そこにあるもの
想像してみて欲しい。
貴方が男だったとして。
それも今まで真面目一筋に生きてきた、今まで会社を休んだ事がないのが唯一の自慢だと言う様な男だったとして。
見合いで結婚した妻には、溢れるほどの情熱も無いが、取りたてて不満も無い。もう時期中学を卒業する年頃の、可愛い娘も1人いる。
まだローンの残った2階建ての白い小さな家に住み、年老いた大型犬を飼っている。賑わってるとは言えないけれど、さりとてそんなに寂れているわけでもない山間の町に住んでいる。
つまりは、何の不満も無い人生を送ってきた男だっとたして、の話だ。
* * *
その日の始まりは、特に変わった事があったわけではない。いつも通りの、何の予定もない日曜日だった。
妻は同窓会があるとかで故郷に帰っており、娘は友達の家で泊り込みの試験勉強。いつもと違うとしたら、その日男は独りだったというだけの事。
生来が真面目な性格の男らしく、日曜日だというのに朝も早くから起き、自分と犬の食事を済ませる。
それでもうやる事が無くなってしまい、男はぼんやりと外の景色を眺めていた。
やがてそれにも飽きてしまったらしく、彼は何気なしにドライブに出掛ける事にした。
何か目的があるわけでもなく、ただぼんやりとしながら車を走らせる。郊外の道は日曜だというのにそれほどの混雑も無く、ただぼんやりと走るには丁度良い感じだった。
暦が7月を向かえた今は、照り付ける日差しも厳しい。けれど全開にした車のドアから入り込む風は心地好く、男は気持ち良く車を走らせていた。
そうして3時間ほども走った頃だろうか、いくつかの峠を超え、男の乗った車は海沿いの道へと辿り着いていた。
潮の混じった風はどこか懐かしい匂いで、多少のべたつきさえ無視してしまえば、好ましいと思える涼やかさを秘めている。
「海に来るのなんて久しぶりだな」
1人呟きながら、男は車の速度を落とした。
幸い辺りには他に走る車も無く、ゆったりとしたスピードで景色を楽しみながら車を走らせたところで、障害になるような事もない。
「今の家に住むようになってから、海なんて年に1,2回しか来ないからな。実家に済んでた頃は、見飽きる程眺めてたもんだけど」
男は目を細めながら、今は遠い故郷を思う。
彼の故郷は海沿いの港町で、子供の時分など毎日のように海で遊んでいたものだった。暑くなれば海で泳ぎ、そうでなくても釣りをしたり。彼にとって海はいつでも傍にあるもので、特別な何かではなかった。
けれど、彼の故郷は既にない。
無いというのは正確ではない。正しく言うのならば、『彼が故郷に帰ること』が無いのだ。
母は彼が物心つく前に亡くなり、父もまた彼が大学を卒業すると同時に亡くなった。遺骨は山間の寺に埋められ、借家だった実家には、今はもう他の人が住んでいる。
男は両親の死と共に、帰るべき故郷を失ったのだ。
別に故郷に住み続けても良かったのだろう。けれど男はそうする意義を持たなかったし、既に今勤めている市役所への就職も決まっていた。
故郷の友人達もほぼ全てが別の場所へと移り住んでいて、自然と故郷へと足を運ぶ事は無くなった。
今では、故郷に彼を待つ人はいない。
「……感傷という奴かな、別に故郷への思い入れなんて無いと思っていたんだが」
いつしか男は車を路肩へと止め、ただ海を眺めていた。
それから、しばらくの時が流れる。いつしか太陽は空の頂点にその身を移し、気温は汗が吹き出るほどまでに高くなっていた。
「ふぅ、……暑いな。こんなところで立ち尽くしていても仕方が無いか」
何時の間にやら額に浮き出ていた汗を拭い、男は車のキーを捻る。
セルモーターが周り、エンジンが始動。体に響く振動と同時に、少々かび臭く、そして生暖かい空気がエアコンから吐き出された。
「うわ、そろそろエアコンの掃除を頼んだ方が良いかもな。前にやったのが車検の時だから……2年も放置してた事になるのか」
