六花の面影 壱







…どうにも、おかしい………。

景虎が身体の異常を感じたのは、夕暮れも押迫った頃であった。

川崎の宿を過ぎ、江戸を目前にしての不調。

朝起きた時、わずかに喉に痛みを感じていたのだが、これくらいならとさして気にもせず、朝餉が

すむとすぐに藤沢宿をたったのだ。

健脚の者なら、その日のうちに江戸へ入れる。

だが昼を過ぎたころから、肩や背中に痛みが走りだし、今はこの一歩さえ辛い。

(旅の疲れが風邪をこじらしたのか)

もはや気力で堪えるのも限界だった。

小雪の散らつき出した天気が、身体に染みる。

宿を出た時は、初春の穏やかな陽がさしていたのが嘘のようだ。

街道の脇に一軒の茶店が景虎の目に入った。

その軒先の縁台に、くずれるように座り込む。

「いらっしゃいませ」

店の奥から気配を察して、女の声がした。

年増女のあしらい慣れた明るい声だ。

「急にお天気が悪くなってきて、お疲れでございませんか」

愛想よい声に、返事も返せない。

そのまま倒れ込みそうなのを、景虎は膝に手をおき歯をくいしばって耐えた。

「もし、お武家様……」

女も景虎の異常に気がついた。

旅姿の若侍はうつむいたまま、肩で荒い息をついている。

もともと細身なのだろう。

男にしては華奢な体付きが、さらに弱々しく感じられた。

ただの疲れ様とは様子が違うのを見て取ると、

「こちらの方にお入りなさいましな。いくらかは風がしのげます」

女は景虎を誘った。

景虎は重い体を引き摺るようにして奥へと移る。

「どうぞ」

調子が悪いのならお茶よりは、ぬるめの白湯の方が良いだろうと女は景虎に差し出した。

「すまん……」

女の心遣いに景虎は顔を上げて礼を言った。

景虎の臈たけた容貌に女はハッと息をのむと、同時に苦しげな様に眉をひそめた。

多分、熱が出ているのだろう。

額にじっとりとに汗が浮かび、顔色も赤い。

抜きん出た容貌だけに苦痛を堪える様さえも、人の目を奪う。

街道筋という場所柄、女も様々な人の顔を観てきたが、彼ほどの人間に出会ったことはない。

美しさだけを言うだけなら、彼より美しい女もいた。

が、何かが違う。

文字通り魅き込まれてしまう強い何かがある。

「女将……?…」

「まぁ不躾なことを、申し訳ありません」

慌てて空いた碗を受け取ろうとして、景虎の手と触れあった。

「お熱が……」

出ているとは思ったが、これほどとは…

僅かな触れ合いでも、それと解かるほどにかなり高い。


「あんた!」

女は裏手に声をかけた。

この家の主だろう、頑固そうだが目の優しい男が姿を現わした。

一目で事情を悟ったようで、景虎の肩を抱きかかえ女房に床をとるよう指図した。

少し休めばと遠慮する景虎に、男は低い腰ながらも有無を言わせず、水屋脇の小部屋に景虎を寝か

しつけた。

女が旅姿の紐を解き胸元を緩め、冷たい布を額にあてる。

「あたし、おせいっていいます。であれが亭主の佐吉。川崎で大工をしてます」

「―――堀井図書と申す。迷惑をかけてしまい、すまない」

「何を言われます。苦しい時は、お互いさまです。今夜はこちらにお泊まり下さいませ」

「いや、そこまでは……」

「無理はいけません。お若いんですから、一晩ゆっくりなされば、治りも違いますって。うちは亭

主と二人っきりですから、気兼ねもありませんし…ね……」

おせいの申し出に、景虎は熱でうるむ目で礼を言うと瞼を閉じた。

おせいがそっと部屋をたつ。

心配するであろうな……。

景虎は一人の男の顔を思い浮かべた。

自分の後見役直江信綱―――現名、秋元直之。

色部への書状を持たせて、沼津で別れた。

ご一緒にというのを、無理に先に江戸へと送りだした。

別段、急ぎの用だったわけではない。

景虎は相模の土地を一人で歩きたかったのだ。

すでに箱根で、長雨による落盤事故のため二日遅れている。

ここをどのくらいて発てるのか……

三日、四日……或いはそれ以上遅れるやもしれない。

もちろんいざとなれば、思念波もあるし八海に言付けてもいい。

しかし、どうしても直江に病を知らせたくなかった。

例え誰が知らせても、あの男の前で己が弱っている姿をさらすのは嫌なのだ。

辛いとは言えない。苦しいとも告白出来ない。

―――したくない。

直江より、常に高みにいたい。

それは偏執な矜持だろう。他人からみれば、滑稽でしかない。

だがそこにしか居場所がない。

こんな惨めな主君など、どこにいるというのだろうか。

強くありたい。

己の弱さを熟知しているだけに、痛切に思う。

が、どうやれば、それを得られるというのか。

器が無いから、姑息な手段に頼る。力という、単純明解で危険なモノに。

いつか破綻が来る。

それは百も承知の事。

それでも確かめたい物がある。

それでも、欲しいと思う物がある。

(……結局、業が深いのだ。己は)

