溺れる日 1






産毛がそそ立つという感覚を、高耶は彼に名前を呼ばれることで初めて知った。

「高耶さん」

何気ない、それこそ誰でも口にする自分の名前が、どうして彼にだけ反応をしてしまう。

振り仰ぐと見事に均整のとれた体躯の彼がいた。

自分の周りだけ空気が薄くなり、酸素が足りない錯覚に陥る。

軽い目眩にもにた感覚を押えるため、高耶は彼を見るときは、いつもぐっと歯をくいしばるのが癖に

なった。

大げさなと自分でも思うが、そうでもしないと目眩の波に呑み込まれそうで怖かった。

年は十一違う。

仕事柄人の出入りが激しく複雑なこの家で、彼は特別で重要な存在だ。

その筋の人に間違われそな黒のスーツ、趣味の良いネクタイ、磨かれた靴。

一目で一級品と知れるそれらを、彼はごく自然に着こなしていた。

モデルか俳優かと間違われこともあるが、鋭い目つきが彼の仕事が並みのものではないと周囲に知ら

しめていた。

「お久しぶりです」

柔らかい声で彼がいう。

他愛も無い挨拶。

応えをと思うのに、言葉は音にならず高耶を内心かなり苛立たせた。

広いはずの玄関ホールの空間が、やけに狭く感じてしょうがない。

オヴジェ代わりに置かれた柱時計の秒針が、チクタク…チクタク…・・・と耳を打つ。

「今日は休日ですのに、学校ですか?」

ジーンズ姿の高耶は、靴を履くため屈み込んでいたところだった。

「……部活」

もう少し言いようがあるだろうに、何て愛想のない返事だと高耶は唇を噛んだ。

身長のある高耶よりさらに頭一つほど彼は高い。

今は、自分がじゃがんでいるから尚更だ。

子供の視線とかわりやしない。

そのせいか妙に威圧感を感じてしまい、高耶は顔を上げられなかった。

足元に男の影がおちる。

「大会が近いから…」

「あぁ、高耶さんは剣道部でしたよね。でも1年生で大会とは…。さすがですね、ご立派です」

ふっと空気が動いて、彼がつけているコロンの香りがした。

普通の男性がしたら嫌味な匂いも、彼には似合っている。

「立派って…違う。補欠だ」

可愛げがない、自分が嫌だ。

ことさら言うことでも無かったが、そのままにしておくのも戸惑われて、高耶は律儀にだが無愛想に

返事をした。

「直江様」

取り付く島もない高耶に彼も困った感じになっていると、彼の後ろで案内の声がした。

直江信綱−−−それが彼の名前。

手伝いの若い娘が、恥ずかしげに直江を呼んだのだ。

直江は家の使用の者、特に女性たちに人気がある。

若い娘は言わずもがな、中年を過ぎの者たちまでそうだ。

美丈夫だからという理由が一番だろうが、それ以上に直江は他人に優しい。

他人に優しく自分に厳しい。

女が強くなったと言われても、女心はどこかで自分を守ってくれる騎士か王子を待っている。

直江はそんな女心に、確実にヒットするタイプなのだろう。

身内は男所帯だからかまいやしないが、それでもすぐ上の兄、氏照が放っておくと使用人たちがごっ

そり直江に持っていかれそうだと冗談混じりに苦笑する。

「氏政様が客間でお待ちです」

最近、雇いいれた娘で高耶はまだ名前も覚えていないが、その娘の頬がほっと上気していた。

「すぐに伺います」

娘が会釈をして下がる。

「高耶さん」

彼に名前を呼ばれると、何かそれが特別な名前に思えるから不思議だ。

確かに、男の子の名前としては珍しい名前だろう。

名づけたのは母親だ。

女の子なら「咲耶」、男の子なら「高耶」と。

古事記か万葉集か知らないが、その手の本のどこかに、この二つの字と音を使った箇所があってそれ

をいたく気に入った母は自分の子供の名前に使おうと決めたらしい。

「今度の土曜日ですが、空いていませんか?」

土曜日?と、高耶は来週のスケジュールを思い浮かべた。

「サッカーの観戦チケットを頂いたのです。高耶さん、サッカー、お好きでしたよね?良かったらご

一緒にいかがとかと思いまして……」

よく覚えていたなと少々驚いた。

なぜなら、人に直接好きだとかやりたいととか言ったことは滅多にないからだ。

高耶の好きは見る方専門で、諸事情で実際にクラブ等に所属した事は無かった。

直江と出会った最初の頃。

部屋で荷物整理中の高耶の手伝いをしてくれた直江が、ダンボールの底から出てきた何冊ものサッカ

ー雑誌に驚いて高耶に好きなんですかと尋ねたのが、はや2年も前のことだ。

「好きなんだ」

ぽつりと高耶は頷いた。

「男の子らしくていいですね」

直江はそう答えると、雑誌を丁寧に棚に並べてくれた。

それっきりのことだったが。

それを覚えていてくれた………。

心臓が急にドキドキと早くなった。

さっきの娘と同じになっていそうで、彼に自分のおかしな状態を知られるのが怖かった。

土曜日はと高耶ははやる胸を押さえて、思い出す。

何か…あったよう……な……。

「行かない」

返事が口を滑った瞬間、高耶はしまったと思った。行かないじゃなくて、行けれないと言えば良かっ

のに。

「れ…練習が…練習ががあるんだ」

「それでは、仕方ありませんね」

直江は落胆を隠しきれないように答えた。

さっきまでと違う冷たい声が胸に染みる。

どうしてこうも自分は言葉が足りないのか。

「すみません、俺、急ぎますから、これで…」

失礼しますと頭を下げ、高耶は逃げるように足早に家を出た。

高耶さんと呼ばれた気がしたが、高耶は振り返りもせずに歩を進めたから直江の絡めとるような視線

に気付くことは無かった。

直江は穏やかで紳士然とした物腰からは想像もつかないような、強い眼差しを高耶の背にひたと当て

彼が見えなくなるまでずっと追っていた。









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コメント

大体の構想はあるんですが、行き当たりばったり作品です。
ちゃんと最後まであがってくれると嬉しいんだけどなぁと、思いっきり他人
ごとのまゆ……(苦笑)
こんな作品でも、一応、直江BD企画のつもり。
どの辺がと問われれば、まゆにしてはかなりの頻度で直江を持ちあげていま
す(爆)
本当は、花の章に上げるかどうかも悩んでます。