作品No07
二つの幻影 アスファルトに染み入るような熱、耳朶に響くうるさいくらいのセミの声が今を夏と否応無しに知らしめる。 熱で分子の密度がせわしなくかわる空気のレンズの向こうにゆらゆらと揺らぐ景色が見て取れる。 狩岡一人(かずひと)は幾筋も滴る汗をタオルでぬぐいながら、祖父の手伝いでアイスキャンディーを売っていた。本人は全くその気はないが、魅力的な日給に惹かれて二言で返事をしてしまった。それをいまさらながら後悔して、重たい荷車にこれほどかと言うほど氷菓子を詰め込み、何キロもあるドライアイスをそれ以上に突っ込んで傾斜のきつい坂道をえっちらほっちら掛け声とともに踏み登った。 小さな子供たちが、親からもらってきただろう小銭を我先に差し出して売り物を請いたのは坂の中腹辺りだった。にぎやかな少年少女たちに一人は閉口するが、それ以上にこのような場でアイスキャンディーをよこせという子供の無粋さに舌打ちを禁じえない。 「ちょ、ちょっとまってくれ、とり合えず坂、坂を登りきってから・・・」 裏返る声を振り絞りようやくそれだけを言ってのける。子供たちは、わいのわいのとあたりを駆けずり回り、気の利いたのは台車を押す手伝いすらしてくれる。この子供には一本オマケしてやるか、と口の中で呟いて、やかましい中をそれなりに楽しく一人は歩いた。 ようやくの思いで坂を登りきると、整備しされていない土が当たり一面に敷き詰められた道に立った。あたりに軒並みをそろえた家々が並び、気のよさそうなお婆さんが一人に頭を下げた。 「あんちゃん、アイス、アイス!!」 待ちかねたかのように子供たちは列を作り、それぞれがそれぞれの味を口々に叫ぶ。 ぶどう、みかん、ソーダ、イチゴ、メロン・・・・ 愛想よく笑いを振り撒いて、冷え冷えとした台車の中に手を突っ込み次々と所望の品を取り出す。わっと、子供たちから歓声が上がりまるで魔法を見たかのように目を輝かせて、それを手にして走り去った。無論、台車を引く手伝いをした子供には一本オマケをくれてやった。 「こういう仕事も楽じゃないな。祖父さんもずいぶんとまあ厳しい仕事をあの歳でこなすものだな・・・」 苦笑いを一つに、歩を進める。 矢張りアスファルトより、普通の地面の方が照り返しが少ない分ずっと涼しく感じる。ことにこの道は民家が並立している為、場所によっては水打ちもされて心なしか暑さを忘れる。 ちらほらと親子連れが玄関から現れては、小銭を見せてアイスを買う。子供ばかりが食いたがっているのではなく、案外大人もこの熱さに参ったのか、倦んじ顔をして、熱いのはたまらんなあ、と苦笑いをもらし黒く日焼けして脂ぎった顔を面白くゆがめる。 日が南天に差し掛かると、なんともいえない不快感と虚脱感が一人の体を襲う。なんどもふらふらと倒れそうになり、これはいかんと立て直すが、どうも足がうまく地に付かないようで困ったように右に左に振れる姿が傍目では滑稽だった。 どうにも耐えられなくなったので、とうとう彼は売り物に手を出した。ドライアイスで冷え切った櫃内から普通この気温では絶対にありえない氷を取り出すと、口に含んでみた。彼は祖父の仕事柄、小さい頃からこういうものに慣れ親しんでおり、近所の子供たちからはハイカラだとうらやましがられていたが、一人からしたら、すでに食い飽きた代物だった。 しかし、このときだけはずいぶんと違った。味の判別が出来るほど正常ではなかったが、何か普通の冷ものを口に含むのとはまた別の爽快感が身体を支配する。瞬く間に口に飲み込まれて、もう一本と言わんばかりに手が伸びる、が、さすがに売り物をこうも食べるわけにはいかない。不承不承に手を引っ込めて再び売り歩く事に専念する。朝から何遍目かの客寄せの言葉を叫ぶと、名残惜しそうに台車を眺めて、振り払うかのようにさらに大きな声で人を呼ばわる。 ちょうど昼飯時のためか、人が殆ど出歩いておらず、民家の前を練り歩いても買いに来るどころか顔も出さない。仕方がない事であるが、誰もいないところで大声で呼ばわるのもあまりいい気持ちはしないし、馬鹿を見ているようなので、自然に声が小さくなる。 雲ひとつない快晴。まるで雲が暑さに愛想をつかせて逃げ出したかのような青空。その真ん中で容赦なく照りつける太陽。 考えてみれば、一人は夏があまり好きではなかった。 学生時代、皆は川遊びに山遊び、旅行などと大仰な計画を立てていたが、彼はその中でずいぶんと落ち着き払った、本人としてはそう努めていた。