作品No05



テーマ「黒、孤独、話」





  還れない月




 少年は宵闇が嫌いだった。薄暗い空気の中に、それでも漂う温かい声が嫌いだった。どこの家からも漏れ出てくる楽しそうな気配が嫌いだった。決して自分の飢えは満たしてくれない、家々の団欒の夕餉の匂いが嫌いだった。

 ただアスファルトの上を歩くだけの自分とはけして交わらない、横目で睨みながらも誰一人気づかれないまま通り過ぎることしかできない、家々の明かり。

 ……そのことに特に意味は無かった。その日に、そんなふうに感じてしまったことに意味は無かった。たまたま、溢れてしまったのがその日、そのときだった。それだけのことだった。


  『もう、耐えられない』


 全力で駆け出した。何もかもを放り出して。手に抱えていた買い物袋も、財布の入った手提げも、もう重くて、何もかも重くて、留まってはいられなかった。走りたかった。逃げたかった。靴が脱げて、息が切れて、心臓が悲鳴を上げて、涙が溢れて、声が上げられなくて、走り続けた。衝動の叫ぶままに逃げ続けた。自身の内に響く悲鳴だけが意思を支配していた。次第に民家が少なくなって、ついに田園がその向かう先に横たわっているのが見えても、そんなことは関係なかった。そんなものはどうでも良かった。ぬかるんだ土の中に踏み入り、足が捕まり、両手をついてもそれでも止まれなかった。四肢をひたすら動かした。両手を両足を必死に動かした。身体が沈んでゆくのがわかった。手足が限界までぬかるんだ田の土に沈み、既に肘より先が殆ど動かなくなっても、涙が零れ続けた。力尽き横たわっても、まだ衝動が暴れ続けた。頭の芯が叫び続けた。赤子のように横たえた身体を無茶苦茶に暴れさせた。全身が土に塗れ、自分が泥に融けてゆくような錯覚を覚えた。自分が無くなってゆくような認識が心地よかった。

 泥の冷たさが身体の表面から染み込んでいた。黒い土が顔面を覆って隠してくれた。何もかもを黒く包み、自分を無くしてくれるような気がした。すべて消してくれるような気がした。中身まで殺してくれるような気がしていた。


 ……そうして。そのままの格好で、ずっと空を眺めていた。冷たい月が優しい光を降らせる(かな)しい空を見ていた。 しい空を見ていた。


 視界を占めるのは、ただ夜だけ。何もない、寒々しい、空々しい、闇の中を怜悧な光が差すだけの夜を見ていた。


 ――ついに、見つけたような気がしていた。ぼくを受け入れてくれるもの(・・・・・・・・・・・・・)

ぼくを、ゆるしてくれるものを(・・・ ・・・・・・・・・・)










 気がつくと、僕は歩いていた。街灯の照らす道を、ただ静かに。

 誰もいない。アスファルトを踏みしめて歩くこの道にも、その両脇を占める人家も商店も、人の気配は一つとして無かった。

 その孤独がただひたすらに快い。独りであることを、空気の冷たさを、これほど気持ちよく感じたことはなかった。

 この闇が、何もない空虚が、すべてを許し受け入れてくれる。他人の幸福を映すたびに憎悪を吐き出すこの瞳も、恨みを糧にしか動かないこのこころも。


 この開放感。


 もう、何も欲しがらなくてもいい。この空が僕を受け入れてくれた。あの月が僕を見ていてくれる。

 やっと生きていけるような気がしていた。いきていてもいいような気がしていた。



 そうして、ついに自宅の一軒家が見えるところまで歩いてきた。だけれど違和感を感じる。

 なぜ、明かりが点いているのか。父親も母親もこの自宅に帰ってくるなど稀なこと。もし帰ってきても自分の顔など見ることもなく寝室に向かい、朝食も取らずに出かけてゆく筈の二人。ただ一人の弟は、既に自分を待つことを諦めて寝入っている時間だろうに。

 訝しみながら少年が扉を開けて中に入ると同時に、奥から両親が見たことも無い形相で駆けて来た。その息子の泥塗れの格好に一瞬驚き、すぐにタオルを持ち出して頭から被せ泥を拭き取りはじめる。

 心配そうな母親の顔。力強い父親の手。

 呆然とそれらを見つめながら、心の奥から何かが溢れてくるのを感じていた。意地がそれを止めようとしても、後から後から湧き出る感情の奔流が総て押し流してしまうように思った。しゃくりあげる息が苦しい。


 息が苦しい。

  息が苦しい


    息が



「……っ!! ゴホッ!!ゲハッ!!!」

 咳き込んで喉に張り付いた泥を吐き出すと同時に、上半身を起こして目を開く。

 暗い。身体が冷たい。咳き込む。此処は一体。父さんは、母さんはどこに行ったのか。

 ゼェゼェと息をつきながら、周囲を見廻す。……ここは…先程まで居た、田のぬかるみの中?

 わからない。どうなっているのか、なぜまた自分はここに逆戻りしているのか?


 そうして、ついにひとつの結論に辿り着く。


  身体がガクガクと震える。心が悲鳴を上げる。




「………ゆ……め…………?」


 食いしばる歯がジャリリと音を立てる。泥を噛む味が、嗚咽を漏らすまいとする最後のプライドをボロ屑のように引き裂いて砕いてゆく。


「……う…く……あ…ああぁ……っ……う…………」





 たすけて。

   たすけて

  たすけて




どんなに叫んでも。



 望みは、叶わない。助けは来ない。





    僕は独りだった。

    ――どうしようもなく、独りだった。





 月が見ていた。

 幼い絶望も、その悲鳴も切望も、月は見ていた。

 月だけが、それを見ていた。










   絶望は死に至る病也。



 いきてゆくことは





  どうしてこんなにもつらい









END



総合得点

14点(20点満点)

寄せられた感想

・全体的に抽象的すぎてよくわからないです。

・そうとういい感じの作品。云う事はありませんw

・すこし状況が分かりにくかったりしますが、何だか訴えられたような気がしました。

・今回で一番好きかも。少し独り善がりな感じはありますが。



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