眠り月

検非違使と陰陽師と鬼女



陰陽師、というのは実は、れっきとした役職名であり、その職業を示すものではない。
そのはずなのだが、他に呼び名がなかったのだろうか。
すっかりそれはその職業を示すものになっているようだ。
俺がこれから訪ねる男はというと、これは正式な「陰陽師」である。
つまり一応は勤め人のはずなのだが、その姿を宮中で拝むことはめったにない。
あっても、どうしても必要な式典の時くらいだろうか。
後は可能な限り家に引きこもっている。
それが許されるのは、それだけこいつが優秀ということなのか、はたまた家で仕事をしているということなのか分かりかねるが。
……もしかしたら、内裏に出てくる方が厄介なのかもしれんな。
なにしろ、こいつと来たら顔を出して歩けば若い娘がふらふらとついてきそうなほどの美男子だし、頭の回転がよくて下手に論争でもふっかけでもしたなら、三月は物忌みと称して家にこもっておいた方がいいくらいの恥をかかされるのがおちだ。
イヤミったらしい言動を上司相手ですら差し控えないようなこいつが自ら大人しくしているというなら、家にいてもらった方がいいというものだろう。
そのせいか、こいつへの依頼を俺が頼まれるのは少しばかり面倒だが、その分少しは分け前ももらえる分だけよしとするか。
とはいえ、今日は依頼があって訪ねる訳じゃない。
そのお礼の品を携えて来ただけだ。
小さな木戸に近づくと、人の気配もないのにそれがすっと開く。
怪異と言われても仕方のないそれが、日常のことなのだというから笑うしかない。
苦笑しながら足を踏み入れた庭は、ただの野原にけもの道が通っているだけのようなものだった。
好き勝手に生えた野の草の間に、細い道だけが踏み固められてあるような。
ようやく階に近づき、上がり込もうとしたところで、不意に背後から声がした。
「どうせなら露台でいただきましょう」
ぎょっとして振り向いても、そこにあいつの影はない。
ただ、ひらりと紙切れが待っていた。
…横着しやがって。
それをむしるような勢いで掴んで、軽く息を吹きかければ、それがふらふらと飛び始める。
それを追っていけば、料理の並べられた唐風の露台に辿りつく。
「こんなもん、いつの間に作りやがった」
「さて、前からあったと思いますが……」
嘘吐け。
こいつのことだ、一瞬前に作ったとしてもおかしくはない。
あるいはこれが幻で、実際には草の上に毛氈を引いただけという可能性もある。
しかし、それを言ったところで何も変わりはしないんだろう。
俺は軽くため息を吐き、
「この様子だと、俺が何を持ってきたのか分かってるみたいだな」
「さて、何をお持ちいただいたのでしょうか」
白々しい奴め。
俺は携えてきた包みを解き、小さな壺を取り出した。
「唐様の酒だ」
「それはそれは…珍奇な品をお持ちくださいましたね」
「大納言殿から先日の礼だとさ。古泉殿にと伏して拝まんばかりだったぞ」
微笑と共に壺を受け取った古泉はというと、それに対しては何も述べず、
「では、せっかくですから二人で飲むとしましょう」
それに否やはない。
俺も飲むのは嫌いじゃないし、重たいものをここまで持ってこさせられたのだ。
それくらいのおこぼれに与るくらい構わないだろう。
俺は大人しく古泉の向かいの席につき、周到にも用意してあった盃に酒を酌み、用意してあった肴と共に飲み始める。
舌に馴染みのない酒は、しかし、まずくはなく、二人してだらだらと飲むにはいい具合だった。
月が中天を過ぎる頃には二人とも少しばかり酔っていて、四方山話も少々途切れた。
その沈黙さえ、心地よいほど、気持ちのいい夜だった。
俺はぼんやりと庭を眺め、それから酒に視線を戻して、ふと、浮かんできた疑問を口にした。
「なんでお前は素直に仕事をしないんだ?」
「僕は仕事よりもしたいことがあるんですよ。…研究とか……色々と」
「ふぅん……。だったらなんで、俺から頼むと受けてくれるんだ?」
だからこそ、俺が仕事の仲介を頼まれる訳だが、理由があるなら断ればいいのに。
「……だって、」
古泉も珍しく酔っぱらったのだろう。
眠そうな、どこかとろんとした目で俺を見つめて、
「あまり忙しくしてたら、あなたが来てくれないじゃないですか…」
「ああ……まあ、そうかも知れないな」
今だって本当は結構気が引けているんだ。
こいつの邪魔になってるんじゃないか、と。
だが、お偉いさんに頼まれると俺じゃ断れないし、そうなると一応古泉を訪ねてみない訳にもいかない。
だから、比較的頻繁にこいつのところを訪ねている。
「あなたが来てくれるから……僕は……」
