松山の伝説(伊予の昔話) | |||
松山(愛媛県)の伝説をいくつ知っていますか? | |||
白鷺伝説 | 玉の石 | 衛門三郎の玉の石 | |
毘沙門狸 | 天神櫓 | 長者ヶ平 | 首洗い池 |
まないた石 | 鳴かずの蛙 | お菊井戸 | |
十六夜桜 | 薄墨桜 | 乳母桜 | 片目鮒 |
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白鷺伝説 | |||
昔、足を痛めた一羽の白鷺が谷あいの岩間から湧き出ている温泉を見つけ、毎日そのお湯に足を浸しているうちに、傷が癒えて勇ましく飛び去っていきました。 これを見た人々は不思議に思い入浴してみると疲れが取れ、病気も回復したということです。これが道後温泉のはじまりということです。 白鷺が休んでいたといわれるのがこの石で、鷺石とよばれています。 |
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玉の石 | |||
大国主命(おおくにのぬしのみこと)と小彦名命(すくなひこなのみこと)が伊予を旅していたときのことです。 急病に苦しむ小彦名命を道後温泉に入浴させるとたちまち元気を取り戻しました。 喜んだ命は石の上で踊りだしました。その石には命の足跡が残りました。 命が上で踊ったといわれるのがこの石で、玉の石と呼ばれています。 |
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衛門三郎の玉の石 | |||
昔、荏原という所に衛門三郎という強欲な大百姓が住んでいました。ある日、衛門三郎の家の前に一人の旅のお坊さんがやって来て、托鉢の鈴を鳴らしました。衛門三郎が追い返そうとしたのですが、動きません。腹を立ててお坊さんの鉄鉢を叩き落すと八つに割れて飛び散ってしまいました。 そんなことがあった翌日から、衛門三郎の八人の子供が次々と死んでしまいます。さすがの衛門三郎も声を上げて泣きました。ある夜、衛門三郎の夢枕にある旅のお坊さんが現れ、「前非を悔いて情け深い人になれ」と告げます。夢から覚めた衛門三郎は自分が強欲であったことを悔い、あの時の旅僧は弘法大師だったのだと気が付きました。 衛門三郎は弘法大師に許してもらおうと、四国を巡っている大師を探して四国の道を東から回ったり、西から回ったりして歩きますが、なかなか出会うことができません。四国を二十数回まわったところで、阿波の十二番札所焼山寺で倒れてしまいました。その時衛門三郎の前に弘法大師が現れ、「お前の罪は許された。最後に何か望みはないか」と声をかけました。衛門三郎は「河野一族の世継ぎとして生まれ変わらせてください。今度こそ人々のために尽くしたいのです」と言いました。大師は『衛門三郎再来』と書いた小さな石を息を引き取る衛門三郎の手に握らせました。 それから数年後、伊予の城主河野家に玉のような男の子が生まれました。ところがその子は大きくなっても左手を開きません。祈祷師に頼み、「きれいな川の水で洗えば開く」とのお告げのとおりにすると、手が開いて中から石が出てきました。それは大師が衛門三郎に握らせた石でした。その後、手を洗った川を石手川、石を納めた河野家縁の寺が石手寺と呼ばれるようになったのです。 |
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毘沙門狸(びしゃもんだぬき) | |||
松山城登山口のひとつ、東雲口にある東雲神社の境内の毘沙門堂に狸が住んでいました。 大入道や提灯に化けたりして、人をおちょくっていました。また、汽車に化けて道後のお湯に連れていくこともあったそうです。 そんないたずら好きの狸です。 【雨も降らんのに傘差して、毘沙門狸に化かされた】と子供の歌にもあります。 |
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長者ヶ平(ちょうじゃがなる) | |||
