金曜日の風




仕方が無かったし、勿論、後悔なんて欠片も感じてはいないが、色の抜け落ちた世界は何とも

味気がないことだけは確かだ。

額に落ちた長めの前髪の向こうには、モノクロ写真の景色。

灰色の空と林のようにそびえ立つ、都会のビル。

ビルの隙間から傾きかけた午後の日差しがこぼれ、手前の石畳の広場に美しい陰影を落とす。

整備された花壇には色とりどりの(たぶん)春の花。

都会には都会なりの春の彩りが溢れていても、自分がそれを見る事はない。

見る事はなくても、美しいことだけは解るから。

華やかさも、鮮やかさも記憶に染み付いていて、じんわりと色を浮かび上がらせてくれる。

それだけで、ふっと安堵に似た息をついた。

たぶんこれから先も、この瞳に色が写ることは無いだろうけど、モノクロの世界はどこか懐か

しい切なさを秘めていて柔らかく高耶を包み込む。

ほんの、半年前まで高耶の世界に『色』はちゃんと存在していた。

けれど事故に遭った直江を救うため、直江の命を引き留めるのと引換えに高耶は視力の一部を

失ってしまった。





月に一度ほど、高耶は直江の知人の眼科へ診察にいく。

気休めみたいなものだが、その方が直江も安心するみたいで月の第三金曜日の午後に予約をと

り、直江と共に訪れる。

名前は中川、下も聞いたが忘れてしまった。

まだ医者としては若い方だが、大きな総合病院で眼科の副局長のポストにいる。

だけど、さすが直江の知人(一応、褒めているつもり)、物の考え方が普通の人とちょっと違っ

ていた。

「仰木さんの場合、蛇に噛まれたんだと思えばいいんですよ」

幾度目かの診療でそんな事を彼は言った。

「蛇?!」

中川の思考回路が理解できす、高耶は何と返事をかえしていいやら悩んだ。

黒い暗幕をきっちり閉めた室内は、文字通り真っ暗な空間。

何台か並んでいた精密機器も闇に沈み、沈黙する。

医者が検診のため、眼に当てたライトの光だけがやけに強烈で、高耶はもうその一点しか見え

なくなっていた。

上を見て、次は横…下……。

日常から切り離されたような静謐な空間で、ぽつぽつと中川が指示をする。

言われたとおりに眼球を動かしながら、この異質な空間ならどこかに蛇がいてもおかしくない

なとふと思った。

「人間に嫌われている蛇ですけどね、彼らは実はかなり臆病で、自分が飲み込めない物にはあ

まり立ち向かってこないものなんですよ。でも、小さい蛇には攻撃的で猛毒を持つ種が多くて、

血清が無かったら人間でも死にいたります。」

カチッと音をたててライトが消え、顎を支えていた中川の手が離れデスクライトを点した。

高耶は眼に痺れたような感じを覚え、瞬きながら少し目を泳がせた。

「先生は、蛇が好き?」

「好きって言うより、面白いので興味があるんですよ。仰木さんは、やはり苦手ですか?」

「忌み嫌うってほどじゃないけど……見てても、あんまり楽しくはないかな……」

昔、クラスメイトにペットとして蛇を飼っている子がいた。

熱帯魚のような色柄の小さな蛇で、可愛いと思えなくもなかったが、始終愛玩してみたいと惚

れ込むほどでも無かった。

「で?何で俺と関係あるわけ?」

「体質にもよるでしょうけど、毒性が強すぎたりすると、命は助かっても後遺症が残ったりす

るもので、アメリカのある白人男性の症例によると、彼は処置後しばらくは視力が減退したり

下肢の麻痺があり、それらは半年内には解消しましたが、後を引いたのは味覚だったそうです」

「味覚?」

頃合を見計らって入室してきた看護師が、暗幕を開ける。

差し込む光の強さに、高耶は目を細めた。

「その人は蛇に噛まれてから6年間、味覚が無かったそうです」

食べるという本能的な部分で人は『味』も求める。

味覚は他の動物と違い雑食性の人間にとって切り離す事の出来ない感覚だ。

それを失すという事がどれだけ辛いか……。

現在は味覚が戻っていても、その6年間、男性が感じた絶望感が手にとるように解る。

「…………」

「仰木さんのもね、僕は『後遺症』じゃないかなって思うんです」

中川医師は高耶の症状はもちろんの事、その経緯も熟知している。

その経緯を奇異に思わないあたりも、慣れているというのか何と言うか。

「後遺症……ですか」

「そう。だって確かに直江さんは危篤で明日の命も風前の灯火だったかもしれないけど、亡く

なっていた訳じゃない。本来は医療がする事を、たまたま仰木さんがその力で迅速に行っただ

けじゃないかと僕は思うんだ。例の代物は一見、等価交換ぽいけど見方を変えたらそう思えな

くもないでしょう?」

交換されたものは戻らないけど、後遺症ならいつか癒る可能性も大きくなる。

高耶の感じる喪失感、……後悔はしていなくてもこれはある

直江の感じる罪悪感、……彼がそれを否定するだろうが…それを………彼は感じている。

それが高耶には心苦しい。

たぶん立場が反対だったら、直江も同じ事をするだろうにといつも歯がゆい。

中川医師の言葉は、霞みがかかったような二人の間に吹いた風のようだった。





時々、直江は子供のようだと高耶は思う。

彼は自分より一回り近く年上で、ガタイも立派で押出しも充分すぎるほどあるけれど、心の現

し方が時折、子供のようにもどかしい。

人よりかなり聡いだけに処世術だけは長けているから、周囲の者は気付かないだけで、感情の

振り子は不規則に揺れている。

不完全な魅力を持つ直江。

自分が彼に惹かれてやまないのは、そんなアンバランスさも一つに数えられるだろう。

女性なら母性本能をくすぐられると言うところか。

全ての色が抜け落ちた高耶の世界の中で、一つだけ色づく存在は『直江』だけだから、彼の憂

を解決するために自分が手を差し伸べる事はあたりまえのことだ。 直江がいればいい。

   ………タカヤサンガ、イレバイイ

直江は高耶の世界の全て。

   ………タカヤサンハ、ワタシノセカイノスベテ

高耶の中でそれだけは何があっても変わらない。

   ………ワタシのナカデ、ソレダケハ………カワラナイ

高耶は笑う。

自分たちは本当によく似ている。

それぞれの雑多な感情を削ぎ落として簡単にしてみれば、ただ、ずっと一緒にいたいという気

持ちがあるだけだ。

高耶は簡単すぎて忘れてしまいがちなシンプルな感情を、今日はストレートに直江に告げてみ

ようと思う。

「好きだ」と一言。

きっと直江は驚く。

口下手で恥ずかしがりやな高耶がと、咄嗟に返事が出来ないかもしれない。

高耶はくすりと笑って、診療室から直江が待つロビーへと向かった。






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コメント
更新も久々なら、30題も久々…(^^ゞ
この手のネタはドツボシリアスに持っていきがちな話なので、甘めに軽〜く
仕上げたかったのですが……今一、成功してない……(反省)