完全なる世界
ノックの音がした。程なく鍵を開く音が聞こえ、そして扉が開く。
久方ぶりに光に照らされた室内は、記憶の中にある姿と寸分違わず在り続けている。
壁一面に敷き詰められた本棚。それでも収まりきらず、そこかしこに堆く積まれた本の山。中央にぽつんと置かれた小さな机。
全て、見なくてもわかるほどに熟知した物達。
改めて光に照らされた室内を見れば、少しづつ埃に侵食されているのがわかる。――けれど、そんな事はどうでも良い事だ。
この部屋に置かれた全ての物は私には必要の無い物だし、それらを必要としたこの部屋の主は最早居ないのだから。
「茶太ー、居るかー?」
開かれた扉を潜りながら、侵入者が私の名を呼ぶ――その声に応える気はなかった。
疲弊した体は声を出すのも億劫なほどだったし、何より、声を出したところで私の意思が彼に伝わる事はないのだから。
「あ、やっぱりここに居たのか」
だがその意に反して、侵入者はあっさりと私の姿を発見した。
まぁ隠れるわけでもなく部屋の中央に陣取っているのだから、それもまた当然の事だ。
「茶太。ほら、こっち来いよ」
親しげに呼びかけてくる侵入者、その姿には見覚えがあった。むしろ良く知っているといっても過言ではないだろう。
この部屋の主の孫で、名前は確か――太一だったか。今年で十一歳になる男だ。
彼とは特別仲が良いわけではなかったが、それでも疎遠というほどではない。むしろ彼の方は、私に懐いていたと言っても良いだろう。――私も、彼が生まれた頃から見守っていた者として、少なからず好感は抱いている。
「……茶太?」
返事が返ってこないのを不安に思ったのだろう。太一は恐る恐る私の方に近寄り、そっと私の背中を撫でてきた。――その暖かい手を、半ば反射的に身動ぎで振り払う。
「――生きてる、良かった……。そうだ、ご飯を持ってきたから食べろよ。水もあるぞ」
そう言って、太一は入り口の方から食事を運んできた。――底の浅い器に注がれた水と、袋のままのドッグフードを。
そう、私は犬だ。何処かの猫と違って名前はある。それもふたつ。
太一を含めたほとんどの人が使う「茶太」と。、もうひとつ。――今は亡きこの部屋の主だけが呼んだ、大切な名前が。
「……茶太? どうして食わないんだよ。お腹減ってるだろ?」
食事を前にしても微動だにしない私を不審に思ったのか、訝しげに――まるで泣いているかのように語尾を振るわせながら太一が問い掛けてきた。
「食わないと死んじゃうだろっ! ……じいちゃんだって、茶太が死んだら泣いちゃうだろっ!」
悲しみを誤魔化すように、太一が叫ぶ。けれど、その言葉は私には届かない。
何故なら、死者が泣く事は無いからだ。怒る事も悲しむ事も――喜ぶ事でさえ無い。
事実がどうなのかは死んだ事の無い私にはわからないが、私と主はそう結論付けていた――ひょっとしたら実際に死んだ事で、主の方は考えが変わったかもしれないが。
主は、簡潔に言うならば変わった男だった。それもかなりのレベルで。
豊かではなく、さりとて貧困でもない農家の一人息子として生まれた彼は、子供の頃から異質な男だったそうだ。
才に溢れ、何をやらせても確実にこなすが、やる気がまったく見られない。その上に、他人に興味を持たない男だったと聞いている。
そんな彼は青年期に一財産を成し、何を間違ったか幸せな家庭まで築き。そして、子が一人前になった時点で本性を現した。
興した会社を全て子供達に任せ、この部屋に一人篭るようになったのだ。食事さえも最小限しか摂らず、ただ本だけを読み続けた。
口の悪い者は、妻を亡くしたショックで気が狂ったのだ等と噂したらしい。
だがそんな噂を気にした風も無く、主はただこの部屋に篭り続けた。まるでこの部屋だけが彼にとっての世界であるかのように。
私と主が出会ったのは、そんな頃の事だ。
三日振りに食料を調達しようと主が部屋の扉を潜った所、まだ幼かった私がぼろ屑のように打ち捨てられていたらしい。
主はほんの気紛れで――もしかしたら寂しかったのかもしれないが――私を拾い、そして命を救ってくれた、らしい。私にはこの頃の記憶が無いので、聞いた話でしかないのだが。。
そうして主に拾われた私は、直ぐにとまでは言わないものの順調に回復していった。
潤沢とは言えないが不自由の無い食事に、外敵の居ない住居。楽園とも言える場所を手にした私は、順調にこの身を育んでいった。――その間も、主は私に注意を払う事も無くただ本を読んでいた。
単調だが、幸せな生活が五年ほど続いた。その間に起こった事といえば、太一が生まれた事ぐらいしか覚えていない。――ただ主が本を読むのを見、時折盛れる呟きを聞いていた。
そして、あり得ない事が起こる。私が主の思考を理解出来るようになったのだ
何故そんなことが怒ったのかはわからない、納得できるほどの仮説すら思い浮かびはしない。だが確かに、犬でしかない私は主の言葉を理解し、その思考さえも理解出来るようになった。そして主も、私が彼の思考を理解している事を――私の思考を理解した。
奇跡、と人は呼ぶのかもしれない。或いは、あり得ない事だと蔑むのだろう。だが私と主にとっては間違い無く真実だった。
私と彼は時に語り合い、時に思考を交わらせながら、そして本を読んだ。ページを開く器用な指を持たない私は、彼の後ろから覗き込むだけだったが。
そうして、瞬く間に五年が過ぎ――主はその命を散らした。
何気ない最後だった。いつもの様に本を読みながら、ページの終りと共に眠りについた。――私は、今でも主の最後の思考を覚えている。
あれから何日が過ぎたのだろう。光の差さないこの部屋では、もう時間の感覚もない。
ドアの軋む音が聞こえる。
思考に没頭している内に、太一が部屋から出ていってしまったようだ。目の前には手付かずのドッグフードと水が置かれたままだったが、衰弱しきった体は食事を前にしても何の反応も示そうとはしない。
再び静かになっら部屋の中、ぼんやりと扉を眺める。
扉。部屋と外を区分する――世界を隔てている物。
脳裏には、未だに響く主の最後の思考。
『この部屋の中だけで完成した私達の世界。思考は最早同一で、全てを理解しあえる。これは孤独なのか、それとも満たされているのか。――死は、孤独なのだろうか』
私を同胞と呼んでくれた主のために。私の答えを導き出すために。完全に世界と隔てられたこの部屋で、その命題について考える。霞む意識を、眠りにつこうとする体を押さえつけて。
――死出の扉のその先で、待っている主を孤独にさせないように。
End