男が愚痴っぽく呟いている間に、エアコンから吐き出される空気は涼しさを帯び始める。十分に冷気と呼べるほどの空気が吐き出されるまで、タバコを吹かしながら待った後、男は再び海沿いの道を走り出した。
照り付ける太陽は眩しく、潮の香りが混ざる風は生温い。
海に目を向ければ、水面は太陽の光を反射してキラキラと輝いている。そして、何よりもその一面の青。雲ひとつ無い空は青く澄み渡り、果てなく広がる海もまた青く染まっている。
空の青と海の青。まるで違う2つの青は、互いに混ざり合うことなくどこまでも広がり。――それでいて尚、それはひとつの青を作り上げていた。
「良いロケーションだな、……暑いけど」
その果てしない青は、しかし男には何の感慨も抱かせなかったらしい。
だがそれも仕方の無い事だろう。車内にいるとはいえ、遮蔽物の無い海辺の日差しは強い。見れば既に男の腕は日焼けのため赤くなっている。これでは景色への感慨など浮かぶはずも無い。
「しかし暑い……、次の自販機で飲み物でも買うとするか」
男のその言葉が終るか終らないかの所で、道沿いに自販機が並んでいる光景が見えた。
車を路肩に駐車させ、小銭入れとタバコだけを手に車を降りる。
「何を飲むかな……。っと、この自販機100円じゃないか、ちょっと得した気分だ」
呟きながら自販機に100円玉を投入し、少し悩んだ後にひとつのボタンを押す。
出てきたのは、程よく冷え、水滴の付いたソーダ水。それは彼がまだ故郷にいた頃に、好んで飲んでいたものだった。
「最近はビールばかりだったからな、たまにはこんなのも良いか」
プルタブを開け、煽るようにソーダ水を流し込む。男にとって、それは喉の渇きを潤す喜びよりも、どこか懐かしいと思う気持ちを強く呼び起こすものだった。
「どうせだからな、久しぶりに砂浜にでも下りてみるか」
自分の行動がらしくないと思ったからだろうか、気恥ずかしさを誤魔化すように独り言を言いながら、男は砂浜へと足を運ぶ事にした。
さくさくと砂を踏みしめる音と、波の寄せる音だけが響く。まだ泳ぐにはほんの少しだけ早いせいだろうか、砂浜には他の人影は見当たらない。
「最近は釣り人も少ないのかね、田舎じゃあ大抵こういう場所には釣り人の1人や2人いたもんだが」
そう呟いて、男は服が汚れるのも構わずに砂浜へと腰を下ろし、煙草に火をつける。
煙草を燻らせながら、男の胸に去来するのは、あの懐かしい故郷での思い出。
子供の頃、泳ぎはしゃいだ夏の日。
釣りを覚えて、毎日のように竿を垂らしていた日々。
初めてのデートの帰り、何とはなしにぼんやりと、2人で眺めた海の色。
もちろん楽しい事ばかりではない。溺れかけた事もあったし、海沿いの家に住んでいたから、津波の恐怖に怯える事もあった。
それでも、やはり海には思い出がたくさん詰っている。
「……そういや、初めて煙草を吸ったのも海でだったかな」
根元まで燃え尽きてしまった煙草を押し潰しながら、男はぼそりと口にする。
考えてみれば、男にとって海は何時でもそこにあるものだった。だからこそ、思い出もまた海に関わっている。
「何、してるんですか?」
思い出へと沈んでいた男の意識を、突然投げかけられた言葉が現実へと引き戻す。多少の驚きと、ぼうっとしていたことの気恥ずかしさから、彼は慌てて顔を上げる。
そこにいたのは、一人の少女。
年の頃なら15,6と言った所だろうか、丁度男の娘と同じぐらいの年頃の女の子。
艶やかに伸びた、腰まで届く黒髪と、対照的に透けるような白い肌。そして何よりも、青く澄んだ両の瞳が印象的な少女だった。
「いや、別に何もしていないよ」
声を掛けてきたのが、娘と似たような年頃の少女だったからだろうか。彼はどこか優しげに少女の問いに答える。
少女は彼の言葉に納得したのか、微笑みながら頷き。そして何故か、自然な動作で男の隣へと腰を下ろした。
