作品No03
カランと、来客を告げるベルの音がした。 時間は既に九時を回っている上に、外は台風前夜で叩きつけるような雨と風。こんな日のこんな時間に酔狂な客もいるものだ。 少しばかりの好奇心を胸にドアの方に目をやれば、滴るほどにずぶ濡れの女が一人。厄介事の匂いが漂ってはいるが、所詮私が関わるような事でもない。 接客業としては間違っているのかもしれないが、この喫茶店はほとんと私の趣味のようなもので、そもそも商売として成り立ってなどいない。聞かず、語らず。ただ珈琲と一時の静寂を提供するだけ。 例え血塗れの男が転がり込んで来ようが、私がするのは珈琲を入れるぐらいのものだ。最も、電話を貸してくれと壊れたのならば、目線で公衆電話を差してやるぐらいの事はするだろうが。 それをわかっているのかいないのか、女は余計な事を言う事も無く無く、カウンターに座って「エスプレッソ」と注文だけを口にした。 返答する事も無く、静かにエスプレッソメーカーを火に掛ける。BGMさえ流していない店内には、コポコポと水の沸く音しか響かない。 私も女も、何も口にする事は無く、動きさえなかった。 暫くして出来上がったエスプレッソをカップに満たして、洗い立てのタオルと一緒に女の前に差し出す。 勿論、濡れたままでは風邪を曳いてしまうかもしれない、なんて親切心ではなく、カウンターを水浸しにされるのが嫌だっただけの事。もっとも、今更手遅れではあるのだろうけど。 女の方もそれがわかっているのだろうか。礼をいうことも無く、顔を上げることさえしない。ただぞんざいに髪を拭いて、淹れたての珈琲に口をつけるだけ。 雨が窓を叩く音は煩かったが、あくまで店内は静かだった。時折女が煙草に火を点ける音以外は何もなく、ただ時間だけが流れていく。 三十分が、一時間が。意味もなく過ぎて、熱かった珈琲が冷たくなっても。何を語ることも無く、何を聞くことも無く。ただ雨の音が強くなっていくだけ。どこか遠くで、雷の音がしていた。 不意に、女がすっかり冷めたカップを呷る。帰るのだろうか。 だがそんな予想とは裏腹に、女は「紅茶を」と、ポツリと口にする。少しづつ近くに聞こえていた雷に掻き消されてしまいそうなその声は、何故だかはっきりと耳に届いた。 うちは昔ながらの喫茶店で、紅茶なんてメニューには入っていない。珈琲専門、静かな雰囲気。それが売りだ。 それでも、そんな拘りを口にする事はせず、ただ黙ってお湯を沸かす。 様々な豆が並ぶ棚に一つだけ、埃を被りそうに置かれている紅茶を淹れて、壊れ物を扱うようにカップへと。 静かに置かれた紅茶を、女は一度だけ口にして。カップを戻しながら、初めて顔を上げた。 「相変わらず、紅茶を淹れるのは下手みたいね」 その声が聞こえるのと同時に、店の明かりが一斉に消えた。 相変わらず響く雨音と、先程よりも近くなった雷の音。どうやら停電してしまったらしい。 「結婚するの」 女は、そんな状況を意に介した風も無く、ただ淡々と言葉を紡ぐ。私は何も応えない。 「あたしは今幸せ。それだけ、報告しておこうと思って。 カタ、と。椅子を立つ音が聞こえる。震えを押し殺したような女の声にも、やはり私は何も返さない。 「招待状、置いたから。……ご馳走様」 最後に、カランとドアベルの音が響いて、再び店内に静寂が戻る。 いつのまにか戻った灯りの下で、女のいた席に目をやれば、飲みかけの紅茶と代金。そしていt枚の紙片。 手にとった紙片には見覚えのある名前が無機質な字で綴られていて、その上に数滴の水の跡。 濡れているのは雨のせいだろうかとドアを開けて、歪んだ景色にそんな区別の意味のなさを思う。 雨だろうが涙だろうが、どちらだって変わりはしない。過ぎ去った時間は戻らないし、涙雨は今も止まない。贈る言葉も持ってはいないのだから。 閉店の札を下げて煙草に火を点ける、置き忘れてきたはずの感傷は、それでも消えてくれはしなかった。 もう一度、今度は自分のために。普段はいれない紅茶を注ぐ。 あの頃とは比べ物にならないほど上手く入れられるようになったはずの紅茶は、けれど美味しくは無く。少しだけ、苦い涙の味がした。 End |
30点(35点満点)
・ハードボイルド。文章も上手かったです。 割と定番といえば定番の「喫茶店のマスター」ですが、渋く書かれていたと思います。
・壊れた男にも冷静に対処するマスター素敵(ぉ
・男がかなしーねーw
・(・∀・)イイ!! どこかで読んだ気がしないでもないけれど、珈琲→紅茶って流れもスムーズ。チョッピリ悲しめってのも好みに合ってる。
・うまくまとまってると思います。それだけに、誤字が痛いですね・・・
・哀愁が漂って、ヨシ。ただつかみが弱かったなと。
・具体的に「涙」という言葉は出さない方がもっと雰囲気がでる気がします。