他の青年たちと同じように遊びまわりたいのが正直な気持ちだった。別段家庭の事情でもない、友人付き合いが疎遠だったわけでもない。ごく普通の家庭、それなりの友人たち。青年としては上も下もない、至って平凡なはずだった。ただ、夏が怖かっただけだった。 小さな頃、彼には仲のいい友人が二人いた。近所に住んでいる美也氏春野と山野三郎。二つ年上の彼にとってはいい兄と姉だった。どちらかと言えば気の強い春野とそれに引きずりまわされる三郎と一人、それはそれで彼は満足だった。そのころ彼の中には春夏秋冬の感覚はなく、彼らが寒いと言って初めて冬を感じ、暑いと言えばそこで夏になるほど充実した毎日だった。 両親が心配するほど遅くまで駆けずり回って、時には畑で相撲を取り作物を駄目にしたので近所の人に大目玉を三人で食らったりと、いい意味でも悪い意味でも仲良しの間柄だった。 そんな一人は、次第に姉御肌の春野に淡い想いを抱くようになった。中等学校の頃にその気持ちがどういうものなのかというものをようやく理解したが、血肉を分けた兄弟と同じように育ってきた春野にはどうもその気持ちを口で言い表す事は出来ないでいた。向こうは自分をただ単に仲のいい弟みたいな男としか見ていなかったら、大恥をかいてしまうと思い込んでいた。少年の心底に潜む自尊心が結局彼を行動に駆り立てる前に萎縮させる薬となり、悶々とした気持ちを沈めるだけの毎日だった。 「ねえ、一人。あんた、将来なりたいものとかあるの。」 欠伸をかみ殺しながら春野はけだるそうな眼差しを曇った空に向けていた。一人は答えに窮した。何をしたいとも考えた事もなかった。だからと言って、高等な学問を学びたいとも感じなかった。 「そういう、春姉ちゃんは・・・。」 どちらかと言えば春野の方がそういうのを考えなくてはいけない時期に来ている。それを期待して一人は呟いてみたが、適当な答えが見つからないのか口の中で何かを咀嚼するように困っていた。 「まあ、私は、やっぱり、嫁さんでしょ。女だったら普通それを考えるよ。」 困った笑い声をあげて、苦し紛れにそういう。 「ふつーの男と結婚して、ふつーに子供生んで、ふつーにばあさんになって・・・それが夢だよ、私の夢。」 最後の「夢」をやたら強調して、赤面しながら笑う春野。別の意味で赤面する一人。 彼はそのときにこう叫びたかった。 「じゃあ、僕が春姉ちゃんをお嫁さんにもらってあげる。」 しかし、彼のおびえる自尊心がそれをせきとめて、心の奥底の中に封じてしまった。春野は何知らぬ顔であぜ道のオオバコを二つ引っこ抜いて、一人に一本それをよこし、草相撲をした。相変わらず、せっかちな春野は自分で引っ張って、自分で自滅をしてしまった。それが気に入らないのか、二つに分かれたオオバコを重ねて、強靭にしたのを一人のに引っ掛けて、一方的に仕掛けて、一方的に勝ち、一方的に喜んだ。そんな子供じみた無邪気さが一人の心にはなにか大切に感じた。 三郎は将来は医者になるといい、高等学校へ進む事が確定した。家は裕福ではないが、鳶が鷹を産んだと親が日々いい続けたように、彼は東京の有名な高校に合格をして近所でも中々の有名人になった。四月になると列車で東京の方へ上京をして、春野と一人とは離れ離れになってしまった。それを一人も春野も寂しく思った。 結局春野は何をするわけでもなしに、家事の手伝いをしながら日々を過ごして、一人は三郎に感化されたのか、同じ学校へ行くと言い出して勉強をはじめた。 いまさら間に合うのかと両親に皮肉られながら、やはり春野への想いを打ち明けられないまま、月日が過ぎて九月の下旬に差し掛かった。 昭和三十六年九月十日、三郎の高等学校から一時帰宅した。母親が倒れて、命が危うくしきりに三郎の顔を見たがるので父親が東京から呼び戻したらしい。 一人は久し振りに見る三郎の顔が東京の唐めいた風にさらされたのか、さびれた小さな町を行き交う人の中でひときわ輝いて見えた。それでさらに彼は東京の高等学校へのあこがれを強めた。 「どうだ、一人、これが先端の流行だ。」 そういって、東京の流行をご披露してくれた。真っ赤なハンケチをわざわざ一人のために購入してきてくれていた。こんな町では手に入らないような朱染めの手ぬぐいが、平生から少しばかり大人じみていた一人の雰囲気によくあっており、ポケットからちらと顔を出して、歩くたびに風で揺れるのが面白く様になっていた。