親同士が中が良いとか、ましてや家が隣の幼馴染みたいなのではない。何故か子供の頃から同じクラスになったりと妙な縁がある、所謂腐れ縁という奴だ。

 それにしても試験中にこんなに堂々と眠るとは、昔から神経の太い奴だったけれど、とうとう常識すらも忘れてしまったようだ。先生はまだ気付いていないようだし、ここはひとつ私が一言言ってやるべきかもしれない。

『キーンコーンカーンk−ン』

 試験中である事を思わず忘れて、一言言ってやろうと大きく息を吸い込んだ瞬間、試験の終了を告げるチャイムの音が鳴り響いた。何となく出鼻を挫かれてしまい、どうしたものかと醍醐の方に目をやると、チャイムの音に慌てたのか丁度椅子からずり落ちる所だった。

 試験が終った開放感もあったのだろう、その間抜けな姿を見たクラスメイト達が声をあげて笑う。先生までもが呆れたような声音で、「いくら試験が終ったからって、あんまり気を抜くんじゃないぞ」なんて言いながら笑いを噛み殺していた。



 それで私も毒気を抜かれてしまい、口の中で溜息を付きながら筆記用具を片付け始めた。

 試験の後のHRは、教師の話がいつもよりも14分ほど長かった以外滞り無く終った。
 中身の無い長話に付き合わされた疲労感を押し殺しながら帰り支度をしていると、妙に浮ついた表情で醍醐が話しかけてきた。

「いよぅ、刹那っち。辛い辛い試験もようやく終って、ようやくすぅぃーとな夏がやってくるなぁ」
「……頭の螺子でも飛んだの? とりあえず馬鹿につける薬は無いから死んだ方が良いわよ、誰かに伝染ったら問題だし。

 あまりの気持ち悪さに、思わず辛辣な言葉が私の口から飛び出す。まぁ醍醐とのやりとりはいつも大体こんな感じなので、今更こいつが傷付くとは思えないけれど。

「はっはっは、夏の幸せを知らない不幸者にはこの溢れる情熱はわかるまい。てか刹那っちには夏が似合わないしな、もう何て言うか日本で2番目に夏が似合わない女って感じだ。その点この俺、夏男醍醐改めサマースペシャル醍醐君ともなるともう夏塗れって感じだ」
「夏が似合うってのと、頭が熱帯性気候なのは別物よ。大体私のどこが夏が似合わないのよ?」
「主に胸、薄着向きじゃないし」
「死ね」

 ふざけた事を口走る醍醐に。手加減無しで傍にあった鞄を叩きつける。セクハラに対して極刑で臨むのは先進国の常識なので当然の権利だ。

『ゴズッ!』

 浮かれたように騒ぐ教室の中を、一際重く鈍い音が響く。試験対策のために辞書を詰め込まれた鞄は想像以上の破壊力を持っていたらしく、それを受けた醍醐はゆっくりと崩れ落ちた。

 地面に倒れ伏してぴくぴくしている醍醐に、クラスメイト達が心配そうな視線を向ける。流石にやりすぎたかもしれないと反省し、助け起こそうとしたその時だった。

「あのー、醍醐センパイいますかー?」

 教室の扉が勢い良く開き、陽気な声と共に女生徒が教室を覗き込んでいるのが目に入った。

「あれ、綾香。どうしたんだ、醍醐に何か用?」

 クラスメイトの篠崎君が親しげにその子に声をかける、まぁ篠崎君と彼女は兄妹だから親しげなのは当然なのだけど。
 あの子の名前は確か綾香とかいっただろうか。彼女達兄妹は割と仲が良いらしく、時々私達の教室にも足を運んでいるので知らない顔ではない。まぁ私が彼女の名前を覚えているのはクラスメイトの妹だからではなく、綾香ちゃんが最近の醍醐のお気に入りだからという理由だったりするのだが。

「昨日テスト勉強のために、先輩から去年のノート借りたの。それを返しに来たんだけど……醍醐センパイいないの?」
「あー、醍醐はちょっとな、その……」

 鞄で殴られてそこに転がっている、とは言い難いのだろう。篠崎君は誤魔化すように頬を掻きながら言葉を濁した。

「あ、じゃあどうしよ? 明日から連休だし、兄貴代りに渡しといて」
「やだなぁ綾香ちゃん、折角来てくれたのに俺がいないなんてはずはないだろ?」

 綾香ちゃんがそう口にしながら篠崎君にノートを手渡そうとした所で、いつのまにか復活していた醍醐が彼女の言葉を遮った、それも後から抱きしめながらのおまけ付きで。

「わわっ!? ……センパーイ、今日も過激ですねー」
「あっはっは、愛に従って行動するのは男として当然の事だからね。ところで、ノートは役に立った?」
「あ、はいー。センパイって凄くノート綺麗に取ってるんですね、おかげで助かりました。今度何かお礼しますねー」
「俺と綾香ちゃんの仲だろ? お礼なんかいらないって。それよりさ――」