「ん、どうかしたのかい?」
突然の少女の行動に、少し訝しげに男が尋ねる。それでも彼の声音にそれほどの困惑が無かったのは、彼女の動作の自然さ故だろう。
「海、好きですか?」
けれど少女の口から発せられたのは、男の問い掛けにまるで関係の無い素朴な問い掛け。
「好き、か。そうだね……好きとか嫌いとかじゃない、かな」
それでも男は、問い掛けに対して真剣な声音で答える。
何故だかはわからないけれど、覗き込むようにして問い掛けてくる少女に、彼は答えなければいけないような気がしたのだ。
「そう、ですか。私と、一緒、ですね」
ひとつひとつ、区切るようにして言いながら、少女はにっこりと微笑む。
わかるような、それでいて何の意味も持たないような言葉を交しているうちに。。いつしか男は、少女から目を離せなくなっていた。
正確には、少女のその深く澄んだ瞳から。
男は少女と会話しながらも、頭の冷静な部分で考え込んでいた。
どうしてこうもこの少女を――懐かしいと感じるのか。
最初は自分の娘と同じような年頃だからだと思っていた、実際それは少なからず影響を与えているのだろう。
だがそれだけでは説明できない、そんな不思議な懐かしさ。
「海、入りませんか?」
男が答えを出せないでいると、不意に少女がそんなことを囁いてきた。
確かにこの暑い日ならば、海につかるのは心地好いかもしれない。けれど着替えも無く、泳ぐ用意など何もしていない状態では、海に入りたいとは思わない。
普通は、そのはずだ。
「そうだな、それも良いか」
だが男の口から出たのは、少女の提案に乗る旨の言葉だった。どうしてかは男にもわからなかったが、そうしなければならないような気がしたのだ。
「冷たくて気持ち良いな、海に入るのなんて何年振りだろう」
「気持ち、良いですよね?」
靴を脱いで、素足を海へと漬ける。波に攫われる砂が脚の裏をくすぐる感触と、心地好い冷たさの水に包み込まれる感触。
懐かしく、そして心地好い感覚に、男は自分の気持ちが昂揚していくのを感じていた。
「もっと深く入ると。気持ち、良いですよ?」
少女の言葉に誘われ、男は服が濡れるのも構わず、深く、深く。海へとその体を沈ませていく。
男の冷静な部分が、自分は何をやっているのかと警告を発する。けれど少女の言葉に従うように、深く、深くへと体は海へと沈む。
やがて足が届かないほどの深みへと男はその身を運び、水が、全てを満たしていく。
「海、気持ち、良いですよね?」
どこか微笑むような少女の声を遠くに聞きながら、男が見ていたのは一面の青。
空の青は届かず、ただ、深い深い。海の青。
頭の片隅で、残してきた家族の事や仕事の事、彼の全てだったものが渦巻いている。
けれど彼の胸の中を締めるものは、どうしてあの少女にあんなにも懐かしさを憶えたのかという疑問の、その答えだけ。
目の前に広がる深い青、それは少女の瞳の色と同じで――。
「懐かしい、はずだよな」
青に染まるその中で。男はその答えだけを抱いて、包まれるように眠った。
* * *
私の父は、そんな何の不満も無い人生を送っているはずの男だった。
けれどその父はもういない。たまたま私も母も家を空けていたある日曜日に、人知れず海へと足を運び、そして亡くなった。
遺書も無く、また自殺する理由もなかった。父が発見された海辺は見晴らしの良い所で、夏も真っ盛りになれば海水浴客で賑わうような場所だったため、事故の可能性も薄いと判断された。そのため一時は事件に巻き込まれたのではないかとも疑われたのだが、警察の調べにより、結局は自殺だと判断された。
父が何故自殺したのか、私にはまったくわからない。想像すら出来ない。
誰か私の代わりに想像してもらえないだろうか、答えを教えてくれないだろうか。
そんな疑問を抱えながら、私は今日も父が死んだ海辺に立つ。
青く、青く広がるこの海に。その答えがあることを信じて。
End