毘沙門坂の辺りに貧乏な男が住んでいました。この男、どうしても金持ちになりたくて湯山横谷の毘沙門天に願をかけていました。毎日、日参して境内に生えている小竹を1本ずつおがして持って帰ります。100本で満願です。ところが、99日目の夜、毘沙門天が男の夢枕に立って、「お前の願いは叶える。だが、境内の竹を持って帰ったのは不都合だ。明日の晩までに全部返せ」と言われました。男は驚いて99本の竹を担いで戻しました。そうしたら、金持ちになりました。そこで、山の中ぐらいに大きな屋敷を建てたところ、欲深い親戚や赤の他人までが押しかけてきて、困ってしまいました。わずらわしくて「元の貧乏に戻りたい」と思っても、お金は増えるばかりです。 ある日、通りがかりの旅人が「お金をなくすのはわけないこと。一升ますを池で洗って、うつ伏せに伏せて底をたたけ」と教えてくれました。その通りにしたら、お金は一気に減り願いどおり貧乏に戻ってしまいました。その屋敷があった所を長者ヶ平と呼ぶようになりました。 |
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首洗い池 | |||
昔、どこかの国の侍がお城に潜りこんで捕まりました。それが腕の立つ侍で、殺すには惜しい。殿様が家来にならんかと口説くのに、「二君に仕える気はない」と言う。 仕方なく打ち首にしようと、長者ヶ平の西の端にあった池に引きずっていって座らせました。一・二・三と、九まで数えて刀を振り下ろしたら、侍が大声で笑いだしました。十で首は飛んでしまいましたが、それから池の端で十まで叫ぶとどこからか侍の笑い声が聞こえるようになったそうです。 |
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天神櫓 | |||
松山城をつくった加藤嘉昭のお城は、もともと松前にありました。このお城でお殿様は変な夢を見ました。そこで易学を学んだ家臣に占わしたら「改城しろ」ということでした。幕府はたいてい第二候補地を許可するので殿様は天山・勝山・御幸寺山とわざと勝山を第二候補地にして許可をもらいました。 ところが、勝山に城を築きだしたとたん山鳴りがし、不思議なことが起こりはじめました。 |
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お坊さんに祈祷してもらいましたが治まりません。京都の大僧正に相談したところ大僧正が言うには「昔、桓武天皇が都を奈良から宇田町に移した時も同じことが起きた。占ってみたら、王城の丑寅の方角から鬼が来て邪魔をしている。都の名を改めて、鎮守を作って鬼門に埋めるといいということで、都を平安京に変え、八尺の土人形を甲冑・弓矢を持たせて東山に埋めて鎮守した」と言います。 そこで殿様は、多聞天を丑寅の方角に安置し、『勝山』を『松山』と改め、将軍塚をまねて十分の一の土人形を作って山の東に埋めました。天神櫓が建っているところです。 |
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まないた石 | |||
松山城二代目城主の蒲生忠知にはなかなか子供ができませんでした。 家来に笛の名人がいて、月明かりに御幸寺山に登って笛を吹いていました。すると、天狗が出て来て「お前ほどの吹き手は見たことがない。聞かしてくれたお礼にこれをやるが、蓋は開けるな」と言って小箱を渡して行きました。 話を聞いた殿様が、箱を見せろと言います。名人は困りましたが相手は殿様です。 |
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だけど、開けたら大変なことになりそうです。そのうち苛立った殿様は槍の柄で小箱を壊してしまいました。すると、中から『蒲生家断絶』と書かれた巻物が出てきました。世継ぎのいない殿様は頭にきました。 それからというもの、御城下から妊婦を見つけては、二の丸にある平べったい石の上で腹を割かせては気をまぎらわしていたそうです。その石をまないた石と言います。 |
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鳴かずの蛙 | |||
松山城二代目城主の蒲生忠知にはなかなか子供ができませんでしたが、やっと奥方に子供ができました。 男の子が産まれたらお家断絶はまのがれます。 やがて男の子が産まれ殿様は大変喜ばれましたが、その子は話せませんでした。 殿様は喜びが大きかっただけに悲しみも相当なものでした。 ころは夏でお堀では蛙はゲロゲロと鳴いています。 |