そう言われて、俺は苦笑した。
「俺が来て迷惑じゃないならよかった」
「迷惑な訳ありません。あなたが来てくれるだけで嬉しいです。本当は……もっと、あなたに会いたいくらいです」
「そうなのか?」
「はい。だから……もっと会いに来てくれませんか」
「そりゃ構わんが……」
「ありがとうございます」
驚くほど明るく、無邪気にすら見える笑みを浮かべた古泉が立ち上がったかと思うと、俺を抱きしめた。
「古泉?」
「……あなたが好きです」
「そりゃ……嬉しいが……」
いきなりどうした、と首を傾げる俺に、古泉はいきなり不機嫌な顔になった。
「……分かってませんね」
と言った声も唸るように低い。
「どうし……っ!?」
問う間もなく、床に押し倒されていた。
したたかに打ち付けた腰が痛いがそんなことを気にしている場合ではない。
もっと重要なことが俺の身に起きていた。
元から側に寄りたがる奴ではあるが、それにしても古泉の顔が近い。
近いというよりこれはもう接しているとしか言いようがない。
古泉の唇が、俺のそれに重なっていた。
「んな……っ」
「……あなたが、好きなんですよ」
苦しげに告げる古泉に、頭が混乱する。
何が起きているのか理解できない。
いや、理解したくなかった。
「っ、よせ……!」
服をほどかれそうになるのを感じて、慌てて古泉の手を振り払った。
これでも、検非違使としてあちこち走り回り、捕り物なんかもしている分、家で大人しくしている古泉よりは力もある。
なんとか古泉を押しのけてそのまま逃げ出した。
服が乱れたままだがそれを直そうとする余裕もなければ、冷静さもなかった。
自分がどこに向かって走っているのかさえも分からなくなりながら、とにかく一目散に逃げたのだ。
理由は、多分、心底驚いたからだろう。
自分でもよく分からないほどに驚き、混乱していた。
気が付いた時には、俺は都の外に立っていた。
古泉の屋敷は都の外れの方にあるから、外に向けて走ったと考えれば大した距離ではない。
ただ、夜の城外は余りに暗く、闇の向こうにある動物やあるいは生き物ですらない何かの気配にぞっとした。
息を切らし、地面に座り込んでいた俺だったが、自分のいる場所に気が付くと慌てて立ち上がり、それから落ち着きを取り戻そうとして衣服の乱れを直した。
さて、これからまた走って帰れるだろうか。
悠長に歩いて行くのは少しばかり危ないが、あれだけ全力疾走した直後にもう一回走るにはまだ体力が足りん。
かといってここでじっとしているのも気分が悪い。
どうしたものかと思いつつ、とりあえず来た道を戻ろうとしたところで、
「あのー……」
と声を掛けられて、飛び上がった。
驚いて振り向けば、そこには市女笠を被った旅装の女性が立っていた。
こんなところに一人きりで、若い女性が何をしているんだ。
武器のようにして持ち歩いている杖を引き寄せようとして愕然とした。
いつも持っているはずの杖がない。
どうやら古泉のところに置いてきちまったらしい。
相手は女性とはいえ、もし女盗賊だったり、あるいはほかに仲間が潜んでいるようなら、俺一人でなんとかなるだろうか。
警戒しながら彼女を見ると、彼女は笠から垂らした布の隙間からそっと顔をのぞかせて、
「すみません、ここはどこでしょう……?」
と心細そうに尋ねてきた。
「…は……?」
「あの、私、都に人を訪ねて来たんですけど、途中で供の人とははぐれちゃうし、暗くなってきちゃうしでどうしたらいいのか分からなくて……」
そう言って泣きそうな顔をした女性は、都でもそうはみないほどに美しかった。
おまけに、何と言えばいいんだろうか。
庇護欲をそそるような、頼りない風情に、警戒心がどこかに行っちまいそうになる。
「つまり、迷子なんですか」
「はい……。えっと…あなたは、検非違使の方ですよね…?」
というのは、俺の服装で分かったんだろう。
赤狩衣に白衣、布袴、白杖と言えば、検非違使の捕縛の役を担う看督長と決まっているからな。
あいにく、白杖は手元にないが、この派手な服装を見れば他にはありえまい。
「お願いします、あたしを堤中納言様のところまで連れてってください」
そう言ってすがられると、検非違使だとばれているのもあって、断れない。
「分かりました」
仕方ないと頷いた俺に、彼女はぱぁっと顔を輝かせて、
「ありがとうございます、ありがとうございます」
と繰り返す。
「いえ……」
「もう本当に心細かったんです…。もうずっとこんなところをさまよってて……なんだか分からない音はするし…人は見かけないし……」
泣きそうな声で言う彼女に相槌を打ちながら、俺は歩き始めた。
