六花の面影 弐







障子からそっと中を伺い、おせいは床に戻った。

「眠りなすったか」

「ええ、ちぃと苦しい様子でしたけど、ようやく。お熱ばかりじゃなく、何か悩みごとでもあるの

か、難しい顔をしてましたわ」

「そうか……」

「なぁ、お前さん」

おせいは佐吉の袖をぎゅっとつかんで、小声で尋ねた。

「ん?」

「あのお侍さん、知ってるんですか」

「なんでそう思った」

「なんでって……、何となく」

「侍に知り合いなんか、いねぇよ。さぁ、明日も早ぇんだ、もう寝るぜ」

おせいは、まだ何か言いたそうだったが、すぐに規則正しい寝息をたてだした。

気働きのある女のせいか、おせいは勘が鋭い。

おせいの指摘どおり、佐吉は景虎―――図書と初対面では無かった。

(もう十年以上か……)

あれは佐吉が大工修業を始めてまだ間が浅い頃の事。

江戸で大火事があった。

まだ町火消しが設置されて間もなくの時で、十万戸以上を焼き払った大火だった。

武家屋敷から町人長屋にいたるまで、復旧作業が昼夜を問わず行なわれた。

人手も足りず、近隣近在の大工たちも呼び寄せられていた。

佐吉もそんな大工の一人で、彼が修復に上がったのが堀井のお屋敷だったのだ。

禄高の高い旗本にもなると、権高な態度の家も多いというのに、堀井家は気さくな家だった。

当主がまだ若いせいもあったのかも知れない。

その当主の弟が、図書だった。

当時、たぶん五つか六つ。

大工の仕事が物珍しいのか、現場の大工たちの間にちょこちょこと現れては、あれやこれやと質

問を口にた。

子供ながら怜悧な容貌の目立つ子供だった。

花がほころぶような笑い顔に、人の心の奥底まで見透かしたようなきつい瞳を併せ持ち、不思議

な印象を人に与えていた。

お侍というものは、子供のころからこんなものなか。

若い佐吉にとって図書は、別世界の人間に思えたものだ。

(ちっとも、変わっていなさんねぇ‥‥)

成長して精悍さが加わったとはいえ、あの瞳だけはそのままだ。

(あちらは、もう覚えてもいなさらねぇだろう)

お茶うけにと差し出された、上方のお菓子。

小さな掌で佐吉に手渡してくれた。

短い期間の、僅かな触れ合い。

おせいの体が、暖を求めるように擦り寄ってきた。

それをきっかけに、佐吉も瞼を閉じた







「じゃぁ行きしなに、順庵先生ぇとこに寄ってくわ」

「お願いしますね」

部屋の戸の隙間から、二人の会話と外の朝霧が忍び込んでくる。

しんと冷えた空気が、寒い朝なのだとおしえくれる。

大工の朝は早い。

おそらく仕事の前に、医者へ声をかけてくれるのだろう。

景虎は懐中の中身を思いやった。

たぶん往診代ぐらいの余裕は、まだあるはずだ。

どうやらその点だけは、迷惑をずにすみそうだと安堵した。

夜中に何度か夫婦が交代で様子を看てくれたのを、景虎はうっすらと覚えていた。

手拭いをかえ、煎じ薬を飲ませてくれた柔かい手と、筋張った手。

まめまめしい看病が、心底、嬉しいと思った。

だが熱は朝になっても、下がっていない。
身体全体にのしかかるような倦怠感を、景虎は感じていた。

寝返りを打つのさえ、節が痛む。

長引くかもしれん……。

あまり有り難くない予感がした。



午すぎに医者が訪れた。

「宿の方でも風が流行っとりましてなぁ」

いくつか薬を調合しながら、医者は言った。

「旅籠の者たちが、大忙しです。まぁ逗留が長引けば、そのまま宿代も上がりますが、なにせ人

手がかかります」

茶店の客は途切れる事がなかっようだ。

おせいが景虎の枕辺に座ったのは、午後も遅い時刻だった。

とろとろとした微睡みからさめた景虎は、起き上がりながら、

「世話になった。明日にはこちらを発ちたい思うのだが」

と、徐に切り出した。

そして枕元の風呂敷包みから小判を一枚取り出し、おせいの膝前に置いた。

「とんでもない、無理ですよ、そんな躰でお発ちになるなんて。それにこんな大金………」

「こちらも旅の途中なので、それだけしか渡せぬが、それはぜひ受け取ってもらいたいのだ」

戸惑っていたおせいも、景虎のきっぱりした態度にようやく頷いた。

「……じゃぁ、気がすすみませんけど受取らせて頂きますね。でも、いくら江戸が目の前と言っ

たって……、そのお体では無理です。受取る代わりと言っては何ですが、きちんと治るまで養生

すると約束して下さいな。お急ぎなのは解りますが、そのままでは寝覚めが悪ぅございます」

景虎を寝床に添わせながら、おせいは景虎に約束させた。

「すまない…予定より遅れているものだから、つい気が急いてしまうのだ。それに小煩い心配症
の者がいてね…」

景虎がかすかに微笑んだ。

その表情に、おせいの口が軽くなる。

「その人は、お武家様の良い方なんでしょうねぇ」

家族のことかもしれなかったのに、景虎の笑みが、おせいにそんな感じを抱かせた。

奥方か、妻帯するには多少若い感もあるから、婚約者か恋人か……。

「まさか……、そんな者では無い。あれは男だし、そうだな…私の守役のような者だ」

どこか突き放したような物言いだった。

おせいは慌てて詫びると、盥の水を替えましょうと部屋を出た。

(良い人…か……)

戯れ言をと、景虎に冷笑が浮かぶ。

あれと、そんな艶めいた気持ちは無いし、これからも持つつもりも無い。

持てる筈も無い。

あれは、ただの後見人。

それも命ぜられて、己の側にいるにすぎない。

あれの忠誠心の源は、自分ではないのだ。あれは、自分を弑した男だ。

自分の排斥を密やかに、だが明確に景勝に進言し実行した。

そして自分の思い通りに事を運んだ。

そんな男が、敗軍の将の下につかねばならない命は、屈辱だったはずだ。

事実、換生後始めて遭った時、あの者の目には侮蔑があった。

それが………いつからだろう。

『貴方だけです………』

『貴方が、私の、唯一の主です。貴方だけです……』

瞳で態度で…、躰全体で……、訴えてきだしたのは…。

全てを預けてしまえば、楽になれるのかもしれない。

そんな惑いが脳裏をかすめなかったといったら、嘘になる。

だがそれも、あれ特有の「罠」なのかもしれないという疑惑も捨てきれずにいる。

振りむいたらお終いだ。

頂点に立つものの足場は、脆く、危ない。

何時、崩れてもおかしくない場所なのだ。

景虎は熱とは違う、眩暈を覚えた。

いったいいつから、こんな迷いの枝道に入り込んでしまったのか。

晴家の願いを承諾した時からだったろうか。

それとも………、遥か遠く、海の吠えるあの場所で直江信綱と出合った時にすでに始まっていた

のだろうか―――。



初出 99'00'00
改稿 2005/01/20



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コメント

正月休みがあったとは言え、間があきすぎ……(T_T)
煩悩は育たないし、嫌んな気分……
最近、読書の量がめっきり減りました
そのせいか、自分のボキャとアイデンティティ不足を痛感してます