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頭にきた殿様は櫓の上から「やかましい。城主の子さえ、ものが言えんのに鳴きわめくな。黙らんと皆殺しにするぞ」と叫びました。 それ以来、お堀の蛙はびっくりして鳴かないようになったそうです。 |
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お菊井戸 | |||
御殿女中に楓という美しい人がいました。若侍が言い寄っても相手にしません。楓は小姓の庄之助が好きだったのです。ところが、庄之助は女中のお菊と恋仲でした。 ある時、殿様の刀が無くなってしまいました。そんなことを知らない庄之助は、その夜も石垣の下でお菊を待っていました。そこへ、「お城が大騒ぎしよるのに、こんな所で何しよるんぞ」と庄之助の父親が飛んできました。2人はあわててお城へ上がりました。みんなで手分けして刀を探しましたが見つかりません。四日目になって刀は小姓部屋の屋根裏から見つかりました。 庄之助は疑われて切腹。恋人のお菊は、庄之助の初七日に三の丸(今の堀ノ内公園)の井戸に身投げをしました。その井戸をお菊井戸といいます。 実はこの騒動は楓の仕業でした。そのことがやがて分かって楓はお手打ちになりました。 それからお城に幽霊が出るようになり、豪傑が幽霊退治に出むきましたが、翌朝には堀の土手で死んでいました。側には殿様の刀があったと言うことです。 |
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十六夜桜(いざよいざくら) | |||
むかし、病気になった父親が、 「死ぬ前に大事にしていた桜の花を一目見たい」と言いました。 父親のこの願いを叶えたいと、 息子の吉平が桜に祈ったところ、正月十六日だと言うのに桜に花が咲きました。 この奇跡により、父親は長寿を保ったということです。 それからこの桜は正月十六日に咲くようになりました。 今も旧暦1月16日ごろになると可憐な花を咲かせています。 【めづらしや 梅の蕾に初桜 うそのやうな十六日桜 咲きにけり】と正岡子規も詠んでいます。 |
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薄墨桜 | |||
今から1300年前のことです。 皇后がご病気になられました。天武天皇は祈れば病気が良くなるお薬師様のある西法寺に使いを出され、病気を治す祈祷をさせました。 しばらくして皇后の病気が治り、喜ばれた天皇は西法寺に薄墨の綸旨(手紙)と桜の木を1本を下賜されました。 その桜の木は薄墨色の綸旨から【薄墨桜】と呼ばれるようになりました。 |
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乳母桜 | |||
むかし、角之木長者というお金持ちが住んでいました。 何不自由なく暮らしていましたが、子供に恵まれません。 そこで大宝寺のお薬師様に祈願したところ、かわいい女の子を授かり「るり姫」と名づけられました。 そのるり姫の世話は母親のお乳が出なかったので お袖という乳母がしていました。 15歳の時、るり姫は流行病にかかり生死をさまよいました。 乳母のお袖が大宝寺のお薬師様に「自分の命と引き換えにるり姫の命をお助けください。」と祈願したところ、るり姫の病気はすっかり良くなりましたが お袖は亡くなってしまいました。 お袖の遺言により、お薬師様の前に桜の木が植えられました。その桜はお袖の命日にあたる3月28日ごろになると乳白色の花が満開になります。 いつのころからかこの桜を【乳母桜】と呼ぶようになりました。 |
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片目鮒 | |||
むかし、弘法大師が巡礼の途中に木屋町を通りかかりました。 とある家の井戸端で、お百姓がとってきたばかりのような鮒を焼いていました。 これをご覧になった弘法大師は、哀れに思い譲り受けました。 鮒はすでに片目が焼かれていましたが、井戸の中に放して弘法大師が念仏を唱えました。 すると、鮒はみるみるうちに元気を取り戻し、井戸の中をうれしげに泳ぎ回りはじめました。 それ以後、この井戸には片目の鮒ばかりが住んでいたそうです。 |
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坂の上の雲 |