両手一杯の花束を



 その日。ほんの気紛れから、いつもと違う道を歩いてみた。
 意味なんて無い。言葉に出来るほどの理由も無く。ましてや、行く宛なんて何処にも無い――ただの気紛れ。

 九月も半ばを過ぎて、日の落ちるのも早くなった最近では、頬を撫でる風がほんの少し冷たく思える。ふと視線を上げれば、西の空は夕焼けで茜色に染まっていて。何処か物悲しいその風景は、とても美しいものに思えた。
 ――良かった事と言えば、たったそれだけ。

 最初こそ高揚感に突き動かされて、順調に歩いてはいたものの。やはり普段歩きなれていないせいか、直ぐに体にガタが来た。
 歩き始めて二十分が過ぎた頃には、パンプスに締付けられた足が酷く痛み始め。連鎖するように、デスクワークで凝り固まった腰と肩が悲鳴を上げる。それでもう歩く気力なんて無くなってしまった。

 ところが体を休めようにも、辺りに喫茶店等は見付からない。まぁお金を下ろすのを忘れていたので財布に余裕は無いから、見付かった所でどうしようもないのだけれど。
 ならば家路を急げば良いのだけれど、気が付いてみればここがどの辺りなのか良くわからない始末。つまり、二十四歳にもなって道に迷ってしまったのだ。

 何時の間にやら太陽はすっかり沈んでしまって、辺りは薄暗くなってしまっている。不幸な事に周りには街灯も少なく、目に入るのはまばらに灯る家々の明かりと見渡す限りの田畑のみ。

 駅から家と反対の方向へ行くだけで、こんなにも田舎になってしまうみたいだ。そりゃあ私の住んでいる区画だって決して都会とはいえないけれど、十分も歩けばコンビニぐらいは見付かる。それがちょっと逆方向に行ったぐらいで、ここまでになってしまうなんて。……これだから田舎は嫌なのだ。

 それでも今、こうして道に迷って苦労しているのは、自分が方向音痴なのをわかっている癖に、気紛れで知らない道を歩いている私が悪い。そんなことはわかっている。
 だけどこういう時には何か怒りをぶつける対象が欲しいもので、とりあえずは目の前に広がる風景にでも文句を言わなければやってられないのだ。

 喫茶店やコンビニが見付からない事、酷く痛む足、歩いても歩いても知っている場所に出ない事。気に入らない上司、七年も付き合っているのに結婚を切り出してくれない彼氏、不甲斐無い自分自身に。

 今の状況に関係あることもないことも全てに愚痴りながら、とぼとぼと暗い道を歩き続ける。

「ぴにゃっ!」

 歩き疲れて痛む足のせいか、それとも暗くて足元が見辛いあぜ道のせいか。窪みに足を取られて、畑に倒れ込むように思いっきり転んでしまった。それも奇声を上げながら。

 恥かしさで思わず辺りを見渡して、誰にも見られていなかったことにほっとする。流石にこんな姿を誰かに見られていたら立ち直れないかもしれない。
 束の間の安心は、けれど直ぐに怒りに取って代わる。誰かが見ていたら恥を忍んで道を聞けたのにと、そんなことを考えた自分への怒りに。

 何だか惨めで泣きたくなってきて、同じぐらい何かに当り散らしたくて。けれど結局そのどちらも出来ずに、ため息だけが零れた。

 何もかもが馬鹿らしくて。下らなくて。苛立たしかった。

 走り周って叫んでしまいたい衝動に駆られて、けれど疲れた体は起き上がる事を拒否していたから、そのままごろごろと畑の中を転がってみる。私の体の下敷きになって野菜が潰れていくのを見て、農家の人には申し訳ないなぁと思いつつも、勢いのままごろごろと転がり続けた。

