直江誕生日企画と称してはいますが、「おめでとう」か主旨 のお話ではありませんので、ご了承願います。 シリアスムードですが、根本は甘々(…のつもり) |
溺れる日 5 |
小さい頃の思い出らしい思い出を、高耶はほとんど持っていない。 そんなの当たり前だろうと言われそうなものだが、高耶の場合、人よりその傾向が顕 著なのだ。 特に小学校入学前ぐらい、ちょうど直江と出会っていたと思われる時期の記憶がすっ ぽり抜け落ちている。 はっきりした原因は解っていないが、たぶん就学前に発した高熱が関係している。 ウィルス性の病気で本当に生きるか死ぬかの瀬戸際だったらしい。 何万人に一人ぐらいの発生率で、1ヶ月ほどベットから全く身動きできなかった。 代謝機能に支障が出で肺に水かたまるのを防ぐため、お腹と胸に通されたチューブの管。 頭上で揺れる点滴の瓶。 青ざめた頬に、それでも笑みを浮かべていた母の顔。 辛さに泣く高耶の手を握り締めてくれていた。 そんなことはぼんやり覚えているが、日常の些細な事、当時の友達の名前とか顔、通 っていた幼稚園の様子などが本当に何も残っていない。 (…約束って、何だったんだろう………) きっと大事な約束だった筈だ。 あの夜から、思い出せない記憶に高耶は悩みっぱなしだった。 別れ際の直江の瞳を思い出すと、胸が苦しくなる。 やるせなく細められた瞳。 優しい鳶色の瞳には笑顔の方がいい。 「…や……高耶ったら……」 声を潜めて肘を小突かれ、ふっと我に返った。 呼んだのは同じ剣道部仲間で友人の譲だ。 「何っ?」 「何じゃないよ、次、高耶だよ。気ぃ引き締めとかなと駄目じゃん。どうしたのさぁ、 試合中にぼんやりするなんて、高耶らしくないよ」 高い気合の掛け声が響きわたる、大学の体育館。 練習試合とはいえ、白熱し緊張した空気。 脇に座し順番を待つ部員も、試合中の仲間を真剣に見ている。 「高耶、これでいい成績とれればレギュラー昇格かかってんだろ?頑張ろうよ」 「譲もだろ」 「たがらだよ。俺、高耶と一緒に試合でたいもん」 「胴っ、一本っ!」 審判の鋭い声と共に振り上げられた旗。 「よしっ、決まったっ」 譲が拳を握り締め、期待をこめて高耶を見る。 「わかってるよ」 面の紐の結わいを確かめ笑い返しながら、高耶はきっと前を見据え大きく息を吸い込 んだ。 6月に入りそろそろ入梅かというころ、家が妙に慌ただしくなった。 公のいわゆる仕事関連で忙しいのはいつものことだから気にもしないが、今回は内の プライベートな方の流れがおかしいのだ。 父や兄達の困惑交じりの重い表情。 顰められた眉を心配して声をかけても、高耶は気にしなくていいよとかわされる。 不安定な状態にも係わらず、直江が姿を見せないことも高耶の気がかりだった。 「直江、最近、こっちに来ないけど、どうかしたの?」 言ってくれないなら、訊くしかない。 高耶は休日の朝、氏照に尋ねた。 「前は、少なくとも三日に一度は、こちらに顔出ししてたのに……」 読みかけの新聞をたたみ、氏照はしばらく躊躇った後、口を開いた。 「まぁ……隠すほどのことじゃなかったんだけどな…」 「うん?」 「実を言うと、先日、あいつが見合いした」 「えっ?」 おもわず、ぽかんと口を開けた。 「きいてない…そんなこと……」 「かなり急なお話だったしな」 溜息まじりに、氏照は苦笑した。 お相手は、次期総理と噂される××大臣の愛娘で家柄の筋もいい。 才色兼備で性格も難のつけようがない人だという。 「それでかつ、直江に一目ぼれして、どうしてもって言われると断る筋も無いだろう?」 成り上がり者でもないかぎり、この旧い世界はどこかで誰かとつながっている。 辿っていけば遠縁でしたなんて例が、いくつも転がっている狭い世界だ。 一目ぼれしました、はいそうですかで話が来る訳ないぐらい、高耶でも解る。 それなりの伝で来たんだろうと、予測はついた。 渋る直江を説得して、何とか見合いの席に座らせたまでは良かったのだが―――。 「何かあったの?」 「あいつ、見合いの席で開口一番、きっぱり断ったんだとさ」 挨拶するやいなや、仲人やら両親やら打ち揃った面前で、自分には決めた人がいるか らと…。 言う事だけ言うと、直江は相手に口を挟む隙も与えず、その場をさっさと退席してし まい、後に残された者たちはあっけにとられたままだったらしい。 「……そう………」 安堵感が高耶の胸をくすぐる。 直江の横に誰かがいる図なんて、出来ることなら一生、見たくない。 だがすぐに不安になった。 (決めた人って……誰かがいる?) 「直江が断ったから、何かまずい立場になってるの?」 「まずいって言うか…うーん……、ある意味、逆だ…」 「逆?」 「見合いは、まぁ、当然の結果で流れたんだが、今度は大臣が直江を気に入ってしま ったのさ。気骨がある奴だって」 政界入りを勧められているのだ。 嫌だと強く思った。 そんな事になったら、今よりもっと直江と離れてしまう。 おかしなもので、自分がこの家を出る図はしっかり高耶の頭の中にあったくせに、何 故か直江がいない図は描いていなかったのだ。 あたりまえと思っていた存在が消えてしまう、やるせないほどの虚無感。 直江の視線、直江の声。 息詰るほどに苦しいそれらを、高耶は苦痛だと思ってはいたが嫌悪した事は無かった。 むしろ甘い痛みだ。 それらを失ってしまうのか……。 悲しいというより、さみしかった。 部屋に戻って、ぺたんと床に座り込んだ。 寂しいの字も、淋しいの字もあてはまらず、ただ、さみしい。 好きとは、さみしいものだったのだと目頭が熱くなった。 足元に打ち寄せる波にも似た、恋のせつなさに高耶はいつまでもじっと蹲っていた。 |
コメント 何だか…不意のお客さんを迎える前のような文章です。 どういうことかって? それは、付け焼刃な掃除に似てるってこと………(沈) |