碧空 −1−






風の強い日だった。

風に煽らればたばたと音をたてる腰の低い裏木戸を閉め、高耶は岬へと続く小路を

ゆっくりと登り出した。

目の前をドーベルマンの小太郎が、まるで高耶を先導するかのように歩を進める。

黒いなめし皮のような毛並みが、秋の遅い午後の木漏れ日を受けて艶やかに光った。

路の脇には樹木が茂り、その枝葉をアーチ型になって頭上を覆っている。

その隙間から空を見れば、薄くオレンジがかった雲の下を海鳥が飛んで行く。

高耶は鋭い声を発しながら飛ぶ鳥の影を追った。

岬と言っても小さなもので、剥き出しの岩が崖のようになった所にこれも小さな無

人灯台が一つ。

瀬戸内の大小様々な島が浮かぶこの辺りは、潮の流れが変わり易く、独特の地形の

ため霧も出やすい。

昔から海上交通の難所になっていて、こうした無人灯台があちこちに存在する。

『立入禁止・崖崩れの危険有り』の立て看板と、進入防止用に張られたロープを高

耶は跨いで 灯台へと向かった。

危険とあるが、本当に危ない訳ではない。

島を訪れる心無い観光客が記念にと思うのか、灯台の白い壁に落書きをする者が

後を絶たたないため、その予防策でこうなった。

高耶は灯台の足元まで来ると、目の下の青い波に洗われる岸壁を見下ろした。

怖いほどに澄み切った翠色の海。

底の小石や砂粒まではっきり見える。

慣れない者が見れば足が竦み、引き摺られそうな錯覚を起こすに違いない。

車の軋む音が背後に聞こえた気がした。

バンと扉が叩きつけられて閉まる音。

と、誰かが走ってくるような足音。

高耶は驚いて振り向いた。男がものすごい勢いで、自分目掛けて走って来る。

必死な様子で、男の長い脚が砂利混じりの路を砂埃を立てて駆ける。

どちらかと言うと色素の薄い髪、しなやかな身体。

こちらが訝しくおもうほど、血の気の引いた顔が妙に浮き上がって見えた。

だが男の脚が高耶の前で急に止まった。

高耶が呆気にとられて眺めているのに気が付いたのだ。

高耶に掴みかかりたいのをやっと押えているという感じで、荒い息を整えながら

男は彼をじっと見つめた。

「どうかしたのか?」

男が何も言わないので、高耶の方から口を切った。

まだ収まらない息を吐く度に、男の胸が上下する。

白いシャツに色の濃い上着、カジュアルだが仕立てのいい装い。鳶色の髪を風になぶ

らせながら男は突っ立っている。

「あなたが……」

無理矢理搾り出したような、声音。

「いえ、なんでもありません」

この男に会うのは初めてだ。

島の住人でないのは明白だから、おそらく観光客といったあたりか…。

高耶は物心ついてから、この島を離れたことがなかった。

岬の麓に建つ人里離れた別荘が高耶の育った場所だ。とは言っても、小さな島の小

さな村のこと、誰もが高耶のことを知っていたし、反対に彼の知らない顔があれば

それは島の住民では無いことになる。

気候が穏かで居心地の良い、俗世間から隔絶したような島。

だが時間に置き去りされたここは、若者には向かない。

殆どの者が進学や就職の時期になると、島を離れ対岸の本州や四国へと去って行っ

てしまうのが常だ。

高耶も初対面の男をじっと見つめ返したが、急にその顔に笑みを浮かべた。

花が咲いたような笑顔だった。

眦が少し上がっているためきつい印象が先立つが、笑うと人が違ったように華やぐ。

強い意志を秘めた瞳と、呼応するよに引き結んだ唇が、母親譲りの繊細な顔立ちの

中で不思議なアンバランス感と色気を醸し出すせいだ。

高耶が笑いかけると、鳶色の髪の男は身を硬くして両脇に下ろした手をきゅっと握

り締めた。

まるで彼の笑顔が信じられないかのように、男は目を細めて高耶を伺っている。

ショックを受けたようだ言う方が正しいかもしれない。

人に笑いかけられたことがないのかと、首を傾げたくなるほどだ。

男をしげしげと見れば、整ったハンサムな顔立ちで髪と同じ鳶色の瞳をしている。

年のころは、三十前後で二番目の兄の氏照と同じくらいだろうか。