そんな自分が可笑しかった。

景虎は虚空に目を据えて、ふと嘲いを浮かべる。

コトリと音がして、戸が開いた。

「お武家様、起きられますか」

おせいが炊き上がったばかりの、熱い粥を運んできた。

体はだるいが、何か胃におさめなければ体力が落ちる。

景虎はなんとか体を起こして、粥を口にしたが、やはり二三口箸をつけただけになってしまった。

もう少しと、おせいが口元にすすめるが、どうしても喉を通らない。

熱が相変わらず高いのだろう。

おせいもこれ以上は無理とみると、夜着をもう一枚景虎にかけた。

「これは、そなた達の分ではないのか」

暮らしに困ってはいないだろうが、決して豊かな生活ではなさそうだ。

とても、余分な蒲団があるようには見えない。

景虎が固辞しようとするのを、おせいはやんわりと制した。

「いいんですよ。あたしは亭主と一緒に使いますから」

あっけらかんと言い放つ。

「あら、すみません。はしたないですね。でも取り繕ったってしょうがありませんし」

ほほと笑う声が明るい。

「いや……。しかしご亭主共々、迷惑をかけてしまったな。病人がいては店にもひびくだろうに」

「気遣いは無用です。、うちの人も似たようなもんでしたしね」

「……?」

「うちの人は、昔、行き倒れ同然でここに転がりこんだんですよ。で、世話をしているうちに情が

移ったって言うんですかねぇ。気がついたら夫婦になってました」

素朴な口調が微笑ましかった。

自分には望んでも手に入らない、ごく普通の平凡な幸せがある。

羨ましい……、そんな思いが吐息となって洩れた。

「あたしったら、病の人相手に長々と喋ってしまって。明日は宿場の方へ医者を頼みに行きますか

ら、もう少し楽になりますよ」

おせいが去った後は、静けさだけが残った。

病人を案じてか、別室の物音も小さい。

(礼を返しておかねば……)

江戸へ戻ったら兄者に請うて、手持ちを揃えて貰わねば。

人に頼ねばならないのが、少々情けないが部屋住みの身分では仕方が無い。

堀井の両親は、景虎が幼い時に流行り病で亡くなった。

幸い親類がしっかりしていたのと、兄とは一回り歳が離れていたため生活に支障はなかった。

景虎にとって、この兄が父であり兄嫁が母といってもいいだろう。

子がない兄夫婦にとって、景虎は弟というより彼らの息子も同然。

いずれは堀井の家督を継がせるつもりらしい。

だがそうなっては、夜叉衆として動きづらくなってしまう。

今は気楽な身の上を盾に、家を出て直江の世話してくれた寮に厄介になっているが、それがあらぬ

風評をたてていた。

面とむかって非難できればまだしも、本人達がとんと頓着していないし、互いの家も旧知の間柄な

だけに難しいのだろう。

時々家人や用人が、何かの折に窘めるぐらいが関の山だ。

それすら当人たちが、馬鹿げた事と一蹴してしまう。

直江にとったら主に尽くして何が悪いのかという心境だし、景虎は別の意味で浮き世離れしている。

その辺が長秀に、だからお前たちはしょうがないと、肩を竦められる所以なのだろう。

まったくと、景虎は嘆息する。

この身は幾度、宿体を変えても同じだ。

姿も背格好も違う身になるというのに、何故か世間の目がそうなる。

『貴方は狂い蝶だ………』

遠い昔、相模の海で誰かが唸った。

―――人を誘って惑わせ、破滅させる。眩惑の胡蝶だ

まるで呪詛のように、甦る言葉。

外の荒風が板塀をかすめる。峠の樹木を渡る風が、記憶の海と重なる。

それは熱で疲れた景虎の体に、眠り薬にようにじわじわと染み込んでいった。

  



初出 99'00'00
改稿 2004/12/28



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コメント

 更新ネタに詰まってしまい、大昔の原稿を掘り出してきました…
 初出時は、まだ「邂逅編」も出ていない時期です
 なので、原作は目一杯、無視して下さい(苦笑)マジにパラレルです
 毎回、思うのですが昔の原稿って赤面モノです
 勿論、今のお話だって赤面なんですけどね…
 この話は一応完結してますので、続きますがきちんと最後までUPす
 る予定です。
 年末年始とまたがりますが、お付合いください

 


 参考までに…
 江戸時代、宿として届けをしていない家での宿泊は、基本的にご法度
 でした。万が一、泊めた方が亡くなりでもしたら後々の手続がえらく
 面倒だったそうです