作品No05
さぁぁぁっと、窓の外で小さな音が響いている。私はそれを聞きながら、ぼんやりと誰もいなくなった家のリビングを眺めていた。 雨。 昼過ぎまでは確か晴れていた。いくら塞ぎこんでいたとしてもそれくらいは判る。 曇り始めたのは何時なのかは知らない。もしかしたら何の予兆も無くいきなり降り始めたのかもしれないが、今の私にはそんなことどうでも良かった。 ただ、ぼんやりと静か過ぎる家の中を見つめていた。―――否。私は何も見ていなかったのかもしれない。 自分のことなのに、わからない。ぽっかりと空いてしまった空間は、私の意識さえも根こそぎ奪い取っていったのだろうか。 今日、母が死んだ。 久しぶりの休日のことだった。 あっけないものだった。人はこうも簡単に死んでしまうのかということを、嫌というほど見せ付けられた。 幼い頃に父を亡くし、私は母と二人っきりでこの十数年を過ごしてきた。保険金で当面の生活費は賄われていたが、当然、それに頼ってばかりではいけない。母は、あまり丈夫ではない身体に鞭打って働くことにした。 慣れない仕事に倒れたことも何度か有った。当時『死』という概念をあまり理解していなかった私は、母が伏せるたびに父を恨んで泣いていた。 母をほったからしにしてどこかへ行ってしまった。そんな風に考えていたんだと思う。 私が枕に顔を埋めてすすり泣くと、母は何時の間にかそばにいて優しく頭を撫でてくれていた。今考えると不思議に思う。幼心に私は、母に心配をかけないように声を押し殺して泣いていた。それなのに、母は決まって私の頭を撫でていたのだ。 高校に入ってからは、私も母を助けるためにバイトをした。生活環境が考慮されたのか意外とあっさり許可が出た。生徒指導の先生は最後まで渋っていたらしいが。 母は反対しなかった。 「貴方が自分でちゃんと考えて決めたことなら、私は応援するわよ」 そう言うと、いつもの優しい微笑みを浮かべていた。 学校が終わるとすぐにバイトに行ってたので、あまり社交的でない私は相当に人付き合いが悪かったと思う。そのせいで陰湿なイジメも何度かあった。 ノートや机に落書きされたり、外靴が隠されたりするたびに、私は必死で涙をこらえていた。 「家に帰ればお母さんがいる。きっといつもの笑顔で『お帰り』って言ってくれる」 そんなことを心の支えにして。 心の支え。 そう、私にとって母は全てだった。母の笑顔を思えばどんなことにだって耐えられる。母の悲しむようなことは絶対にしない。そう心に誓っていた。 いつも私を包んでくれた母。 ―――その母も、もうこの世にはいない。 久しぶりに私と母の休日が重なった。 母の仕事も私のバイトも休み。数ヶ月ぶりに『家族』で出かけるということに、私はかなり浮かれていた。 それはほんの一瞬の出来事だった。 横断歩道を渡っていた私たちに、信号無視のスポーツカーが突っ込んできたのだ。 あまりに突然のことに、私は目をつぶることすら出来なかった。 スローモーションで流れていく景色の中、ドンと軽い衝撃を受けた。 突き飛ばされて尻餅をついた私の目に飛び込んできたのは、いつもの微笑と――― ―――直後、重く鈍い音を立てて吹き飛ばされた、母の姿だった。 即死だった。 もはや息が無いことは、誰の目にも明らかだった。 私は何が起きたのか理解できずに―――いや、理解することを拒否して、ただ呆然とへたり込んでいた。 周りが何か騒いでいるようだが、全く意識に入ってこない。 音が消えた世界で私が見たのは、紅い液体に塗れて横たわる母の姿だった。 そのときになって、今更のように、私は悲鳴をあげた。 ざぁぁぁぁ…… 雨はますます激しさを増していく。 ポツポツポツと窓に水滴が当たる。まるで何かを催促しているように。 私はぼんやりと窓の外を見る。どんよりと重い空は、この雨が何時までも降り続くかのように思わせた。 『空は見る人の心によって色を変える』 ふと思い出した母の言葉に、私はなるほどと心の中で相槌を打つ。確かに今の私にはピッタリの色かもしれない。 私はゆっくりと立ち上がった。ずっと膝を抱えて蹲っていたせいか体のあちこちが固まっている。それをほぐす事もせずに玄関に向かって頼りない足取りで歩く。 ギィッ…ギィッ…と、僅かに軋む廊下の音は、静か過ぎる家の中に厭に響いていた。 壁にかかった大きな振り子時計は、六時を指していた。 外に出ると激しい雨が私の身体を打つ。冷たい水滴が、私の身体にまとわりついて容赦なく体温を奪っていく。 『ちょっと、そのままだと風邪引くわよ?』 母の声が聞こえたような気がして思わず振り向く。しかし、そこにあるのは冷たく閉ざされた家の扉。 もう、開くことは無い。誰かが――母が、傘を持って慌てて出てくることも、永遠に、無い。 私は、初めて声をあげて泣いた。 擦れ違う人が私を奇異の視線で見ている。 この大雨の中、傘も差さずに憔悴しきった顔で歩いていれば当然だろう。おぼつかない足取りで雑踏の中を逆流していく。 雨はますます酷くなっていったが、私にはもう何もかもがどうでも良かった。びしょ濡れになって顔に張り付く髪も、冷たく纏わりついて体温を奪っていく服も、ともすれば手放してしまいそうな意識さえも。 頭の中に靄がかかったまま、私は雨の中を歩いていた。 気がつくと、私はこの場所に立っていた。 私から全てを奪った場所。母が死んだ場所に。 つい数時間前のことなのに、雨は道路についた生々しい血の跡を洗い流そうとしていた。 私はフラフラとその場所に近づくと、しゃがみこんで薄らと紅く染まった雨水をかき集めた。 何のためかは自分でもわからない。母の痕跡を少しでも残したかったのかもしれないし、ただ単に、何かにすがりつきたかっただけなのかもしれない。 ガリガリと道路に爪を立てて雨水と、それにかすかに混じる血をかき集めていた。前髪から流れてくる雫が口に入る。少ししょっぱい。自分でも気付かないうちに、また涙を流しているようだ。 私は爪が割れるのも気にせず、ただ淡々と道路を引っかいていた。嗚咽を漏らさず涙だけを流して。 「おい!! そんなとこで何してる!?」 背後から何かに驚愕するような声が聞こえる。でも、私には関係ない……。 「おいったら!! 信号!! 赤だ!!」 もう、何でもかまわない……。どうせこの世界に…… 「危なっ!! 車がっ!!!」 ―――お母さんはいないんだから――― 衝撃は二回。痛みは無い。代わりに猛烈な悪寒と睡魔が襲ってきた。 世界から音が消え、色が失われる。身体はピクリとも動かないし、動かす気もなかった。 私は、消えかかった視界で微かに唇を動かした。 それは身を呈して助けてくれた母への謝罪だったのかもしれないし、全く別のことかもしれない。自分でも、よくわからない。 雨はいつまでも、私の身体を濡らし続けていた――― |