雨の後先(後)







  景虎の今生の家族構成は、確か、両親と兄の四人だったはずだ。直江じゃあ

  るまいし、四六時中ついているわけでもないから詳しくは知らないが、一度、

  自宅を訪れた折り母親に挨拶された事があったから間違いは無い。

  「同じ母親の姉弟だ。理由あってはやくから出家したのだ。よけいな詮索など

  せずに、さっさと上がれ」

  景虎は素っ気無く言い放つと奥へと消えた。

  「姉ねぇ……」

  長秀はぐるりと辺りを見回す。

  景虎の結界もその辺によるのかもしれない。

  濡れた着物が肌に張り付き、気持ちが悪かった。早く拭き取るなり替えるな

  り手を講じないと、風邪を引くやも知れぬ。

  袖や袂の水気を広縁で絞り、長秀も奥へと続いた。





  「しかしまぁ、見事なほど奇麗に咲いているなぁ」

  長秀は手水から戻ると感心したように呟いた。

  白、薄紅、青紫、紫陽花鵜特有の微妙な花色が、雨に煙る境内に扇絵のよう

  に広がっている。

  「別名、紫陽花寺か?ここは」

  冗談半分に言いながら、景虎の手前に長秀は座した。

  「姉上が丹精込めた結果だ。後でその事を告げてくれ、姉が喜ぶ」

  「今、丁度、そこでお会いしたから言っておいた」

  「そうか」

  景虎の顔がほころんだ。

  結局、姉尼君には景虎が言い含めたのか、茶は景虎が点て庵には誰も近づか

  なかった。

  庵の軒を叩く雨音やつくばいの石畳に跳ね返る音。

  時折、風が吹いて枝垂れる雨木のざわめく音が周囲を包んでいる。

  ただ、雨の音しかしない、静かな時間だった。

  景虎は長秀の書状を読み終えると、炉に近づけた。炉といっても夏仕度の風

  炉だから、ぶすぷすと小さな音しかたたなかったが、景虎が念を送るとぼっ

  と炎があがり、みるみるうちに書状を焼き尽くしていく。

  「いいのか? 」

  「あぁ。必要な事は記憶した。お前にも面倒をかけようだ、改めて礼を申す。

  替りにという訳でもないが、冷めぬうちに飲んでいってくれ」

  それで少しは身体の冷えがとれるだろうと、景虎は長秀を労る。
  だが…。

  「どうせ暖まるなら、人肌の方がいい…」

  長秀は不遜に言い放った。

  「……・・・、吉原が開くにはまだ刻があるぞ」

  「野暮な返事だな」

  解っているだろうにと、顎をしゃくる。

  景虎はうっすらと冷たい笑いを、目許に刷いた。

  長秀の血がぞくりと熱くなる。

  その感覚に、自分はつくづく天の邪鬼だと、長秀は内心苦笑した。

  「俺が野暮なら、そなたは物好きだ…」

  景虎はつと立ち上がり、長秀の傍に来た。その景虎の片手を長秀は掴む。

  冷たい手だった。

  「お前の方が暖める必要がありそうだな」

  揶揄うようでありながら、どこか優しさが滲んだ長秀の声音だった。





  雨はなかなか止まない。

  風を取り入れるため開けた障子にもたれ、長秀は庭に視線を巡らす。

  部屋の奥で景虎は、こちらに背を向け横たわっている。

  「なぁ……」

  長秀は呼びかけた。

  「おまえ、俺とはこうなるくせに、何であいつには拒むんだ?」

  返事はしばらく無い。蛙の鳴声が何処からか聞こえてくる。

  「あれだけには、駄目だ」

  ようやく重い口を景虎が開いた。

  体を反転させ、長秀の方へ向き直る。申し訳程度にかけられた着物の襟から

  白い肩がのぞく。

  その白さが危うい。

  「身体だけなら………、身体だけで良いのならいくらでもやる。我らのよう

  な者に肉体の意味を問うだけ虚しい。だが、あやつは違う。あやつの真の望

  みは、俺の魂の底まで喰らい尽くすことだ」

  そんな者に己はやれぬと、景虎はうっそりと笑う。

  「そうか……。それは、せんないなぁ………」

  「せんないか?」

  「あぁ、せんない…」

  長秀の言葉を景虎は、「せんないかもしれぬなぁ……」と、面白そうに何度

  もなぞっては、細い笑みを零した。

  だが、喰らい尽くすほどの執着を拒絶しながらも、景虎はそれを真に欲して

  止まない。

  長秀にはそんな確信がある。

  もう何時の頃からか、景虎の抱える闇に長秀は気付いていた。

  それは哀しい闇だ。

  迷子の子供が泣いているような、思わず手を差し伸べずにはいられない闇。

  だが、その闇は果ての無い闇だ。

  どれだけ歩いても、どれだけ駆けても、子供の許へは辿り着けない。

  そのあげく、己も迷ってしまう底無しの闇。

  ―――あいつは、直江は到(とど)くのだろうか……。

  長秀にも、それは解らない。

  無理かもしれない。

  現に、直江はもう迷い始めている。

  だが物事には「絶対」という言葉も存在しない。何がどう転んでいくかなど、

  誰にも解りはしないのだ。

  解るのは自分は景虎の居る場所には行けないだろうし、直江を助けることも

  出来ないだろうという事だけだ。

  長秀は述懐する。

  しかし出来ないだろうが、彼等の標くらいにはなれるはずだ。

  移ろう紫陽花の花色の、どこかに自分の色もあるような気がして、長秀は飽

  かずに雨に濡れる庭をいつまでも見続けていた。




初出 99'00'00
改稿 03'08'14



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コメント

 や○い逃げ作品(苦笑)。
 と言うか、当時は全く書く気が無かったんです。
 だって無くても、一応、お話になっているでしょう?敢えて避けてた時期
 だったんですよ。
 リクエストがあれば書きますが、あるかな?

 ネットミラを巡っても、千×高は殆ど無いですね。
 DNA螺旋のように入り組んだ性格の高耶(景虎)に、回る性格の直江は
 本当は不向き。千秋(長秀)みたいにキャラがスパーンと立ってる人間の
 方が絶対に合うと思うんだけど、原作が原作だから無理があるのかしら。