堤中納言殿の屋敷となると、少し距離はあるが方向に違いもない。
しかし、こんな時間に訪ねて行って、開けてもらえるものかどうか。
「いいんです…。開けていただけるまで待ちますから……」
そう言った彼女は、朝比奈みくると名乗った。
聞けば、堤中納言殿が昔通っていた女が都の外にいて、その女の妹なのだそうだ。
姉が亡くなったことを知らせに行こうとして迷ったのだという。
「急いでいこうとしたのがいけなかったんです。ちゃんと明るくなってから行けばよかったのに……」
「そうですね。どうぞこれからは気を付けてください」
と言う俺に、彼女は柔らかく微笑み、
「はい、ありがとうございます」
姉が亡くなったという割には、落ち着いている。
長いこと臥せっていたとでもいうのだろうか。
そんなことを考えながら歩いて行くうちに、ようやく都の中に戻れた。
その時だ。
「ありがとうございます。あなたのおかげで無事入れました」
そう彼女が言ったのは。
てっきり、迷っていたところを案内したからそう言ったのかと思い、
「いえ、そんな……」
と言おうとした俺の肩に、彼女の手がかかる。
「お礼に……痛くないようにしますから」
「え…」
なんだと、と叫ぶ間もなく、笠が落ちた。
彼女の長い髪が俺に触れる。
その唇が俺の首筋に触れようとする、その隙間に、牙が見えた気がした。
「待てっ!」
鋭い声がして、彼女は動きを止めた。
ただ驚いたという訳ではなく、動きを封じられたとでも言うように。
その声の主を考えれば、実際その通りであったとしてもおかしくはないだろう。
「古泉……」
恐る恐る彼女から離れ、駆けつけてきてくれた古泉に歩み寄る。
「間に合ってよかった…」
息を切らして駆けつけてきたそいつは、だが、少しもほっとした様子ではなく、動けない状態の朝比奈さんをきつく睨み付けていた。
「全く……なんてことをしてくれるんですか。魔性のものを都の結界の内に入れてしまうなんて」
呆れたように呟かれ、俺も朝比奈さんの正体を知った。
「人じゃなかったのか」
「普通の人間がこんな時間にふらふらしていると思いますか? 彼女は結界に弾かれて、都に入れなくて、あんな場所で迷っていたんですよ。それくらい弱いものをわざわざ案内してやるなんて……」
「…すまん」
分からなかったとはいえ、自分がまずいことをしたというのはよく分かった。
「…それで、彼女をどうするんだ?」
「……いっそ消してもいいところですが、それはあなたが好まないでしょう」
不機嫌にそう言って、古泉は彼女に近づき、
「復讐は諦めてはどうです? 報いは自然と下るでしょうから」
「……うぅ……」
涙声で彼女は古泉を見つめる。
どうやら、力の差は歴然としているようだ。
「消えたくないのであれば、復讐を諦めてうちで働いてください。どうします?」
「……分かりました」
くすん、と小さくすすり上げて、彼女は了解した。
それで十分だったんだろう。
彼女の束縛が消えるとすぐに彼女の姿が見えなくなった。
「先に屋敷に帰ってもらいました。……さて」
と古泉は今度こそ俺を睨んだ。
「なんだってあんな危ないところに行ったりしたんです。逃げ出すにしてももっと他にあるでしょう」
「う、うるさい! 気が付いたらあそこだったんだよ」
「無防備なんてものじゃありませんね」
心底呆れた声で言って、古泉は説教を垂れてくれるが、だがな、
「元はと言えばお前がいきなりあんなことするからだろ!」
と怒鳴り返すと、流石に言いよどんだ。
「それは………その…すみませんでした。酔っていたにしても…あれはやり過ぎだったと反省しています」
「…ああ。……その、なんだ、俺の方も悪かったな。助けてもらったのに礼もまだ言ってなかった。……ありがとう。お前のおかげで助かった」
「いえ……」
古泉は居心地悪そうに視線をさまよわせたが、ややあって俺をじっと見つめると、
「……僕は本当に、あなたが好きなんです。そんな風に思われては迷惑だというのなら、これ以上は求めません。でも……どうか、今までと同じように過ごすことくらいは、許してもらえませんか……?」
そんな風に心細そうにしているのを見ると、さっきあれだけ迫力のあった奴と同一人物であるように見えない。
俺は意地悪く唇を歪めて、
「保留にしといてやる」
と言ってやった。
満更悪い気はしていないなんて言ったら、古泉はどんな顔をするだろうかなどと考えながら、先に立って歩き出す。
「待ってください」
子犬がすり寄るようにして追いかけてくる古泉の声が明るい柔らかさを含んでいるのが耳に心地よかった。