 醍醐の突拍子も無い行動に、綾香ちゃんは呆れるでもなく楽しそうに受け答える。あまりに楽しそうな二人の姿のせいで、「醍醐が綺麗にノートを取ってるんじゃなくて、去年の試験前に私のノートを丸写しにしたんでしょ」なんて突っ込みさえも言い出せなくなってしまった。

「ところでさ綾香ちゃん、新しく出来たネズミーシーって知ってる? 何かもういろいろ凄いらしいよ、具体的には夏っぽくて素敵とか」
「あ、知ってますー。行ってみたいんですけど今月ちょっとお小遣いピンチなんですよね―」

 別に私が彼女に貸したノートってわけじゃないから関係無い。そうは思うのだけれど何か納得いかない。そうやって悶々としている間にも2人は楽しそうに会話をしていて、それが余計に不快感を煽る。

「ふっふっふ、じゃーん! 1日遊び放題パスポート・俺ってば夏が似合う男だったりするので、当然夏っぽい場所はチェックしてるのさ。というわけでさ、明日とか行っちゃわない? 夏を感じちゃわない?」

 醍醐が得意満面に取り出した2枚のパスポート。先週の土曜に「昼飯奢るから付き合ってくれ」と頼まれて、私と醍醐で買いに行った物だ。何でもカップルには優先して販売してくれるキャンペーンらしい。
 そのパスポートで醍醐が誘うのは綾香ちゃん、それが何だか凄く腹立たしかった。

「あー、行きたいんですけどー……」
「悩む事無くない? やっぱり夏のカップルに相応しいデート場所はここだと思うし。ほら、夏が似合うカップルNo1の俺達が行かなくてどうするよ」
「明日デートなんですよー」
「…………へ?」

 綾香ちゃんの言葉に、醍醐が間の抜けた声を上げる。自分の耳が信じられないといった表情だ。

「綾香ちゃん、彼氏……、いたっけ?」
「はいー、らぶらぶですよー」
「あれ? でも俺この前綾香ちゃんに好きだって言って、綾香ちゃんも俺の事好きだって言ってくれた……よね?」
「はいー、センパイのこと好きですよー」

 間の抜けた二人の会話で、教室中が白けた沈黙に包まれた。当事者である醍醐は魂の抜けたかのように突っ立っていて、綾香ちゃんだけがほえほえとした笑みを浮かべている。

「あ、私彼を待たせてるんでもう行きますねー。センパイ、ノートありがとでしたー」

 来た時と同じように勢い良く扉を開いて、弾むような足取りで綾香ちゃんは去っていった。
 醍醐はというと未だにぼうっとその場に突っ立っていて、その周りをクラスの男子生徒達――特に今回の件に関わりが無いとは言えない篠崎君が――どう接したものか伺うように遠巻きに見ている。

 そんな光景を横目で眺めながら、すっかりと帰り支度を終えた私は何事も無かったかのように席を立ち、教室を後にした。



 玄関へと向かう廊下の途中で、さっきの出来事を見ていたクラスメイトが私に「醍醐君の事、慰めてあげなくて良いの?」なんて尋ねてきた。
 あまりにわかりきった質問をしてきたクラスメイトに「放って置いたら良いのよ」とだけ、呆れながら答えて、再び玄関へと歩き始める。

 去り際に、そのクラスメイトが「……じゃあ、アタシが醍醐君を慰めてあげよっ」なんて言いながら教室へと走っていくのが見えたが、そんな事はどうでも良い事だった。
 どうせあの馬鹿は今夜遅くまでうじうじと綾香ちゃんのことを吹っ切れなくて、明日の朝になって期限がその日までのパスポートをどうすれば良いかで迷うに決まっているのだから。

 その時にあの馬鹿が頼る相手なんて、私しか居ない。

 だから今から明日の朝までは、あの馬鹿をからかう言葉を考える時間に費やさなくてはならない。幸いな事にネズミーシーの情報は全て下調べが済んでいる、だから十分に考える時間はあるだろう。



 そんなことを考えながら帰宅して、やらなければならない用事を全て片付ける。勿論あの馬鹿をからかう言葉を考える事も忘れない。

 けれどテスト帰還のためいつもより早く帰宅した今日は、全ての用事を片付けてもまだ有り余るほどの時間がある。
 そうなると当然やる事なんて無くなってしまうわけで、私は暇を持て余してしまう。

 私が今、明日着ていく服を選んでいる理由は、ただそれだけの話。



End



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