桜の森






はらはらと舞い散る花びらの下で、彼は雪のようだと嬉しそうに笑った。





どこまでも続く花木立の間を、高耶が軽やかに駆けていく。

花冷えの朝。

春とは名ばかりの薄氷を割るような冷気が漂う森は、ずいぶんと肌寒い。

薄着のまま駆ける高耶を気遣って、直江は早く彼を部屋に戻したかったのだが、あまりにも楽しそうな

様につい、「風邪をひいてしまいますから、あと少しだけですよ」と許してしまった。

「大丈夫、俺、風邪なんかひかないもん」

知ってるくせにと笑い飛ばして、また駆け出していく。

弱い木漏れ日がキラキラと輝き、彼の笑い声が不思議な音色になって、一つまた一つと大気へと溶け込

む春の朝。

何かの神話に踵に翼の生えた神がいたが、もしかしたら高耶もそうじゃないかと疑いたくなるくらいに

彼の足取りは伸びやかに空を切る。

―――風邪なんか…ひかない………

それは強がりでも何でもなく、本当のこと。

高耶はおよそ人の世の病とは無縁だろう。

なぜなら、誰も信じないだろうけど、出逢った頃の高耶の背には……翼が……あったのだから。






別荘の管理人から直江の携帯に連絡があったのは、一昨日の晩のこと。

プライベート用の携帯がテーヴルの上でブブッと振動しながら鳴る様子を、高耶は気味悪げに見る。

いわゆる、文明の利器というものが苦手なのだ。

テレビにステレオにバソコン、冷蔵庫、洗濯機…直江にように普通ならあって当然と思っている物の全

てに、最初の頃の高耶は驚き慄いた。

今まで自分がいた場所とは大違いの常し世。

街には人が溢れ絶えず音楽と喧騒が流れて、皆が忙しい。

道を歩くにもルールがあって、大きく分けると人と車の道に分けられている。

いろんな失敗もしたし、危ない目にもあいかけた事もあったりして、直江の寿命を何年かは縮めたらし

いが、持ち前の好奇心で何とか普通に暮らせるくらいにはクリアした。

けれど携帯は苦手で嫌い。

街のあらゆる場所で誰かが話してて、何か変。

こちらの都合もお構いなしに鳴るのが嫌。

一等嫌なのは、自分の知らない誰かと直江が話すこと。その結果、二人の予定が崩れたりしたら高耶の

機嫌は地を這う暗さ。

でも、この日の用件はいい知らせだった。

『裏山の桜が咲き出しました』

直江のやりとりに、高耶は目を輝かせた。

「サクラって何?」

「あそこは……そうですね、桜は…無かったですね、確か……」

「うん、無い。だから知らない」

海を渡った遠い北国の森は、春が遅くてとても短い。

「桜はしらなくても、桜桃(チェリーブラッサム)なら、ご存知でしょう?」

あぁ、それならと高耶も頷いた。

赤い艶々した実をつけるあの樹は、高耶のお気に入りだった。

甘酸っぱい味が大好きだったけど、食べごろになると小鳥たちもやって来て啄むで行くから、どっちが

先にたくさん口にできるか競争だったっけ。

「じゃあさぁ、直江。季節になったら、あれが一杯出来るんだ…」

少し赤くなった頬。

幾つ食べられるかなと期待に興奮する高耶に、直江は苦笑した。

「残念ですが、種類が違うので実はならないんですよ」

「えーーーっ!」

心底がっかりしたのか、頬がぷぅっと膨らんだ。

「そんなの…何か、いいんだ?」

高耶は花より団子の性質(たち)だから、つい文句がふつふつ出てしまう。

そんな仕草さえ、直江は可愛くて堪らない。 さらりとした黒髪を指先で梳いて、彼をそっと抱き寄せた。

「こちらでは、花を愛でるんです。切なく儚げなのに、華やかで潔い花ですから」

「ふぅん……そうなんだ」

綺麗で泣きそうになりますと言うと、高耶は不思議そうに首を傾けた。

「あなたを見ていても、そんな気持ちになるんです。似てますよ高耶さんと、あの花は」

似てるい言われても困るなぁと眉をひそめる高耶の額に、直江はそっと口付けを落とした.






春の花の森は、ふわふわとどこか現実感が希薄になる。

迷い道のように並ぶ木立ち。

花疲れをして立ち止まる直江の前を、振り返らずに高耶が行く。

「高耶さんっ」

直江の呼びかけに返ってきた応えは、遠い。

急に鼓動が早まった気がした。このまま彼が、この森に消えてしまいそうな焦燥感に喉が詰まる。

自分独り(ひとり)残して、高耶は元の森へと還ってしまたら…。

まるで既知感(デジャヴュ)のように繰り返される映像に、目を覆う。

「高耶さんっ…」

もう一度、聞き逃さぬように耳を傍立てて呼びかけた。

「なおえ…こっちだ……」

森の奥から誘う声。

風のって舞い散る花びらに、彼の行方を尋ねながら。

彼の背中を見失わぬように。

小さく残った足跡を追いかけて、直江は森の奥へと歩を進めた。



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コメント>
めるひぇん(苦笑)第2弾。
どうしても暗めバージョンに傾きそうなのを、必死で戻した結果は中途半端。
何にしても、まゆ自身が春が来るのは嬉しくても、好きな方ではないので駄目
ですね。
『春は逝く』のイメージが強すぎて、縁起でもないと殴打(T_T)
それと有翼設定の高耶さんですが、天使設定ではありません。