碧空 −4−








誰かとキッチンに立つのは随分と久し振りで、手狭になった気がした。

流しの前で洗い物をしながら、高耶は横で食器を拭く直江を見上げた。

アイランド式のキッチンは広めで数人が炊事をしてもゆとりがある設計だが、ほと

んど自分一人か、客のある時は通いの賄いさんが立つ。

(綺麗な手だな)

布きんを持つ直江の手に目が止まった。

爪が男の手にしては、随分丁寧に整えられている。

指も長く大きな掌で、容姿と同じく日本人離れしている。

何より骨組みがすんなりしていて、良い。

手や爪には割と血筋や育ちが出やすいというのが、母の持論だった。

音楽家という目から掌の大きさは勿論、骨格の美醜にまで母はこだわりがあった。

生前、自分譲りの高耶の手を見ては、「綺麗ね」と嬉しそうにしていたのを覚えている。

「高耶さん、乾いたお皿は除けますね」

「あ、ありがとう」

手を拭きながら振り返って、直江が手際よく食器を棚に戻すのを眺めた。

えっと、思わず高耶の背筋に冷たいものが走った。

高耶が何も言ってないにもかかわらず、食器は次々にきちんと元の場所に収まって

いくではないか。

どうして兄の知人(たぶん…)が、こんなプライベートな部分まで解るのか?

だが、高耶に背を向けていた直江は高耶の困惑に気付かないままだった。

「お兄さんにお聞きしたのですが、高耶さんはヴァイオリンをされるそうですね。

かまわなかったら弾いていただけませんか?」

「いいよ」

もったいぶって遠慮したりするのは高耶の性に合わない。

ヴァイオリンを弾くのは好きだし、他に娯楽らしい娯楽もない。

自分の演奏が他人を喜ばせられるのならと、高耶は求められれば断らずに演奏して

きた。

高耶たちが音楽室と呼んでいる部屋は居間からの続き部屋になっている部分だ。

母と越してきた時に増築した部分で、防音完備になっている。

外観が母屋の部分と揃わないのをカモフラージュするために、周囲をグリーンとレ

ンガのアプローチでコーディネイトし、サンルームのように仕上げてある。

部屋の中央にはスタインウェイのグランドピアノ。

ピアノの椅子に直江が座った。

片方の壁には楽器掛があり、ヴァイオリン、ビオラ、チェロの弦物。

もう一方の壁には母親が一流のヴァイオリニストとして活躍していた頃を物語るプ

グラムや新聞の切抜き、共演者たちのサインなどがかかっていた。

高耶は壁からヴァイオリンをとり弓をあてると、軽く調弦を始めた。

母の口癖ではないけれど、この手が高耶の命で宝物だ。

広く柔らかく広がる手。

指や手首はしなやかで力強い。

何を弾こうかとしばらく迷って、モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジー

クを選曲した。

小品だが静かな秋の夜には丁度良い。

窓のドレープカーテンに木々が月の光を浴びて不思議な影を描いていた。

海から霧が薄くかかり、時折、内海を往航する船の汽笛が聞こえた。

曲はフォーレに変わる。

幻想に浸りこむように、高耶の顔がうっとりとしてくる。

艶のある黒髪を揺らしながら、高耶は演奏に聞き入っている男の存在も忘れて、窓

の外へ吸い寄せられるように視線を向け、音の森の深くへと分け入っていた。

弾き終えた高耶は、目の前の磨き上げたピアノに視線を戻した。

瞳に映る、男の謎めいた端整な顔。

錯覚?

身体が慄いた。

いつかどこかで、こんな風に二人でいたことは無かっただろうか。

ピアノに映った二人の顔が、水面の影のように揺れた。

「ありがとうございます」

静かな声で、一言。

大げさな誉め言葉も何も無く、ただその一言だけを直江は言った。

それだからこそ、声の調子にこめられた真の賞賛が伝わる。

高耶は頬が赤くなった。

「音楽…好きか?」

言葉にしてから、しまったと思い唇を噛んだ。

「ごめん……」

「どうして?」

謝ってしまった理由が高耶は自分でもよく解らなかった。

ただ、ずいぶんと失礼な事を言ってしまったという思いがする。

ヴァイオリンを棚に戻し、困ったように手首を揉みほぐした。

「直江が音楽を好きなのは、わざわざ訊かなくたってわかったのに……」

一瞬、直江は押し黙った。

「直江?」

「今日は宿とお食事に、すばらしい音楽まで聞かせていただき、本当にありがとう

ございました。少し早いですが、今夜は早めに就寝します」

椅子から伸び上がり、直江は軽く会釈した。

「明日は?予定、何かあるのか?」

「いいえ、まだ何も考えてません」

「案内、しようか?」

「それは、嬉しいお誘いですね。でも、レッスンがあるのでは?」

「明日は、先生の都合でお休み。これって、すっごく珍しいんだぞ」

毎週、金曜日に神戸から先生が来ているのだが、都合で2回ほどレッスンが休みに

なる。まだ若いが、母の元教え子で世界的に活躍している。

母が亡くなってから指導をしてもらっているが、これが中々の、スパルタだ。

だが高耶も来年は音楽学校の受験が控えている身なので、文句は言ってられない。

「おや、確かにそれはラッキーですね。では、高耶さんのお邪魔にならない程度で

お願いしましょうか…」

「わかった」

では、おやすみなさいと直江は軽く会釈をして部屋を後にした。

高耶は窓辺にもたれて直江を見送った。

月明かりと、僅かばかりの外灯が淡い光を放つ薄暗い庭を彼は迷うそぶりもなく離

へと向かう。

一度だけ振返り、高耶に手を振った。

夜の闇に溶けこんでいく後姿が、何故か胸に迫る。

隠してはいるが兄の知り合いで、しかもこの家の事も熟知していた直江…。

なのにどうして、今まで高耶が一度も彼を見たことがないのだろう。

夕方の灯台で彼に笑いかけた瞬間から、高耶に纏わりついたミステリアスな感覚は

砂漠に出来る風紋のように何度追い払っても消えることが無かった。











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コメント

翻訳物を読んでいて、違和感を感じるのが美しさの表現。
自然とか不変のものはそうでも無いのですが、男女の美しさを賞賛する言葉
は、時々、疑問符をつけたくなります。
この章で高耶さんが直江の手を誉めているシーン。
ここは原作にもありますが、誉め方が違います。
原作は『―――細かい褐色の毛が生えた手には鋼鉄の力がみなぎって……』
確かに男らしい手だとは思いますが、まゆ的には
普通の男性でも毛深い人は嫌なのに、毛深い直江なんて……(T_T)
………想像したら眩暈がしました