作品No10



よくある話。たいくつな話。
今日この日この男はこの朝から機嫌が悪かったわけだ。別に低血圧という訳ではない。
それでも人間何時でも機嫌が良いというわけではなくて、彼はこの日がちょうど蟲の居所が悪い日であったのであろう。…前日に、たいしてえちも期待できないような深夜番組を「CMの後も続きます!」という言葉を信じて長々と見すぎていたのが、主な理由かもしれないが。
よくある話。たいくつな話。
そんな訳でこの男は機嫌が悪かったわけだ。寝不足というわけだ。だから姉からのおはようのキスも妹の手作りの食事も従姉妹からの愛の詰まったモーニングコールも母からの執拗な嫌がらせも、何一つ彼の覚醒に効果を表さなかったわけだ。…最後以外
はフィクションだが。
よくある話。たいくつな話。
とどのつまりは寝ぼけていた彼だが、それが元でちょっとした事を聞き逃してしまった。別に重要な事ではない。実はお父さんは本当のお父さんじゃないとか、実はおじいちゃんがお父さんだったとか、実はお父さんがお母さんだったとか言った、人生の変革期を迎えさせるような話でもない。ただ「今日は雨が降るかもしれないから傘を持って行け」といった、そんなつまらない話だ。聞かなかったところでどうと言うことは無い。
だが、それでも、こんな天気の変わりやすい季節には、重要な話となる訳で。

しとしと雨が降っている。彼は雨が好きではない。雨が好きなやつなんて、物好きだと考えている。風情も情景もどうでもいい。彼にとって、雨は憂鬱を運んでくるものでしかない。
「…どうするかな」
彼には傘が無い。ただでさえ雨という天気で憂鬱になっているのに、このまま外に出たらずぶ濡れになること間違い無しである。あの感触は彼にとっては生き地獄だ。
シャツだろうがズボンだろうがお構いなしに染みてゆく水分の感触と言ったら、筆舌につくしがたいものが有る。
「はぁ、誰かの傘でも残っているだろう」
可能性の低い望みにすがり、下駄箱へと踵を返す彼の目の前を、人影が通り抜けていった。
「うっわー!雨!超・雨!」
当たり前というか、それ以外言えないのかというか、形容詞ですら知らなさそうな、おつむの温そうな声が聞こえる。彼には、聞きなれた声だった。
「あー!傘忘れてた!ま、いいや。走れば濡れない!」
根拠の無い断言。そのまま彼女は軽やかに走り出した。
「ワン・ツー!ワン・ツー!」
彼女なりに、雨を仮想敵として攻撃をかわしているつもりらしい。無意味なのは見れば分かることだが。
「きゃ、フェイント!?」
フットワークに無理があったのか、そもそもどだい人間では無理な行為だったのか、ぬかるみに足を取られた彼女が、ぐるりと左に一回転。ローファーが綺麗な円弧を描いた。
「いたたたた…」
彼女は雨の中、ぺたんと地面に座り込むと、ぼんやりと上を向いた。遠巻きにして、他の生徒たちが下校してゆく。それを見るでも見ないでもなく、彼女はただぼんやりとしていた。
「…」
彼は傘を諦めて、誰かが捨てていったであろうカッパの破片を被り、彼女に近づいてゆく。
一歩。また一歩。手が届くところにまで迫って、ようやくこちらを向いた。
「よ」
ぼやっとしたままの目が、こちらをしっかりと向く。そして口の端だけあげてにたりと笑うと
「や」
そのまま言葉を返した。
「…何してるのさ」
ずぶ濡れの彼女にかける言葉にしては、すこし抜けている。
「何って。かわそうとした所を失敗したんじゃない。あーもー惜しかったなー」
彼女はおしりが冷たくないらしく、転んだままの体勢でけらけらと笑い始めた。人の流れが、さらに離れていくのが分かる。
「とにかくだ、立て。知り合いがこんなのだと俺の評価が落ちる」
「えー?そんなこと無いでしょ?」
彼が出した手を受け取って、彼女はすくっと立ち上がった。
そしてまた、こんどはハッキリと上を向いた。雨を、顔に受けている。ぴっと伸びた背筋が、小さいはずの彼女を雨の中でも凛々しく立たせていた。
「…いつものことか?」
「そう。いつものこと」
彼女は、まるで雨を浴びるのが不可欠な生き物のように、嬉しそうにその飛沫を全身で受けている。
広がった両腕は、雨を体のすべてで受けようとしているかのようだ。
彼女の体が濡れていく。顔が、腕が、胴体が。服に至っては、シャツもスカートも膝丈のソックスを含めた全てが濡れて、彼女の華奢な体に張り付こうとしている。ベストから出たブラウスの白い透けたところから、彼女の肩のラインがハッキリと確認できた。彼にはそれだけでも、刺激の強い光景だった。それでも彼女は、何一つ気にしているようには見えない。
「…」
彼のほうに限界がきた。何も言わずに手を取ると、上を向いたままの彼女を引っ張る。
「…あ」
少し反応したが、それ以上は何もせず、黙ってただ彼女は手を引かれている。
呆然とした顔でいる彼女と、それをどこかへ連れて行こうとする彼。
彼は、友人がもう帰っているであろう事を切に願った。

「雨、降ってるね」
学校からかなり離れ、人通りも少ない場所に差し掛かったところで、ふと彼女が呟いた。
「嬉しいんだろ?」
そう呟き返す。彼女が雨好きなのは昔からのことだ。雨の日に限ってテンションが上がりっぱなしになる彼女の相手をさせられるのはいつも彼だった。彼はそのたびに不平を漏らしていたのだが、時折彼女がしてくる薄着が、雨によって透けて見えるときぐらいは静かになるという、ませたお子様だった。
「うん、嬉しいよー?」
ふいに、彼女がこちらを向く。濡れた肢体がつと迫る。雨粒に濡れた彼女の顔には、しっとりと湿った
髪が張り付いており、なんともいえないなまめかしさを演出している。
「物好きだよな、昔から」
ワザトと大声でいい、彼女を見ないように視線をずらす。
「うん、大好きなんだよ」
にこにこと笑みを絶やさない彼女の横顔を、気づかれないようにしながらついと見る。彼にとっては、こんなに近くで濡れた彼女を見るのは久しぶりだった。
幼い頃は、雨のたびに走り回る彼女を追いかけて、よく一緒に走った。ぬかるみに足がはまったり、衣服を汚されたりした時も有ったが、それなりに幸せだったような気がしている。だがそのときにしょっちゅう濡れた衣服を見ていたことが、これからの彼の性癖を決定してしまったのかもしれない。
「あー。でも皮靴って雨に弱いよね。高いのに軟弱だよね」



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