花の棺(ひつぎ) 前 |
花屋敷――― その寮(昔の別宅)は近在の者からそう呼ばれていた 向島という場所柄、いつもどこかしらの屋敷に花が溢れていたが、そこは それらの家々と趣を異にしていた。 他人に観せる事を目的とし整然と整えられた庭が多い中で、花屋敷の庭だ けは無造作に生い茂り人の手や侵入を拒んでいるかのようだった。 夏芙蓉 空木、夾竹桃 百日紅の白い花……… 初夏の木々の緑も濃い中、色とりどりの花が屋敷の周りを取り囲み、迷宮 とはこのようなものかと思えて仕方ない。 梅雨明けの篭った熱気と花陰が辺りを重く包む日だった 一人の男が、花屋敷の庭の片隅で途方にくれていた。 勢いだけで遠路をはるばる、ここまで来てしまった。 たが、ここからどうすれば……。 あの時、あれだけ彼の拒絶にあいながらも、結局、納得出来ずに追いかけ てきたのだ。 彼を国許へ戻す手だて一つある訳でもないというのに………。 男の思案を破ったのは、奥から聞こえてきた話し声だった。 男は人の気配に、慌てて近くの茂みに身を潜める。 「・・・・・・ぉ・・・え」 捜し人の、静かな凛とした懐かしい声。 立ち上がりかけた男を押し留めたのは、もう一つの人影だった 知らない男だ 上背があり背筋がすっと伸び、隙が無い。 開け放たれた障子の白に横顔が浮かび上がる。 男はその人物に覚えが無かった。 だが彼の立ち居振る舞いを観ていると、明らかに捜し人に仕えている様子 なのが解る。 それも昨日今日の事ではなく、長年、傍に居た者の仕草だ。 ・・・・・・誰だ?・・・・・・・・・ 嫉妬が男に湧き上がる。 自分は彼と親友と呼べる間では無かったのか・・・。 国の学問所や道場等でも、他の場所、年月を顧みてもそうだ。 家同士も行き来があった 彼は仲間内でも一目置かれる存在だった そんな彼と共に居られる事は、男にとって誇らしいことであった 己の場所だと思っていた場所に、見知らぬ他人が存(い)る事実が男を苛む 悔しさと訳が解らぬ憤りに男は縫い付けられたように、その場を動く事が 出来なかった そして______ 思いのままに伸びた花樹の葉陰で、彼はそれを見る。 くもの巣にかかった虫のように、ただじっとそれを凝視(みつめ)ていた 百花繚乱の花屋敷。 花は華を呼ぶのだろうか。 そして花屋敷がそう呼ばれるもう一つの理由が―――。 「花屋敷なのだそうだ。ここは…」 盆を過ぎたとはいえ、まだまだ暑い。 景虎は直江に笑いながら告げた。 夏の昼下がりは、大きなうねりの中に沈んだように奇妙な静寂に包まれて いた。ただ蝉が鳴いているだけだ。 「通いのお佐代が教えてくれた」 これだけ植わっていれば仕方ないかと、景虎は苦笑する。 「庭木のせいだけでもありませんよ」 「?」 「佐代はもう一つの理由を言いませんでしたか?」 景虎は首を振った。 「花のような佳人が住んでいるから花屋敷だそうです」 「花? 誰が?」 「少なくとも私では無いと思いますが」 直江の応えに景虎は憮然となった。 何時の時代も景虎は容姿の事を言われるのを、最も嫌悪している。三国一 の美貌と謳われたあのころでさえ、己の容姿を嫌っていた。 「私のどこが花だというのだ?」 景虎の声音が鋭く尖る。 「全てですよ…」 景虎の逆鱗に触れつつあるのを感じながらも、直江は怯まなかった。 確かに躯という容器に関しては、最初の身体に匹敵する換生は無い。 あの何者をも従わしてしまうほどの美貌は、あの時だけだった。 だが景虎の魂は、いつも容器を凌駕してしまう。魂が水のような物だとし たら、景虎という清冽な水はこんこんと湧き出し、やがて容器(躯)から 溢れ出し全てを覆いつくす。 曝とした流れに人は目を奪われる。 それを、喩えるなら花というものになるのだろう。 「あなたの存在…、その全てが花です」 睨みつける景虎の瞳を、直江はじっと見つめ返した。 軒先に吊るした風鈴が、かすかに鳴った。風の気配に景虎の視線が庭へと それた。 そして再び直江に戻した顔には、不思議な笑みが現れていた。 「……では、花のそばにいるお前は何だ?」 誘うような口調で景虎は続ける。 「ただの花見なら、用件は済んだのだから帰るがよかろう…、違うという なら………」 「違います」 きっぱりと直江は遮り景虎の膝元にいざり寄った。 「花盗人と……」 「花盗人か……、私を手折るか……。だがお前に私が手折れるのか? 」 嘲りを含んだ挑戦的な言葉が、直江の埋き火を煽った。 そのまま有無を言わせず、景虎の身体を引き摺り倒す。 景虎の着物の袷めから、花の香が強く匂った気がした。
初出 99'07'00
改稿 03'06'24 |
コメント 今回は多少改稿しましので、少し中途半端な箇所ですが前後に分けま した。そのため後篇は短めです。 元原稿は当時、あるサイトさんへ開設プレゼントとして寄稿したもの ですが、あれから時間が経ったためサイト名及びURLが既に不明にな っているので、もし似たようなのを見かけた方がいたら、お知らせ下 さい。 この話を書いた当所、原作はの二人はそういう間柄(苦笑)ではありま せんでした。特に高耶さんは、もうポロポロの時期で読んでいてマジ に涙が出てましたね。 改めて、月日が経つのって早いと感じています。 |