作品No06
テーマ「孤独、扉」
ノックの音がした。 程なく鍵を開く音が聞こえ、そして扉が開く。 久方ぶりに光に照らされた室内は、記憶の中にある姿と寸分違わず在り続けている。 壁一面に敷き詰められた本棚。それでも収まりきらず、そこかしこに堆く積まれた本の山。中央にぽつんと置かれた小さな机。――全て、見なくてもわかるほどに熟知した物達。 改めて、光に照らされた室内を見れば、少しづつ埃に侵食されているのがわかる。――けれどそんな事はどうでも良い事だ。 この部屋に置かれた全ての物は、私には必要の無い物だし――それらを必要としたこの部屋の主は、最早居ないのだから。 「茶太ー、居るかー?」 開かれた扉を潜りながら、侵入者が私の名を呼ぶ。――その声に応える気はなかった。 疲弊した体は、声を出すのも億劫なほどだったし。何より、声を出したところで、私の意思が彼に伝わる事はないのだから。 「あ、やっぱりここに居たのか」 だがその意に反して、侵入者はあっさりと私の姿を発見した。――まぁ隠れるわけでもなく、部屋の中央に陣取っているのだから、それもまた当然の事だ。 「茶太。ほら、こっち来いよ」 親しげに呼びかけてくる侵入者、その姿には見覚えがあった。むしろ、良く知っているといっても過言ではないだろう。 この部屋の主の孫で、名前は確か――太一だったか。今年で十一歳になる男だ。 彼とは特別仲が良いわけではなかったが、それでも疎遠というほどではない。むしろ彼の方は、私に懐いていたと言っても良いだろう。――私も、彼が生まれた頃から見守っていた者として、少なからず好感は抱いている。 「……茶太?」 返事が返ってこないのを不安に思ったのだろう。太一は恐る恐る私の方に近寄り、そっと私の背中を撫でてきた。――その暖かい手を、半ば反射的に身動ぎで振り払う。 「……生きてる、良かった。――そうだ、ご飯を持ってきたから食べろよ。水もあるぞ」 そう言って、太一は入り口の方から食事を運んできた。――そこの浅い器に注がれた水と、袋のままのドッグフードを。 そう、私は犬だ。何処かの猫と違って名前はある、それもふたつ。 太一を含めたほとんどの人が使う「茶太」と、もうひとつ。今は亡きこの部屋の主だけが呼んだ、大切な名前が。 「……茶太? どうして食わないんだよ、お腹減ってるだろ?」 食事を前にしても微動だにしない私を不審に思ったのか、訝しげに太一が問い掛けてくる。――まるで泣いているかのように、語尾を振るわせながら。 「食わないと死んじゃうだろっ! ……じいちゃんだって、茶太が死んだら泣いちゃうだろっ!」 悲しみを誤魔化すように、太一が叫ぶ。――けれど、その言葉は私には届かない。 何故なら、死者が泣く事は無いからだ。怒る事も悲しむ事も――喜ぶ事でさえ無い。事実がどうなのかは、死んだ事の無い私にはわからない。しかし、私と主はそう結論付けていた。――ひょっとしたら、実際に死んだ事で、主の方は考えが変わったかもしれないが。 主は、簡潔に言うならば変わった男だった。それもかなりのレベルで。 冴えない農家の一人息子として生まれた彼は、子供の頃から異質な男だったそうだ。才に溢れ、何をやらせても確実にこなすが、やる気がまったく見られない。その上に、他人に興味という物を持たない男だったと聞いている。 青年期に一財産を成し、何を間違ったか幸せな家庭まで築いた。――そして、子が一人前になった時点で本性を現した。 興した会社を全て子供達に任せ、この部屋に一人篭るようになったのだ。食事さえも最小限しか摂らず、ただ本だけを読み続けた。――口の悪い者は、妻を亡くしたショックで気が狂ったのだ等と噂したらしい。 だがそんな噂を気にした風も無く、主はただこの部屋に篭り続けた。まるでこの部屋だけが、彼にとっての世界であるかのように。 私と主がであったのは、そんな頃の事だ。 三日振りに食料を調達しようと、主が部屋の扉を潜った所、まだ幼かった私がぼろ屑のように打ち捨てられていたらしい。主はほんの気紛れで――もしかしたら寂しかったのかもしれないが――私を拾い、そして命を救ってくれた。――私にはこの頃の記憶は無いのだが。 幸運にも、私は直に回復した。 潤沢とは言えないが不自由の無い食事に、外敵の居ない住居。楽園とも言える場所を手にした私は、順調にこの身を育んでいった。――主は私に注意を払う事も無く、ただ本を読んでいた。 単調だが、幸せな生活が五年ほど続いた。その間に起こった事は、太一が生まれた事ぐらいしか覚えていない。――ただ主が本を読むのを見、時折盛れる呟きを聞いていた。 そして、あり得ない事が起こった。私が主の思考を理解出来るようになったのだ 何が起こったのかはわからない。だが確かに、犬でしかない私は主の言葉を理解し、その思考さえも理解出来るようになった。そして主も、私が彼の思考を理解している事を――私の思考を理解した。 奇跡、と人は呼ぶのかもしれない。――或いは、あり得ない事だと蔑むのだろう。だが私と主にとっては間違い無く真実だった。 私と彼は時に語り合い、時に思考を交わらせながら、そして本を読んだ。――ページを開く器用な指を持たない私は、彼の後ろから覗き込むだけだったが。 そうして、瞬く間に五年が過ぎ――主はその命を散らした。 何気ない最後だった。いつもの用に本を読みながら、ページの終りと共に眠りについた。――私は、胃までも主の最後の思考を覚えている。 あれから、何日が過ぎたのだろう。――光の差さないこの部屋では、もう時間の感覚もわからない。――ただ、静かにありつづける部屋。 ドアの軋む音がした。 思考に没頭している内に、太一が部屋から出ていってしまったようだ。目の前には、手付かずのドッグフードと水が置かれたままだ。――衰弱しきった体は、食事を前にしてももはや何の反応も閉めそうとはしない。 再び静かになって部屋の中、ぼんやりと扉を眺める。扉。部屋と外を区分する――世界を隔てている物。 脳裏には、今だ響く主の最後の思考。『この部屋の中だけで完成した私達の世界。思考は最早同一で、全てを理解しあえる。これは孤独なのか、それとも満たされているのか。――死は、孤独なのだろうか』 私を同胞と呼んでくれた主のために、私の答えを導き出すために。完全に世界と隔てられたこの部屋で、その命題について考える。 霞む意識を、眠りにつこうとする体を押さえつけて。――死出の扉を開いたその先で、待っている主を孤独にさせないように。 END |
16点(20点満点)
・落ち着いた表現と丁寧な描写が独特の雰囲気を作り出しています。
・もう1つの名前がんものすごく気になりますw
・犬という視点は面白いけれど、どうも感情移入が難しかった。もうすこし、犬らしさが(といってしまったら妙だけれど)欲しかった
・泣きました。多く語らせて貰えない良い作品でした