風の喪章


ふいに懐かしい風を感じて、景虎は歩みを止めた。
景虎の様子に同行の色部も立ち止まる。
「久しぶりですなぁ、江戸も」
小高い丘の上から二人は、眼下に広がる景色を眺め呟いた。
「江戸ではない、東京と呼ぶのだそうだ」
十数年前に、京都から天皇が移り江戸が都と定められ名称も変わった。
街の形に大差無いとはいえ、顕著なほどに街は様変わりしている。
まず、千代田のお城か無い。勇壮優美な姿で江戸の町に君臨していた城は跡形も
無く消え去り、かわりに洋風建築の皇居がそこに座していた。
それに象徴されるように、辺りにあった大名屋敷も次々と右へならへの状況だ。
そこに住む人々も入れ替わり、推移が激しい。
建物だけでなく、人もそうだ。
刀は禁止、髷も禁止で断髪を推奨され、着る物も洋装化。
景虎は自分の姿をかえりみた。書生風と言われる、袴の着物姿に下は釦シャツの
下着をつけている。
可笑しなもので、服装がいつもその時代を有り体に捉えているようで興味深い。
色部はというと、年相応に紳士風の洋装だ。
時代の流れを実感するのは、何もこれが初めてではないが、こうも急な変化を目
の当たりにすると何とも言えない感慨に包まれてしまう。
二人とも、換生した家が幕末維新のごたごたを避けずっと国許に戻っていたため
江戸、東京を目にするのは本当に久しぶりの事だ。
だが、景虎が感じた懐かしい風は、それとは肌合いの違うものだった。


「色部、悪いが先に行っていてくれ」
色部は振りかえる。
「あれが来る」
景虎の言葉に色部は目を見開いた。
「直江信綱がですか……。
しかし、彼の者はまだ換生が確かめられておりません。
晴家に会えば、はっきりとしましょうが……」
言いよどむ色部に、景虎はきっぱりと言い切った。
「来る。俺には分かる」
だから先に行けという命に、色部はためらいを残しつつ従った。
主の命令に逆らうつもりもないし、景虎と直江の間に口を挟むほど愚かでもない。
長秀あたりなら一言二言あるのだろうが、二人に関して別の視点を持つ色部はた
だ黙って一礼をし景虎の前を辞した。



物言いたげな色部を見送り、景虎は丘の木陰に身を寄せた。梅雨が明けたばかり
の東京は、陽の光が目を射んばかりに強い。
すぐに酷暑にみまわれるだろう。だがこの高台には風が吹き、緑陰を抜けること
で幾分涼しくも感じられた。
凭れた樹木の木肌からも、冷んやりとした触感が着物を透して伝わってくる。
景虎はそのまま静かに瞑目した。
瞼に浮かぶのは、前回、直江と別れた時の光景だ。
景虎の脳裏に、あの時の墨を流したような夜がよみがえっていた。



空は濃い闇が広がり、月も無く星の一つも瞬いていない。
戦をさけて辺りの家々は人が引き払ってしまい、無人と化した町は不気味なほど
の静けさだ。
時折、往来を走り抜ける兵の足音だけが思い出したように響き、景虎には聞き取
りにくい、薩摩言葉が飛び交う。
怨将退治で訪れたこの地で二人は、戦に巻き込まれ、景虎をかばった直江が流れ
弾を受け致命傷を負った。
手近の空いた民家に転がり込み、手当てを施したが命は確実に零れ出していた。
「景虎様も、早くこの地を離れて下さい」
虫の息の下、直江はそれだけを繰り返した。
「私もこの身体から間もなく抜けます。必ず、またお側に参ります」
何度も何度も、景虎に言い聞かせるような言葉通りに、ほどなく今生の肉体から
抜けるだろう。
力の消耗が激しかった今回だ。
胎児換生まではしなくとも、一時、直江の魂は睡み成人換生をするはずだ。
その間、二三年ことか。
待てというのか、お前は俺に……。
景虎は空蝉のような身体に問い掛ける。横たわった直江の胸に耳を当てた。
ぽとりぽとりと軒先から落ちる滴のような、心臓の音。
一つ、また一つと間遠くなっていく。
耳を当てた姿勢のまま、景虎は腹部の銃痕に手を伸ばした。愛しむように包帯の
上から傷をなぞった。
必ず、側に来る…、その言葉に嘘はない。それは知っている。
だが知っていることと、信じることは違う。
―――私を信じて下さい……。
言外にそう直江は訴えてくる。
―――信じて下さい、あなたを愛しています………
切々とした訴えを、景虎はいつも背なで受けてきた。
お前を信じれば、俺は幸せになれるのだろうか。景虎は虚空を見据える。
応えはない。
知っているか………?
景虎はまた、直江に問いかける。
俺はお前を知ることで、孤独の深さを思い知ったのだ。その深さ故に、俺はお前
が厭わしい………。
鼓動の途切れた胸から身を起こし、景虎は手で撫ぜていた傷跡に口付けを落とした。




風が途切れる。
「景虎様」
名前を呼ばれ、景虎は目を開けた。目前に男が膝を突き、畏まっていた。
「直江か」
はいと、男は顔を上げた。精悍な顔付きの青年だった。
全く違う肉体でありながら、その瞬間、男は直江以外の何者でも無くなっていた。
「お待たせしてしまいました」
「そうだな」
一言、短く答え景虎は丘を下りだした。その後ろに直江も、すっと従う。
目眩のしそうな夏の午後、どこかで蝉がひときわ高く鳴き出していた。




愛なんて知らない
知らないものは信じられない
絶望なら知っている
それは、真っ暗な闇の中の滝壷に
ただひたすら落ちていくようなものだ。

落ちて落ちてーーー
果てが無い闇の底。
泣いて泣いて
声のかぎり叫んだ後で
痛みだけを抱えて、落ちていく。

  ―――直江、直江、直江…………

  この絶望を止めようとする男
  だがそれを愛だと思い込めるほど、自分は救われてもいない、
  救われたくもない。
だからお前の証を示し続けろ
それを見届けることが、俺の幸せへの路になるはずだから………


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旧>コメント
あそうさんの『狂犬注意』高耶さんお誕生日企画への寄稿作品
です。
さてこのお話、実は首締め状態のものでした。何がかというと、まゆ
の明治編のお話とつなげるとしたら年齢計算が合わなくなってしまう!
だから慌てて計算し直しました。
この話の後、何らかの支障で相次いで胎児喚生すれば、ぎりぎり合うよ
うになっています。たぶん……(まゆは、算数が苦手です)ね。
参考までに作中の戦は「西南の役(1877)」のつもりです。

新>コメント
再掲は別の意味で疲れます
このころはオリジナルもしていたせいで、割と起承転結を意識した話づ
くりをしていました。
比べてみれば解りますが、新作はせいぜい起結ぐらいにしています。
あぁ、でも我ながら濃いお話ですね(苦笑)