作品No01





 トン、トン。
 軽くステップを踏んで、靴の馴染み具合を確かめる。
 いつもと違う、だけど見慣れた靴。使い古されてはいるが、履き慣れた自分の靴じゃない。いつもより念入りに準備をする。
 



 走るのは、実は余り好きではない。いや、どちらかというと嫌いだった。
 陸上部には、中学時代からの友人に薦められて何となく入っただけだ。
 それが、ただ他の人よりちょっと早く走れた。それだけで、望んでもいない期待を受けることになってしまった。
 別にそれで走ることに目覚めた、なんてことはこれっぽっちも無い。ただ、肩に圧し掛かる期待が、声援が、プレッシャーが、どうしようもなくうっとおしかった。
 期待に答えてきたのは―――自分ではそんなつもりは欠片も無いが、周りにはそう見えていたのだろう―――俺がゴールを駆け抜けるたびに、まるで自分の事のように喜んで人懐っこい笑顔を浮かべていたアイツに、義理立てしていただけだ。
 自分の事はそっちのけで、俺の応援ばかりしてた、アイツに。




 前屈、屈伸と続けて、体の調子を整える。ずっと座りっぱなしだった所為か、背筋がぎしぎしと音を立ててほぐれていくのが、いくらか心地よかった。
 腕を組んで伸びをしながら、ふと、空に目を向ける。
 夕暮れ色に染まる空を、秋風が運んできた雨雲が、ゆっくりと覆い隠そうとしていた。季節外れの夕立でも来るのだろう。
 
 ちょうどいい。
 雨に打たれれば、この陰鬱とした心も少しは洗い流してくれるだろう。
 
 地面をしっかりと踏みしめて体を前に倒し、所謂クラウチングスタートの体勢で小さく息を吐く。




 誰かのために走る、なんてのは、競技者としては失格なのだろう。
 言葉ではどんな風にでも言い繕うことは出来るが、ほとんどの競技者は自分の為、あるいはそれを通した何かに追いつき、打ち勝つ為に走っているはずだ。でなければ、競技をすることそのものに意味が無くなる。
 だから俺は、本当の意味で競技者では無かった。
 俺はただ、あのお人よしで無邪気で、見ているこっちまで嬉しくなってくる様な笑い方をする、アイツの為に走っていたんだから。
 
 アイツの為に―――走っていたかっただけなんだから。




 だからこれは―――



 ぐっと足に力を込める。
 
 

 最初で最後―――



 いつもより低い視線で、前を睨み付ける。




 他の誰でもない、自分の為に―――




 ところどころがほつれてしまった、俺の足より小さな靴が、ジャリ、と音を立てる。




 ―――風になる!








 (よ〜い、ドン!)
 景色が流れ始める瞬間、嬉しそうなアイツの声が聞こえた気がした。







 前へ。前へ。
 余計なことを考えずに、ただその言葉だけで頭の中を埋め尽くす。
 地面を踏みしめては、思い切り蹴り付ける。一心に。がむしゃらに。
 まるでそれしか知らない、無垢な子供のように。
 息が上がっても。視界が歪んでも。倒れそうになっても。
 前へ、前へ。

 すれ違った親子連れが、訝しげにこちらを見ているのが視界に入る。
 まぁ、その気持ちはわからなくも無い。この真っ黒な服装は、明らかに走るといった動作には適していない。その上、服装と不釣合いな運動靴。誰だって不審に思う。
 自分の滑稽な姿を思い浮かべて、少し、唇を歪ませる。


 ああ、判ってる。
 自分がやっていることがどれだけ馬鹿な事か。
 走ることを嫌っていた俺が、こんな時に、こんな格好で、必死になって走っているんだから。
 正気を疑われても仕方が無い。


 でも、さ。
 俺が走るのはこれで最後なんだ。
 自分の為に走る、最初で最後の機会なんだ。


 だから。

 だから……。


 俺の走る姿が好きだと言ってくれたアイツに、その最後の姿を見せてやってもいいじゃないか。






 前へ、前へ。
 地面を踏みしめては蹴り付ける。


 ―――無邪気な笑顔が、好きだった。


 前へ、前へ。
 地面を踏みしめては蹴り付ける。


 ―――同じ風を受けるのが、好きだった。


 前へ、前へ。
 地面を踏みしめては蹴り付ける。


 ―――その小さな手を引くのが、好きだった。


 前へ、前へ。
 地面を踏みしめては蹴り付ける。


 ―――些細なことで笑いあうのが、好きだった。


 前へ、前へ。
 地面を踏みしめては蹴り付ける。


 ―――アイツが隣にいる、そんな時間が、好きだった。


 前へ、前へ。
 地面を踏みしめては蹴り付ける。


 ―――何より、俺は、アイツのことが……

 ……好きだった。









 気がつけば、見慣れた風景に包まれていた。
 俺とアイツが夕日の中を過ごした、歩きなれた、河原の道。
 俺とアイツが最後に過ごした……道。


 俺は、芝生の上に力尽きたように倒れこむ。
 大の字になった俺の頬に、ポツ、ポツと、小さな雫が落ちる。どうやら、雨が降り出したようだ。
 季節外れの夕立は、見る見るうちに俺の体を洗い流していく。

 乱れた息を整え、ゆっくりと目を閉じる。

 







 認めたくなくて、言えなかった。その、言葉を。
 信じたくなくて、伝えられなかった。その、言葉を。
 

 思い出の中の情景に。ずっと続くと思ってた日常に。
 小さく。小さく。呟いた。









 「……さよなら」



総合得点

27点(35点満点)

寄せられた感想

・想像力をかきたてられる作品だと思います。

・色々と想像させてくれる作品でよかったでし。

・ジーンとくる作品でした

・もう一捻り欲しかったかも?

・こういう話好きです、文句無しで。

・綺麗に無難におさまった感じ



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