一人は得意になって歩いた。春野も誉めそやしてくれた。 三郎の母は、息子を見たとたんに持ち前の元気を取り戻して、青草のようにしなびていたのがウソのように回復して、仮病を使って自分を呼び出したのでは、と三郎に勘繰られるほどだった。ウソではないのは重々三郎も承知しており、兎角母の病気が治ったので予定よりも早く岐路に着くことになった。 昭和三十六年九月二十六日、本来なら三郎は東京行きの急行に乗って発っているはずだったが、台風十五号の影響で交通機関は遮断され、動くに動けない状況に追い込まれていた。 「ま、大丈夫さ。どうせ後二三日は休むと言っておいたから、問題ないだろう。」 余裕綽々で畳のうえに寝転がりながら、窓をきしませる突風を聞いていた。 昭和三十六年九月二十八日朝、一人の中で三郎の声が鳴り響く。 「春野!!春野!!」 春姉ちゃんは、おぼれていた。突風に煽られて、濁流となった町の軒並みをなすすべもなく流されている。何かを叫んでいるようだが何も聞こえない。僕は足がすくんで動けないでいる。僕は三郎兄ちゃんのほうばかりを見た。兄ちゃんがこちらを向いく。僕は情けない声で彼の名前を呼ばわった。きっとなにかしてくれる、とは考えてはいなかった。ただ自分の気持ちを落ち着けるだけのために。兄ちゃんは何度も僕と流される春姉ちゃんを見交わした。そして、親の制止を振り切ってそのまま川に飛び込む。 瞬く間に濁流に飲み込まれてしまった。 一瞬赤い色が浮かび上がったように見えたけど、すぐに濁った色に埋め尽くされて、何事もなかったかのようにごうごうと音を立てる川と化した。 後世に伊勢湾台風と呼ばれた台風十五号 全国被害は死者1531人 ことに愛知県下の死者は1026人 その中に春姉ちゃんと三郎兄ちゃんの名前が含まれているかは、こわくて調べられなかった。 残暑の辛い夏の日、俺は何もかも失った気持ちになった。 それから十年間、あこがれの高校に行き、高度な学問を受ける為に大学にも進学した。 で、結局、何も身に付かずにアイスを売っている。 ひぐらしが鳴き始めた。金を切るようなかしましい声が俺は好きだった。その声を聞きつつ、俺は一日の仕事を終えて帰路についたところだった。子供たちは夕食の時間が近いのか、俺になど見向きもせずに一目散に道を駆ける。夕日が遠くに懸かる橋を照らしだし、そこを自転車や自動車が走りぬけるたびに長い影を作って、川に明るく長い影を投げかける。センチメンタルな気分に浸りながら、夕日を右手に歩く。 ふに後ろから声がかかった。ぶっきらぼうな女の子の声。 「ねえ、アイス頂戴。」 俺が振り返ると、むすっとして、気難しそうな十ほどの女の子が小銭をつっけんどうに差し出しながらこちらをにらんでいる。 「もう、殆ど売り切れてるよ。君の欲しい味はないかも・・・」 「いいから、頂戴。」 俺の説明もじれったいのか、ますます機嫌が悪そうにもう一度小銭を差し出す。 苦笑いをもらして、一つ適当に取ってやった。ソーダの味だった。 「はい、どうぞ・・・」 愛想よく少女に差し出すとひったくるようにしてそれを取り、目をらんらんと輝かせながら眺めていた。 「君、お父さんか、お母さんは・・・」 少女が目を上げて、幾分機嫌が良くなったのか先ほどよりか無愛想な雰囲気の角が丸くなった様子で向こうを指差した。 夕日に長い影を作っている男女二人。彼女の帰りを待っているようで、その場から動こうとしなかった。 俺は台車の中を覗いた。まだ売り物は二本残っている。 「これ、売れ残りだけど、お父さんとお母さんに・・・」 何を考えたのか、中身を取り出すと少女の空いた片手にその二本を握らせた。どうせもう家に帰ったら、俺か祖父さんの腹の中に入るだけだ。食い飽きたものをまた喰いたいとは思わない。 「でも・・・・」 「なに、一人からだ・・・とでも言っておいてくれ。」 心なし軽くなった台車を引きずりながら、俺は少女に背を向けた。彼女の両親が春姉ちゃんや三郎兄ちゃんじゃない事くらいは十分承知していた。だけれど、俺からだと言って欲しかった。 俺は今でも春姉ちゃんや三郎兄ちゃんの見えない亡霊に取り付かれているのだろうか。 ありもしない幻影にすがってアイスを売るのだろうか・・・ またきっと、全く関係ない人に同じ事をするだろうか。 「一人からだ・・・・ 「そう言っておくれ。 END |