「俺が、飛び降りると思った?」

高耶は可笑しそうに尋ねた。

「笑いごとじゃありません」

男の口元が引きつっている。

「そうだな」

岬の崖っぷちに立っている高耶を見て、この男はさぞかし吃驚したに違いない。

「驚かしちまったな、ごめん。慣れてるものだからも、何とも思わなかったけど、

確かに危ないよな…」

男が高耶に数歩近づいた。

舐めるような視線で眺めまわされたが、何故か不快感がわかない。

むしろその視線に懐かしさのような、例え様の無い親近感を覚えた。

「この島に住んでいるのですか?」

日没間近の陽射しを受け、男が目を眇め視線をずらしたせいか、高耶は試されてい

る気がした。

男の言葉尻が少し弾んでいる。

「あぁ。ほら、こっちの下に見えるこげ茶色の屋根。あれが俺んとこ」

樹木に半分隠れた家を指差しても、男は視線を動かさなかった、男は高耶の家をちゃ

んと解っていて尋ねているのだ。

たぶん、高耶がこの路を上がってくるのを見ていたのだろう。

いつの間にか日が沈んだようだ。

空が縹色や薔薇色に染まり、島々を繋ぐ橋のように雲が薄くたなびき光る。

空と海の境界線が消え世界が一つの枠に収まった絵になった。

「すばらしい所ですね」

身体をわずかに海の方へと向け、見知らぬ男は呟いた。

だが高耶には、男が本当に言いたかったこととは違う気がしてならなかった。

何か考えごとをしているのだろう。 眉を寄せた額に刻まれた皺。

「晴れた日は季節を問わず綺麗なんだ」

と、近くの茂みでがさごそと音がした。「小太郎」と高耶が呼びかけると、黒い塊

が飛び出して高耶の足元にじゃれ付いた。

「リードをしなくても大丈夫なんですか?」

闖入者の大きさに驚いた面持ちで、男が問う。

「散歩に行く時はするよ。ここは、俺んとこの庭みたいなものだから…。賢い犬だ

から見境なく吼えたりしないしね」

それでも男を気遣って、高耶は小太郎の首にリードを廻した。これでいいかと男に

笑いかけ、小太郎と一緒に小道を下り始めた。

後から男の足音もついてくる。

彼の視線は相変わらずで、肩越しに見る男の柔らかな容貌には、何か高耶の記憶に

引っかかるものがあった。

「海の水が本当に綺麗で、あんな海は久し振りに見ました」

「100%下水処理完備だから」

「はい?」

「つまり人間が使って汚した水をそのままにせず、綺麗にしてから戻してるんだ」

「あぁ、それでですか。空の色が違うのもそのせいですかね?」

「たぶんね」

「空気も美味しい」

何でこの男は、こんなことばかり言うんだ?変な奴……。

一番当り障りの無い話題なのは解るけど。

「……名前を…教えて下さい」

男が俯きながら話題を変えた。

「仰木高耶……。高耶は高い低いの高に、木花咲耶の耶だ」

男の表情を探るように、高耶は彼を見つめた。だが男は顔を上げずに続けた。

「高耶さん…ですか。いいお名前ですね、あなたに合っていますよ」

「おまえは?」

高耶の問いかけに、男は一瞬ひるんだように見えた。

なぜか名前を言いたくないような……どうしてだろう?

くっきりした横顔に厳しい表情を浮かべ、男はきゅっと口許を引いた。

「信綱です」

男の探るような視線が痛かった。

その視線に応えるように目を上げた高耶だったが、どうしてこんな怖い顔で見つめ

られるのか思い当たらない。

「信綱……、名字は?」

ため息のような音が洩れて、男は重苦しく答えた。

「直江信綱……、直江と言います」











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コメント

ふぅぅ〜…話の筋上仕方無いとは言え、お互い名乗りあうだけで一苦労
の段でした。
つーか初対面の人にタメ口は駄目だろ高耶さんと思いつつ、いきなり敬
語もキャラが違って変なので敢えてまんまです。
元ネタはもっとくどかったのですが、その辺はWパロということで切り
捨てました。高耶さんの住む島は実在の島をモデルにアレンジ。
だから、無人灯台もあります。