春輝花






遠く離れてしまえば

   …………愛は終わる



私は逃げるわと、彼女は言った。

春はもう間近の3月。

けれど校舎の屋上に吹く風は、襟首を竦めさせる冷たさだった。

卒業式も終わり春休みに入った校庭は人影も疎らだ。

「逃げる?原口が?」

「そう、逃げるの…」

ふふと高耶に笑いかけ、彼女はフェンスに背中を預けた。

「本当は、去るわって格好よく言いたかったの、でも未練や恋心や色んなものを引き摺っ

ていくんだから、逃げる方がにあってるわよね…」

薄化粧をほどこした顔。

微妙な色をかけた薄茶の髪。

丁寧に磨かれた爪。

つい、この間まで制服を着ていたクラスメイトとは思えない鮮やかな変貌に、高耶は目を

瞠る。

竹を割ったような性格の彼女は、クラスでも男女を問わず人気があった。

常に人の中心にいて明るくて、他人に距離をおかれがちで自身も人付き合いが苦手な高耶

とは正反対だったが、彼女とは不思議と馬が合った。



『仰木くん、私と付き合わない?』

あれは、六月ごろだったろうか。

雨の降る放課後の教室で、二人、先生に頼まれた資料の作成と整理をしていた。

朝から途切れることのない、糸のような雨に周りを遮断された夕方。

薄暗い教室を照らす、白い蛍光灯。

記憶の場面は雨の景色と重なって、おぼろげだ。

付き合ってください、じゃなくて、付き合ってと言うあたりが彼女らしいと面白い気がした。

『付き合う?』

『そう、付き合うの。それに私たち、そんな噂になってるのよ、仰木くん知らない?』

それは初耳だと、高耶は首を振った。

原口のおかげで、クラスメイトとの距離は縮まったが、くだけた話題をぶつけてくるほ

ど仲のいい友人は少ない

『仰木くんらしいね…でも、噂を本当にしちゃいたいなと、私、思ったの。で、今、仰

木君に告白してるわけだけど……どう?』

『悪いけど…』

『…そっかぁ…駄目元とは思ってたんだけどね』

理由、訊いてもいいかと原口は言った。

ありきたりな言葉で逃げても良かったのだが、真直ぐな視線が高耶を口を割らせた。

『原口は…原口には、本当は好きな人がいるだろう?俺と付き合ったりしたら、その

人にも原口にも悪い…』

パチンとホチキスの音が響く。

彼女は小さく息をのんだ。

『………何で、知ってるの?』

『知ってるんじゃない。解ってただけだよ…』

彼女からは高耶と同じ寂しさが滲み出ていた。

笑いながら、独りの睛をする彼女と、笑えずに、独りの睛をする自分。

『………仰木くん…聡過ぎ……』

苦笑した声が掠れていた。

解ったって事は、仰木くんも私と同じなのねと彼女は呟いた。

『苦しい恋をしてるのね…』

窓から吹き込んだ風が、プリントを飛ばす。

慌てて拾いあげながら、高耶は細く返事をした。

『うん……』 それは、雨の音に消されてしまいそうなほど小さい返事だった。




いつも追いかけてばっかりだったから、今度は逃げてみようと思うの。

卒業するなら、学校だけでなく気持ちにも整理をつけてみないとね…。

パンプスの踵を反し、原口は笑った。

遠く離れてしまえば、愛は終わるかもしれないし終わらないかもしれない。


これは、賭ね。

逃げると言いながら、潔い笑顔。

仰木くんは、どうするの…?



高耶が校門まで歩いていくと、見慣れた車と背の高い人影があった。

「直江…」

「待ってられなくて、お迎えにきてしまいました…」

「…馬鹿。年寄りってもんは、気が長いはずじゃぁ無かったっけ…?」

憎まれ口をたたきつつ、高耶の唇に笑みがのぼる。

「と…年寄りって…高耶さん…」

張り切って迎えにきたのにと、直江はがっくりと肩を落とす。

その様が何やら可笑しくて、高耶は声をあげた。

そして、助手席のドアを開けて、さっとシートに身体を滑り込ませる。

「出せよ、俺も早く向こうについて、ゆっくりしたい」

本当は嬉しいくせに、素直に口に出来ないから態度で示した。

「そうですね、渋滞に巻き込まれないうちに行きましょう」

直江もうなづいて運転席につき、エンジンをかけた。

心地いい振動と流れいく景色。

十八年間、見つづけた風景と場所から、今日、高耶は旅立つ。

俺は………おまえと反対だ、原口と高耶は胸のうちで呼びかけた。

俺は、飛び込んでみようと決心したんだ。

逃げてばかりで、追いつかれるのが怖くて、彼を傷つけてばかりで。

それでも、笑って傍にいてくれた彼だから、今度は自分が飛び込んでみようと決めた。

逃げている時も不安で、痛くて苦しかった。

飛び込んでも同じかもしれない。

でも、どんな苦しみも悲しみも一人でいるよりずっといい。

たぶん終わらない…

原口の恋は離れても終わらない、そんな気がした。

車の窓を下げると、肌を刺す風の中に春の匂いがする。

高耶はそっと目を閉じ、うっすらと微笑んだ。








BACK
HOME



コメント

春は「卒業」

ですが、素直に卒業をテーマにするのも何だかなぁと思い、こんな感じに
仕上げてみました。
何だか、消化不良気味だけどいつもの事だから仕方無いか…(爆)
冒頭の一節は、ある有名なフォークソングから。
昔の唄はメロディーがシンプルなだけに、詞が心に残ります
『春輝花』原題は、アイルラント古謡「春の日の花と輝く」からもじりました
いつか、まゆのIRISH HARPでBGMとしてup出来たら面白いかもと目論んでいます