 凄く馬鹿みたいで。可笑しくて。楽しかった。

 込み上げてくる感情のままに声を上げて笑いながら、子供みたいにずっと転がりまわっていた。



 数分はそうしていただろうか。転がり疲れた私は大の字になって寝転んで、ぼんやりと夜空を眺めていた。
 余分な明かりがないからだろう、星も月も普段より輝いて見えた。笑いすぎて目尻に浮かんだ涙のせいで、滲んで見える星の光は。宝物みたいに綺麗だった。

 ふと。ドラマみたいな事をしているな、なんて考えが浮かんできた。

 退屈な日常に疲れて、いつもと違う道を歩いてみた女の子が体験する、夢のような出来事。こうして寝転がってる私に、素敵な男性が手を指し伸ばしてくれたりとか。

 目を瞑って、そんな情景を想像してみる。漠然とした想像が、俳優になったりアイドルになったり。しっくりと来る姿を求めてくるくると移り変わり、やがて今の彼の姿になる。

 そうして浮かんだ映像に思わず噴出してしまい、それでも止まらずにまた声を上げて笑う。のっぺりとした顔付きの彼には、そんな気障な仕草は似合わない。
 そしてそれと同じぐらいに、私にも似合わないだろう。夢見る女の子でいられる年齢でもないし。転げまわったせいで、服も化粧もぐちゃぐちゃになってしまっている。

 ひとしきり笑って、私はしっかりと立ち上がった。
 ため息をひとつ吐いて。服の汚れを払い。そうしてまた歩き出す。いろいろと厄介な事はあるけれど、とりあえずは前に進まないとどうしようもない。

 まずは頑張って家にたどり着いて、先ほどから悲鳴を上げているお腹を大人しくさせてやらなければならない。

 先程よりかは少し胸を張って、てくてくと歩きながらこれからどうするかを考えていた。ご飯を食べて、お風呂に入って――それから彼に電話をして。
 幸い明日は休みなのだから、久しぶりにデートにでも誘うとしよう。お金はないけれど、夏の間は仕事が忙しいからなんて、私を放ったらかしにしていた罰として、彼に全て奢らせてやれば良い。

 やらなくちゃいけない事はたくさんある。だから、似合わないドラマなんて夢見ていられない。そんな暇があるのなら少しでも前に進まなきゃ。

 今だってほら、気が付けば目の前には見慣れた景色。代わり映えのしない、けれど大切な私の居場所。

 ようやくたどり着いたアパートの、部屋へと続く階段を足早に上る。こんな姿を隣人に見られるのは、何としてでも避けたい所だ。
 急ぎ足でドアの前に立ち、鍵を差し込んで勢い良く捻る――が、鍵の開く手応えがない。
 不思議に思い逆に捻ると鍵の閉まる音、どうやら鍵が閉まっていなかったようだ。確か家を出る時にきちんと閉めたはずなのだけど。

 不思議に思いながらももう一度鍵を捻り、勢い良く開いたドアのその先。玄関を埋め尽くすように、咲き乱れる鮮やかな色達。
 小さなものから大きなものまで、数え切れないほどの色とりどりの花束を抱えて。恥かしそうな様子の彼が、所在無さげに立っていた。

 ――ほら、やっぱり似合わない。

 込み上げてくる感情を抑えきれずに、私はまた声を上げて笑う。何が起こっているのか理解しきれない様子で、おろおろとしている彼の姿がまた可笑しくて。私は暫くの間笑い転げていた。

「お前はこういうのが好きそうだから、恥かしいのを堪えてやってるのに、笑う事はないだろう」

 そう言って、怒ったような顔をしていた彼も。どろどろの格好で笑っている私を見て、怒る気も失せてしまったらしく。数分後には、一緒になって笑い続けた。



 ――十分後。「結婚しよう」と、照れくさそうに告げる彼。
 ――十秒後。「喜んで」と、最高の笑顔で応える泥だらけの私。

 感動のドラマには程遠い、花束の似合わない私達のプロポーズ。



 END



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